下宿人 - 1
下宿人
マリー・ベロック・ローンズ
「あなたは愛する者と友とをわたしから遠ざけ、わたしの知り人を暗やみにおかれました」
詩篇第八十八編第十八節
第一章
ロバート・バンティングと妻のエレンは、弱々しく燃える埋み火のまえに座っていた。
この部屋は、彼らの家が不衛生とまでは言わないまでも、すすけたロンドンの通りに面していることを考えると、ことのほか清潔で手入れが行き届いていた。ふらりと訪れた客、特にバンティング夫婦より上の階級に属する客は、その居間のドアを開けるやいなや、二人の姿に安らかな結婚生活の、暖かく心地よい一場面を見出しただろう。深々とした革の肘掛け椅子にもたれていたバンティングはきれいにひげを剃って、こざっぱりした身なりをしている。その風采にはむかし長年にわたって勤めあげた「誇り高き使用人」のおもかげが今も残っていた。
背もたれがまっすぐの、座り心地の悪い椅子に座っている妻には、過去の奉公生活のあとは夫ほど明らかではなかった。しかし、あることはある。こぎれいな黒いラシャのドレスと、入念に洗い立てられた無地のカラーとカフスにそれはあらわれていただろう。ミセス・バンティングは、独身の頃は、いわゆる有能な女中というやつであった。
しかし外見は人目をあざむくという古い英語のことわざは、とりわけ平均的なイギリス人の生活に当てはまる。バンティング夫婦の部屋はずいぶん立派なもので、二人が若かった頃は――いま思うとはるか昔のことのようだ!――妻も夫も自分たちで慎重に選んだ家財道具を誇らしく思っていたものだ。部屋のなかのすべてのものが頑丈でどっしりしていた。どの家具も個人宅で開かれた、きちんとしたオークションで購入したものだった。
だから霧に包まれ、雨のそぼ降るメリルボーン通りの景色を遮断している赤いダマスク織りのカーテンは、ほんのはした金で手に入れることができたし、おまけにあと三十年はもとうというしろものだった。また床を覆うアクスミンスターカーペットも掘り出し物だった。鈍く燃える小さな火を見つめながら、いまバンティングが身を乗り出している肘掛け椅子もそうだ。実を言うとこの肘掛け椅子はミセス・バンティングが大いに奮発して買ったものの一つなのだ。彼女は一日の仕事を終えた夫にくつろいでもらいたいと、この椅子に三十七シリングを払ったのである。つい昨日のことだが、バンティングは椅子を買い取ってくれる人を探そうとした。ところが品物を見に来た男は、夫婦の窮迫につけこんで、たったの十二シリング六ペンスしか出そうとしなかったのだ。そういうわけで、いまのところ肘掛け椅子は彼らの手もとに置かれているのである。
物質的な豊かさは、この世にあるかぎり、バンティング夫婦にとって望ましいものではあるけれど、しかし夫婦というものはそれ以上の何かを求めるものだ。だから居間の壁には、もう色あせかけているとはいえ、いくつもの写真が品のよい額に入れて飾られていた。それらはバンティング夫婦が以前仕えたいろいろな雇い主や、別々に暮らしていたとはいえ、二人が長きにわたって幸せな奉公生活を送った、美しい田舎屋敷の写真だった。
しかし外見は人をあざむくだけではない。こういう不幸な人々の場合は普通以上に人をあざむくものとなる。質のいい家具――不遇に陥っても、賢明な人々なら最後まで捨てようとはしない世間体を、目に見える形で示す物質的なしるし――を持っているにもかかわらず、彼らは金が底をつきかけていたのである。すでにひもじさを学び、いまはこごえることを知りはじめたところだった。タバコは酒を飲まない人間がもっとも手放そうとはしない楽しみだが、バンティングはしばらく前から喫煙をあきらめていた。ミセス・バンティングでさえ――彼女なりに几帳面で、賢明で、注意深い女性であった――それが夫にとってどういうことを意味するのか、ちゃんと理解していた。実際、分かりすぎるくらい分っていたので、彼女は数日前にこっそり外に出て、夫のためにバージニアタバコを一箱買ってあげたのだった。
女性からの気配りや愛に何年も心打たれたことのなかったバンティングもさすがに胸がいっぱいになった。苦い涙が思わず彼の目にあふれた。夫も妻も奇妙なくらい感情をおもてに出さなかったけれど、二人とも胸にじんとくるものがあった。
幸い彼には思いつきもしなかったのだけれど――この反応の遅い、平凡な、やや愚鈍とも言える心にどうして考えつくことができただろう?――哀れなエレンはそれ以来、四ペンスと半ペニーをタバコの購入に使ったのは大まちがいだったと一度ならず後悔していたのである。というのは、今や彼らは、安全無事な高原に住む者――つまり、幸福とは言えないまでも、確実に世間体を保った暮らしができる人々――と、自らに欠けているものがあるため、あるいはわれわれの奇怪な文明を組織してきた条件のため、貧民収容施設や病院や牢獄で、死ぬまで這いあがる術をもたぬままもがきつづける水面下の大多数、この両者を分け隔てる底知れぬ深みのすぐそばにまで来ていたのだ。
バンティング夫婦が下の階級、大勢の人々が「貧乏人」と呼んでいる大量の人々に属していたなら、親切な隣人がすぐに彼らに救いの手をさしのべただろう。また、彼らが長いこと仕えてきた人々、独りよがりで想像力はないけれど悪気もない人々に属していたとしたら、やはり同じことが起きただろう。
彼らを助けることができそうな人間は世界に一人しかいなかった。バンティングの先妻の伯母である。裕福な男と結婚し、今は未亡人となっているこの女性といっしょに住んでいるのが、最初の妻とのあいだにできた一人娘、デイジーだった。バンティングはこの老婦人に手紙を書こうか、どうしようかと迷いながら、それまでの長い二日間を過ごしたのだった。もっとも、冷たくとげとげしい拒絶の言葉しか返ってきやしないさ、と内心思ってはいたのだけれど。
彼らの知り合い、例えば以前の使用人仲間などとは、次第に行き来間遠になってしまった。ただ一人の友人だけが生活の苦しい彼らのもとをしばしば訪ねてきた。それはチャンドラーという名の若者で、バンティングは何年も以前、彼のお祖父さんの従僕を務めていたのだ。ジョー・チャンドラーは兵隊には行かなかった。警察が好きで、早い話が、実は刑事だったのである。
夫婦がこの悪運の元凶と考える家をはじめて買ったころ、バンティングは若者に、ちょくちょく遊びにお出でと誘いかけたものだ。というのは若者の話は充分聞くに価したから――時にはおそろしく好奇心をそそったからである。しかし、今、あわれなバンティングはそんなたぐいの話を聞く気になれなかった。つまり巧妙な手で警察に「あげられた」人々とか、チャンドラーの見るところ、そんな連中ならいつ喰らっても当然の運命を愚にも付かない不手際のせいで逃れてしまった話などだ。
しかしそれでもジョーは言われた通り、週に一二回は訪ねてきた。ただし、主人も奥さんも、彼に食事を勧めなくていいような時間を選んで。いや、それだけではない。彼は優しい思いやりから、父の古い知り合いに金を貸し与え、バンティングはとうとう三十シリングを受け取った。その金も今はほとんど残っていない。バンティングのポケットにはまだ銅貨が数枚ちゃらちゃら鳴っていたし、ミセス・バンティングは二シリング九ペンス持っていた。だが、それと五週間後に払わなければならない家賃が、彼らに残された全てだったのである。軽くて持ち出しがきく金目の物はことごとく売り払った。ミセス・バンティングは質屋を毛嫌いし、決して足を運ぼうとしなかった。絶対行くものですか、飢え死にしたほうがましだわ。彼女は断固としてそう言った。
しかしいろいろな小物が次第になくなっていっても、彼女は何も言わなかった。それらがバンティングにとって貴重な品であることは知っていた。なかでも古い懐中時計の金鎖は彼がはじめて仕えた主人の形見だったのだ。長い、恐ろしい病に倒れたときは、最後まで忠実に、心をこめて看病した主人だった。螺旋状の金のネクタイピンや、大きな形見の指輪もなくなった。いずれも以前の雇い主からの贈り物だった。
安定した生活と不安定な生活を隔てる深い穴のそばで暮らしているとき――そしてその不気味な穴の縁へ少しずつにじり寄っていくとき――人間は、どれほど生まれつきおしゃべりであっても、長い沈黙に陥りがちなものである。バンティングは口まめで通っていたけれど、今はもう話をしない。ミセス・バンティングもしゃべらなかったけれど、彼女はもとから口数の少ない女性だった。おそらくそれが、一目見た瞬間からバンティングが彼女に心を奪われた理由の一つだったろう。
二人の馴れ初めはこんな具合だった。とある貴婦人が彼を執事として雇うことになり、彼は前任者に案内されて食堂に入った。そこで彼は、彼自身の言い方を使えば、エレン・グリーンを発見したのだ。彼女は当時仕えていた女主人が毎朝十一時三十分に飲むポートワインをグラスに慎重に注いでいた。新しい執事である彼はその仕事ぶりを見ながら、つまり彼女が注意深くデカンターに栓をし、ワインクーラーに戻すのを見ながら、こう思った。「この人こそわたしの妻になるべき人だ!」
しかし今、彼女の静かさ、彼女のだんまりは、不運な男の神経に障った。暮らしむきのよかった頃はひいきにしてよく訪れた、近所のいろいろな店屋にも、もう行く気がしなかった。ミセス・バンティングもわずかな買い物をするときは遠くへ出かけた。飢え死にしないためには今でも毎日、あるいは一日おきに買い物に出なければならなかった。
突然、十一月の暗い夕方の静けさを破って、誰かが走るどたどたという足音と、大きな鋭い叫び声が外から聞こえてきた。夕刊を売る少年たちの呼び声だった。
バンティングは椅子のなかでそわそわと振り返った。日刊紙の購読中止はタバコの次につらい喪失だった。しかも新聞を読むのはタバコよりも古くからの習慣である。使用人というのは新聞の熱烈な読者なのだ。
呼び声が閉じた窓と厚いダマスク織りのカーテンを通して聞こえてくると、バンティングは急に新聞が読みたくてたまらなくなった。
何て恥ずかしいことだろう、何ていまいましいことだろう、世のなかで何が起きているのか、知ることができないとは!犯罪者だけではないか、牢獄の壁の彼方の出来事を知らないのは。それにあの叫び声、あのかすれた鋭い叫び声は、何かほんとうに刺激的な事件、個人的な苦悩をひとときなりとも忘れさせてくれる何かが起きたことを意味しているにちがいないのだ。
彼は立ちあがり、いちばん近い窓にむかうと、耳をすませた。しわがれた叫び声がいくつも入りまじる混乱のなかから時々ひとつの単語がはっきりと聞こえた。「人殺し!」
ゆっくりとバンティングの頭は騒々しい不明瞭な叫び声をひとつのつながりのある順序に並べていった。うん、こういうことだ。「身の毛もよだつ人殺し!セント・パンクラスで人殺し!」バンティングはセント・パンクラスの近所で別の殺人があったことをふと思い出した。ある老婦人が、自分の女中に殺されたのだ。起きたのはずっと昔だが、今でも生々しくおぼえている。使用人仲間のあいだでは当然ながら注目を浴びた事件だった。
新聞の売り子たちは――メリルボーン通りに何人も売り子が来るのは、かなり珍しいことだ――ますます近づいてくる。いま彼らは別のかけ声を叫んでいたが、彼にはそれがはっきり聞き取れなかった。さっきからがらがら声を張りあげ興奮したように怒鳴っているのだが、ときどき一言か二言、聞き分けられるだけだった。突然「復讐者!またもや復讐者の仕業!」という言葉が彼の耳を打った。
ここ二週間のあいだに、ロンドンの比較的狭い区域内で、四つのきわめて奇怪かつ残忍な殺人事件が起きていた。
最初の殺人は特に注目を浴びなかった。二番目の殺人でさえ、バンティングがその時まだ購読していた新聞ではベタ記事にすぎなかった。
そこへ三つ目の殺人が起き、それとともに強烈な興奮の波がわきおこった。というのは、被害者――泥酔した女だった――のドレスに三角形の紙がピンで留められていて、そこに活字体の赤い字で
「復讐者」
と記されていたからである。
この手の無残な事件を捜査する人々だけでなく、そうした禍々しい謎に知的な興味を抱く大勢の男女も、その時になってようやく、この三つの犯罪が全て同じ悪者によって犯されたことを知ったのだ。その愕然とするような事実が大衆の心に染みこむまえに、また別の事件が起きた。そしてふたたび殺人者は特別のしるしを残して、自分が不可解な恐るべき復讐欲に取り憑かれていることを明らかにしたのである。
今や誰もが復讐者とその犯罪の噂話をしていた!毎朝半ペニーの牛乳を戸口に置いていく配達人でさえ、ちょうどその日、バンティングにむかってその話をしたのだ。
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バンティングは煖炉のところにもどってくると、軽い興奮を感じながら妻を見下ろした。彼女の青白い無表情な顔、くたびれきって悲しみに沈んだ様子を見ると、いらだちが波のように身体を走り抜けた。彼女を揺さぶってやりたいような気分だった。
その日の朝、バンティングがベッドに戻ってきて牛乳配達が話したことを伝えようとしても、エレンはほとんど聞く耳をもたなかった。実のところ、そんな怖ろしいことなど聞きたくないと、ひどく機嫌を損ねたくらいなのだ。
ミセス・バンティングはほろりとさせる感傷的な話は大好きだったし、婚約不履行訴訟の詳細には冷笑を浮かべて聞き入るのだが、妙なことに、不道徳な話や暴力の話となると尻込みした。毎日新聞を、それこそ二紙も三紙も買うことのできた、昔の幸せだった頃、バンティングは心ときめく「事件」や「謎」について話したい気持ちを押し殺さなければならないことが何度もあった。彼にとっては楽しい気晴らしなのだが、そんな話を一言でもほのめかそうならエレンはかんかんになって怒ったのである。
しかし彼は今、意気消沈のあまり、彼女の気持ちなどどうでもよかった。
窓から離れると、ためらいがちにゆっくりとドアのほうへむかった。そこで半分だけむき直り、きれいにひげを剃った丸顔に、こずるいような、訴えるような表情を浮かべた。いたずらをしようとしている子供が親にむける、あの表情である。
しかしミセス・バンティングはじっとしたままだった。やせ細った華奢な肩がかろうじて椅子の背の上からのぞいていた。背筋をぴんと伸ばし、虚空を覗きこむように前方を見ている。
バンティングはむき直るとドアを開けて、すばやく暗い玄関へ行き――しばらく前からガスの火を灯さないことにしていた――正面のドアを開けた。
板石敷きの小径を通り、湿った歩道に面する鉄の門を開け放った。しかしそこで彼はためらった。ポケットの銅貨は数が減ったようだった。四ペンスであってもエレンにとってはどれだけ役に立つだろう、と彼はそう思って悲しい気分になった。
その時、一人の少年が夕刊を一束抱えて彼のほうに走ってきた。バンティングは猛烈な誘惑を感じ――それに負けてしまった。「サンをくれ」と彼はぶっきらぼうに言った。「サンかエコーを!」
しかし少年は呼吸を整えもせず首を振った。「一ペニー新聞しか残ってないよ」と彼はあえぎながら言った。「どれにします、旦那さん」
バンティングは恥ずかしく思いながらもいそいそとポケットから一ペニーを取り出し、少年の手から新聞を受けとった。イブニング・スタンダードだった。
それからごくゆっくりと門を閉め、板石敷きの小径に沿ってじめじめした冷たい空気のなかを進んだ。寒さに震えながらも胸のなかは喜びと期待でいっぱいだった。
思いきって使ったさっきの一ペニーのおかげで、一時間は幸せな時を過ごせるだろう。心配ばかりで希望のない、みじめな自分をいっとき忘れることができる。この気苦労からの息抜きを哀れな妻、心配にやつれ、困り切っているエレンと分かち合えないことが、彼をひどくいらだたせた。
不安というか、ほとんど良心の呵責に近いものがバンティングの身体を熱い波のように襲った。エレンだったらあの一ペニーを自分のために使いはしなかったろう。それはよく分かっている。こんなに寒くて、霧が出て、こんなに――こんなに雨がそぼ降ってなければ、もう一度門を出て街灯の下で新聞を読むのだが。彼はエレンのライトブルーの目がむける、冷たい非難の眼差しがひどく恐かった。あの眼差しはこう言うのだろう。あなたには新聞に一ペニーだって無駄なお金を使う権利はないのよ、そのことはよく分かっているでしょう、と!
