になっていた。部屋着を身につけ、椅子に腰掛けた。家財道具といえばパイプ
立てと灰皿とオー・ヘンリーの小説一そろいくらいしかない質素な部屋のなか
で、彼は気を紛らせようとお気に入りの一冊を取り上げた。ミスタ・ギルバー
トがいわゆる「文学青年」でないことはすでに話した。彼が読むのはほとんど
が新聞売り場に置いてあるような本と、広告業者むけの幼稚な雑誌「プリン
ターズ・インク」だった。彼の大好きな気晴らしは広告クラブで昼食をとり、
そこで魅入られたように広告用パンフレットやポスター、「あなたの話をボー
ルド体で」(註 「ずうずうしく語れ」という意味とかけてある)などといっ
たタイトルの小冊子を読みあさることである。彼はふだん「ラルフ・ウォル
ド・エマソンよりパッカードのコピーを書いたやつのほうがてんで上だよ」な
どと話していた。しかしそれもこの青年がオー・ヘンリーを愛読することに免
じて大目に見てやらなければならない。彼は、ほかの大勢のしあわせな人々が
気づいたように、オー・ヘンリーが時代をこえた、類まれな天才ストーリー・
テラーの一人であることを知っていた。どれほど疲れていても、どれほど気が
滅入っていても、どれほど意気消沈していても、このキャバラビアン・ナイト
(註 キャバラビアンとはタクシーのキャブ、キャバレー、アラビアンをかけ
た造語)の名手はいつも喜びを与えてくれる。「ディケンズの『クリスマス・
ストーリーズ』なんてくそくらえだ」オーブリーはブルックリンでの冒険を思
い出していった。「オー・ヘンリーの『賢者の贈り物』のほうがディックのど
の作品よりずっといい。彼が『ローリング・ストーンズ』(註 オー・ヘン
リーの最後の短編集)のクリスマス・ストーリーを完成させないで死んだのは
残念なことだ! アーヴィン・コブとかエドナ・ファーバーとか大物作家が結
末を書いてくれたらいいのに。自分が編集者だったら、だれかを雇ってあの話
を完成させるんだがな。あんなにいい物語を中途半端なままで投げ出しておく
なんて犯罪だよ」
彼がたばこの煙にやわらかく包まれて座っていたとき、宿のおかみさんが朝
刊を持って入ってきた。
「タイムズが読みたいんじゃないかと思ったんだよ、ミスタ・ギルバート」
と彼女はいった。「その身体じゃ、外に買いに出るわけにもいかないしね。ど
うやら大統領は水曜日に船に乗るようだよ」
オーブリーはおもしろいものを見わける熟練した眼で記事を読んでいった。
それから、つい習慣で、広告ページを注意深く見わたした。求人広告欄のひと
つの記事が彼の目に飛び込んできた。