突然、目の前のドアが開き、耳慣れた声が不機嫌に、しかし心配そうにこういうのが聞こえた。「いったいそこで何をしているの、バンティング。入りなさいよ。風邪をひいちゃうじゃない。そうでなくても大変なのに、病気になられたらたまったものじゃない」近頃、ミセス・バンティングが一度にこんなにしゃべるのは珍しいことだった。
夫は重苦しい家の正面ドアをくぐった。「新聞を買ってきたんだ」彼はむっつりと言った。
なんだかんだ言っても、おれはこの家の主人だ。彼女と同じように金を使う権利がある。今、おれたちが暮らしを立てている金は、あの親切な若者、ジョー・チャンドラーがおれに――エレンにじゃなくって――貸してくれた、いや、押しつけるようにして寄こした金なんだからな。それにおれはやれることはみんなやった。質入れできるものはみんな質に入れた。それなのに彼女はまだ結婚指輪をはめているじゃないか、と彼は苦々しく思った。
彼は重い足どりで彼女の脇を通り抜けた。彼女は何も言わなかったが、夫がこれから楽しもうとしていることに不満を抱いていることは分かった。妻に対する怒りと自分に対するさげすみが爆発し、軽い、ほんの軽い罵り言葉を――エレンは自分の前ではどんな悪態も許さないと早い段階で彼に釘を刺していたのだけれど――口にし、玄関のガスをいっぱいに開いて火を灯した。
「誰も下宿に来ちゃくれんぞ、看板すら見えなかったら」彼は怒ったように言った。
確かにその通りだった。ガスに火をつけたので、「貸間有り」と表側に書いてある長方形の看板が正面ドアの上の古い明かり窓からくっきり見えるようになった。
バンティングは居間に入り、妻が静かにそのあとに従った。夫は自分の快適な安楽椅子に座り、小さな埋み火を火かき棒でつついた。バンティングが火をつついたのは、一日がやけに長く感じられるようになってから久しぶりのことだった。この夫の権限を行使して彼は気分がよくなった。夫というものはたまに自分の権威を主張しなければならないのだが、バンティングは最近めっきり自己主張をしなくなっていた。
ミセス・バンティングの白い顔にかすかな赤みがさした。こんなふうに馬鹿にされることに慣れていなかったのだ。バンティングは本気で腹を立てないかぎり、いたって穏和な人間だった。
彼女は部屋のなかを歩き回って、目に見えないほこりを払ったり、置物の位置を直したりしはじめた。
しかし彼女の手は震えていた――興奮と、自己憐憫と、怒りのために。一ペニー?たった一ペニーのことを心配しなければならないなんて、恐ろしいことだわ!でも、うちはとっくにそうしなければならないところまで来ている。夫にはそんなことも分からないのかしら。
バンティングは一度か二度、首を巡らしてまわりを見た。エレンにそわそわするなと言いたかったのだが、彼は争いを好まず、また、おそらく自分の振る舞いを恥ずかしく思っていたのだろう、文句を言うのはやめにした。それに何も言われなくても、彼女のほうもじきに夫がいらいらすることをやめた。
しかしミセス・バンティングは夫が望んでいるように椅子に座りはしなかった。新聞に熱中している夫を見るのが業腹で、近くに寄りたくなかったのである。居間から奥の寝室に通じるドアを開け、今や明るく燃える火の傍で心地よさげに椅子に座り、イブニング・スタンダードを広げるバンティングのしゃくに障る姿を閉め出すと、冷え冷えとした暗がりのなかに座りこみ、両手で額を押さえた。
これほど絶望的な気持ちになったこと、今くらい打ちひしがれたことは、なかった。一生のあいだ、正直に、誠実に、自分に誇りを持って生きてきたとしても、それがこのようにまるでみじめな貧乏と惨憺たる生活に終るのであれば、いったい何の意味があるというのか。彼女もバンティングもほんの少し歳を取りすぎているから、家柄のよい人々はいっしょに使用人として雇うのをためらうだろう。もちろん妻のほうが本職の料理人であれば話は別だ。料理人と執事の組み合わせはいつだっていいところに就職できる。しかしミセス・バンティングは料理人ではなかった。彼女のところに来る下宿人が望むものは、簡単な料理なら、何でもつくることができたが、しかしそれだけだった。
下宿人?下宿屋を営むなんて、何て馬鹿なことを考えたのだろう!それは彼女のはじめたことだった。バンティングは簡単に言いくるめることができた。
それでも、海辺の下宿屋ということで、はじめのうちはよかったのだ。期待していたほどではなかったけれども、かなりの儲けがあった。ところが猩紅熱が流行し、彼らだけでなく、何十人、いや、何百人という不運な同業者に大損害を与えたのである。そのあと新しい商売に手を出したりもしてみたのだが、かえって悲惨な結果を招き、彼らは借金を背負いこんだのだった。気前のいい以前の雇い主に、とうてい返済できる見込みのない借金を。
そのあとは、もう一度、使用人としていっしょに、あるいは別々に仕事をしてもよかったのだが、彼らは意を決して最後の努力を試みることにした。残された僅かな金を使って、メリルボーン通りのこの家を借りることにしたのである。
彼らが昔、使用人というくびきをみずから受けいれ、そのかわりに守られた、機械的に仕事をこなすだけの、そして何よりも財政的に楽な生活をしていた頃、彼らはどちらもリージェント・パークを見下ろす家に住んでいた。家を持つならその近くがいいのではないかと思われた。男前のバンティングはコネのおかげで、ときどき個人宅のパーティーの給仕人を勤めることがあるから、なおさらその辺りがいいように思えた。
しかしバンティング夫婦のような人々に対して人生は早足で、急に進む方向を変えたりする。以前の雇い主のうち、二人は引っ越ししてロンドンの別の場所へ移ってしまい、彼が知っているベイカー通りのパーティー差配業者は破産してしまった。
そして今は?今は仕事があったとしても、制服を質屋に入れてしまったから、働くことができない。彼はよき夫がすべき通り、妻に一言の相談もなく、ただふいと出かけて制服を質に入れてしまったのだ。彼女は何も言う気になれなかった。それどころか、彼が質屋に行った晩、夫が何も言わずに渡してくれた金の一部で、最後のタバコの箱を買ってやったのである。
ミセス・バンティングが座りこんでこうした辛い思いに浸っているとき、突然、玄関のドアをびくびくと自信なさそうにノックする音が二回大きく響いた。
第二章
ミセス・バンティングはぎくりとして立ちあがり、暗闇のなかで耳をすました。ドアの下から差しこむ光が闇をいっそう濃くしている。ドアのむこうではバンティングが座って新聞を読んでいる。
その時、ふたたびあのびくびくとした、自信なさげなノックが大きく二回響いた。いいことを知らせるノックじゃないわ、と彼女は思った。下宿を探している人なら鋭く、間をおかず、大胆に、自信たっぷりにたたくはず。そうよ。これは乞食か何かだわ。いかがわしい人たちは時間におかまいなくやってきては、泣いたり脅したりしてお金を要求するもの。
ミセス・バンティングは、どの大都市にも浮遊している、名もなく、得体も知れない漂流者階級に――それも特に女たちに――おぞましい経験をさせられたことが何度かある。しかし夜中に玄関のガスをつけなくなってからは、その手の訪問者に煩わされることはほとんどなかった。彼ら、人間の形をしたコウモリは、灯りを見れば寄ってくるが、闇のなかに住む人々には手出しをしないのだ。
彼女は居間のドアを開けた。玄関に応対に出るのはバンティングの役目だったが、やっかいな客や面倒な訪問者をあしらうのは彼女のほうがずっと上手だった。それでもその晩は何となく夫に出てほしいような気がした。しかしバンティングは新聞に夢中になったまま座りつづけている。寝室のドアが開く音を聞いて彼がしたことといえば、顔をあげて「ノックが聞こえなかったかい」と言うだけだった。
その質問に答えることなく、彼女は玄関に出て行った。
ゆっくりと彼女は玄関のドアを開けた。
戸口にあがる三段の踏段の上に立っていたのは、ひょろりと背の高い男だった。インバネスに身を包み、流行遅れのシルクハットをかぶっている。彼はちょっとのあいだ眼をぱちくりさせて彼女を見ていた。たぶん玄関のガス灯の明かりに目が眩んだのだろう。ミセス・バンティングの鍛えられた目は、おかしな格好はしているけれど、この人は素性の正しい紳士であると、たちどころに見抜いた。以前、自分の仕事の関係で接触することのできた、あの階級に生れながら属している人だ。
「ここは下宿屋じゃありませんか」と彼は訊いた。やや甲高くて、落ち着きのない、ためらうような声だった。
「はい、さようでございますが」彼女はおどおどと言った。部屋を借りに人が来たのは、しかも世間体を重んじる彼らの下宿にふさわしい人が来たのは、よほど久しぶりのことだった。
彼女が本能的に身を引くと、見知らぬ男は彼女の脇をすり抜けて玄関に入った。
その時になってはじめてミセス・バンティングは、彼の左手に薄い鞄が握られていることに気がついた。新品の鞄で、しっかりした茶色の革でできている。
「静かな部屋を探しているんです」と彼は言い、夢を見るような、放心したような口調で、「静かな部屋を」ともう一度繰り返した。そう言いながら彼は神経質そうにあたりを見まわした。
血色の悪いその顔がぱっと明るくなった。玄関広間には家具が整然と備え付けられ、掃除も極めて行き届いていたからである。
すっきりした形の帽子掛け兼傘立てがあり、見知らぬ男の疲れた足は質のいい、丈夫な暗赤色のドラゲット絨毯を柔らかく踏みしめた。その色は壁紙のフロックペーパーとよく調和していた。
これは上等な下宿屋だ。管理人もしっかりした人らしい。
「ここならとても静かでございますわ、旦那様」と彼女は丁寧に言った。「ちょうど空いている部屋が四室ございます。夫とわたくし以外、誰もおりませんの」
ミセス・バンティングは慇懃な、落ちついた声でしゃべった。こんなふうに突然下宿を探している人があらわれるなんて、まるで夢のようだった。しかも相手の心地よく礼儀正しい声と話し方は、この哀れな女に遠い昔となった若い頃の、安定した幸せな日々を思い出させた。
「それは悪くなさそうだな」と彼は言った。「四部屋ですか。それでは二部屋だけ借りましょうかね。でも選ぶ前に四つとも見せてください」
バンティングがガス灯をつけたのはなんてすばらしい幸運だったのだろう!あれがなければこの紳士は彼らのところを通り過ぎてしまっていたはずだ。
彼女は階段のほうに進んで行ったのだが、興奮のあまり玄関のドアが開けっ放しになっていることをすっかり忘れていた。足早に廊下を後戻りしドアを閉めたのは、彼女の頭のなかですでに「下宿人」となっていた見知らぬ男だった。
「あら、申し訳ございません、旦那様」と彼女は大きな声で言った。「お手をわずらわしてしまいまして」
一瞬、彼らの目が合った。「ロンドンで玄関のドアを開けっぱなしにしておくのは危険ですよ」と彼は厳しく言った。「こんなことは滅多にないようお願いします。誰でも簡単に忍びこんできますから」
ミセス・バンティングはいささかうろたえた。見知らぬ男は、口調こそいまだに丁寧だが、明らかに機嫌を大きく損ねていた。
「ご安心ください、旦那様、二度と玄関のドアを開けっ放しにしませんから」彼女はあわてて返事をした。「どうぞご心配なく!」
そのとき居間の閉じたドアを通してバンティングの咳の音が聞こえた。ほんの軽い空咳だったのだが、ミセス・バンティングの未来の下宿人は腰を抜かすほど驚いた。
「あれは誰ですか」彼は手を伸ばし、彼女の腕をつかまえた。「いったいあれは何です」
「わたくしの夫でございます、旦那様。つい先ほど新聞を買いに外に出たんですが、風邪でもひいたのじゃないかと思います」
「ご亭主――?」彼は彼女をじいっと、疑わしげに見つめた。「よ、よろしかったら教えてください。ご亭主のお仕事は?」
ミセス・バンティングは昂然と頭をあげた。夫の職業について他人からとやかく言われる筋合いはない。しかし不快感を示すのはやはり得策ではないだろう。「給仕をしております」と彼女はよそよそしく言った。「夫は上流階級のお宅で召使いをしていたのでございます、旦那様。お望みでしたら旦那様のお世話もいたします」
そういってくるりとむきを変えると、急な、狭い階段をあがっていった。
最初の一続きの階段をあがりきると、ミセス・バンティングが「客間の階」と呼んでいる二階に出る。正面には客間があり、その奥には寝室がある。彼女は客間のドアを開けて、すばやくシャンデリアに火を灯した。
この正面の部屋は家具を詰め込みすぎてややごたごたしていたかもしれないが、それでも充分に快適だった。床を覆っているのはコケに似せた緑の絨毯。部屋の真ん中にはテーブルがあり、四脚の椅子がまわりを取り囲んでいる。階段に通じるドアの反対側の隅には大きな古い飾り棚があった。
暗緑色の壁には八枚一組の版画、レースとターラタンのボールドレスに身を包むヴィクトリア朝初期の美人画がかかっていた。古い美人伝の本から切り抜いたものだ。ミセス・バンティングはこれらの絵がたいそう気に入っていて、客間に優雅で洗練された趣きを添えるものと考えていた。
急いでガス灯に火をつけながら、二日前にやる気を奮い起こし、この部屋を隅々まで掃除したのは大正解だったと思った。
その部屋はいい加減でだらしない最後の住人が、警察に訴えるぞというバンティングの脅しに怯えて出て行ってから、長いこと放置されたままだったのだ。しかし今はきちんと整理されている。もっともひとつだけ大きな手抜かりがあって、ミセス・バンティングはそのことを痛いほど意識していた。窓に白いカーテンが掛かっていなかったのだ。しかしこの紳士が本当に下宿してくれるなら、そのくらいはすぐに何とかできる。
しかしこれはどうしたことだろう――。見知らぬ男はそわそわとまわりを見まわしていた。「これは少々――わたしには少々もったいないな」と彼はとうとうそう言った。「ほかの部屋を見せてくれませんか、ミセス、ええと――」
「バンティングです」と彼女は静かに言った。「バンティングと申します、旦那様」
そう答えたとき、暗鬱な、重苦しい不安がふたたび彼女のみじめな、おしひしがれた心にずしりとのしかかった。やっぱり勘違いだったのだろうか――いや、ある意味では勘違いではなかったのだが、しかしこの紳士は貧乏な紳士なのだろう――お金がないからひと部屋分の家賃しか払うことができないのだ。週に八シリングか十シリングくらい。週に八シリングか十シリングでは彼女とバンティングにとってたいした収入にはならない。まあ、何もないよりはましだけれども。
「寝室をごらんになりますか、旦那様」
「いやいや、上の階の部屋を見せてもらえませんか、ミセス――」そう言いかけ、まるで脳味噌をフル回転させて思い出したみたいに「バンティング」と彼女の名前を口にした。それと共にあえぐような息がもれた。
最上階の二つの部屋はもちろん客間の階のすぐ上にあった。しかし飾りが一切ないため貧相で見劣りがした。どちらの部屋も整理されたことがほとんどない。いや、実をいえば、バンティング夫婦が越してきたときとほぼ同じ状態といってよかった。
とはいっても、流しと大きなガスストーブがでんと鎮座している部屋を、魅力的な、優雅な居間に変えることは難しい。ガスストーブは時代遅れの型式で、一シリングを投入口に入れて使うという厄介なしろものだ。バンティング夫婦の前の借家契約者の所有物だったのだが、こんなものは一銭の価値もないと、ほかの粗末な備品とともに残していったのである。
ミセス・バンティングの持ち物はみんなそうだが、その部屋にあるわずかな家具もどっしりしていて手入れが行き届いていた。しかしそこはがらんとした、居心地の悪そうな場所で、下宿の女主人はもうちょっと借りたい気持ちを起こさせるよう仕度をしておけばよかったと今になって後悔した。
ところが驚いたことに、相手の暗い、神経質そうな、細く尖った顔は満足そうに輝きはじめたのである。「すばらしい!申し分ありませんな!」と彼は叫び、手にした鞄をはじめて足元に置いて、細い手をすばやく、落ち着きなくこすり合わせた。
「これこそわたしが探していた部屋ですよ」彼は大股にずんずんとガスストーブのほうへ歩いていった。「最高です。最高!こういうところに下宿したかったんですよ。ミセス――ええと――バンティング、わたしは科学者でしてね。そのう、いろんな実験をするんです。それでしばしば、何ていいますか、強い火力が必要なんですよ」
彼はストーブを指差したが、彼女はその手が少し震えていることに気づいた。「これも役に立ちます――大いに役に立ちます」と彼は石の流しに触れ、縁を撫でさすった。
彼は顔をあげ、広くひいでた額を手でぬぐった。それから椅子のほうに移動すると、ぐったりと座りこんだ。「疲れました」彼は低い声でつぶやいた。「疲れた――疲れた!一日中、歩き回りましてね、ミセス・バンティング。座るところがなかったんです。ロンドンは、疲れた人のためにベンチを置いてないのです。大陸にはあるんですけどね。ある意味じゃ、大陸はイギリスよりも人間的ですよ、ミセス・バンティング」
「さようでございますね、旦那様」と彼女は丁寧に言い、そわそわした視線を投げかけたあと、彼女にとってはその答えが大きな意味を持つ大切な質問をした。「では、部屋をお借りになりますか、旦那様」
「もちろん、この部屋をね」とまわりを見ながら彼は言った。「こういうところがないだろうかと、今まで何日も探しまわったんです」それから急いでこう付け加えた。「こういう場所に住みたいものだとずっと思っていたんです、ミセス・バンティング。びっくりするでしょうけど、こういう部屋はなかなか手に入らないんですよ。しかしわたしの難儀な家探しは終わりました。ほっとしましたよ――実に、実にほっとしました!」
彼は立ちあがり、夢を見ているような、ぼんやりした様子で部屋のなかを見ていたのだが、急に「わたしの鞄はどこだ?」と訊いた。その声には強い怒りと恐れがこめられていた。彼は眼の前の物静かな女を睨みつけ、ほんの一瞬、ミセス・バンティングは全身がぞぞっと震えた。恨めしいことに、バンティングはずっと離れた下の階にいる。
しかし奇矯な性格というものは、常に育ちのいい、教養ある人々の特権であること、彼らにだけ与えられた特別な贅沢のようなものであることをミセス・バンティングは知っていた。学者は、彼女がよく理解していたように、決してほかの人々と同じではない。そして新しい下宿人は疑いもなく学者である。「入ってきたときはこの手に鞄を持っていましたよね」彼は怯えたような、困惑した声で言った。
「こちらにございます、旦那様」彼女はなだめるように言い、身を屈めて鞄を取ると彼に渡した。そのとき鞄がちっとも重くないことに気づいた。どうやら荷物が一杯に詰まっているわけではないらしい。
彼は鞄をひったくるように受け取った。「失礼」と彼は小声で言った。「鞄にとても大切なものが入っていましてね。さんざん苦労して見つけたんです。また手に入れようと思ったら、たいへんな危険をおかさなければならない。それで取り乱してしまったんです」
「契約の条件はいかがいたしましょう、旦那様」彼女は恐る恐る大切な、彼女にとってはいたって重要な話題に戻ろうとした。
「契約の条件?」と彼は繰り返した。一瞬の間があった。「わたしはスルースといいます」と彼は唐突に言った。「S―l―e―u―t―h。警察犬という意味のスルースと同じです、ミセス・バンティング。(註 「探偵」の意味もある)これで名前を忘れないでしょう。身元証明書もさしあげられますが――」(彼が彼女を見る目つきを見て、妙な流し目だわ、と内心彼女は思った)「しかしよろしかったらそんな面倒ははぶきましょう。お金は喜んでお支払いします――そうですね、一ケ月分前払いでどうです?」
ミセス・バンティングの頬に赤みがさした。安堵のあまり――いや、ほとんど痛みにも似た喜びのあまり――気が変になりそうだった。彼女はそのときまで自分がどれほど空腹であるか、どれほどおいしいものを食べたいと思っていたか、気がつかなかった。「結構でございます、旦那様」と彼女はつぶやいた。
「で、いくら請求なさるのですかな」その声は優しく、親しみすら感じられた。「そうそう、身の回りの世話もお願いしますよ!身の回りの世話も。それから料理はもちろんできるんでしょうね、ミセス・バンティング」
「もちろんですとも、旦那様」と彼女は言った。「腕のほうは普通でございます。一週間二十五シリングでいかがでございますか、旦那様」彼女は遠慮がちに相手を見た。彼が返事をしないので、口ごもりながら次のようにつづけた。「あの、旦那様、お高く思われるかもしれませんが、お世話のほうはできるかぎりのことをさせていただきますし、料理も気を配ってお作りします――わたくしの夫も――喜んでお仕えいたしますでしょう」
「そんなことはいいんですよ」とミスタ・スルースは慌てて言った。「服の整理は自分でやります。慣れてますからね、自分で自分の面倒を見ることは。ただですね、ミセス・バンティング、わたしはほかの人といっしょに下宿するのが大嫌いなので――」
彼女は熱心な口調でこう口をはさんだ。「同じ家賃で結構ですので二つの階をお使いください――その、別の下宿人が来るまでは。こんな裏部屋でお休みいただくわけにはいきませんわ、旦那様。ここはみすぼらしすぎますもの。お好きなようにお使いいただいてかまいません――こちらでお仕事なり実験なりなさって、お食事は客間で召しあがってくださいませ」
「そうですね」と彼はためらうように言った。「それは有り難いのですが、じゃあ、さらに二ポンドか二ギニー追加しますから、わたし以外に下宿人が来ても断ってください」
「かしこまりました」と彼女は静かに言った。「旦那様お一人のお世話をさせていただくだけでわたくしは満足でございます」
「この部屋の鍵はお持ちですね、ミセス・バンティング。仕事の最中は邪魔されたくないのです」
彼はしばらく返事を待ち、催促するようにもう一度言った。「この部屋の鍵はお持ちですね、ミセス・バンティング」
「ええ、もちろんですとも、旦那様、ございますよ――とてもいい小型の鍵でございます。以前ここに住んでいた人が新しい鍵をドアに取り付けまして」彼女はドアを開けると古い鍵穴の上に円盤が取り付けられているのを見せた。
彼は頷いて、しばらく何も言わず立っていた。まるで物思いに沈むような様子だった。「一週間四十二シリングですね?いいでしょう。わたしとしては願ったり叶ったりです。では最初の一ケ月分を前払いしましょう。四十二シリングの四倍は」――彼はふと頭をもたげ、新しい下宿の女主人を見つめた。はじめて笑顔を見せたが、それは奇妙に歪んだ笑顔だった――「ああ、ちょうど八ポンド八シリングですね、ミセス・バンティング!」
長いケープのようなコートの内ポケットに手を突っこみソブリン金貨をひとつかみ取り出した。それを部屋の中央に置かれた剥き出しの木の机の上に一列に並べだした。「五、六、七、八、九、十ポンド。おつりは取っておいてください、ミセス・バンティング。明日の朝買ってきてほしいものがあるんです。今日はひどい目にあいましてね」しかし新しい下宿人は、どんな目にあったにしろ、気にしているような様子はなかった。
「さようでございますか、旦那様。それはお気の毒でございました」ミセス・バンティングの心臓はどきん、どきん、どきんと高鳴った。気が動転し、安堵と喜びにめまいがした。
「ええ、それはひどかった!荷物をなくしたんです、苦労して持ってきたのに」突然、彼は声をひそめた。「話すべきじゃなかった」と彼はつぶやいた。「何て馬鹿なことを!」そして今度はもっと大きな声で言った。「ある人に言われたんです、荷物がないと下宿屋に行っても断られるってね。でも、あなたは断らなかった、ミセス・バンティング。感謝しているんです、あ、あなたのご親切には――」彼は哀願するように彼女を見、ミセス・バンティングは胸を打たれた。彼女は新しい下宿人に好意を抱きはじめていた。
「紳士の方は一目で分かるつもりでございます」彼女はきまじめな声を詰まらせながら言った。
「あしたは服を探さなければなりません、ミセス・バンティング」彼はまた哀願するように彼女を見た。
「旦那様、お手を洗ってはいかがでしょう。夕食は何になさいますか。大したものはございませんが」
「ああ、あり合わせで結構ですよ」と彼は急いでいった。「わざわざ買い物に出る必要はありません。寒いし、霧が出てるし、じめじめした夜ですからね、ミセス・バンティング。バターつきのパンとミルク一杯があれば十分です」
「おいしいソーセージがございますが」と彼女は口ごもりながら言った。
それは上等のソーセージで、その日の朝、バンティングの夕食用に買ったものだ。自分は軽くパンとチーズですませるつもりだった。しかし今は――考えただけでもすばらしくて、茫然となるが――バンティングに彼らの好きなものを何でも買わせることができるのだ。十枚のソブリン金貨が心地よさげに、ほがらかに手のなかに収まっている。
「ソーセージ?いえ、それはいただけません。肉は食べないのです」と彼は言った。「ソーセージを食べたのはずっと、ずっと昔のことです、ミセス・バンティング」
「さようでございますか、旦那様」彼女は一瞬とまどってから堅苦しい声で尋ねた。「ビールかワインをお望みでしょうか」
突然ミスタ・スルースは青白い顔いっぱいに奇怪な、荒々しい怒りの表情を浮かべた。
「いりません。はっきり申しあげたはずですよ、ミセス・バンティング。お酒はたしなまないものと思っていたのですが」
「はあ、その通りでございます、旦那様。生まれてこの方、お酒は飲んだことがございません。夫も結婚して以来、禁酒しております」平気で打ち明け話をするような女だったら、彼女は知り合ってすぐにバンティングに酒をやめさせたことを話していただろう。彼が禁酒したのではじめて彼女は戯言と思っていたバンティングの言葉が本気だと分かったのだった。はるか昔、彼が言い寄ってきたときの話だ。若いときに禁酒の誓いをしてくれてよかったと今、彼女は思った。そうでなければ、今ようやく漕ぎ抜けた逆境のなかで彼は酒浸りになっていただろう。
さて、そのあとは下に降りて、客間とつながる素敵な寝室にミスタ・スルースを案内した。一階のミセス・バンティングの部屋と同じ家具の配置だったが、ただ、どれも彼女の部屋のものより少しだけ高価で、少しだけ上等だった。
新しい下宿人は疲れた顔に不思議な満足と安らぎの色を浮かべてまわりを見まわした。「安息の地だ」と彼はつぶやいた。「『主は彼らをその望む港へ導かれた』。美しい言葉です、ミセス・バンティング」
「その通りですわ、旦那様」
ミセス・バンティングはちょっとびっくりした。誰かが彼女にむかって聖書を引用するなど絶えてなかったことだ。それは、いわば、ミスタ・スルースが紳士であることの確かなしるしであるように思えた。
しかも下宿人といっても夫婦者ではなく、たった一人の紳士をお世話するだけなのだ。彼女はほっと胸をなで下ろした。ここロンドンだけではなく海岸のそばにいた頃も、ひどく風変わりな夫婦がバンティング夫婦の下宿を出入りしたものだった。
まったくついていなかったわ!ロンドンに来てから、そこそこ社会的地位があって思いやりのある夫婦なんて一組として下宿に来たことがない。最後に下宿していた連中は恐ろしいやくざ者の男女で、昔は羽振りがよかったのだろうが、その頃はけちくさいぺてんをやってかろうじて生計を立てていた。
「すぐにお湯をお持ちいたします、旦那様、それから清潔なタオルも」彼女は部屋から出て行きながらそう言った。
するとミスタ・スルースがすばやく振り返った。「ミセス・バンティング」――少しどもりながら彼は言った――「身、身のまわりの世話といっても何でもやってくれということではありませんからね。わたしのために走り回ることはありません。自分のことは自分でできます」
彼女は追い払われるどころか、冷たく突き放されてしまったような気がして、妙にうろたえた。「かしこまりました、旦那様。では夕食の用意ができたらお知らせにまいります」
第三章
しかし下にいるバンティングにすばらしい幸運が訪れたことを伝えられる言いしれぬ幸福感と喜びに比べれば、少々冷たくはねつけられたことくらい何だというのか。
冷静なミセス・バンティングは急な階段をひとっ飛びに飛び降りたように見えた。しかし、玄関広間に立ったときは気を引き締め、興奮を抑えようとした。彼女は感情をあらわにすることを嫌い、蔑んだ。そんなふうに気持ちを剥き出しにすることを、彼女は「馬鹿騒ぎ」と呼んでいた。
居間のドアを開けたとき、彼女は夫の屈めた背中を見てはっと立ち止った。この一週間のあいだに夫がひどく老け込んだことに気づき、胸が痛くなった。
バンティングは不意にうしろを振り返り、妻の姿を見ると立ちあがった。持っていた新聞をテーブルに置いて「それで、誰だったんだい?」と言った。
彼は内心自分を恥じていた。玄関に応対に出たり、ぼそぼそと聞こえたああしたやりとりをするのは自分の役目だったのだから。
そのとき妻が片手を突き出した。十枚のソブリン金貨がチャリンチャリンと鳴りながらテーブルの上に小さな山を作った。
「見てごらんなさいよ!」興奮した、今にも泣き出しそうな声で彼女はささやいた。「見てごらんなさいよ、バンティング!」
バンティングは見ることは見たが、その眼は困惑し、怒ったような色を浮かべた。
彼は頭の回転が速いほうではない。とっさに妻が家具屋を呼んだものと早とちりし、眼の前の十ポンドは上の階の上等な家具をみんな売り払った代金だと思いこんでしまった。もしもそうだとしたら、それこそ終りのはじまりだ。二階正面の部屋にある家具には全部で十七ポンド九シリングを払ったのだ――エレンが昨日、苦々しくその事実を教えてくれたばかりだ――しかもどの家具も格安だった。それが十ポンドにしかならなかったとはあんまりだ。
しかし妻を非難する気にはなれなかった。
彼は何も言わずテーブルを挟んで彼女を見つめた。その困惑した、なじるような眼を見て、彼女は夫が何を考えたのか見当をつけた。
「新しい下宿人よ!」と彼女は叫んだ。「それに、それに、バンティング、その人は立派な紳士なの!一週間二ギニーの部屋代を、一ケ月分前払いしてくれたのよ」
「そんな、まさか!」
バンティングは急いでテーブルのまわりを回り、彼らは小さな金の山に見とれながらいっしょに立ち尽くした。「しかしソブリン金貨が十枚あるじゃないか」と彼は突然言った。
「ええ。あした買ってきてほしい物があるんですって。それに、ああ、バンティング、とても言葉遣いが丁寧な方なのよ。わたし本当に胸が――胸が――」そう言ってミセス・バンティングは一二歩よろめいて椅子に座り、小さな黒いエプロンを顔に当てると急に嗚咽しはじめた。
バンティングはおどおどしながら彼女の背中を優しくさすった。「エレン?」彼は取り乱した妻を見て心を打たれた。「エレン?興奮しすぎるのはよくないよ、おまえ――」
「ええ、ええ」彼女はむせびながら言った。「だ、大丈夫。わたしったら、馬鹿ね――本当にそう思う。でも、ああ、二度と幸運なんて訪れることはないと思っていたから!」
彼女は下宿人がどんな人かを夫に話した――というより、話そうと努力した。ミセス・バンティングは口達者ではないが、一つだけ夫の心に強い印象を与えたことがある。それは多くの頭のいい人と同様、スルースも変わり者であること――つまり、人に迷惑を掛けない程度に変わり者であること――そしてあやすように扱わなければならないことである。
「お世話されすぎるのはいやだと言っていたわ」ようやく涙を拭きながら彼女は言った。「それでもいろいろ面倒を見てあげないとならないと思う。お気の毒に」
彼女がそう言い終わるやいなや、聞き慣れない大きな鐘の音が聞こえてきた。客間の呼び鈴が何度も何度も鳴らされているのだ。
バンティングは張り切った表情で妻を見た。「わたしが行ったほうがいいんじゃないかな。どうだい、エレン」彼は新しい下宿人が見たくてたまらなかった。それにまた何かしていられるというのはほっとすることでもあったのだろう。
「そうね」と彼女は答えた。「さあ、行ってらっしゃい!待たせちゃだめよ!いったい何の用かしら。夕食ができたら知らせるとは言ったんだけど」
しばらくしてバンティングが戻ってきた。にやにやと奇妙な笑いを浮かべている。「何をご要望になったと思う?」彼は当ててごらんとでもいうようにささやいた。しかし返事がないので、こうつづけた。「聖書を貸してくれって言ったんだ!」
「あら、別におかしなことじゃないでしょう」彼女はすぐにそう言った。「特に気がふさいでいらっしゃるなら。わたしが持っていくわ」
ミセス・バンティングは二つの窓のあいだにある小さなテーブルから大型の聖書を取りあげた。それは彼女が嫁いだときのお祝いの品で、彼女が数年間お仕えした女性の、結婚している娘さんからもらったものだった。
「夕食といっしょに持っていけばいいそうだよ」とバンティングは言った。「エレン。ありゃ、妙な人だな。今までお付き合いした紳士とはまるでちがうよ」
「あの方は紳士よ」とミセス・バンティングはやや気色ばんだ。
「ああ、確かにそうだよ」しかしそれでも彼はためらうように妻を見るのだった。「お召し物の片付けをいたしましょうかと訊いてみたんだが、エレン、服は持ってないって言うんだよ!」
「お持ちじゃないのよ」彼女はすぐさま、かばうように言った。「運悪く荷物をなくしてしまったの。あの方はたちの悪い連中にカモにされるタイプだわ」
「うん、いかにもそんな感じだな」とバンティングは同意した。
それからしばらく会話は途切れた。ミセス・バンティングが夫に買ってきてもらう品々を小さな紙切れに書きつけていたのだ。彼女はソブリン金貨一枚といっしょにそのリストを手渡した。「できるだけ急いでね」と彼女は言った。「わたし、小腹が減ってるの。これから下に行ってミスタ・スルースの夕食を作るわ。ミルク一杯と卵二つでいいらしいの。卵は新鮮なのがあるからよかったわ!」
「スルースか」とバンティングは妻を見つめながら鸚鵡返しに言った。「変わった名前だな!どう綴るんだい?S―l―u―t―hかい」
「いいえ」彼女はすかさず答えた。「S―l―e―u―t―hよ」
「へえ」と彼は腑に落ちぬ調子で言った。
「あの方はね、『警察犬のスルースと同じだとおぼえておけば、忘れませんよ』って言ったのよ」そう言ってミセス・バンティングはほほえんだ。
バンティングはドアのところまで行って振り返った。「チャンドラー君から借りた三十シリング、これでいくらか返せるね。嬉しいよ」彼女は頷いた。月並みな言い方だが、胸がいっぱいになって言葉が出なかったのだ。
二人はそれぞれの仕事をしに出かけた。バンティングはびっしょり濡れる霧のなかへ、妻は地階の冷え冷えとした台所へ。
下宿人に差し出すお盆の用意はすぐにできた。どの品もきれいに、おいしそうに盛りつけられている。紳士の食事のお世話ならお手の物だった。
台所の階段をあがっているとき、女主人はふと聖書を貸してほしいというミスタ・スルースの頼みを思い出した。玄関にお盆を置いて、居間に入り聖書を取りあげた。玄関に戻ってきたとき、二往復すべきか、一瞬迷った。いいえ、何とか持てるわ。大きな重い本を脇の下に抱えながらお盆を取り、彼女はゆっくりと階段をあがっていった。
ところが大きな驚きが彼女を待っていた。ミスタ・スルースの女主人は客間のドアを開けたとき、お盆を落としそうになった。実際、聖書のほうは落としてしまい、どしんと床に重い音をたてたのだった。
新しい下宿人はミセス・バンティングの自慢のタネ、ヴィクトリア朝初期の美女を描いた、額入りの素敵な版画を全部裏返しにしていたのである!