求む――オクタゴン・ホテルはシェフ三名、経験豊かなコック五名、ウエイ
ター二十名を臨時募集する。申し込み受付はシェフの事務所にて火曜日午後十
一時まで。

「ははあ」と彼は思った。「たぶんミスタ・ウィルソンの料理人がジョー
ジ・ワシントン号に乗っていってしまうので、そのかわりを探しているんだな。
大統領の船旅に厨房のメンバーが選ばれたとは、オクタゴンも鼻高々だな。な
んだってまた、本格的に紙面を使ってそのことを強調しないんだろう? ぼく
がそのコピーをつくって載せてやってもいいんだが」
急に彼はあることを思い出し、昨日の晩、外套を放り投げた椅子のほうに歩
み寄った。ポケットから表紙だけになったカーライルの『クロムウェル伝』を
取り出し、じっと見つめた。
「いったいこの本にどういう呪いがかかっているんだろう? 昨日の晩、あ
の男がぼくをつけてきたのもおかしな話だが――そのあと薬屋でこいつを見つ
け、頭をがつんとやられたのも訳がわからない。あの近所は女の子が働く場所
として安全なところなんだろうか?」
彼は頭の痛さも忘れて部屋のなかを行ったり来たりした。
「警察に知らせたほうがいいだろうか。悪い予感がする。でも自分で解決し
てみたい気もするな。あの娘を危険から救ってやったら、チャップマン老人が
ぐんと好意的になるだろう――人さらいの一味のことも聞いたことがあるし―
―うん、どうもこの成行きは気に入らない。なにしろあの本屋は半分いかれて
いる。広告を信じていないだなんて! チャップマンが娘をあんなところに預
けるとは、考えただけで――」
広告の委託業務よりもっと個人的でロマンチックなもののために、中世の遍
歴の騎士を演じるという思いつきは、たまらなく魅力的だった。「今晩暗く
なったらすぐにブルックリンに忍び込もう。あの通りのどこかに部屋を借りる
ことができるはずだ。そこから本屋をこっそり観察して、あの店にとりついて
いるものの正体をつきとめるんだ。キャンプでよく使った二十二口径の古い銃
があったな。あれを持っていくとしよう。それにワイントラウブの店のことも
もっと知りたい。ヘア・ワイントラウブの顔ときたら、まったくいけ好かない
や。それにしても、正直な話、カーライルみたいなむかしの作家がこんなにお
もしろいことに関係しているとは思ってもいなかった」
彼は手提げかばんに荷物をつめながら冒険に胸が躍った。パジャマ、ヘアブ
ラシ、歯ブラシ、練り歯磨き――(「チャイニーズ・ペースト社がこの冒険に
彼らの歯磨きチューブを持っていくことを知ったら、大喜びするんじゃないか
な!」)――二十二口径の回転式連発銃、リス撃ちによく使われる小さな緑の
弾薬の箱、オー・ヘンリーの本、安全かみそりと付属品、そして便箋一冊。す
くなくとも六つは全国的に宣伝されている製品だぞ、とかばんの中身を数えあ
げながら思った。かばんに鍵をかけ、身支度して昼ごはんを食べに下におりた。
昼ごはんのあとは、依然として頭痛がひどかったので横になってひと休みをし
た。しかし眠ることはできなかった。ティタニア・チャップマンの青い目と物
怖じしない小柄な姿が、彼と眠りの間に割って入ってきたからである。彼女の
身の上に危険が迫っているという確信は振り払うことができなかった。彼は何
度も何度も時計を見ては、歩みののろい夕闇を非難した。四時半に彼は地下鉄
にむかった。三十三丁目の通りを半分ほど歩いたとき、はっと思いついたこと
があった。彼は自分の部屋にもどり、トランクからオペラグラスを取り出し、
かばんのなかに入れた。
ギッシング通りに着いたとき、あたりは青くたそがれていた。ワーズワー
ス・アヴェニューとハズリット通りにはさまれたこの区画には奇妙な特徴があ
る。一方の側――幽霊書店がある側――の古い褐色砂岩の住居はほとんどが明
るい、にぎやかな小店舗になっていた。ワーズワース・アヴェニューが尽きて、
高架鉄道がはるか頭上を轟々とうなりながらカーブしてくるところにワイント
ラウブの薬局がたっていて、そこを発端に西側にはショーウィンドウが並び、
夜のあいだもかがり火のように輝いている。デリカテッセンには調理肉や塩漬
け肉、乾燥果実、チーズ、色鮮やかなジャムの瓶など、食欲をそそる雑多な品
が並び、小さな婦人服の店には髪飾りをつけた蝋細工の豊満な半身像が飾られ、
軽食堂の窓の外にはその日のメニューが印刷されて貼ってあった。フランス式
焼肉料理店では焼き串にさされた鶏肉がシュッシュッと音をたてながら、石炭
がばら色に燃える大きなオーブンの前で回転していた。花屋、たばこ屋、果物
屋。ギリシャ菓子の店もあり、縞大理石のピカピカ光る大きなソーダ水売り場
や、色つきガラスランプや、ココアを入れた銅の容器が並んでいた。文房具店
は冬のバーゲンに備えてクリスマスカード、おもちゃ、カレンダーを所狭しと
陳列し、クリスマスが近づくと毎年あらわれるスエード張りのキプリング、
サーヴィス、オスカー・ワイルド、オマル・ハイヤームの小型本もどっさり
あった――そうした質素だが楽しい商品のおかげでギッシング通りの西の歩道
は、明かりがともるころ、にぎわいだ場所になるのである。どの店もクリスマ
ス・セールにむけて飾りが施されていた。雑誌のクリスマス特別号がちょうど
出たところで、その燃え立つような表紙が新聞雑誌の売店を輝かせていた。ブ
ルックリンのこの区画は奇妙にフランス的な雰囲気を漂わせている。パリの小
市民がつどう小さめの通りにいるような気になるのである。この人を引きつけ
る活気にあふれた区画のまんなかに幽霊書店があった。オーブリーは明かりの
ともった本屋の窓と、店内の棚にずらりと並ぶ大量の本を見た。彼はなかに入
りたいという強い誘惑を感じたが、なんだか気恥ずかしくもあり、それがいっ
そう秘密裡に行動する気持ちを強くした。本屋をこっそりと監視するという計
画にはひそかに胸をときめかすものがあり、彼はいまだ知られざる新たな冒険
に乗り出したような気がした。
彼は通りの反対側を歩きつづけた。そちらは北の端、ワイントラウブの店の
反対にある映画館を除いて、今も静かな茶色い正面が途切れることなくつづい
ている。こちら側の地階は、ほとんどが普通の住居のままで、そこにちらほら
と仕立て屋、クリーニング屋、レースカーテン専門の洗濯屋(ブルックリンの
人々は今でもレースのカーテンに固執している)などの小さな店が混じってい
る。かばんを運びながらオーブリーは映画館のまぶしい光の輪を通り抜けた。
「ターザンの帰還」を予告するポスターには「創世記」第三章の場面でイヴに
運動着を着せたような絵が描かれていた。「シドニー・ドルー夫妻の作品を同
時上映」とも書いてあった。
その区画のやや先の応接間の窓に「空き部屋あり」という掲示がかかってい
るのが見えた。その建物はほぼ本屋の反対側に位置していた。さっそく高い踏
み段をあがって正面ドアのベルを鳴らした。
ほどなく淡い黄褐色の肌をした、よく「アディ」などと呼ばれるような黒人
の女の子があらわれた。「部屋を借りられるかい?」と彼は尋ねた。「知らな
いわ。ミセス・シラーに聞きなさいよ」彼女はそういったが、いやな顔はして
いなかった。しつけの悪いお手伝いにありがちな中途半端な応対で、彼を招き
入れはしなかったものの、うとましく思っているわけでもないようで、ドアを
閉ざさずそのままむこうへ行ってしまった。
オーブリーは玄関に入り、ドアを閉めた。巨大な鏡に、薄いチーズ色をした
ガス灯の炎が、離れたところからちらちらと映りこんでいた。壁には大きな方
形石をデザインした灰色の壁紙が貼られ、ランドシア(註 イギリスの画家)
の銅板画がかかっている。例によって電話のメモが、例のごとくミセス・J・
F・スミスに宛てて(彼女はどこの下宿屋にも住んでいる)鏡の縁に差し込ん
であった。「ミセス・スミス、ストックトン6771に連絡してください」と
書いてある。絨毯敷きの階段には、古い立派なマホガニーの手すりがついてい
て、登った先は薄闇に包まれていた。下宿暮らしにすっかり慣れているオーブ
リーは本能的に階段の四番目、九番目、十番目、そして十四番目の段がきしる
だろうと思った。ほんのりと麝香のような匂いが暖かい、よどんだ空気を甘く
していた。だれかがガス灯でマシュマロをあぶっているのだと彼は推測した。
この家の浴槽の上には「湯船はあなたが使いたいと思う状態にして出てくださ
い」と書かれた張り紙があるだろうということもちゃんとわかっていた。ロ
ジャー・ミフリンなら玄関をじっくり見まわしたあと、この家のだれかがきっ
とラビ・タゴールの詩を読んでいる、といったかもしれないが、オーブリーは
そんな揶揄嘲弄を口にするタイプではなかった。
ミセス・シラーは小さなパグを従えて地階から階段をのぼってきた。彼女は
やさしそうな太った女で、腋の下がはちきれそうにふくらんでいた。彼女は愛
想がよかった。パグはオーブリーの膝にじゃれついた。
「やめなさい、トレジャー!」とミセス・シラーはいった。
「部屋を借りられますか?」オーブリーはごく丁寧にたずねた。
「三階の正面にひと部屋だけ空いているわ。寝たばこはしないでしょうね?
この前いた若い人ったら、三枚もうちのシーツに穴をあけて――」
オーブリーは彼女を安心させた。
「食事は出ないわよ」
「それはかまいません」とオーブリーはいった。「結構です」
「一週間五ドル」
「部屋を見てもいいですか?」
ミセス・シラーはガスの炎を大きくし、先にたって階段をのぼりはじめた。
トレジャーは彼女の横を飛び跳ねるようにして一段一段をのぼった。六本の足
が同時に動いて階段をのぼる様子はオーブリーをおかしがらせた。四番目、九
番目、十番目、十四番目の段は予想通りきしんだ。二階にあがるとドアがあり、
その上の小さな窓からオレンジ色の光があふれていた。通路のガス灯の火を大
きくしなくてすんだことを、ミセス・シラーは心のなかで喜んだ。その小さな
窓の下、ドアの後ろから、だれかがお風呂に入っていて、水をはね散らかす大
きな音が聞こえた。彼はそれがミセス・J・F・スミスではないかと失敬なこ
とを考えた。ともかくそれは下宿生活に慣れた人で、風呂に入る時間はほかの
住人が夕ご飯の支度をしたり、帰宅後のシャワーを浴びて温水ボイラーが空に
なる前の、午後五時半くらいが最適であることを知っている人だと彼は確信し
た。
彼らは階段をもうひとのぼりした。部屋は小さく、三階正面側の半分を占め
ているにすぎない。大きな窓が通りに面し、その反対側の本屋とほかの家々が
すぐ見わたせた。化粧台が大きな棚のなかにひっそりとつくりつけられていた。
炉棚の上にはよく見かける絵――通常は四階の奥の部屋に置いてあるものだが
――若い女性が下品な男の子に靴を磨いてもらっている写真がかかっていた。
オーブリーは喜んだ。「これなら文句ありません。一週間分の家賃を先払い
します」
ミセス・シラーは契約成立の早さに面食らったようだった。彼女は新しい下
宿人の受け入れをもうちょっといろいろな話――天候のこととか、お手伝いさ
んがなかなか見つからないこととか、お茶の葉を洗面台に流して捨てる若い女
の下宿人のこととか――をして厳粛なものにしたかった。こうした世間話は一
見漫然と交わされるようだが、じつはとても大切な役目がある。それによって
身を守るすべのない下宿のおかみさんは、彼女にたかろうとする見知らぬ人物
の品定めができるのだ。彼女はまだこの紳士をよく見ていなかったし、名前さ
え知らなかった。それなのに彼は一週間分の家賃を払い、もう部屋に落ち着い
てしまったのである。
オーブリーは彼女が躊躇している理由を察し、名刺をわたした。
「結構ですわ、ミスタ・ギルバート。お手伝いの女の子にきれいなタオルと
鍵を持たせますから」
オーブリーは窓辺のゆり椅子に腰掛け、モスリンのカーテンを一方に寄せて
留め、照明の輝くギッシング通りを眺めた。住まいを変えたことで彼の心は浮
き立っていたが、愛らしいティタニアのすぐそばにいるというロマンチックな
満足感は、無意味なことをしているのではないかという一抹の思いによって台
無しにされていた。それは若者にとって負傷や死よりも恐ろしいものなのだ。
幽霊書店の明るい窓がはっきりと見えたが、そこへ行く適当な理由がなにも思
いつかなかった。しかもミス・チャップマンのそばにいることは、予想とはう
らはらに、なんら心の慰めにならないことを彼は思い知った。彼女に会いたい
という強い思いが彼を襲った。ガス灯を消し、パイプに火をつけてから窓をあ
け、本屋の入り口にオペラグラスの焦点を合わせた。店がもどかしいほど間近
に見えた。店の正面には平台、電球の下にはロジャーの掲示板が見え、そして
一人か二人、特徴のない客が棚を丁寧にのぞいてまわっている。そのとき、な
にかがシャツの第三ボタンの下で激しく飛び跳ねた。彼女がいる! 明るい虹
色の小さなレンズのなかにティタニアの姿があった。白いVネックのブラウス
に茶色のスカートをはいた天使のような存在は本を読んでいた。彼女が腕を伸
ばすと腕時計がきらりと輝くのが見えた。彼女のまぶしい無心な顔、横から見
た楽しげな頬と顎、それが拡大鏡で見たときのように驚くほどくっきりと見え
た――「あんな娘が古本屋で働いているなんて!」彼は叫んだ。「まったく神
を冒涜するようなものだ! チャップマンは気が狂ったにちがいない」
彼はパジャマを取り出し、ベッドの上に投げ出した。歯ブラシとかみそりは
化粧台の上におき、ヘアブラシとオー・ヘンリーは整理だんすの上に載せた。
なかば真剣な、なかばふざけた気分で、彼は小さなリボルバーに弾を込めて尻
ポケットに入れた。六時になったとき時計のねじを巻いた。これからなにをす
るのか、いまひとつはっきりしなかった。オペラグラスを握って窓辺で監視を
つづけるのか、それとも通りに出てもっと近くで本屋を見張るべきか。冒険の
興奮のせいで頭の傷のことはすっかり忘れ、身体に元気がみなぎっていた。マ
ディソン・アヴェニューを離れるとき、彼はこの非常識な遠出の言い訳を考え
た。ブルックリンで静かな週末を過ごせば、月曜日にボスに提出することに
なっているデインティビッツの広告コピーの原案を書きあげることができるだ
ろう、と。しかしいざここに来てみると、とうていそんな退屈な仕事をやる気
にはなれなかった。「デインティビッツ・タピオカ」や「みんな大好きチャッ
プマン・チップス」の「視線を釘づけにする」レイアウトなど落ち着いて考え
ている場合じゃない。この世でいちばん麗しい《デインティエスト》人がほん
の数ヤード先にいるのだから。彼は世界の合法的な商業活動さえ止めてしまう
若い女性の驚くべき力を、生まれてはじめてまざまざと感じた。彼は実際、便
箋を取り出し、こう書きつけるところまではいったのだ。