驚きのあまり彼女はとっさに声も出なかった。お盆をテーブルに置き、屈みこんで聖書を拾いあげた。聖書を落としたのは気まずかったが、しかしどうしようもなかった。お盆まで落とさなかったのが救いというものだ。
ミスタ・スルースは立ちあがった。「か、勝手ですが、わたしの好みで、部屋のなかを変えさせてもらいましたよ」と彼はどぎまぎして言った。「そのう、ミセス、ええと、バンティング、ここに座っていると、あの女性たちの眼がわたしを見ているような気がしましてね。どうもいい気持ちがしないし、それどころか薄気味悪くなってしまって」
女主人は小さなテーブルクロスを敷いているところだった。彼女は下宿人の言葉に返事をしなかったが、それももっともな話で、どう答えていいか分からなかったのだ。
彼女が黙っているのでミスタ・スルースは不安になったようだ。長い沈黙のあと、彼はふたたびこう言った。
「壁には何もないほうが好きなんですよ、ミセス・バンティング」やや動揺しているような話し方だった。「実をいうと、いつも何もない壁を見ていたので、そっちのほうが落ち着くんです」そのときようやく女主人は返事をした。静かな、なだめるような声で、どういうものか、それを聞いて彼も冷静さを取り戻した。「よく分かりますわ、旦那様。バンティングが戻ってきたら、絵を全部はずさせましょう。わたくしどもの部屋の壁にはたっぷり余裕がございますから」
「ありがとう――感謝しますよ」
ミスタ・スルースは大いにほっとしたようだった。
「それから聖書をお持ちしました、旦那様。これでよろしゅうございますか」
ミスタ・スルースはつかのま、目が眩んだように彼女を見つめた。それから気を取り直してこう言った。「ええ、ええ、その通りです。読むなら何と言っても聖書がいちばんです。どんな気持ちのときも、それからどんな身体の状態のときも、それにぴったりした一節が見つかりますからね」
「さようでございますわね、旦那様」ミセス・バンティングは見るからにおいしそうな食事を置くと、部屋を出て静かにドアを閉めた。
彼女は台所へ行って後片付けをするかわりに、まっすぐ居間へゆき、バンティングを待った。待っているとき、楽しい昔の思い出がよみがえってきた。はるか昔、彼女がまだエレン・グリーンと名乗り、ある老婦人の女中をしていたときのことだ。
老婦人にはお気に入りの甥がいた。パリで動物画の勉強をしている頭のいい愉快な若者だった。ある朝、ミスタ・アルジャーノンは――ちょっと変わっているけれど、それが彼の洗礼名だった――有名なランドシーア画伯の美しい銅版画を六枚、平気な顔で裏返しにしてしまったのだ!
ミセス・バンティングはその事件を昨日の出来事のように事細かにおぼえている。しかしそれでも何年も思い出したことはなかった。
朝早く彼女は下に降りてきた――当時女中は今ほど大切にされておらず、彼女は女中頭と寝室が同じで、女中頭は仕事をするため朝早く下に降りなければならなかった――そして食堂でミスタ・アルジャーノンが版画のおもてを壁にむけているのを見つけたのだ!彼の叔母がとても大事にしていた絵だけに、エレンはひどく心配になった。優しい叔母を怒らせるなど、若き紳士にあるまじき振る舞いである。
「まあ」彼女は狼狽して叫んだ。「何をなさっているんです」彼の楽しげな返事は今でも彼女の耳に残っている。「ぼくの義務を果しているんだよ、かわい子ちゃん」――彼は誰も聞いていないところではいつも彼女のことを「かわい子ちゃん」と呼んでいた。「朝昼晩と食事のとき、いつもこの半人半獣の化け物に見つめられてちゃ、ふつうの動物なんて描けやしない」ミスタ・アルジャーノンは小生意気な口調でそういったのだった。そして叔母が下に降りてきたとき、もっとまじめな、敬意を含んだ言い方だったけれど、この老婦人にも同じことを繰り返したのだ。いや、それどころか、いたって冷静な口調で、ランドシーア画伯の美しい動物を見ると眼がつぶれる、と断言したのだ!
叔母は怒り心頭、彼に絵を元通りにひっくり返させた。結局、彼はそこにいるあいだ「半人半獣の化け物」に我慢して付き合わなければならなかった。椅子に座ってミスタ・スルースの奇妙な振る舞いについて考えていたミセス・バンティングは、はるか昔の青春時代に起きた愉快な出来事を思い出すことができてよかったと思った。それは新しい下宿人が一見そう見えるほど変人ではないことの証拠のように思えた。それでもバンティングが帰ってきたとき、彼女は下宿人の奇妙な行動について話をしようとしなかった。客間の絵を下におろすのは自分一人でも十分できると考えたのだ。
自分たちの夕食を用意する前に、ミスタ・スルースの女主人は後片付けをしておこうと二階へ行った。すると階段をあがっている最中に物音が聞こえてきた。あれは話し声だろうか、客間で?ぎくりとして客間のドアの前で一瞬立ち止った。が、すぐにそれは下宿人が本を朗読する声だと分かった。抑揚をつけて読みあげられる言葉は、じっと聞き入る彼女の耳に何かとても恐ろしく響いた。
「みだらな女は狭い井戸のようだ。彼女は盗びとのように人をうかがい、かつ世の人のうちに、不信実な者を多くする」
彼女はドアの取っ手に手をかけたまま立ちつくしていた。ふたたび彼女のすくみあがった耳にあの奇妙に甲高い読経口調の声が聞こえてきた。「その家は陰府へ行く道であって、死のへやへ下って行く」
それを聞いているとひどく背筋が寒くなってきた。しかしついに彼女は勇気を奮い起こし、ノックをすると部屋のなかに入った。
「食器をお下げしましょうか、旦那様」ミスタ・スルースは頷いた。
それから彼は立ちあがり、聖書を閉じた。「もう寝ようと思います。へとへとに疲れましたよ。長くてとてもくたびれる一日でした、ミセス・バンティング」
奥の部屋に彼が消えると、ミセス・バンティングは椅子にのってミスタ・スルースの気分を害した例の絵をはずしだした。どの絵も壁に見苦しい跡を残したけれど――それくらいは仕方がなかった。
彼女はバンティングに聞こえないよう足音をひそめ、二つずつ絵を下に運んでは自分のベッドの後に立てかけた。
第四章
ミセス・バンティングは翌日の朝、実に、実に、久しぶりに、幸せな気分で目を覚ました。
しばらくはどうしていつもとちがう気分でいるのか、わけが分からなかったが、次の瞬間、はっと思い出した。
何という安心感だろう、二階の、ちょうど自分の頭の上に下宿人がいるということは。彼は、彼女がベーカー街のお屋敷のオークションでほくほくしながら買いこんだ上等のベッドに横たわっており、家賃として毎週二ギニーを支払ってくれる!彼女は何となくミスタ・スルースがいつまでも下宿してくれそうな気がした。そうならないとしても別に彼女の責任ではない。あの人の、何て言うのだろう、変人ぶりについて言えば、まあ、誰だって一つくらい妙な癖があるものだし。しかし起きあがって、時間がたつにつれ、ミセス・バンティングは少しずつ心配になってきた。というのは新しい下宿人の部屋から物音が一つも聞こえてこなかったからである。しかし十二時になると客間の呼び鈴が鳴った。ミセス・バンティングは急いで二階にあがった。ミスタ・スルースのご機嫌を取り、意を満たそうと、それはもう必死だった。なにしろ恐るべき破滅まであと半歩というところを彼に助けられたのだ。
下宿人はとうに起きて身支度をすっかり調えていた。客間の真ん中にある丸テーブルに座り、女主人の大型聖書を前に広げていた。
ミセス・バンティングが入ってくると顔をあげた。彼女はその疲れ切った表情が気になった。
「コンコーダンスをお持ちじゃなかったですか、ミセス・バンティング?」
彼女は首を横に振った。コンコーダンスが何か、見当もつかなかったが、そんなものがないことは確かだった。
新しい下宿人はつづいて買ってきてほしい物を並べたてた。彼が持ってきた鞄には文明的生活に必要な小物――たとえば櫛とか剃刀とか歯ブラシ、そしてもちろん寝巻きなど――が入っているだろうと思っていたのだが、しかしどうやらそうではなかったらしい。ミスタ・スルースは今あげたようなものをみんな買ってきてほしいと頼んだからである。
おいしそうな朝食を用意してから、ミセス・バンティングは彼がとりあえず必要としている品を急いで買いに出かけた。
財布のなかにまたお金が入っているのだと思うと胸が躍った。それは他人のお金であるだけではない。今まさにこうして気持ちよく働き、自分のものにしようとしているお金でもあるのだ。
ミセス・バンティングはまず近所の小さな床屋へむかい、櫛と剃刀を買った。妙な、きつい臭いのする店で、彼女は早々にそこを出た。彼女の注文を聞いた外国人が、二日前に起きた復讐者の猟奇的殺人、バンティングに病的な興味を抱かせたあの事件についてしきりに話しかけようとするものだから、なおさら長居するわけにはいかなかった。
その話はミセス・バンティングの神経をかき乱した。このような日に痛ましい不愉快なことは考えたくなかった。
家に帰り、買ってきた品々を下宿人に渡した。ミスタ・スルースはそのどれにも満足し、丁寧に感謝の意をあらわした。しかし寝室を整えましょうかと尋ねると、顔をしかめ、ひどく怒ったような色を浮かべた。
「夕方まで待ってください」彼は急いで言った。「昼はずっとうちにいることにしているんです。明かりが灯るまで外を歩く気にならないんですよ。わたしは少々、ほんの少々、あなたが慣れていらっしゃる下宿人とちがうかもしれませんが、ミセス・バンティング、どうか我慢してください。それからお願いがあります。問題について考えているときは決して邪魔しないでください――」彼は急に言葉を切り、それから重々しく言い足した。「生と死にかかわる重大な問題ですから」
ミセス・バンティングは快くその要望に応じた。ミスタ・スルースの女主人は、その几帳面な態度と規律にうるさい性格にもかかわらず、女性らしい女性だった。つまり男の気まぐれや奇癖に対して限りない忍耐力を持っていたのだ。
もう一度下に降りたとき、驚きがミスタ・スルースの女主人を待ち受けていた。しかしそれはいたって嬉しい驚きだった。上で下宿人と話しているあいだに、バンティングの若い友達、刑事のジョー・チャンドラーが訪ねてきたのだ。居間に入ろうとしたとき、夫がテーブル越しにジョーにむかって十シリングを押しやるのが見えた。
ジョー・チャンドラーのハンサムで気さくな顔が満足に輝いていた。お金が返ってきたからではない。どうやらバンティングが話していた知らせ――理想的な下宿人があらわれ、突然彼らにすばらしい運がむいてきたというニュース――を聞いて喜んでいたのである。
「ミスタ・スルースはお出かけになるまで寝室の整理をしてほしくないんですって!」と彼女は大きな声で言い、一休みしようと椅子に腰をおろした。
下宿人は朝食をおいしく食べており、彼女はほっと一息ついた。しばらくは彼のことを考える必要はない。あと少ししたら、下に降りて自分とバンティングのディナーを作ろう。彼女はジョー・チャンドラーに、いっしょに食事をしていけばいいわ、と言った。
彼女は若者をやさしくもてなしたかった。ミセス・バンティングはめったに襲われたことのない気分――目にするものすべてに喜びを感じる気分になっていた。いや、それだけではない。バンティングがジョー・チャンドラーにあの忌まわしい復讐者の殺人の最新情報を求めたとき、おざなりにではあったけれど、彼の話に最後まで聞き入ったのである。
バンティングがその日の朝からまた取りはじめた朝刊は、今やロンドンじゅうで話題になり出している奇怪な謎を三段にわたって報じていた。バンティングは朝食を食べているときその記事の一部を読みあげ、ミセス・バンティングは思わず身震いするような興奮を感じたのだった。
「噂によると」とバンティングは用心深く前置きして言った。「噂によるとだね、ジョー、警察は手がかりをつかんでいるけど、発表しようとしないんだって?」彼は期待するような目で訪問者を見つめた。バンティングにとって、チャンドラーがロンドン警視庁の刑事であるという事実は、この若者に一種不吉な栄光を帯びさせているのだ。とりわけ今、身の毛もよだつ、謎に満ちた犯罪が、この都市を驚愕と戦慄に陥れているときは。
「そりゃちがいますよ」とチャンドラーはゆっくりと言った。当惑したような、憤慨するような表情が感じのいい冷静な顔にひろがっていった。「警視庁が手がかりをつかんでるなら、ぼくも大助かりですけど」
ミセス・バンティングが口をはさんだ。「どうしてなの、ジョー」彼女は優しくほほえんだ。若者の仕事熱心な態度を彼女は好ましく思っていた。ジョー・チャンドラーは彼らしい、ゆっくりした、着実なやり方で、ひたむきに、真剣に仕事に取り組んだ。職務に全身全霊を傾けていたのである。
「うん、実をいうと」と彼は説明した。「今日からぼく、この事件の捜査に加えられたんです。ミセス・バンティング、警視庁はいらだってますよ、実際。ぼくらは、それこそ、みんな必死です。このまえ事件が起きたとき、通りで交通整理をしていた巡査にはまったく同情しますよ」
「本当かね!」バンティングは信じられなそうに言った。「警官がいたのかい?現場のすぐ近くに」
この事実は新聞では報じられていなかった。
チャンドラーは頷いた。「その通りですよ、ミスタ・バンティング!彼はくやしくて気が狂いそうだって話です。叫び声は聞こえたんだけど、注意を払わなかったんですって。ほら、ロンドンのあの辺りじゃ叫び声なんて珍しくないですから。ああいう貧民窟じゃいつも喧嘩やいさかいが起きてるんです」
「通り魔が名前を書いた灰色の紙を見たかい」バンティングは熱心に尋ねた。
三角形の灰色の紙が、犠牲者のスカートにピンで留められ、そこに赤い無骨な活字体の字で「復讐者」と書きしるされていた、という噂が大衆の想像力を激しくかきたてていた。
丸い、肉付きのいい顔は答えを聞きたくてうずうずしていた。両肘をテーブルについて期待するように若者を見つめている。
「ええ、見ましたよ」とジョーは短く答えた。
「妙ちきりんな名刺だねえ!」バンティングは笑った。その思いつきがおかしくてたまらなかった。
しかしミセス・バンティングは顔色を変えた。「冗談を言うようなことじゃありません」と彼女はたしなめるように言った。
チャンドラーは彼女のほうに加勢した。「ほんと、冗談じゃありませんよ」と彼はしみじみと言った。「この仕事で見せられたものは忘れられそうにありません。あの灰色の紙切れですがね、ミスタ・バンティング――いや、三枚の灰色の紙切れですがね」と彼は急いで言い直した。「今、警視庁にあることは知っているでしょう――あれは鳥肌ものですよ!」
そう言って彼は飛びあがった。「そうだ、こんなふうに楽しく時間をむだにしているわけにはいかない」
「一口でもディナーを食べていかない?」とミセス・バンティングはしきりに誘った。
しかし刑事は首を振った。「いいえ。出かける前に食べてきたんです。ぼくらの仕事は変わった仕事なんですよ。大体のことは、何て言うか、自由にやっていいんだけど、でも怠けている暇もないんです、本当に」
彼はドアのところで振り返り、いかにも何気ないふうをよそおって「ミス・デイジーはまた近々ロンドンに来ないんですか」と訊いた。
バンティングは首を振ったが、顔は輝いていた。彼は一人娘が可愛くてたまらなかったのである。めったに会えないことが残念だった。「いいや。予定はないよ、ジョー。わたしらが『|伯母さん《オールド・アーント》』と呼んでる例のご老人がなかなか手もとから離そうとしないのさ。娘が六月に一週間うちに泊まったときは、気が気でない様子だったからなあ」
「そうですか。じゃ、さようなら!」
妻が彼らの友人を送り出すと、バンティングが愉快そうに言った。「ジョーはうちのデイジーに気があるみたいだね、エレン」
マリー・ベロック・ローンズ
「あなたは愛する者と友とをわたしから遠ざけ、わたしの知り人を暗やみにおかれました」
詩篇第八十八編第十八節
第一章
ロバート・バンティングと妻のエレンは、弱々しく燃える埋み火のまえに座っていた。