みんな大好きチャップマン・チップス
秘密の製法で作られたこのおいしいチップスは、独特のぴりっとした味わい
と香りのなかに、成長を助けるあらゆる栄養を詰めこんでいる。なにしろポテ
トは野菜の王様――

しかしミス・ティタニアの顔が彼の手と頭のあいだに割り込んでくるのだ。
この世界をチャップマン・チップスであふれさせたとしても、あの娘に危害が
及ぶようなことがあればなんの意味があるだろう? 「この顔か、一千のチッ
プスを戦いにおもむかせたのは?」(註 クリストファー・マーロー「ファウ
スト博士」の一節「この顔か、一千艘の船《シップス》を戦いにおもむかせた
のは」をもじって)そう彼はつぶやき、一瞬、オー・ヘンリーのかわりにオッ
クスフォード版詞華集を持ってくればよかったと思った。
ドアをノックする音がして、ミセス・シラーがあらわれた。「電話ですよ、
ミスタ・ギルバート」
「ぼくにですか?」オーブリーはあっけにとられていった。自分に電話が来
るはずがない、と彼は思った。だれもここにいることを知らないのだから。
「半時間ほど前にきた紳士と話がしたいというので、きっとあなたのことだ
ろうと思ったんですけど」
「名前を名乗りましたか?」
「いいえ」
オーブリーはつかの間、電話に出ないでやろうかと考えた。しかしそれでは
ミセス・シラーに怪しまれると思い直した。彼は階段を駆けおり、電話のある
所へむかった。それは正面玄関の階段の下だった。
「もしもし」と彼はいった。
「あんたが新しい下宿人かい?」声が――深い、がらがらした声がいった。
「そうですが」
「半時間前にかばん一つでやってきた紳士だね?」
「そうだよ。あなたはだれなんですか?」
「友人だよ。あんたのしあわせを願うものだ」
「お初にお目にかかります、友人にしてしあわせを祈ってくれる方」オーブ
リーはにこやかにいった。
「警告したかっただけだ。ギッシング通りにいると危ない目にあうぜ」
「そうなのか?」オーブリーは鋭くいった。「きみはだれだ?」
「友人さ」受話器が低くうなった。その声にはオーブリーの鼓膜に不愉快な
振動を与える、ざらつくような低音の響きがあった。オーブリーは怒りがこみ
あげてきた。
「いいか、友人《ヘア・フロイント》」彼はいった。「あんたが昨日の晩、
橋の上で僕のしあわせを祈ってくれたやつなら、気をつけろ。お前の企みなど
お見通しなんだ」
沈黙が訪れた。それから相手は重々しく繰り返した。「わたしは友人だ。
ギッシング通りにいると危ないぜ」ガチャッと音がして、相手は電話を切った。
オーブリーはひどく困惑した。彼は部屋にもどると、電気もつけず窓際に
座って、本屋を見ながらパイプをくゆらし考えた。
なにやら得体の知れないことが起きつつあることは疑いの余地がなかった。
彼はそれまで数日間の出来事を振り返った。
本好きの友達がギッシング通りの本屋のことをはじめて教えてくれたのは月
曜日のことだった。火曜日に彼はわざわざその本屋を訪れ、ミスタ・ミフリン
と夕食をともにした。水曜日と木曜日は事務所でいそがしく働き、ブルックリ
ンでデインティビッツの集中キャンペーンをひらくアイデアを思いついた。金
曜日はミスタ・チャップマンと食事をし、それから一連の奇妙な出来事を経験
した。彼はそれを箇条書きにした。

(1)金曜日のタイムズ朝刊に載った「なくしもの」の広告。
(2)エレベータのなかでなくしたはずの本を持っていたシェフ――そいつ
は火曜日の晩にオーブリーが本屋で見た男と同一人物だった。
(3)ギッシング通りでふたたびシェフを見かける。
(4)本屋に本がもどされる。
(5)ミフリンは本は盗まれたといった。それならなぜ広告を出したり、ま
た返却したりするのか?
(6)本の表紙がつけかえられていた。
(7)本来の表紙をワイントラウブの薬局で見つける。
(8)橋の上での出来事。
(9)「友人」からの電話――明らかにドイツ訛りがあった。

エレベーターのなかでオクタゴンのシェフに話しかけたとき、相手が見せた
怒りと恐れの表情を思い出した。先ほどの奇妙な脅迫電話が来るまで、橋の上
での襲撃はたまたま物取りにやられたものと説明することができたが、今では
本屋を訪ねたこととなにかしら関係があると結論せざるを得なかった。彼はま
た、はっきりとはわからないが、ワイントラウブの薬局が事件に関わっている
ような気がした。本の表紙を薬局から持ち逃げしなければ襲われることはな
かったのではないか? 彼はかばんから表紙を取り出して、もう一度調べた。
無地の青い布張りで、背中には金文字で題名が刻印され、下のほうには「ロン
ドン チャップマン・アンド・ホール出版社」という文字が書かれている。背
表紙の大きさから見て、あきらかに大部の本であるらしい。表紙の内側を見る
と60という数字が赤鉛筆で記されている――これはロジャー・ミフリンが書
き込んだ値段だろうと彼は思った。裏表紙の内側にはつぎのような符号が並ん
でいた――

Vol.3 -- 166, 174, 210, 329, 349
329 ff. cf. W. W.

この記号は黒インクで、小さく丁寧に書かれていた。その下にはまったく筆
跡の違う薄いすみれ色のインクで

153 (3) 1, 2

と書かれていた。
「どうやら本のページのようだな」とオーブリーは思った。「あの本を調べ
ておいたほうがよさそうだ」
彼は表紙をポケットにしまい、夕食を食べに外に出た。「この謎には三つの
側面があるぞ」彼はみしみしとなる階段をおりながら思った。「本屋、オクタ
ゴン、ワイントラウブの店。しかしあの本がすべてを解く鍵になりそうだ」

第八章 オーブリーは映画に行き、もっとドイツ語ができればと思う

本屋からいくらも離れていないところに偉大な都市ミルウォーキーの名をい
ただいた小さなカフェテリアがあった。カウンターで食べ物を買い、平たい肘
掛のついた椅子に座って食べる気持ちよい食堂のひとつである。オーブリーは
スープ、コーヒー、ビーフ・シチュー、ブラン・マフィンを受け取り、窓際の
あいた席に持って行った。彼は注意を半分通りにむけながら食事をした。通り
の角にあたるその場所からはミフリンの店の前の舗道が見わたせた。シチュー
を半分ほどたいらげたころ、ロジャーが舗道に出てきて箱から本を片づけはじ
めた。
夕ご飯のあとは「味はマイルド、気分は爽快」なたばこに火をつけ、椅子に
座りながら、そばの放熱器の暖かさを心地よく感じていた。大きな黒猫が隣の
椅子に寝そべっていた。ときどき客がやってきて注文をするたびに、サービス
カウンターの上で丈夫な瀬戸物が陽気にカチャカチャと音を立てた。オーブ
リーは血管を通してくつろいだ気分が身体に広がりだすのを感じた。ギッシン
グ通りは煌々と輝き、落ち着いたなかにも土曜日の夕方の活気がみなぎってい
た。ブルックリンの古本屋にメロドラマじみた事件が起きようとしているなど、
想像することじたいまったくばかげているような気がした。尻ポケットの銃は
やたらにごつごつして感触が悪い。ささやかながらあたたかい夕食を食べたあ
とは、なんと事態が一変して見えることだろう! どんなに意志の固い理想主
義者も冷酷な暗殺者も、詩を書いたり非道な計画を練るなら、夕ご飯の前にす
るがいい。食事という麻酔のあと、精神は安らぎのなかに沈み込み、ひたすら
安逸を求めるようになる。ミルトンですら夕ご飯のすぐあとに「楽園喪失」の
執筆に取りかかるという非人間的な精神力は持っていなかっただろう。オーブ
リーは自分の憂慮が思い過ごしに過ぎないのではないかと考えはじめた。彼は
本屋に立ち寄って、ティタニアを映画に誘うことができたらどんなにすてきだ
ろうと思った。
人間の思いには不思議な力があるものだ! 心のなかにそんな考えがひらめ
いたとたん、ティタニアとミセス・ミフリンが本屋からあらわれ、食堂の前を
さっそうと通り過ぎたのである。彼らは楽しげにおしゃべりをしながら笑って
いた。ティタニアの顔は若さと生命力に輝き、彼が今までに見たどんな十ポイ
ント・カスロン書体の組版より「視線を釘づけにする」ように思われた。彼は
こよなく愛する広告技術の観点から彼女の顔のレイアウトに感嘆した。「空白
のとり方が絶妙だ」と彼は思った。「あれでこそ中心的主題である目を引き立
たせる。彼女の顔の造作は現代的な、ボールド体のべた組じゃない」彼は活版
印刷に喩えながら考えた。「ほんのちょっとインテルを詰めた、フレンチ・
オールド・スタイルのイタリック体に近い。22ポイントのボディに鋳込まれ
ているんだろうな。チャップマン老人はなかなか腕のいい活字鋳造工だ。それ
は認めよう」
彼はこの奇抜な比喩ににっこりとし、帽子と外套をつかむとカフェテリアを
飛び出した。
ミセス・ミフリンとティタニアはすぐ先のところで立ち止り、ショーウィン
ドウのしゃれた小型ボンネットを見ていた。オーブリーは通りをわたってつぎ
の角まで走り、ふたたび通りをわたると東側の歩道をもどりはじめた。地下鉄
から出てきたふりをして彼らに会おうとしたのである。彼はベルギーのアル
ベール王がブリュッセルにふたたび舞いもどってきたときよりも興奮していた
(註 アルベール王は1914年にドイツに占領された祖国を四年後奪還し
た)。外出してはしゃいでいる、はなやいだ様子の二人がおしゃべりをしなが
ら彼のほうに近づいてきた。ヘレンは彼女といっしょにいると、ずっと若く見
えた。「やなぎ色のタフタの裏地に、刺繍のついたスリッポンね」彼女はそう
いっていた。
オーブリーは巧みに驚いたふりをしながら彼らのほうに進んでいった。
「あら、どうしましょう!」ミセス・ミフリンがいった。「ミスタ・ギル
バートがいらっしゃるわ。ロジャーに会いにいらしたの?」彼女はそうつけ加
え、若者をいじめて楽しんだ。
ティタニアは真心のこもった手を差し伸べた。オーブリーは校正係の必死の
まなざしでオールド・スタイルのイタリック体をのぞき込んだが、こんなに早
く彼に再会したことを苦々しく思っている容子はなかった。
「そういうわけじゃないです」彼は苦しい言い訳をした。「みなさんに会い
に来たんですよ。その――どうしていらっしゃるかと思って」
ミセス・ミフリンは彼がかわいそうになった。「わたしたちはミスタ・ミフ
リンに店番をまかせて出てきたの。彼はなじみのお客さんとおしゃべりに忙し
いところよ。いっしょに映画に行くのはどう?」
「ええ、そうなさって」とティタニアがいった。「シドニー・ドルー夫妻の
作品よ。あの二人、わたし大好きなの!」
オーブリーが一も二もなく同意したのはいうまでもない。彼は一行のうちで
いちばん街路側を歩かなければならなかったが、そこはティタニアの横であり、
つまり喜びと義務が一致したのだった。
「あのう、本屋の仕事はどうですか?」と彼は訊いた。
「すごく楽しい!」と彼女は叫んだ。「でも本の名前をぜんぶ覚えるには、
まだまだうんと時間がかかるわ。お客さんたらむずかしい質問をするんですも
の! 今日の午後、女の人が来て、『無関心な話《ブラーゼイ・テイル》』は
ないかって言うの。それが『しるべのある山道《ブレイズド・トレイル》』の
ことだなんてわかるわけがないわ」
「そのうち慣れるわよ」とミセス・ミフリンがいった。「みんな、ちょっと
待って。薬局に寄るから」
彼らはワイントラウブの薬局に入った。ミス・チャップマンがそばにいるの
で彼はすっかり有頂天だったが、薬屋がなんとなく奇妙な目つきで彼を見つめ
ることには気がついていた。もともと観察力の鋭いたちなので、ミセス・ミフ
リンが買おうとした明礬の粉末の箱のラベルにワイントラウブが薄いすみれ色
のインクで字を書いたのも見逃さなかった。
劇場前のガラス張りの入場券売り場でオーブリーは自分に券を買わせてくれ
といって譲らなかった。
「夕ご飯のあとすぐ出てきたの」ティタニアはなかに入りながらいった。
「混雑する前に入っちゃおうと思って」
しかしブルックリンの映画ファンを出し抜くのはそう簡単なことではない。
彼らは怖い顔をした若者が入場待ちの群衆をベルベットのロープで堰き止めて
いるあいだ、すし詰め状態のロビーに数分間立っていなければならなかった。
もみくちゃにされないようティタニアを守りながら、オーブリーの保護本能は
喜びにふるえた。彼は彼女に悟られないよう、背中の後ろに鉄棒のような腕を
伸ばし、押し寄せる熱心な群衆の圧力を吸収していたのである。偉大なターザ
ン映画のオープニングが銀幕にひらめくと、声にならないため息が熱心なファ
ンのあいだを駆け抜けた。出だしを見損なったことに気がついたからだ。三人
はやっと仕切りを越えて、最前列に近い端のところに空席を三つ見つけた。そ
の角度からだと次々と移り変わる画面が奇妙に歪んで見えるのだが、オーブ
リーは気にもとめなかった。
「わたし、ちょうどいいときに来たと思っているの」とティタニアがささや
いた。「さっきミスタ・ミフリンにフィラデルフィアから電話があって、売却
予定の蔵書があるから、見積もりを出しに月曜日に来てほしいんですって。そ
れで留守のあいだ、わたしがお店の番をするのよ」
「そうなんですか。じつは、わたしも仕事の都合で月曜日はブルックリンに