この部屋は、彼らの家が不衛生とまでは言わないまでも、すすけたロンドンの通りに面していることを考えると、ことのほか清潔で手入れが行き届いていた。ふらりと訪れた客、特にバンティング夫婦より上の階級に属する客は、その居間のドアを開けるやいなや、二人の姿に安らかな結婚生活の、暖かく心地よい一場面を見出しただろう。深々とした革の肘掛け椅子にもたれていたバンティングはきれいにひげを剃って、こざっぱりした身なりをしている。その風采にはむかし長年にわたって勤めあげた「誇り高き使用人」のおもかげが今も残っていた。
背もたれがまっすぐの、座り心地の悪い椅子に座っている妻には、過去の奉公生活のあとは夫ほど明らかではなかった。しかし、あることはある。こぎれいな黒いラシャのドレスと、入念に洗い立てられた無地のカラーとカフスにそれはあらわれていただろう。ミセス・バンティングは、独身の頃は、いわゆる有能な女中というやつであった。
しかし外見は人目をあざむくという古い英語のことわざは、とりわけ平均的なイギリス人の生活に当てはまる。バンティング夫婦の部屋はずいぶん立派なもので、二人が若かった頃は――いま思うとはるか昔のことのようだ!――妻も夫も自分たちで慎重に選んだ家財道具を誇らしく思っていたものだ。部屋のなかのすべてのものが頑丈でどっしりしていた。どの家具も個人宅で開かれた、きちんとしたオークションで購入したものだった。
だから霧に包まれ、雨のそぼ降るメリルボーン通りの景色を遮断している赤いダマスク織りのカーテンは、ほんのはした金で手に入れることができたし、おまけにあと三十年はもとうというしろものだった。また床を覆うアクスミンスターカーペットも掘り出し物だった。鈍く燃える小さな火を見つめながら、いまバンティングが身を乗り出している肘掛け椅子もそうだ。実を言うとこの肘掛け椅子はミセス・バンティングが大いに奮発して買ったものの一つなのだ。彼女は一日の仕事を終えた夫にくつろいでもらいたいと、この椅子に三十七シリングを払ったのである。つい昨日のことだが、バンティングは椅子を買い取ってくれる人を探そうとした。ところが品物を見に来た男は、夫婦の窮迫につけこんで、たったの十二シリング六ペンスしか出そうとしなかったのだ。そういうわけで、いまのところ肘掛け椅子は彼らの手もとに置かれているのである。
物質的な豊かさは、この世にあるかぎり、バンティング夫婦にとって望ましいものではあるけれど、しかし夫婦というものはそれ以上の何かを求めるものだ。だから居間の壁には、もう色あせかけているとはいえ、いくつもの写真が品のよい額に入れて飾られていた。それらはバンティング夫婦が以前仕えたいろいろな雇い主や、別々に暮らしていたとはいえ、二人が長きにわたって幸せな奉公生活を送った、美しい田舎屋敷の写真だった。
しかし外見は人をあざむくだけではない。こういう不幸な人々の場合は普通以上に人をあざむくものとなる。質のいい家具――不遇に陥っても、賢明な人々なら最後まで捨てようとはしない世間体を、目に見える形で示す物質的なしるし――を持っているにもかかわらず、彼らは金が底をつきかけていたのである。すでにひもじさを学び、いまはこごえることを知りはじめたところだった。タバコは酒を飲まない人間がもっとも手放そうとはしない楽しみだが、バンティングはしばらく前から喫煙をあきらめていた。ミセス・バンティングでさえ――彼女なりに几帳面で、賢明で、注意深い女性であった――それが夫にとってどういうことを意味するのか、ちゃんと理解していた。実際、分かりすぎるくらい分っていたので、彼女は数日前にこっそり外に出て、夫のためにバージニアタバコを一箱買ってあげたのだった。
女性からの気配りや愛に何年も心打たれたことのなかったバンティングもさすがに胸がいっぱいになった。苦い涙が思わず彼の目にあふれた。夫も妻も奇妙なくらい感情をおもてに出さなかったけれど、二人とも胸にじんとくるものがあった。
幸い彼には思いつきもしなかったのだけれど――この反応の遅い、平凡な、やや愚鈍とも言える心にどうして考えつくことができただろう?――哀れなエレンはそれ以来、四ペンスと半ペニーをタバコの購入に使ったのは大まちがいだったと一度ならず後悔していたのである。というのは、今や彼らは、安全無事な高原に住む者――つまり、幸福とは言えないまでも、確実に世間体を保った暮らしができる人々――と、自らに欠けているものがあるため、あるいはわれわれの奇怪な文明を組織してきた条件のため、貧民収容施設や病院や牢獄で、死ぬまで這いあがる術をもたぬままもがきつづける水面下の大多数、この両者を分け隔てる底知れぬ深みのすぐそばにまで来ていたのだ。
バンティング夫婦が下の階級、大勢の人々が「貧乏人」と呼んでいる大量の人々に属していたなら、親切な隣人がすぐに彼らに救いの手をさしのべただろう。また、彼らが長いこと仕えてきた人々、独りよがりで想像力はないけれど悪気もない人々に属していたとしたら、やはり同じことが起きただろう。
彼らを助けることができそうな人間は世界に一人しかいなかった。バンティングの先妻の伯母である。裕福な男と結婚し、今は未亡人となっているこの女性といっしょに住んでいるのが、最初の妻とのあいだにできた一人娘、デイジーだった。バンティングはこの老婦人に手紙を書こうか、どうしようかと迷いながら、それまでの長い二日間を過ごしたのだった。もっとも、冷たくとげとげしい拒絶の言葉しか返ってきやしないさ、と内心思ってはいたのだけれど。
彼らの知り合い、例えば以前の使用人仲間などとは、次第に行き来間遠になってしまった。ただ一人の友人だけが生活の苦しい彼らのもとをしばしば訪ねてきた。それはチャンドラーという名の若者で、バンティングは何年も以前、彼のお祖父さんの従僕を務めていたのだ。ジョー・チャンドラーは兵隊には行かなかった。警察が好きで、早い話が、実は刑事だったのである。
夫婦がこの悪運の元凶と考える家をはじめて買ったころ、バンティングは若者に、ちょくちょく遊びにお出でと誘いかけたものだ。というのは若者の話は充分聞くに価したから――時にはおそろしく好奇心をそそったからである。しかし、今、あわれなバンティングはそんなたぐいの話を聞く気になれなかった。つまり巧妙な手で警察に「あげられた」人々とか、チャンドラーの見るところ、そんな連中ならいつ喰らっても当然の運命を愚にも付かない不手際のせいで逃れてしまった話などだ。
しかしそれでもジョーは言われた通り、週に一二回は訪ねてきた。ただし、主人も奥さんも、彼に食事を勧めなくていいような時間を選んで。いや、それだけではない。彼は優しい思いやりから、父の古い知り合いに金を貸し与え、バンティングはとうとう三十シリングを受け取った。その金も今はほとんど残っていない。バンティングのポケットにはまだ銅貨が数枚ちゃらちゃら鳴っていたし、ミセス・バンティングは二シリング九ペンス持っていた。だが、それと五週間後に払わなければならない家賃が、彼らに残された全てだったのである。軽くて持ち出しがきく金目の物はことごとく売り払った。ミセス・バンティングは質屋を毛嫌いし、決して足を運ぼうとしなかった。絶対行くものですか、飢え死にしたほうがましだわ。彼女は断固としてそう言った。
しかしいろいろな小物が次第になくなっていっても、彼女は何も言わなかった。それらがバンティングにとって貴重な品であることは知っていた。なかでも古い懐中時計の金鎖は彼がはじめて仕えた主人の形見だったのだ。長い、恐ろしい病に倒れたときは、最後まで忠実に、心をこめて看病した主人だった。螺旋状の金のネクタイピンや、大きな形見の指輪もなくなった。いずれも以前の雇い主からの贈り物だった。
安定した生活と不安定な生活を隔てる深い穴のそばで暮らしているとき――そしてその不気味な穴の縁へ少しずつにじり寄っていくとき――人間は、どれほど生まれつきおしゃべりであっても、長い沈黙に陥りがちなものである。バンティングは口まめで通っていたけれど、今はもう話をしない。ミセス・バンティングもしゃべらなかったけれど、彼女はもとから口数の少ない女性だった。おそらくそれが、一目見た瞬間からバンティングが彼女に心を奪われた理由の一つだったろう。
二人の馴れ初めはこんな具合だった。とある貴婦人が彼を執事として雇うことになり、彼は前任者に案内されて食堂に入った。そこで彼は、彼自身の言い方を使えば、エレン・グリーンを発見したのだ。彼女は当時仕えていた女主人が毎朝十一時三十分に飲むポートワインをグラスに慎重に注いでいた。新しい執事である彼はその仕事ぶりを見ながら、つまり彼女が注意深くデカンターに栓をし、ワインクーラーに戻すのを見ながら、こう思った。「この人こそわたしの妻になるべき人だ!」
しかし今、彼女の静かさ、彼女のだんまりは、不運な男の神経に障った。暮らしむきのよかった頃はひいきにしてよく訪れた、近所のいろいろな店屋にも、もう行く気がしなかった。ミセス・バンティングもわずかな買い物をするときは遠くへ出かけた。飢え死にしないためには今でも毎日、あるいは一日おきに買い物に出なければならなかった。
突然、十一月の暗い夕方の静けさを破って、誰かが走るどたどたという足音と、大きな鋭い叫び声が外から聞こえてきた。夕刊を売る少年たちの呼び声だった。
バンティングは椅子のなかでそわそわと振り返った。日刊紙の購読中止はタバコの次につらい喪失だった。しかも新聞を読むのはタバコよりも古くからの習慣である。使用人というのは新聞の熱烈な読者なのだ。
呼び声が閉じた窓と厚いダマスク織りのカーテンを通して聞こえてくると、バンティングは急に新聞が読みたくてたまらなくなった。
何て恥ずかしいことだろう、何ていまいましいことだろう、世のなかで何が起きているのか、知ることができないとは!犯罪者だけではないか、牢獄の壁の彼方の出来事を知らないのは。それにあの叫び声、あのかすれた鋭い叫び声は、何かほんとうに刺激的な事件、個人的な苦悩をひとときなりとも忘れさせてくれる何かが起きたことを意味しているにちがいないのだ。
彼は立ちあがり、いちばん近い窓にむかうと、耳をすませた。しわがれた叫び声がいくつも入りまじる混乱のなかから時々ひとつの単語がはっきりと聞こえた。「人殺し!」
ゆっくりとバンティングの頭は騒々しい不明瞭な叫び声をひとつのつながりのある順序に並べていった。うん、こういうことだ。「身の毛もよだつ人殺し!セント・パンクラスで人殺し!」バンティングはセント・パンクラスの近所で別の殺人があったことをふと思い出した。ある老婦人が、自分の女中に殺されたのだ。起きたのはずっと昔だが、今でも生々しくおぼえている。使用人仲間のあいだでは当然ながら注目を浴びた事件だった。
新聞の売り子たちは――メリルボーン通りに何人も売り子が来るのは、かなり珍しいことだ――ますます近づいてくる。いま彼らは別のかけ声を叫んでいたが、彼にはそれがはっきり聞き取れなかった。さっきからがらがら声を張りあげ興奮したように怒鳴っているのだが、ときどき一言か二言、聞き分けられるだけだった。突然「復讐者!またもや復讐者の仕業!」という言葉が彼の耳を打った。
ここ二週間のあいだに、ロンドンの比較的狭い区域内で、四つのきわめて奇怪かつ残忍な殺人事件が起きていた。
最初の殺人は特に注目を浴びなかった。二番目の殺人でさえ、バンティングがその時まだ購読していた新聞ではベタ記事にすぎなかった。
そこへ三つ目の殺人が起き、それとともに強烈な興奮の波がわきおこった。というのは、被害者――泥酔した女だった――のドレスに三角形の紙がピンで留められていて、そこに活字体の赤い字で
「復讐者」
と記されていたからである。
この手の無残な事件を捜査する人々だけでなく、そうした禍々しい謎に知的な興味を抱く大勢の男女も、その時になってようやく、この三つの犯罪が全て同じ悪者によって犯されたことを知ったのだ。その愕然とするような事実が大衆の心に染みこむまえに、また別の事件が起きた。そしてふたたび殺人者は特別のしるしを残して、自分が不可解な恐るべき復讐欲に取り憑かれていることを明らかにしたのである。
今や誰もが復讐者とその犯罪の噂話をしていた!毎朝半ペニーの牛乳を戸口に置いていく配達人でさえ、ちょうどその日、バンティングにむかってその話をしたのだ。
******
バンティングは煖炉のところにもどってくると、軽い興奮を感じながら妻を見下ろした。彼女の青白い無表情な顔、くたびれきって悲しみに沈んだ様子を見ると、いらだちが波のように身体を走り抜けた。彼女を揺さぶってやりたいような気分だった。
その日の朝、バンティングがベッドに戻ってきて牛乳配達が話したことを伝えようとしても、エレンはほとんど聞く耳をもたなかった。実のところ、そんな怖ろしいことなど聞きたくないと、ひどく機嫌を損ねたくらいなのだ。
ミセス・バンティングはほろりとさせる感傷的な話は大好きだったし、婚約不履行訴訟の詳細には冷笑を浮かべて聞き入るのだが、妙なことに、不道徳な話や暴力の話となると尻込みした。毎日新聞を、それこそ二紙も三紙も買うことのできた、昔の幸せだった頃、バンティングは心ときめく「事件」や「謎」について話したい気持ちを押し殺さなければならないことが何度もあった。彼にとっては楽しい気晴らしなのだが、そんな話を一言でもほのめかそうならエレンはかんかんになって怒ったのである。
しかし彼は今、意気消沈のあまり、彼女の気持ちなどどうでもよかった。
窓から離れると、ためらいがちにゆっくりとドアのほうへむかった。そこで半分だけむき直り、きれいにひげを剃った丸顔に、こずるいような、訴えるような表情を浮かべた。いたずらをしようとしている子供が親にむける、あの表情である。
しかしミセス・バンティングはじっとしたままだった。やせ細った華奢な肩がかろうじて椅子の背の上からのぞいていた。背筋をぴんと伸ばし、虚空を覗きこむように前方を見ている。
バンティングはむき直るとドアを開けて、すばやく暗い玄関へ行き――しばらく前からガスの火を灯さないことにしていた――正面のドアを開けた。
板石敷きの小径を通り、湿った歩道に面する鉄の門を開け放った。しかしそこで彼はためらった。ポケットの銅貨は数が減ったようだった。四ペンスであってもエレンにとってはどれだけ役に立つだろう、と彼はそう思って悲しい気分になった。
その時、一人の少年が夕刊を一束抱えて彼のほうに走ってきた。バンティングは猛烈な誘惑を感じ――それに負けてしまった。「サンをくれ」と彼はぶっきらぼうに言った。「サンかエコーを!」
しかし少年は呼吸を整えもせず首を振った。「一ペニー新聞しか残ってないよ」と彼はあえぎながら言った。「どれにします、旦那さん」
バンティングは恥ずかしく思いながらもいそいそとポケットから一ペニーを取り出し、少年の手から新聞を受けとった。イブニング・スタンダードだった。
それからごくゆっくりと門を閉め、板石敷きの小径に沿ってじめじめした冷たい空気のなかを進んだ。寒さに震えながらも胸のなかは喜びと期待でいっぱいだった。
思いきって使ったさっきの一ペニーのおかげで、一時間は幸せな時を過ごせるだろう。心配ばかりで希望のない、みじめな自分をいっとき忘れることができる。この気苦労からの息抜きを哀れな妻、心配にやつれ、困り切っているエレンと分かち合えないことが、彼をひどくいらだたせた。
不安というか、ほとんど良心の呵責に近いものがバンティングの身体を熱い波のように襲った。エレンだったらあの一ペニーを自分のために使いはしなかったろう。それはよく分かっている。こんなに寒くて、霧が出て、こんなに――こんなに雨がそぼ降ってなければ、もう一度門を出て街灯の下で新聞を読むのだが。彼はエレンのライトブルーの目がむける、冷たい非難の眼差しがひどく恐かった。あの眼差しはこう言うのだろう。あなたには新聞に一ペニーだって無駄なお金を使う権利はないのよ、そのことはよく分かっているでしょう、と!