いなければならないんです。ミセス・ミフリンのお許しがあれば、お店に行っ
て、あなたから本を買いたいのですが」
「お客さんはいつでも歓迎よ」ミセス・ミフリンがいった。
「あのクロムウェルの本が気に入ってしまいましてね。ミスタ・ミフリンは
いくらなら売ってくれるでしょう?」
「あの本は大切なものにちがいないわ」とティタニアがいった。「今日の午
後、だれかが買いに来たんだけど、ミスタ・ミフリンは手放そうとしなかった
の。お気に入りの一冊なんですって。まあ、なんて変な映画なんでしょう!」
ターザンの途方もなくばかばかしい物語が観客を興ざめさせながら、銀幕の
上で展開していった。しかしオーブリーは厚かましくもジャングルの強者が自
分にそっくりだと思っていた。僕も――と、彼はたあいもなく考えた――広告
というジャングルのあわれなターザンではないだろうか。商売という名の象や
らワニのなかに迷い込み、己の熱いまなざしに飛び込んできた、手の届かぬ美
しい女性に胸を焦がしているあわれなターザン! 彼は危険をおかして彼女の
横顔をこっそりのぞいた。銀幕の光のゆらめきが彼女の目のなかにいくつもの
踊る小さな点となって映し出されていた。彼はすっかりのぼせて、相手が自分
の視線に気がついていることもわからなかった。そのとき明かりがついた。
「ひどい映画だったと思いません?」とティタニアがいった。「終わってよ
かった! 象がスクリーンから飛び出して来て、わたしたちを踏みつけるん
じゃないかと怖くてたまらなかったの」
「どうして名作を映画化しないのかしら」とヘレンがいった。「納得がいか
ないわ――フランク・ストックトンの作品なんか、とっても楽しいでしょうに。
ドルー夫妻が『ラダー・グランジ』を演じるなんてどう?」
「まあ、うれしい!」とティタニアがいった。「本のお仕事についてから、
わたしが読んだ本の名前が出たのははじめてだわ。ええ、そう思います――ポ
モナとジョナスが新婚旅行で精神病院を訪れたときのことを覚えています?
じつはね、あなたとミスタ・ミフリンを見ているとドルー夫妻を思い出してし
まうんですよ」
ヘレンとオーブリーはこの無邪気な連想に吹き出してしまった。そのとき、
オルガンが「ああ、朝起きるのは大きらい」を弾きはじめ、いつ見ても楽しい
ドルー夫妻がスクリーンにあらわれ、ホームコメディのひとつを演じはじめた。
この型破りな無言劇俳優がアーク灯とレンズのためにその健康的で人間的な才
能を発揮しはじめたとき、映画は新時代の幕を開けたのだと、映画愛好者が考
えるのももっともである。オーブリーはティタニアの横で彼らの演技を見なが
らおだやかなくつろいだ喜びを感じた。目の前に繰り広げられる朝食の場面が、
納屋のような映画撮影スタジオに木摺り板でつくられた間に合わせにすぎない
ことはわかっていたが、舞い上がる彼の想像力のなかでは、彼とティタニアが
恵みぶかい運命の采配によっていっしょに住むことになる、牧歌的な郊外の家
のように思えるのだった。若者は開拓者のような想像力を持っている。若き
オーランドーがロザリンドの隣にいるとき、彼女との結婚を夢見ないでいられ
るとは思えない。たとえこの世の煩わしさを脱するまでに千回死ぬほどの苦し
みがつづこうとも、きっと若者は市役所で許可証をもらう前に千回婚約を交わ
すだろう。
オーブリーはオペラグラスがまだポケットのなかに入っていたことを思い出
して取り出した。三人は面白がってシドニー・ドルーの顔を双眼鏡でのぞいた。
しかしそれはがっかりするような結果に終わった。というのは映像を拡大して
みると細かなひび割れが画面を蜘蛛の巣状に覆っているのがわかってしまった
からである。ミスタ・ドルーの鼻は映画史上もっとも滑稽な顔の造作なのだが、
拡大してみるとそのおかしさが失われてしまった。
「あら、まあ」とティタニアが声を上げた。「これで見ると彼のすてきな鼻
がフロリダの地図みたいに見えるわ」
「どうしてこんなものをポケットに入れていたの?」ミセス・ミフリンがオ
ペラグラスを返しながら訊いた。
オーブリーは急いでもっともらしい嘘をつかなければならなかったが、広告
マンというのは機転がきく。
「それはですね。ときどき夜中に持ち出して屋上広告を研究するんですよ。
ちょっと近視なものですから。ネオンサインの研究は仕事の一部なんです」
ニュース映画をいくつか流したあと、上映プログラムは最初にもどり、彼ら
は劇場を出た。「うちに寄っていっしょにココアでも飲みませんか?」本屋の
入り口まで来たときヘレンがいった。オーブリーは招待に応じたくて仕方な
かったが、図に乗りすぎるのは禁物と思った。「申し訳ないのですが、止めて
おきましょう。今晩、仕事があるんです。月曜日はミスタ・ミフリンがいらっ
しゃらないそうですが、かまどに石炭をくべるとか、なにかお手伝いをしにお
邪魔してもいいですか?」
ミセス・ミフリンは笑った。「そうね!」彼女はいった。「いつでも歓迎し
ますわ」彼らがドアを閉めると、オーブリーは深い憂鬱に沈んだ。神々しい美
文のようなティタニアの目を奪われたギッシング通りは、気が抜けてどんより
していた。
まだ遅い時間ではなかったし――十時をまわっていなかった――オーブリー
はふと、この近所を見張るのなら細かい地理を頭にたたき込んでおくのも悪く
ないと思った。ハズリット通りは本屋から南に進んだつぎの通りである。人通
りのすくない静かな細い道で、質素な住居の明かりに豊かに照らし出されてい
た。ハズリット通りをすこし進むと、丸石を敷いた狭い路地があった。両側を
裏庭にはさまれた小径で、ギッシング通りとホイッティアー通りのなかほどを、
ワーズワース・アヴェニューまで延びていた。路地は真っ暗だったが、家の数
を正確にかぞえることでオーブリーは本屋の裏口を突き止めた。庭の門にそっ
と手をかけると、鍵はかかっていない。なかをちらりと見るとココアでも温め
ているのだろうか、台所に灯がともっていた。そのとき二階の窓が明るくなり、
ランプの光に輝くティタニアの姿を見て彼の胸は震えた。彼女は窓辺にやって
きてブラインドをおろした。彼女の頭と肩の影がつかの間カーテンに映って見
えたが、つぎの瞬間、明かりが消えた。
オーブリーはしばらく突っ立ったままロマンチックなことを考えていた。毛
布が二枚ありさえすればロジャーの裏庭に野宿して一夜をあかすのだが、と彼
は思った。あの観音開きの窓の下で、僕が監視をしているかぎりけっして彼女
に危険はない! この思いつきは突拍子もないだけにかえって彼を魅了した。
そのときだった。開いた門口に立っている彼の耳に、遠くからこちらにむかっ
て路地を進んでくる足音と、低くうなるような複数の声が聞こえた。たぶん警
官が二人組で見まわりに来たのだろう、と彼は思った。夜のこんな時間に裏口
でこそこそしているのを見つかったらまずい。彼は忍び込むようになかに入り、
門をそっと閉め、用心のためにかんぬきをかけた。
荒い砂利道を踏みしだき、足音が暗闇のなかを近づいてきた。彼は裏門の柵
に寄りかかってじっと立っていた。驚いたことに男たちはミフリンの門の前で
止まり、掛け金を静かにはずそうとした。
「だめだ」と声がいった――「かんぬきがかかっている。別のやり方を考え
なきゃならんぜ、相棒《マイ・フレンド》」
オーブリーは最後の単語に、巻き舌のしわがれた「r」が使われたことに気
づき、身体がぞくぞくした。まちがいない――これは「友人にしてしあわせを
祈ってくれる」電話の男の声だ。
もう一人の男がしゃがれたドイツ語でなにごとかをささやいた。オーブリー
は大学でドイツ語を勉強したが、二つの言葉しか聞き取れなかった――「トュ
ル」と「シュルッセル」で、それが「ドア」と「鍵」を意味することは知って
いた。
「わかった」最初の声がいった。「そいつは大丈夫だが、この仕事は今晩
じゅうにやっちまわないとな。例のものはなんとしても明日完成させる。貴様
が間抜けなものだから――」
がらがらしたドイツ語がふたたび聞こえてきたが、早口の小声でオーブリー
の耳はついていくことができなかった。路地に面した門の掛け金がもう一度か
ちりとなり、彼は拳銃に手をかけた。しかしすぐさま二人は路地のむこうへ歩
いていってしまった。
若き宣伝マンは柵に寄りかかったまま、恐ろしさのあまりものもいえず、心
臓をどきどきさせていた。手はじっとりと汗ばみ、足は膨れあがって根をおろ
したかのようだった。いったいなにを企んでいるんだ? 灼けつくような怒り
の波が、身体を駆け抜けた。あのやさしそうな、口のうまい、話し好きの書店
主、あいつはあの娘を誘拐し、父親が汗水流して稼いだ金を脅し取ろうとして
いるのか? しかもドイツ人なんかと手を組みやがって、あの悪党! 無防備
な娘をブルックリンの荒野に送り出すとはチャップマンもおろかなことをした
ものだ――さしあたり、自分はなにをしたらいいだろう? 裏庭を一晩じゅう
偵察するか? いや、友人にしてしあわせを願ってくれる男は「別のやり方を
考えなきゃならん」といっていた。それにオーブリーは年老いたテリヤが台所
で寝ていることを思い出した。ボックなら夜中にドイツ人が侵入したとき、
きっと大騒ぎを起こすにちがいない。たぶんいちばんいいのは店の正面を見張
ることだ。みじめに混乱する頭を抱えながら、彼は数分のあいだ自分の足音を
聞きつけられないよう、二人のドイツ人が遠くに離れるのを待った。それから
門のかんぬきをはずし、彼らとは反対のほうにむかって路地を忍び足で進んだ。
路地はワイントラウブの薬局のちょうど裏側でワーズワース・アヴェニューに
つながっていた。そこには高架鉄道の駅を支える大梁と構脚がそびえていて、
いわばスイスの山小屋が竹馬に載って通りをまたいでいるような格好をしてい
た。彼は遠まわりしたほうが賢明だと考え、ワーズワース・アヴェニューを東
にむかってホイッティアー通りまで歩き、それからつけられていないことを油
断なく確認しながらホイッティアー通りを一ブロック南にくだった。ブルック
リンは夜になって明かりを消しはじめ、すべてが静まりかえっていた。彼はハ
ズリット通りに入り、それからギッシング通りにもどったのだが、そのとき幽
霊書店の明かりが消えていることに気がついた。もうすぐ十一時だ。映画館か
ら最後の客がぞろぞろと出てきた。二人の従業員がはしごにのぼり、早くも
ターザンの電光看板をおろして、つぎの呼び物のイルミネーション文字を設置
していた。
彼はしばらくあれこれ考えたあと、ミセス・シラーの下宿にもどるのがいち
ばんだと判断した。自分の部屋からなら本屋の正面ドアをしっかり監視するこ
とができる。うまい具合にミフリンの家のほぼ真ん前に街灯が立っていて、ド
アの前のくぼんだあたりにも充分な光があたっていた。オペラグラスを使えば、
寝室からそこの様子は手に取るように見えた。通りをわたりながら、彼はミセ
ス・シラーの下宿の正面を見あげた。四階の二つの窓に明かりがともっていて、
一階の玄関にはガスの火が小さく燃えていた。そのほかは暗闇に包まれている。
ふと自分の部屋の窓を見た。カーテンは今も窓ガラスの後ろに留められたまま
だ。しかし奇妙なことに、窓のそばで小さなバラ色の光が強くひかり、それが
小さくなったかと思うと、また強く光った。だれかが彼の部屋でたばこを吸っ
ている。
オーブリーはなにごともなかったかのように足取りを乱さず歩きつづけた。
通り沿いに下宿のむかいまで来ると、最初に見たものがまちがいでないことを
確かめた。光の点は依然としてそこにあり、たばこを吸っているのは例の友人
にしてしあわせを願う男か、その一味だと考えるのがまず妥当と思われた。路
地にいたもう一人の男はワイントラウブのような気がしたが、確信はなかった。
薬局の窓から気をつけてなかをのぞくとワイントラウブが調剤台にむかってい
る。オーブリーは彼を待つしわがれ声の、もちろん好意などチリほども持って
いない紳士に、しっぺ返しをしてやろうと決意した。彼はミセス・シラーの下
宿を出るとき、本の表紙を外套のポケットに突っ込んだ幸運に感謝した。理由
はわからないが、だれかがそれをひどく手に入れたがっていることはあきらか
だった。
ちょうど閉店の準備をしていた小さな花屋を通り過ぎるとき、ある考えが浮
かんだ。彼は店に入り、白いカーネーションの花を十本ばかり買い、まるで思
い出したように「針金はあるかい?」と訊いた。
花屋は細くて丈夫な一巻きの針金を差し出した。花屋はそれで高価なバラの
つぼみをしめつけ、開花を遅らせることがある。
「八フィートほどくれないか。今晩いるんだが、金物屋はみんな閉まってい
るだろうから」
彼はそれを持って、上の窓から姿を見られないよう、慎重に建物伝いに歩い
てミセス・シラーの下宿にもどった。階段をのぼり、息を凝らしてドアの掛け
金をはずす。時間は十一時半、彼はしあわせを願う男がおりて来るまでどれぐ
らい待たなければならないだろうと思った。
彼は用意をととのえながら、大学時代にこれよりもはるかにふざけた目的で
似たようなことをやった経験を思い出し、おもわずくすりと笑ってしまった。
まず靴を脱ぎ、またすぐ見つけられるようにそっと片隅に寄せておいた。そし
て床から六フィートほどの高さの手すりを選び、その根本に針金の一方の端を
きつく巻きつけ、踏み段を二段にわたって広がる大きな輪を作った。針金の残
りは手すりのあいだを通して外に出し、小さな輪にして引っ張りやすいように
した。それから玄関のガス灯を消し、暗がりのなかでことが起きるのを座って
待った。
パグがこっそりやってきて彼を見つけるのではないかという、一抹の不安を
かんじながら長い時間座っていた。部屋着を着た女性――おそらくミセス・
J・F・スミスだろう――が一階の部屋からあらわれ、暗闇にひそんでいる彼
のすぐそばを通って、ぶつぶつ言いながら上にあがっていったときは肝をつぶ
した。彼は輪っかを引っ張ってかろうじて彼女の足に引っ掛からないようにし
た。しかし間もなく彼の忍耐は報われた。上のほうでドアがきしり、だれかが
ゆっくりと階段をおりはじめた。階段はうめくような音をたてた。彼はわなを
置きなおし、にやりと笑いながら待った。建物のどこかで時計が十二時を打っ
たとき、男は暗闇のなかを手探りしながら最後の一つづきの階段をおりてきた。
オーブリーは男が低く悪態をつくのを聞いた。
その瞬間、犠牲者の両足が輪のなかに入り、オーブリーは針金を思い切り
引っ張った。男は金庫のように倒れ、手すりに激突し、床の上にのびてしまっ
た。すさまじい落下が家を揺らした。彼はうめき声をあげ、呪いの言葉を吐い
て倒れていた。
笑いたいのをなんとかこらえながら、オーブリーはマッチを擦って大の字に
横たわる男の上にかざした。男は横にむけた顔を、伸ばした一方の腕に押しつ
けていたが、あの髭に見まちがいはなかった。またしても例のアシスタント・
シェフだ。彼は意識を失いかけているように見えた。「髭を燃やすといい気つ
けになるんだ」オーブリーはそういってマッチの火をもじゃもじゃの髭につけ
た。二三インチ髭を焦がすのはひどく小気味よかった。それから動かない男の
頭にカーネーションの花を置いた。地階からごそごそと音が聞こえてきたので、
彼は針金をはずし、靴を拾い、上の階に逃げた。彼はしてやったりと胸のなか
で大笑いしながら部屋にたどり着いた。しかし部屋に入るときは、罠がしかけ
られていないかと用心した。強いたばこのにおいをのぞいてなにも異常はない
ようだった。ドアのところで耳を澄ましていると、ミセス・シラーが玄関で金
切り声をあげ、それにパグがきゃんきゃんと唱和するのが聞こえた。上の階の
ドアが開き、問いが発せられた。髭男がしわがれたうめき声をあげながら、階
段から落ちたことをののしり、憤るのが聞こえてきた。パグは狂ったように興
奮して吠えた。女性の声――おそらくミセス・J・F・スミスだろう――が叫
んだ。「この焦げくさいにおいはなに?」ほかのだれかがいった。「気つけに
彼の鼻の下で羽を燃やしているんだ」
「そう、ドイツ野郎の羽をね」オーブリーは一人で満足そうに笑った。彼は
ドアに鍵をかけ、オペラグラスを手に窓のそばに座った。