突然、目の前のドアが開き、耳慣れた声が不機嫌に、しかし心配そうにこういうのが聞こえた。「いったいそこで何をしているの、バンティング。入りなさいよ。風邪をひいちゃうじゃない。そうでなくても大変なのに、病気になられたらたまったものじゃない」近頃、ミセス・バンティングが一度にこんなにしゃべるのは珍しいことだった。
夫は重苦しい家の正面ドアをくぐった。「新聞を買ってきたんだ」彼はむっつりと言った。
なんだかんだ言っても、おれはこの家の主人だ。彼女と同じように金を使う権利がある。今、おれたちが暮らしを立てている金は、あの親切な若者、ジョー・チャンドラーがおれに――エレンにじゃなくって――貸してくれた、いや、押しつけるようにして寄こした金なんだからな。それにおれはやれることはみんなやった。質入れできるものはみんな質に入れた。それなのに彼女はまだ結婚指輪をはめているじゃないか、と彼は苦々しく思った。
彼は重い足どりで彼女の脇を通り抜けた。彼女は何も言わなかったが、夫がこれから楽しもうとしていることに不満を抱いていることは分かった。妻に対する怒りと自分に対するさげすみが爆発し、軽い、ほんの軽い罵り言葉を――エレンは自分の前ではどんな悪態も許さないと早い段階で彼に釘を刺していたのだけれど――口にし、玄関のガスをいっぱいに開いて火を灯した。
「誰も下宿に来ちゃくれんぞ、看板すら見えなかったら」彼は怒ったように言った。
確かにその通りだった。ガスに火をつけたので、「貸間有り」と表側に書いてある長方形の看板が正面ドアの上の古い明かり窓からくっきり見えるようになった。
バンティングは居間に入り、妻が静かにそのあとに従った。夫は自分の快適な安楽椅子に座り、小さな埋み火を火かき棒でつついた。バンティングが火をつついたのは、一日がやけに長く感じられるようになってから久しぶりのことだった。この夫の権限を行使して彼は気分がよくなった。夫というものはたまに自分の権威を主張しなければならないのだが、バンティングは最近めっきり自己主張をしなくなっていた。
ミセス・バンティングの白い顔にかすかな赤みがさした。こんなふうに馬鹿にされることに慣れていなかったのだ。バンティングは本気で腹を立てないかぎり、いたって穏和な人間だった。
彼女は部屋のなかを歩き回って、目に見えないほこりを払ったり、置物の位置を直したりしはじめた。
しかし彼女の手は震えていた――興奮と、自己憐憫と、怒りのために。一ペニー?たった一ペニーのことを心配しなければならないなんて、恐ろしいことだわ!でも、うちはとっくにそうしなければならないところまで来ている。夫にはそんなことも分からないのかしら。
バンティングは一度か二度、首を巡らしてまわりを見た。エレンにそわそわするなと言いたかったのだが、彼は争いを好まず、また、おそらく自分の振る舞いを恥ずかしく思っていたのだろう、文句を言うのはやめにした。それに何も言われなくても、彼女のほうもじきに夫がいらいらすることをやめた。
しかしミセス・バンティングは夫が望んでいるように椅子に座りはしなかった。新聞に熱中している夫を見るのが業腹で、近くに寄りたくなかったのである。居間から奥の寝室に通じるドアを開け、今や明るく燃える火の傍で心地よさげに椅子に座り、イブニング・スタンダードを広げるバンティングのしゃくに障る姿を閉め出すと、冷え冷えとした暗がりのなかに座りこみ、両手で額を押さえた。
これほど絶望的な気持ちになったこと、今くらい打ちひしがれたことは、なかった。一生のあいだ、正直に、誠実に、自分に誇りを持って生きてきたとしても、それがこのようにまるでみじめな貧乏と惨憺たる生活に終るのであれば、いったい何の意味があるというのか。彼女もバンティングもほんの少し歳を取りすぎているから、家柄のよい人々はいっしょに使用人として雇うのをためらうだろう。もちろん妻のほうが本職の料理人であれば話は別だ。料理人と執事の組み合わせはいつだっていいところに就職できる。しかしミセス・バンティングは料理人ではなかった。彼女のところに来る下宿人が望むものは、簡単な料理なら、何でもつくることができたが、しかしそれだけだった。
下宿人?下宿屋を営むなんて、何て馬鹿なことを考えたのだろう!それは彼女のはじめたことだった。バンティングは簡単に言いくるめることができた。
それでも、海辺の下宿屋ということで、はじめのうちはよかったのだ。期待していたほどではなかったけれども、かなりの儲けがあった。ところが猩紅熱が流行し、彼らだけでなく、何十人、いや、何百人という不運な同業者に大損害を与えたのである。そのあと新しい商売に手を出したりもしてみたのだが、かえって悲惨な結果を招き、彼らは借金を背負いこんだのだった。気前のいい以前の雇い主に、とうてい返済できる見込みのない借金を。
そのあとは、もう一度、使用人としていっしょに、あるいは別々に仕事をしてもよかったのだが、彼らは意を決して最後の努力を試みることにした。残された僅かな金を使って、メリルボーン通りのこの家を借りることにしたのである。
彼らが昔、使用人というくびきをみずから受けいれ、そのかわりに守られた、機械的に仕事をこなすだけの、そして何よりも財政的に楽な生活をしていた頃、彼らはどちらもリージェント・パークを見下ろす家に住んでいた。家を持つならその近くがいいのではないかと思われた。男前のバンティングはコネのおかげで、ときどき個人宅のパーティーの給仕人を勤めることがあるから、なおさらその辺りがいいように思えた。
しかしバンティング夫婦のような人々に対して人生は早足で、急に進む方向を変えたりする。以前の雇い主のうち、二人は引っ越ししてロンドンの別の場所へ移ってしまい、彼が知っているベイカー通りのパーティー差配業者は破産してしまった。
そして今は?今は仕事があったとしても、制服を質屋に入れてしまったから、働くことができない。彼はよき夫がすべき通り、妻に一言の相談もなく、ただふいと出かけて制服を質に入れてしまったのだ。彼女は何も言う気になれなかった。それどころか、彼が質屋に行った晩、夫が何も言わずに渡してくれた金の一部で、最後のタバコの箱を買ってやったのである。
ミセス・バンティングが座りこんでこうした辛い思いに浸っているとき、突然、玄関のドアをびくびくと自信なさそうにノックする音が二回大きく響いた。
第二章
ミセス・バンティングはぎくりとして立ちあがり、暗闇のなかで耳をすました。ドアの下から差しこむ光が闇をいっそう濃くしている。ドアのむこうではバンティングが座って新聞を読んでいる。
その時、ふたたびあのびくびくとした、自信なさげなノックが大きく二回響いた。いいことを知らせるノックじゃないわ、と彼女は思った。下宿を探している人なら鋭く、間をおかず、大胆に、自信たっぷりにたたくはず。そうよ。これは乞食か何かだわ。いかがわしい人たちは時間におかまいなくやってきては、泣いたり脅したりしてお金を要求するもの。
ミセス・バンティングは、どの大都市にも浮遊している、名もなく、得体も知れない漂流者階級に――それも特に女たちに――おぞましい経験をさせられたことが何度かある。しかし夜中に玄関のガスをつけなくなってからは、その手の訪問者に煩わされることはほとんどなかった。彼ら、人間の形をしたコウモリは、灯りを見れば寄ってくるが、闇のなかに住む人々には手出しをしないのだ。
彼女は居間のドアを開けた。玄関に応対に出るのはバンティングの役目だったが、やっかいな客や面倒な訪問者をあしらうのは彼女のほうがずっと上手だった。それでもその晩は何となく夫に出てほしいような気がした。しかしバンティングは新聞に夢中になったまま座りつづけている。寝室のドアが開く音を聞いて彼がしたことといえば、顔をあげて「ノックが聞こえなかったかい」と言うだけだった。
その質問に答えることなく、彼女は玄関に出て行った。
ゆっくりと彼女は玄関のドアを開けた。
戸口にあがる三段の踏段の上に立っていたのは、ひょろりと背の高い男だった。インバネスに身を包み、流行遅れのシルクハットをかぶっている。彼はちょっとのあいだ眼をぱちくりさせて彼女を見ていた。たぶん玄関のガス灯の明かりに目が眩んだのだろう。ミセス・バンティングの鍛えられた目は、おかしな格好はしているけれど、この人は素性の正しい紳士であると、たちどころに見抜いた。以前、自分の仕事の関係で接触することのできた、あの階級に生れながら属している人だ。
「ここは下宿屋じゃありませんか」と彼は訊いた。やや甲高くて、落ち着きのない、ためらうような声だった。
「はい、さようでございますが」彼女はおどおどと言った。部屋を借りに人が来たのは、しかも世間体を重んじる彼らの下宿にふさわしい人が来たのは、よほど久しぶりのことだった。
彼女が本能的に身を引くと、見知らぬ男は彼女の脇をすり抜けて玄関に入った。
その時になってはじめてミセス・バンティングは、彼の左手に薄い鞄が握られていることに気がついた。新品の鞄で、しっかりした茶色の革でできている。
「静かな部屋を探しているんです」と彼は言い、夢を見るような、放心したような口調で、「静かな部屋を」ともう一度繰り返した。そう言いながら彼は神経質そうにあたりを見まわした。
血色の悪いその顔がぱっと明るくなった。玄関広間には家具が整然と備え付けられ、掃除も極めて行き届いていたからである。
すっきりした形の帽子掛け兼傘立てがあり、見知らぬ男の疲れた足は質のいい、丈夫な暗赤色のドラゲット絨毯を柔らかく踏みしめた。その色は壁紙のフロックペーパーとよく調和していた。
これは上等な下宿屋だ。管理人もしっかりした人らしい。
「ここならとても静かでございますわ、旦那様」と彼女は丁寧に言った。「ちょうど空いている部屋が四室ございます。夫とわたくし以外、誰もおりませんの」
ミセス・バンティングは慇懃な、落ちついた声でしゃべった。こんなふうに突然下宿を探している人があらわれるなんて、まるで夢のようだった。しかも相手の心地よく礼儀正しい声と話し方は、この哀れな女に遠い昔となった若い頃の、安定した幸せな日々を思い出させた。
「それは悪くなさそうだな」と彼は言った。「四部屋ですか。それでは二部屋だけ借りましょうかね。でも選ぶ前に四つとも見せてください」
バンティングがガス灯をつけたのはなんてすばらしい幸運だったのだろう!あれがなければこの紳士は彼らのところを通り過ぎてしまっていたはずだ。
彼女は階段のほうに進んで行ったのだが、興奮のあまり玄関のドアが開けっ放しになっていることをすっかり忘れていた。足早に廊下を後戻りしドアを閉めたのは、彼女の頭のなかですでに「下宿人」となっていた見知らぬ男だった。
「あら、申し訳ございません、旦那様」と彼女は大きな声で言った。「お手をわずらわしてしまいまして」
一瞬、彼らの目が合った。「ロンドンで玄関のドアを開けっぱなしにしておくのは危険ですよ」と彼は厳しく言った。「こんなことは滅多にないようお願いします。誰でも簡単に忍びこんできますから」
ミセス・バンティングはいささかうろたえた。見知らぬ男は、口調こそいまだに丁寧だが、明らかに機嫌を大きく損ねていた。
「ご安心ください、旦那様、二度と玄関のドアを開けっ放しにしませんから」彼女はあわてて返事をした。「どうぞご心配なく!」
そのとき居間の閉じたドアを通してバンティングの咳の音が聞こえた。ほんの軽い空咳だったのだが、ミセス・バンティングの未来の下宿人は腰を抜かすほど驚いた。
「あれは誰ですか」彼は手を伸ばし、彼女の腕をつかまえた。「いったいあれは何です」
「わたくしの夫でございます、旦那様。つい先ほど新聞を買いに外に出たんですが、風邪でもひいたのじゃないかと思います」
「ご亭主――?」彼は彼女をじいっと、疑わしげに見つめた。「よ、よろしかったら教えてください。ご亭主のお仕事は?」
ミセス・バンティングは昂然と頭をあげた。夫の職業について他人からとやかく言われる筋合いはない。しかし不快感を示すのはやはり得策ではないだろう。「給仕をしております」と彼女はよそよそしく言った。「夫は上流階級のお宅で召使いをしていたのでございます、旦那様。お望みでしたら旦那様のお世話もいたします」
そういってくるりとむきを変えると、急な、狭い階段をあがっていった。
最初の一続きの階段をあがりきると、ミセス・バンティングが「客間の階」と呼んでいる二階に出る。正面には客間があり、その奥には寝室がある。彼女は客間のドアを開けて、すばやくシャンデリアに火を灯した。
この正面の部屋は家具を詰め込みすぎてややごたごたしていたかもしれないが、それでも充分に快適だった。床を覆っているのはコケに似せた緑の絨毯。部屋の真ん中にはテーブルがあり、四脚の椅子がまわりを取り囲んでいる。階段に通じるドアの反対側の隅には大きな古い飾り棚があった。
暗緑色の壁には八枚一組の版画、レースとターラタンのボールドレスに身を包むヴィクトリア朝初期の美人画がかかっていた。古い美人伝の本から切り抜いたものだ。ミセス・バンティングはこれらの絵がたいそう気に入っていて、客間に優雅で洗練された趣きを添えるものと考えていた。
急いでガス灯に火をつけながら、二日前にやる気を奮い起こし、この部屋を隅々まで掃除したのは大正解だったと思った。
その部屋はいい加減でだらしない最後の住人が、警察に訴えるぞというバンティングの脅しに怯えて出て行ってから、長いこと放置されたままだったのだ。しかし今はきちんと整理されている。もっともひとつだけ大きな手抜かりがあって、ミセス・バンティングはそのことを痛いほど意識していた。窓に白いカーテンが掛かっていなかったのだ。しかしこの紳士が本当に下宿してくれるなら、そのくらいはすぐに何とかできる。
しかしこれはどうしたことだろう――。見知らぬ男はそわそわとまわりを見まわしていた。「これは少々――わたしには少々もったいないな」と彼はとうとうそう言った。「ほかの部屋を見せてくれませんか、ミセス、ええと――」
「バンティングです」と彼女は静かに言った。「バンティングと申します、旦那様」
そう答えたとき、暗鬱な、重苦しい不安がふたたび彼女のみじめな、おしひしがれた心にずしりとのしかかった。やっぱり勘違いだったのだろうか――いや、ある意味では勘違いではなかったのだが、しかしこの紳士は貧乏な紳士なのだろう――お金がないからひと部屋分の家賃しか払うことができないのだ。週に八シリングか十シリングくらい。週に八シリングか十シリングでは彼女とバンティングにとってたいした収入にはならない。まあ、何もないよりはましだけれども。
「寝室をごらんになりますか、旦那様」
「いやいや、上の階の部屋を見せてもらえませんか、ミセス――」そう言いかけ、まるで脳味噌をフル回転させて思い出したみたいに「バンティング」と彼女の名前を口にした。それと共にあえぐような息がもれた。
最上階の二つの部屋はもちろん客間の階のすぐ上にあった。しかし飾りが一切ないため貧相で見劣りがした。どちらの部屋も整理されたことがほとんどない。いや、実をいえば、バンティング夫婦が越してきたときとほぼ同じ状態といってよかった。
とはいっても、流しと大きなガスストーブがでんと鎮座している部屋を、魅力的な、優雅な居間に変えることは難しい。ガスストーブは時代遅れの型式で、一シリングを投入口に入れて使うという厄介なしろものだ。バンティング夫婦の前の借家契約者の所有物だったのだが、こんなものは一銭の価値もないと、ほかの粗末な備品とともに残していったのである。
ミセス・バンティングの持ち物はみんなそうだが、その部屋にあるわずかな家具もどっしりしていて手入れが行き届いていた。しかしそこはがらんとした、居心地の悪そうな場所で、下宿の女主人はもうちょっと借りたい気持ちを起こさせるよう仕度をしておけばよかったと今になって後悔した。
ところが驚いたことに、相手の暗い、神経質そうな、細く尖った顔は満足そうに輝きはじめたのである。「すばらしい!申し分ありませんな!」と彼は叫び、手にした鞄をはじめて足元に置いて、細い手をすばやく、落ち着きなくこすり合わせた。
「これこそわたしが探していた部屋ですよ」彼は大股にずんずんとガスストーブのほうへ歩いていった。「最高です。最高!こういうところに下宿したかったんですよ。ミセス――ええと――バンティング、わたしは科学者でしてね。そのう、いろんな実験をするんです。それでしばしば、何ていいますか、強い火力が必要なんですよ」
彼はストーブを指差したが、彼女はその手が少し震えていることに気づいた。「これも役に立ちます――大いに役に立ちます」と彼は石の流しに触れ、縁を撫でさすった。
彼は顔をあげ、広くひいでた額を手でぬぐった。それから椅子のほうに移動すると、ぐったりと座りこんだ。「疲れました」彼は低い声でつぶやいた。「疲れた――疲れた!一日中、歩き回りましてね、ミセス・バンティング。座るところがなかったんです。ロンドンは、疲れた人のためにベンチを置いてないのです。大陸にはあるんですけどね。ある意味じゃ、大陸はイギリスよりも人間的ですよ、ミセス・バンティング」
「さようでございますね、旦那様」と彼女は丁寧に言い、そわそわした視線を投げかけたあと、彼女にとってはその答えが大きな意味を持つ大切な質問をした。「では、部屋をお借りになりますか、旦那様」
「もちろん、この部屋をね」とまわりを見ながら彼は言った。「こういうところがないだろうかと、今まで何日も探しまわったんです」それから急いでこう付け加えた。「こういう場所に住みたいものだとずっと思っていたんです、ミセス・バンティング。びっくりするでしょうけど、こういう部屋はなかなか手に入らないんですよ。しかしわたしの難儀な家探しは終わりました。ほっとしましたよ――実に、実にほっとしました!」
彼は立ちあがり、夢を見ているような、ぼんやりした様子で部屋のなかを見ていたのだが、急に「わたしの鞄はどこだ?」と訊いた。その声には強い怒りと恐れがこめられていた。彼は眼の前の物静かな女を睨みつけ、ほんの一瞬、ミセス・バンティングは全身がぞぞっと震えた。恨めしいことに、バンティングはずっと離れた下の階にいる。
しかし奇矯な性格というものは、常に育ちのいい、教養ある人々の特権であること、彼らにだけ与えられた特別な贅沢のようなものであることをミセス・バンティングは知っていた。学者は、彼女がよく理解していたように、決してほかの人々と同じではない。そして新しい下宿人は疑いもなく学者である。「入ってきたときはこの手に鞄を持っていましたよね」彼は怯えたような、困惑した声で言った。
「こちらにございます、旦那様」彼女はなだめるように言い、身を屈めて鞄を取ると彼に渡した。そのとき鞄がちっとも重くないことに気づいた。どうやら荷物が一杯に詰まっているわけではないらしい。
彼は鞄をひったくるように受け取った。「失礼」と彼は小声で言った。「鞄にとても大切なものが入っていましてね。さんざん苦労して見つけたんです。また手に入れようと思ったら、たいへんな危険をおかさなければならない。それで取り乱してしまったんです」
「契約の条件はいかがいたしましょう、旦那様」彼女は恐る恐る大切な、彼女にとってはいたって重要な話題に戻ろうとした。
「契約の条件?」と彼は繰り返した。一瞬の間があった。「わたしはスルースといいます」と彼は唐突に言った。「S―l―e―u―t―h。警察犬という意味のスルースと同じです、ミセス・バンティング。(註 「探偵」の意味もある)これで名前を忘れないでしょう。身元証明書もさしあげられますが――」(彼が彼女を見る目つきを見て、妙な流し目だわ、と内心彼女は思った)「しかしよろしかったらそんな面倒ははぶきましょう。お金は喜んでお支払いします――そうですね、一ケ月分前払いでどうです?」
ミセス・バンティングの頬に赤みがさした。安堵のあまり――いや、ほとんど痛みにも似た喜びのあまり――気が変になりそうだった。彼女はそのときまで自分がどれほど空腹であるか、どれほどおいしいものを食べたいと思っていたか、気がつかなかった。「結構でございます、旦那様」と彼女はつぶやいた。
「で、いくら請求なさるのですかな」その声は優しく、親しみすら感じられた。「そうそう、身の回りの世話もお願いしますよ!身の回りの世話も。それから料理はもちろんできるんでしょうね、ミセス・バンティング」
「もちろんですとも、旦那様」と彼女は言った。「腕のほうは普通でございます。一週間二十五シリングでいかがでございますか、旦那様」彼女は遠慮がちに相手を見た。彼が返事をしないので、口ごもりながら次のようにつづけた。「あの、旦那様、お高く思われるかもしれませんが、お世話のほうはできるかぎりのことをさせていただきますし、料理も気を配ってお作りします――わたくしの夫も――喜んでお仕えいたしますでしょう」
「そんなことはいいんですよ」とミスタ・スルースは慌てて言った。「服の整理は自分でやります。慣れてますからね、自分で自分の面倒を見ることは。ただですね、ミセス・バンティング、わたしはほかの人といっしょに下宿するのが大嫌いなので――」
彼女は熱心な口調でこう口をはさんだ。「同じ家賃で結構ですので二つの階をお使いください――その、別の下宿人が来るまでは。こんな裏部屋でお休みいただくわけにはいきませんわ、旦那様。ここはみすぼらしすぎますもの。お好きなようにお使いいただいてかまいません――こちらでお仕事なり実験なりなさって、お食事は客間で召しあがってくださいませ」
「そうですね」と彼はためらうように言った。「それは有り難いのですが、じゃあ、さらに二ポンドか二ギニー追加しますから、わたし以外に下宿人が来ても断ってください」
「かしこまりました」と彼女は静かに言った。「旦那様お一人のお世話をさせていただくだけでわたくしは満足でございます」
「この部屋の鍵はお持ちですね、ミセス・バンティング。仕事の最中は邪魔されたくないのです」
彼はしばらく返事を待ち、催促するようにもう一度言った。「この部屋の鍵はお持ちですね、ミセス・バンティング」
「ええ、もちろんですとも、旦那様、ございますよ――とてもいい小型の鍵でございます。以前ここに住んでいた人が新しい鍵をドアに取り付けまして」彼女はドアを開けると古い鍵穴の上に円盤が取り付けられているのを見せた。
彼は頷いて、しばらく何も言わず立っていた。まるで物思いに沈むような様子だった。「一週間四十二シリングですね?いいでしょう。わたしとしては願ったり叶ったりです。では最初の一ケ月分を前払いしましょう。四十二シリングの四倍は」――彼はふと頭をもたげ、新しい下宿の女主人を見つめた。はじめて笑顔を見せたが、それは奇妙に歪んだ笑顔だった――「ああ、ちょうど八ポンド八シリングですね、ミセス・バンティング!」
長いケープのようなコートの内ポケットに手を突っこみソブリン金貨をひとつかみ取り出した。それを部屋の中央に置かれた剥き出しの木の机の上に一列に並べだした。「五、六、七、八、九、十ポンド。おつりは取っておいてください、ミセス・バンティング。明日の朝買ってきてほしいものがあるんです。今日はひどい目にあいましてね」しかし新しい下宿人は、どんな目にあったにしろ、気にしているような様子はなかった。
「さようでございますか、旦那様。それはお気の毒でございました」ミセス・バンティングの心臓はどきん、どきん、どきんと高鳴った。気が動転し、安堵と喜びにめまいがした。
「ええ、それはひどかった!荷物をなくしたんです、苦労して持ってきたのに」突然、彼は声をひそめた。「話すべきじゃなかった」と彼はつぶやいた。「何て馬鹿なことを!」そして今度はもっと大きな声で言った。「ある人に言われたんです、荷物がないと下宿屋に行っても断られるってね。でも、あなたは断らなかった、ミセス・バンティング。感謝しているんです、あ、あなたのご親切には――」彼は哀願するように彼女を見、ミセス・バンティングは胸を打たれた。彼女は新しい下宿人に好意を抱きはじめていた。
「紳士の方は一目で分かるつもりでございます」彼女はきまじめな声を詰まらせながら言った。
「あしたは服を探さなければなりません、ミセス・バンティング」彼はまた哀願するように彼女を見た。
「旦那様、お手を洗ってはいかがでしょう。夕食は何になさいますか。大したものはございませんが」
「ああ、あり合わせで結構ですよ」と彼は急いでいった。「わざわざ買い物に出る必要はありません。寒いし、霧が出てるし、じめじめした夜ですからね、ミセス・バンティング。バターつきのパンとミルク一杯があれば十分です」
「おいしいソーセージがございますが」と彼女は口ごもりながら言った。
それは上等のソーセージで、その日の朝、バンティングの夕食用に買ったものだ。自分は軽くパンとチーズですませるつもりだった。しかし今は――考えただけでもすばらしくて、茫然となるが――バンティングに彼らの好きなものを何でも買わせることができるのだ。十枚のソブリン金貨が心地よさげに、ほがらかに手のなかに収まっている。
「ソーセージ?いえ、それはいただけません。肉は食べないのです」と彼は言った。「ソーセージを食べたのはずっと、ずっと昔のことです、ミセス・バンティング」
「さようでございますか、旦那様」彼女は一瞬とまどってから堅苦しい声で尋ねた。「ビールかワインをお望みでしょうか」
突然ミスタ・スルースは青白い顔いっぱいに奇怪な、荒々しい怒りの表情を浮かべた。
「いりません。はっきり申しあげたはずですよ、ミセス・バンティング。お酒はたしなまないものと思っていたのですが」
「はあ、その通りでございます、旦那様。生まれてこの方、お酒は飲んだことがございません。夫も結婚して以来、禁酒しております」平気で打ち明け話をするような女だったら、彼女は知り合ってすぐにバンティングに酒をやめさせたことを話していただろう。彼が禁酒したのではじめて彼女は戯言と思っていたバンティングの言葉が本気だと分かったのだった。はるか昔、彼が言い寄ってきたときの話だ。若いときに禁酒の誓いをしてくれてよかったと今、彼女は思った。そうでなければ、今ようやく漕ぎ抜けた逆境のなかで彼は酒浸りになっていただろう。
さて、そのあとは下に降りて、客間とつながる素敵な寝室にミスタ・スルースを案内した。一階のミセス・バンティングの部屋と同じ家具の配置だったが、ただ、どれも彼女の部屋のものより少しだけ高価で、少しだけ上等だった。
新しい下宿人は疲れた顔に不思議な満足と安らぎの色を浮かべてまわりを見まわした。「安息の地だ」と彼はつぶやいた。「『主は彼らをその望む港へ導かれた』。美しい言葉です、ミセス・バンティング」
「その通りですわ、旦那様」
ミセス・バンティングはちょっとびっくりした。誰かが彼女にむかって聖書を引用するなど絶えてなかったことだ。それは、いわば、ミスタ・スルースが紳士であることの確かなしるしであるように思えた。
しかも下宿人といっても夫婦者ではなく、たった一人の紳士をお世話するだけなのだ。彼女はほっと胸をなで下ろした。ここロンドンだけではなく海岸のそばにいた頃も、ひどく風変わりな夫婦がバンティング夫婦の下宿を出入りしたものだった。
まったくついていなかったわ!ロンドンに来てから、そこそこ社会的地位があって思いやりのある夫婦なんて一組として下宿に来たことがない。最後に下宿していた連中は恐ろしいやくざ者の男女で、昔は羽振りがよかったのだろうが、その頃はけちくさいぺてんをやってかろうじて生計を立てていた。
「すぐにお湯をお持ちいたします、旦那様、それから清潔なタオルも」彼女は部屋から出て行きながらそう言った。
するとミスタ・スルースがすばやく振り返った。「ミセス・バンティング」――少しどもりながら彼は言った――「身、身のまわりの世話といっても何でもやってくれということではありませんからね。わたしのために走り回ることはありません。自分のことは自分でできます」
彼女は追い払われるどころか、冷たく突き放されてしまったような気がして、妙にうろたえた。「かしこまりました、旦那様。では夕食の用意ができたらお知らせにまいります」
第三章
しかし下にいるバンティングにすばらしい幸運が訪れたことを伝えられる言いしれぬ幸福感と喜びに比べれば、少々冷たくはねつけられたことくらい何だというのか。
冷静なミセス・バンティングは急な階段をひとっ飛びに飛び降りたように見えた。しかし、玄関広間に立ったときは気を引き締め、興奮を抑えようとした。彼女は感情をあらわにすることを嫌い、蔑んだ。そんなふうに気持ちを剥き出しにすることを、彼女は「馬鹿騒ぎ」と呼んでいた。
居間のドアを開けたとき、彼女は夫の屈めた背中を見てはっと立ち止った。この一週間のあいだに夫がひどく老け込んだことに気づき、胸が痛くなった。
バンティングは不意にうしろを振り返り、妻の姿を見ると立ちあがった。持っていた新聞をテーブルに置いて「それで、誰だったんだい?」と言った。
彼は内心自分を恥じていた。玄関に応対に出たり、ぼそぼそと聞こえたああしたやりとりをするのは自分の役目だったのだから。
そのとき妻が片手を突き出した。十枚のソブリン金貨がチャリンチャリンと鳴りながらテーブルの上に小さな山を作った。
「見てごらんなさいよ!」興奮した、今にも泣き出しそうな声で彼女はささやいた。「見てごらんなさいよ、バンティング!」
バンティングは見ることは見たが、その眼は困惑し、怒ったような色を浮かべた。
彼は頭の回転が速いほうではない。とっさに妻が家具屋を呼んだものと早とちりし、眼の前の十ポンドは上の階の上等な家具をみんな売り払った代金だと思いこんでしまった。もしもそうだとしたら、それこそ終りのはじまりだ。二階正面の部屋にある家具には全部で十七ポンド九シリングを払ったのだ――エレンが昨日、苦々しくその事実を教えてくれたばかりだ――しかもどの家具も格安だった。それが十ポンドにしかならなかったとはあんまりだ。
しかし妻を非難する気にはなれなかった。
彼は何も言わずテーブルを挟んで彼女を見つめた。その困惑した、なじるような眼を見て、彼女は夫が何を考えたのか見当をつけた。
「新しい下宿人よ!」と彼女は叫んだ。「それに、それに、バンティング、その人は立派な紳士なの!一週間二ギニーの部屋代を、一ケ月分前払いしてくれたのよ」
「そんな、まさか!」
バンティングは急いでテーブルのまわりを回り、彼らは小さな金の山に見とれながらいっしょに立ち尽くした。「しかしソブリン金貨が十枚あるじゃないか」と彼は突然言った。
「ええ。あした買ってきてほしい物があるんですって。それに、ああ、バンティング、とても言葉遣いが丁寧な方なのよ。わたし本当に胸が――胸が――」そう言ってミセス・バンティングは一二歩よろめいて椅子に座り、小さな黒いエプロンを顔に当てると急に嗚咽しはじめた。
バンティングはおどおどしながら彼女の背中を優しくさすった。「エレン?」彼は取り乱した妻を見て心を打たれた。「エレン?興奮しすぎるのはよくないよ、おまえ――」
「ええ、ええ」彼女はむせびながら言った。「だ、大丈夫。わたしったら、馬鹿ね――本当にそう思う。でも、ああ、二度と幸運なんて訪れることはないと思っていたから!」
彼女は下宿人がどんな人かを夫に話した――というより、話そうと努力した。ミセス・バンティングは口達者ではないが、一つだけ夫の心に強い印象を与えたことがある。それは多くの頭のいい人と同様、スルースも変わり者であること――つまり、人に迷惑を掛けない程度に変わり者であること――そしてあやすように扱わなければならないことである。
「お世話されすぎるのはいやだと言っていたわ」ようやく涙を拭きながら彼女は言った。「それでもいろいろ面倒を見てあげないとならないと思う。お気の毒に」
彼女がそう言い終わるやいなや、聞き慣れない大きな鐘の音が聞こえてきた。客間の呼び鈴が何度も何度も鳴らされているのだ。
バンティングは張り切った表情で妻を見た。「わたしが行ったほうがいいんじゃないかな。どうだい、エレン」彼は新しい下宿人が見たくてたまらなかった。それにまた何かしていられるというのはほっとすることでもあったのだろう。
「そうね」と彼女は答えた。「さあ、行ってらっしゃい!待たせちゃだめよ!いったい何の用かしら。夕食ができたら知らせるとは言ったんだけど」
しばらくしてバンティングが戻ってきた。にやにやと奇妙な笑いを浮かべている。「何をご要望になったと思う?」彼は当ててごらんとでもいうようにささやいた。しかし返事がないので、こうつづけた。「聖書を貸してくれって言ったんだ!」
「あら、別におかしなことじゃないでしょう」彼女はすぐにそう言った。「特に気がふさいでいらっしゃるなら。わたしが持っていくわ」
ミセス・バンティングは二つの窓のあいだにある小さなテーブルから大型の聖書を取りあげた。それは彼女が嫁いだときのお祝いの品で、彼女が数年間お仕えした女性の、結婚している娘さんからもらったものだった。
「夕食といっしょに持っていけばいいそうだよ」とバンティングは言った。「エレン。ありゃ、妙な人だな。今までお付き合いした紳士とはまるでちがうよ」
「あの方は紳士よ」とミセス・バンティングはやや気色ばんだ。
「ああ、確かにそうだよ」しかしそれでも彼はためらうように妻を見るのだった。「お召し物の片付けをいたしましょうかと訊いてみたんだが、エレン、服は持ってないって言うんだよ!」
「お持ちじゃないのよ」彼女はすぐさま、かばうように言った。「運悪く荷物をなくしてしまったの。あの方はたちの悪い連中にカモにされるタイプだわ」
「うん、いかにもそんな感じだな」とバンティングは同意した。
それからしばらく会話は途切れた。ミセス・バンティングが夫に買ってきてもらう品々を小さな紙切れに書きつけていたのだ。彼女はソブリン金貨一枚といっしょにそのリストを手渡した。「できるだけ急いでね」と彼女は言った。「わたし、小腹が減ってるの。これから下に行ってミスタ・スルースの夕食を作るわ。ミルク一杯と卵二つでいいらしいの。卵は新鮮なのがあるからよかったわ!」
「スルースか」とバンティングは妻を見つめながら鸚鵡返しに言った。「変わった名前だな!どう綴るんだい?S―l―u―t―hかい」
「いいえ」彼女はすかさず答えた。「S―l―e―u―t―hよ」
「へえ」と彼は腑に落ちぬ調子で言った。
「あの方はね、『警察犬のスルースと同じだとおぼえておけば、忘れませんよ』って言ったのよ」そう言ってミセス・バンティングはほほえんだ。
バンティングはドアのところまで行って振り返った。「チャンドラー君から借りた三十シリング、これでいくらか返せるね。嬉しいよ」彼女は頷いた。月並みな言い方だが、胸がいっぱいになって言葉が出なかったのだ。
二人はそれぞれの仕事をしに出かけた。バンティングはびっしょり濡れる霧のなかへ、妻は地階の冷え冷えとした台所へ。
下宿人に差し出すお盆の用意はすぐにできた。どの品もきれいに、おいしそうに盛りつけられている。紳士の食事のお世話ならお手の物だった。
台所の階段をあがっているとき、女主人はふと聖書を貸してほしいというミスタ・スルースの頼みを思い出した。玄関にお盆を置いて、居間に入り聖書を取りあげた。玄関に戻ってきたとき、二往復すべきか、一瞬迷った。いいえ、何とか持てるわ。大きな重い本を脇の下に抱えながらお盆を取り、彼女はゆっくりと階段をあがっていった。
ところが大きな驚きが彼女を待っていた。ミスタ・スルースの女主人は客間のドアを開けたとき、お盆を落としそうになった。実際、聖書のほうは落としてしまい、どしんと床に重い音をたてたのだった。
新しい下宿人はミセス・バンティングの自慢のタネ、ヴィクトリア朝初期の美女を描いた、額入りの素敵な版画を全部裏返しにしていたのである!