第九章 ふたたび物語の進行は遅れる

ロジャーは店のなかで静かな晩を過ごしていた。頭の上に霧のようなたばこ
の煙をうかべながら、机にむかって書籍業に関する偉大な著作の第十二章の執
筆にいそしんだ。この章は(残念なことに最初から最後まで夢想に過ぎなかっ
たが)「一流大学名誉文学博士号授与記念講演」として発表されるべきもので
あり、これを書いているとさまざまに魅惑的な可能性が頭に浮かんできて、ロ
ジャーの心はいつも紙を離れて空想の世界に遊んでしまうのである。彼は書籍
業がついに学問的職業の一つとして正式に認められ、それを祝う晴れの式典の
快心の場面を事細かに思い描くのが大好きだった。大講堂は教養ある人々で
いっぱいである。エマソンのような横顔の殿方、次第書をひらひらさせて口を
覆いながらささやき交わすご婦人方。大学儀官《ビードル》なのか学生監《プ
ラクター》なのか学部長《ディーン》なのか(ロジャーにはなんだかよくわか
らなかったが)、とにかくだれかがおごそかな紹介の言葉を述べている――

公共の福利のために絶えず個人的利益を度外視し、プロメテウスにも似た情
熱的犠牲の精神をもって、数え切れない多くの人に、優れた文学への愛を教え
た人物。何事も泡沫のように消えていく世間に広く文学的趣味を浸透させたの
は、主に彼とその同業者の功績と言っていい。彼を讃えることでわたしたちは、
彼によって代表される気高く、慎み深いなりわいを讃えようとするものである
――

謙虚な書店主は手に汗をかき、フードつきのアカデミックガウンをまとった
まま途方に暮れ、そわそわと角帽をいじり回していたのだが、案内役に引っ張
られて赤くなりながら総長《チャンセラー》だか学寮長《プロボウスト》だか
学長《プレジデント》だか(なんだかわからない人)の前に出ると、その人か
ら学位証書がわたされるのである。それから(ロジャーの空想のなかでは)花
輪をいただいた書店主は待ちわびている聴衆のほうを振りむき、舞台の上で垂
れ下がったガウンをご婦人方がするように器用に後ろ足で蹴り、ためらうこと
も気後れすることもなく、品のよい冗談を適度にさしはさみながら彼がしばし
ば夢見ていた書物の喜びについての、学識に満ちた、すこしもしゃちほこばっ
たところのない講演をするのだ。そのあとは引きつづいて祝賀会。高名な碩学
たちが彼を取り囲む。マカロンの皿に、口をつけてないお茶のカップ。ご婦人
たちのさえずるようなおしゃべり。「お尋ねしたいことがありますのよ――将
軍、提督、牧師、政治家、科学者、芸術家、作家、こういう人たちの銅像はた
くさんあるけど、どうして書店主の銅像はないのかしら?」
こんなはなやかな場面を想像するとロジャーはいつもめくるめくような夢の
世界に誘い込まれる。数年前に太った白馬に幌つき荷馬車をひかせ、田舎道で
本を売っていたときから、いつかパルナッソス巡回書店株式会社を立ち上げ、
十台の荷馬車隊を擁し、本屋を知らない田舎の間道へ行商に繰り出すという、
ひそかな夢を胸に抱いていたのである。彼は好んで大きなニューヨーク州の地
図を思い浮かべた。そこには旅回りに出ているパルナッソスの毎日の位置を示
す色つきのピンが刺さっている。彼は夢のなかで巨大な中央古本倉庫に陣取り、
軍司令官さながらに地図を眺め、荷馬車の在庫を補充するため文学的弾薬箱を
送りつけるのだ。外交員はおもに、報われない仕事にいや気がさし、機会さえ
あれば旅に出たいと思っている大学教授、牧師、新聞記者で編成しようと思っ
ていた。彼はミスタ・チャップマンがこの卓越した計画に興味を抱くことを期
待し、またパルナッソス巡回書店株式会社の株が大きな配当金を生み、真剣な
投資家たちを惹きつける日を夢見ていた。
そうこう考えていると義理の兄、田舎暮らしの喜びを描いた魅力的な本の作
者であるアンドリュー・マギルのことが頭に浮かんできた。彼は緑のコネチ
カット渓谷が肘のように曲がったあたりのサビーニ農場に住んでいる。初代パ
ルナッソスはロジャーが結婚前にそのなかで生活し、田舎を何千マイルも旅し
て本を売った、風変わりな古くて青い荷馬車なのだが、今はアンドリューの納
屋に収まっている。でっぷりと太った白馬のペグもそこにいた。ロジャーはふ
とアンドリューに手紙を書かなければならないことを思いだし、書店主の大学
講演草稿を脇に寄せて、こう書きはじめた。

幽霊書店
ブルックリン、ギッシング通り163
一九一八年十一月三十日

親愛なるアンドリュー
もっと早くにお礼を申し上げるべきでした。今年もリンゴジュースの樽を
送っていただきありがとうございます。夫婦ですこぶるおいしくいただいてい
ます。今年の秋はひどくいろいろなことを考えさせられ、手紙がまったく書け
ませんでした。ほかの人とおなじように、わたしも常に僥倖のように訪れたこ
の新しい平和のことを考えています。この機会を人類の福利に転じることがで
きる政治家が将来きっとあらわれることでしょう。わたしは書店主の世界的平
和会議があったらいいのにと思っています。というのは(お笑いになるでしょ
うが)世界の未来の幸福はすくなからず彼らと図書館員の肩にかかっていると
信じるからです。ドイツの書店主はいったいどんな人間なのでしょう?
今「ヘンリー・アダムズの教育」を読んでいるのですが、彼が長生きをして、
戦争をどう思うか、意見を聞かせてほしかったと思います。きっとあっけにと
られるでしょうね。こんなものは「感受性の鋭い、おずおずとした人間が身震
いすることなく見守ることができる」世界ではないと思ったことでしょう。彼
はわたしたちが目撃した四年にわたるいとわしい流血に関してなんと言うで
しょうか?
覚えていらっしゃるでしょうが、わたしの愛唱する詩――ジョージ・ハー
バートの「教会のポーチ」の一編――にこうあります。

ぜひとも ときどき独りになる習慣をつけなさい
自分に向かって挨拶し 自分の魂の装いを確かめるのです
恐れることなく胸の内をのぞきなさい それはあなたのものなのだから
そしてそこに見つけたものを いろいろひっくり返してごらんなさい

というわけで、わたしは自分の考えを大いにひっくり返してみているわけです。
憂鬱というやつは知識階級にかけられた呪いであると思いますが、しかしわた
しの魂はこのごろ恐ろしく落ち着きを失っているのです。人間世界で突然起き
た驚くべき変化は歴史上類を見ない劇的なものなのに、もうすでに当然のこと
のように受け止められているようです。わたしが大いに恐れているのは、人類
がむごたらしい戦争の惨禍を忘れてしまうことです。それはまだ語られてもい
ない。フィリップ・ギブズのような人たちが、現実に目の当たりにしたことを、
わたしたちに伝えてくれることを期待し祈っています。
あなたはわたしがいおうとしていることに賛成はしないでしょうね。頑固な
共和党員でいらっしゃるから。しかしわたしはウィルソンが講和会議に出席す
ることを運命の神に感謝します。わたしは愛読書のひとつ「クロムウェル伝」
――それを横に置きながらこの手紙を書いているのですが――についてずっと
考えてきました。これはカーライルによって編集され、カーライルが「注解」
と称する妙なものがつけ加えられています。(カーライルの注解はどれもよく
わかりません!)わたしはどこかでこれがウィルソンの愛読書の一つであると
聞きました。たしかに彼にはクロムウェル的なところが多々あります。刀剣を
その手に握らざるを得なくなったとき、なんという断固たる誓約者の意気込み
でその武器をつかんだでしょう! 彼が講和会議でいうこともオリバーが一六
五七年と一六五八年に議会でよく発言していたこと――「虫の食っていない平
和が手に入れば、正義と公正の土台を作ることができる」――と非常によく似
ているのではないかと思っています。ウィルソンが思慮のない人々にとってじ
れったく感じられるのは、彼が情熱ではなく、あくまで理性にもとづいて行動
するからです。キプリングの有名な詩、あれはたいていの人間にあてはまるの
ですが、彼はその正反対です――

事実を真っ向からとらえ とことん論理的に押し詰めて
その結論を確固たる行為に結実させることなど めったにありはしない

今回は理性が勝利すると思います。世界全体がその方向にむかっていると感じ
られるのです。
ウッドロウはいはばクロムウェルとワーズワースの掛け合わせのような男で、
そんな人間が砲弾痕の残る場所で外交のためにひと肌脱ごうなどというのは考
えてみればおかしなことです。わたしが待っているのは彼が公職を退き、彼の
私生活について本を書くときです。こういってよければ、それこそ身も心も
ぐったり疲れ果てて当然の人間にうってつけの仕事です。その本が出版された
ら、わたしはそれを売って余生を過ごします。それ以上のものは要りません!
ワーズワースといえば、わたしはよくウッドロウが日記のどこかにこっそり
詩を書いているのではないかと思います。ひそかな詩作にふけっている姿をい
つも想像するのです。ところで、わたしがジョージ・ハーバートに入れ込んで
いることをおからかいになる必要はありませんよ。自分でも判っていますから
ね。英語でもっともなじみ深い二つの引用が彼のペンから生まれていることを
知っていますか? つまり

ケーキを口にして しかもそれを持っていたいと願うのか

これと

おそれずに真実を語れ どんな場合も嘘はいらない
過ちが切実に嘘を必要とするとき 罪は二倍に膨れあがる

です。
このつまらない説教をお許しください! わたしの心はこの秋あまりにも混
乱し、憂鬱と高揚が入りまじった奇妙な状態にあるのです。わたしがどれほど
本に埋もれ、本のために生きているか、ご存じでしょう。じつは、この人類の
希望と苦悩が逆巻くなかから偉大な書物があらわれるような不思議な気分、予
感みたいなものを感じるのです。それは嵐に揺すられた人間の魂が、今までに
なかったような率直な語り方をする本です。聖書にはご存知のとおり、いささ
か失望しました。人間にたいしてなすべきことをなさなかったのですから。ど
うしてなんでしょうね? ウォルト・ホイットマンはこれから大活躍するで
しょうが、わたしがいおうとしているものとはちょっとちがう。なにかがやっ
てきつつある――ただわたしにはそれがなんであるのか、はっきりとはわから
ないのです! 自分が単なる商品のセールスマンではなく、人間の夢や美や好
奇心を取引する書店主であることを神に感謝したいと思います。しかしわたし
たちは自分のなかで起きていることを語ろうとするとき、なんと無力でしょう
か! 先日、ラフカディオ・ハーンの手紙のなかにこんな一節を見つけました
――あなたに見せようと思って印をつけておいたものです――

ボードレールはアホウドリについて感動的な詩を書いていて、これはあなた
も気に入ると思う――詩人の魂はその自由な青空においてこそ優美だが――俗
な大地を歩む姿は無力で、屈辱的で、醜く、不器用――いや、そこは大地では
なく、実際には刻みたばこのパイプで水夫にいじめられる甲板なのだが、云々。

日の暮れるのが早くなり、ここでわたしが棚に囲まれ、どんな夜を過ごして
いるか想像がつくでしょう! もちろん十時に店を閉めるまで、絶えず邪魔が
はいります――この手紙を書いている最中も同様です。一度は「叔父さん征
伐」を売り、一度は「レディング獄舎の唄」を売るといった具合で、わたしの
お客さんの趣味が多種多様だということがわかりますね! しかしこのあと夫
婦で夜のココアを飲み、ヘレンが寝てしまうと、わたしは店をうろつき、あっ
ちの本やらこっちの本をのぞき込み、思索の美酒に酔いしれるのです。夜更け
になると精神は、どれほど澄んだ輝く流れとなってあふれだすことか! 昼間
の沈殿物や浮遊するごみがすっかり消えています。ときにはこれこそまさに美
か真実の岸辺ではないかと思えるところを進み、そのきらきらした砂浜に砕け
る波の音が聞こえるような気がします。ところがつぎの瞬間には沖合から倦怠
と偏見の風が吹き、ふたたびわたしを運び去ってしまう。アンドレーエフの
「偉大な日々のあいだに語られた卑小なる男の告白」を読んだことがあります
か? 先の戦争から生まれた誠実な本のひとつです。卑小なる男は告白をこん
なふうに締めくくっています――

わたしのなかから怒りが去って、悲しみがもどり、また涙が流れる。わたし
はだれを呪うことができるだろう、だれを裁くことができるだろう、わたした
ちすべてがおなじように不幸だというのに。苦痛はあらゆるところにある。お
互いに手を伸ばし合い、その手が触れあうとき――大いなる解決が訪れるだろ
う。わたしの心は燃え立つように輝き、わたしは手を差し伸べ、こう叫ぶ。
「さあ、手をつなぎ合おう! わたしはあなたたちを愛しているのだ、愛して
いるのだ!」

そしてもちろんそんな気持ちになった途端、他のだれかにポケットの金をすら
れてしまうわけですが――まあ、すられたって平気な顔をしていられるくらい
の気位を教育すべきでしょうね!
世界はじつは本によって支配されている、などと考えたことがありますか?
たとえばこの国が戦争に突入した道筋はウィルソンがものを考えはじめたと
きから読んだ本によって大筋決められていたのです! 戦争がはじまってから
彼が読んだおもな本のリストが手に入ったら、これは面白いでしょう。
ここにお客さんに考えてもらおうと思って掲示板用に今写している詩があり
ます。一九一五年にフランスで戦死した若いイギリス人、チャールズ・ソー
リーの書いたものです。彼はまだ二十歳でした――

ドイツへ
きみはぼくらのように目が見えない きみは意図して人を傷つけたのではな
かった
そしてだれもきみの国土を征服しようとしたのではなかった
しかしいずれも狭隘な思想という戦場を手探りし
ぼくらはつまずき 互いを理解しない
きみが見ていたのは きみの大いなる未来だけ
ぼくらが見たのは 先に行くほど細くなるぼくらの心の道だった
ぼくらは互いに相手の大切な道に立ちふさがり
非難し 憎み合う そして盲人が盲人にうちかかる

平和がきたときに ぼくらはもう一度
新たな目でお互いの本当の姿を見直し
不思議に思うかも知れない もっと慈愛と思いやりを学んだとき
ぼくらはしっかり手を握り合い 過去の苦しみを笑い飛ばす
平和がきたときに しかし平和がくるまでは嵐
暗闇 いかずち 雨

気高い響きがあるでしょう? わたしがへどもどしながらいおうとしているこ
とがわかりますか――戦争は人類を浄化したのだと(後生の人に)思えるよう
な、そんな戦争のとらえ方です。悪臭を放つ灰や、苦しむ肉体、原型を失うま
で弾丸を撃ち込まれ、血と汚水の泥沼のなかに横たわる人間といった単なる暗
黒のイメージではなくて。そんな口にすることもはばかられるような荒廃から、
人間は、隣人としての国家という新しい概念にかならずや目覚めなければなり
ません。ドイツをいくら罰してもその罪は充分にあがなえないといった不安の
声がたくさん聞こえてきます。しかしあのような広範囲の悲しみにたいしてど
んな罰を考え出し、押しつけられるというのでしょう。ドイツはすでに自分を
手ひどく罰しているし、これからもそれはつづくと考えます。わたしたちの経
験が生命の――人間だけでなく動物も含むすべての生命の――威厳にたいする
なにか新しい自覚を世界にもたらすことになれば、と祈っています。動物園に
行くと生命力のとてつもない奇怪な多様性に驚き、謙虚な気持ちになりません
か?
どんな生命の形のなかにも見いだせるものはなんでしょう? ある種の欲望