驚きのあまり彼女はとっさに声も出なかった。お盆をテーブルに置き、屈みこんで聖書を拾いあげた。聖書を落としたのは気まずかったが、しかしどうしようもなかった。お盆まで落とさなかったのが救いというものだ。
ミスタ・スルースは立ちあがった。「か、勝手ですが、わたしの好みで、部屋のなかを変えさせてもらいましたよ」と彼はどぎまぎして言った。「そのう、ミセス、ええと、バンティング、ここに座っていると、あの女性たちの眼がわたしを見ているような気がしましてね。どうもいい気持ちがしないし、それどころか薄気味悪くなってしまって」
女主人は小さなテーブルクロスを敷いているところだった。彼女は下宿人の言葉に返事をしなかったが、それももっともな話で、どう答えていいか分からなかったのだ。
彼女が黙っているのでミスタ・スルースは不安になったようだ。長い沈黙のあと、彼はふたたびこう言った。
「壁には何もないほうが好きなんですよ、ミセス・バンティング」やや動揺しているような話し方だった。「実をいうと、いつも何もない壁を見ていたので、そっちのほうが落ち着くんです」そのときようやく女主人は返事をした。静かな、なだめるような声で、どういうものか、それを聞いて彼も冷静さを取り戻した。「よく分かりますわ、旦那様。バンティングが戻ってきたら、絵を全部はずさせましょう。わたくしどもの部屋の壁にはたっぷり余裕がございますから」
「ありがとう――感謝しますよ」
ミスタ・スルースは大いにほっとしたようだった。
「それから聖書をお持ちしました、旦那様。これでよろしゅうございますか」
ミスタ・スルースはつかのま、目が眩んだように彼女を見つめた。それから気を取り直してこう言った。「ええ、ええ、その通りです。読むなら何と言っても聖書がいちばんです。どんな気持ちのときも、それからどんな身体の状態のときも、それにぴったりした一節が見つかりますからね」
「さようでございますわね、旦那様」ミセス・バンティングは見るからにおいしそうな食事を置くと、部屋を出て静かにドアを閉めた。
彼女は台所へ行って後片付けをするかわりに、まっすぐ居間へゆき、バンティングを待った。待っているとき、楽しい昔の思い出がよみがえってきた。はるか昔、彼女がまだエレン・グリーンと名乗り、ある老婦人の女中をしていたときのことだ。
老婦人にはお気に入りの甥がいた。パリで動物画の勉強をしている頭のいい愉快な若者だった。ある朝、ミスタ・アルジャーノンは――ちょっと変わっているけれど、それが彼の洗礼名だった――有名なランドシーア画伯の美しい銅版画を六枚、平気な顔で裏返しにしてしまったのだ!
ミセス・バンティングはその事件を昨日の出来事のように事細かにおぼえている。しかしそれでも何年も思い出したことはなかった。
朝早く彼女は下に降りてきた――当時女中は今ほど大切にされておらず、彼女は女中頭と寝室が同じで、女中頭は仕事をするため朝早く下に降りなければならなかった――そして食堂でミスタ・アルジャーノンが版画のおもてを壁にむけているのを見つけたのだ!彼の叔母がとても大事にしていた絵だけに、エレンはひどく心配になった。優しい叔母を怒らせるなど、若き紳士にあるまじき振る舞いである。
「まあ」彼女は狼狽して叫んだ。「何をなさっているんです」彼の楽しげな返事は今でも彼女の耳に残っている。「ぼくの義務を果しているんだよ、かわい子ちゃん」――彼は誰も聞いていないところではいつも彼女のことを「かわい子ちゃん」と呼んでいた。「朝昼晩と食事のとき、いつもこの半人半獣の化け物に見つめられてちゃ、ふつうの動物なんて描けやしない」ミスタ・アルジャーノンは小生意気な口調でそういったのだった。そして叔母が下に降りてきたとき、もっとまじめな、敬意を含んだ言い方だったけれど、この老婦人にも同じことを繰り返したのだ。いや、それどころか、いたって冷静な口調で、ランドシーア画伯の美しい動物を見ると眼がつぶれる、と断言したのだ!
叔母は怒り心頭、彼に絵を元通りにひっくり返させた。結局、彼はそこにいるあいだ「半人半獣の化け物」に我慢して付き合わなければならなかった。椅子に座ってミスタ・スルースの奇妙な振る舞いについて考えていたミセス・バンティングは、はるか昔の青春時代に起きた愉快な出来事を思い出すことができてよかったと思った。それは新しい下宿人が一見そう見えるほど変人ではないことの証拠のように思えた。それでもバンティングが帰ってきたとき、彼女は下宿人の奇妙な行動について話をしようとしなかった。客間の絵を下におろすのは自分一人でも十分できると考えたのだ。
自分たちの夕食を用意する前に、ミスタ・スルースの女主人は後片付けをしておこうと二階へ行った。すると階段をあがっている最中に物音が聞こえてきた。あれは話し声だろうか、客間で?ぎくりとして客間のドアの前で一瞬立ち止った。が、すぐにそれは下宿人が本を朗読する声だと分かった。抑揚をつけて読みあげられる言葉は、じっと聞き入る彼女の耳に何かとても恐ろしく響いた。
「みだらな女は狭い井戸のようだ。彼女は盗びとのように人をうかがい、かつ世の人のうちに、不信実な者を多くする」
彼女はドアの取っ手に手をかけたまま立ちつくしていた。ふたたび彼女のすくみあがった耳にあの奇妙に甲高い読経口調の声が聞こえてきた。「その家は陰府へ行く道であって、死のへやへ下って行く」
それを聞いているとひどく背筋が寒くなってきた。しかしついに彼女は勇気を奮い起こし、ノックをすると部屋のなかに入った。
「食器をお下げしましょうか、旦那様」ミスタ・スルースは頷いた。
それから彼は立ちあがり、聖書を閉じた。「もう寝ようと思います。へとへとに疲れましたよ。長くてとてもくたびれる一日でした、ミセス・バンティング」
奥の部屋に彼が消えると、ミセス・バンティングは椅子にのってミスタ・スルースの気分を害した例の絵をはずしだした。どの絵も壁に見苦しい跡を残したけれど――それくらいは仕方がなかった。
彼女はバンティングに聞こえないよう足音をひそめ、二つずつ絵を下に運んでは自分のベッドの後に立てかけた。
第四章
ミセス・バンティングは翌日の朝、実に、実に、久しぶりに、幸せな気分で目を覚ました。
しばらくはどうしていつもとちがう気分でいるのか、わけが分からなかったが、次の瞬間、はっと思い出した。
何という安心感だろう、二階の、ちょうど自分の頭の上に下宿人がいるということは。彼は、彼女がベーカー街のお屋敷のオークションでほくほくしながら買いこんだ上等のベッドに横たわっており、家賃として毎週二ギニーを支払ってくれる!彼女は何となくミスタ・スルースがいつまでも下宿してくれそうな気がした。そうならないとしても別に彼女の責任ではない。あの人の、何て言うのだろう、変人ぶりについて言えば、まあ、誰だって一つくらい妙な癖があるものだし。しかし起きあがって、時間がたつにつれ、ミセス・バンティングは少しずつ心配になってきた。というのは新しい下宿人の部屋から物音が一つも聞こえてこなかったからである。しかし十二時になると客間の呼び鈴が鳴った。ミセス・バンティングは急いで二階にあがった。ミスタ・スルースのご機嫌を取り、意を満たそうと、それはもう必死だった。なにしろ恐るべき破滅まであと半歩というところを彼に助けられたのだ。
下宿人はとうに起きて身支度をすっかり調えていた。客間の真ん中にある丸テーブルに座り、女主人の大型聖書を前に広げていた。
ミセス・バンティングが入ってくると顔をあげた。彼女はその疲れ切った表情が気になった。
「コンコーダンスをお持ちじゃなかったですか、ミセス・バンティング?」
彼女は首を横に振った。コンコーダンスが何か、見当もつかなかったが、そんなものがないことは確かだった。
新しい下宿人はつづいて買ってきてほしい物を並べたてた。彼が持ってきた鞄には文明的生活に必要な小物――たとえば櫛とか剃刀とか歯ブラシ、そしてもちろん寝巻きなど――が入っているだろうと思っていたのだが、しかしどうやらそうではなかったらしい。ミスタ・スルースは今あげたようなものをみんな買ってきてほしいと頼んだからである。
おいしそうな朝食を用意してから、ミセス・バンティングは彼がとりあえず必要としている品を急いで買いに出かけた。
財布のなかにまたお金が入っているのだと思うと胸が躍った。それは他人のお金であるだけではない。今まさにこうして気持ちよく働き、自分のものにしようとしているお金でもあるのだ。
ミセス・バンティングはまず近所の小さな床屋へむかい、櫛と剃刀を買った。妙な、きつい臭いのする店で、彼女は早々にそこを出た。彼女の注文を聞いた外国人が、二日前に起きた復讐者の猟奇的殺人、バンティングに病的な興味を抱かせたあの事件についてしきりに話しかけようとするものだから、なおさら長居するわけにはいかなかった。
その話はミセス・バンティングの神経をかき乱した。このような日に痛ましい不愉快なことは考えたくなかった。
家に帰り、買ってきた品々を下宿人に渡した。ミスタ・スルースはそのどれにも満足し、丁寧に感謝の意をあらわした。しかし寝室を整えましょうかと尋ねると、顔をしかめ、ひどく怒ったような色を浮かべた。
「夕方まで待ってください」彼は急いで言った。「昼はずっとうちにいることにしているんです。明かりが灯るまで外を歩く気にならないんですよ。わたしは少々、ほんの少々、あなたが慣れていらっしゃる下宿人とちがうかもしれませんが、ミセス・バンティング、どうか我慢してください。それからお願いがあります。問題について考えているときは決して邪魔しないでください――」彼は急に言葉を切り、それから重々しく言い足した。「生と死にかかわる重大な問題ですから」
ミセス・バンティングは快くその要望に応じた。ミスタ・スルースの女主人は、その几帳面な態度と規律にうるさい性格にもかかわらず、女性らしい女性だった。つまり男の気まぐれや奇癖に対して限りない忍耐力を持っていたのだ。
もう一度下に降りたとき、驚きがミスタ・スルースの女主人を待ち受けていた。しかしそれはいたって嬉しい驚きだった。上で下宿人と話しているあいだに、バンティングの若い友達、刑事のジョー・チャンドラーが訪ねてきたのだ。居間に入ろうとしたとき、夫がテーブル越しにジョーにむかって十シリングを押しやるのが見えた。
ジョー・チャンドラーのハンサムで気さくな顔が満足に輝いていた。お金が返ってきたからではない。どうやらバンティングが話していた知らせ――理想的な下宿人があらわれ、突然彼らにすばらしい運がむいてきたというニュース――を聞いて喜んでいたのである。
「ミスタ・スルースはお出かけになるまで寝室の整理をしてほしくないんですって!」と彼女は大きな声で言い、一休みしようと椅子に腰をおろした。
下宿人は朝食をおいしく食べており、彼女はほっと一息ついた。しばらくは彼のことを考える必要はない。あと少ししたら、下に降りて自分とバンティングのディナーを作ろう。彼女はジョー・チャンドラーに、いっしょに食事をしていけばいいわ、と言った。
彼女は若者をやさしくもてなしたかった。ミセス・バンティングはめったに襲われたことのない気分――目にするものすべてに喜びを感じる気分になっていた。いや、それだけではない。バンティングがジョー・チャンドラーにあの忌まわしい復讐者の殺人の最新情報を求めたとき、おざなりにではあったけれど、彼の話に最後まで聞き入ったのである。
バンティングがその日の朝からまた取りはじめた朝刊は、今やロンドンじゅうで話題になり出している奇怪な謎を三段にわたって報じていた。バンティングは朝食を食べているときその記事の一部を読みあげ、ミセス・バンティングは思わず身震いするような興奮を感じたのだった。
「噂によると」とバンティングは用心深く前置きして言った。「噂によるとだね、ジョー、警察は手がかりをつかんでいるけど、発表しようとしないんだって?」彼は期待するような目で訪問者を見つめた。バンティングにとって、チャンドラーがロンドン警視庁の刑事であるという事実は、この若者に一種不吉な栄光を帯びさせているのだ。とりわけ今、身の毛もよだつ、謎に満ちた犯罪が、この都市を驚愕と戦慄に陥れているときは。
「そりゃちがいますよ」とチャンドラーはゆっくりと言った。当惑したような、憤慨するような表情が感じのいい冷静な顔にひろがっていった。「警視庁が手がかりをつかんでるなら、ぼくも大助かりですけど」
ミセス・バンティングが口をはさんだ。「どうしてなの、ジョー」彼女は優しくほほえんだ。若者の仕事熱心な態度を彼女は好ましく思っていた。ジョー・チャンドラーは彼らしい、ゆっくりした、着実なやり方で、ひたむきに、真剣に仕事に取り組んだ。職務に全身全霊を傾けていたのである。
「うん、実をいうと」と彼は説明した。「今日からぼく、この事件の捜査に加えられたんです。ミセス・バンティング、警視庁はいらだってますよ、実際。ぼくらは、それこそ、みんな必死です。このまえ事件が起きたとき、通りで交通整理をしていた巡査にはまったく同情しますよ」
「本当かね!」バンティングは信じられなそうに言った。「警官がいたのかい?現場のすぐ近くに」
この事実は新聞では報じられていなかった。
チャンドラーは頷いた。「その通りですよ、ミスタ・バンティング!彼はくやしくて気が狂いそうだって話です。叫び声は聞こえたんだけど、注意を払わなかったんですって。ほら、ロンドンのあの辺りじゃ叫び声なんて珍しくないですから。ああいう貧民窟じゃいつも喧嘩やいさかいが起きてるんです」
「通り魔が名前を書いた灰色の紙を見たかい」バンティングは熱心に尋ねた。
三角形の灰色の紙が、犠牲者のスカートにピンで留められ、そこに赤い無骨な活字体の字で「復讐者」と書きしるされていた、という噂が大衆の想像力を激しくかきたてていた。
丸い、肉付きのいい顔は答えを聞きたくてうずうずしていた。両肘をテーブルについて期待するように若者を見つめている。
「ええ、見ましたよ」とジョーは短く答えた。
「妙ちきりんな名刺だねえ!」バンティングは笑った。その思いつきがおかしくてたまらなかった。
しかしミセス・バンティングは顔色を変えた。「冗談を言うようなことじゃありません」と彼女はたしなめるように言った。
チャンドラーは彼女のほうに加勢した。「ほんと、冗談じゃありませんよ」と彼はしみじみと言った。「この仕事で見せられたものは忘れられそうにありません。あの灰色の紙切れですがね、ミスタ・バンティング――いや、三枚の灰色の紙切れですがね」と彼は急いで言い直した。「今、警視庁にあることは知っているでしょう――あれは鳥肌ものですよ!」
そう言って彼は飛びあがった。「そうだ、こんなふうに楽しく時間をむだにしているわけにはいかない」
「一口でもディナーを食べていかない?」とミセス・バンティングはしきりに誘った。
しかし刑事は首を振った。「いいえ。出かける前に食べてきたんです。ぼくらの仕事は変わった仕事なんですよ。大体のことは、何て言うか、自由にやっていいんだけど、でも怠けている暇もないんです、本当に」
彼はドアのところで振り返り、いかにも何気ないふうをよそおって「ミス・デイジーはまた近々ロンドンに来ないんですか」と訊いた。
バンティングは首を振ったが、顔は輝いていた。彼は一人娘が可愛くてたまらなかったのである。めったに会えないことが残念だった。「いいや。予定はないよ、ジョー。わたしらが『|伯母さん《オールド・アーント》』と呼んでる例のご老人がなかなか手もとから離そうとしないのさ。娘が六月に一週間うちに泊まったときは、気が気でない様子だったからなあ」
「そうですか。じゃ、さようなら!」
妻が彼らの友人を送り出すと、バンティングが愉快そうに言った。「ジョーはうちのデイジーに気があるみたいだね、エレン」