入れかわった男 - 7
「お願い、わたしは会いたくない。あなたが行って。――それからエヴェラード!」
「なんだい?」
「話してくれないけど、あなたがあそこで何をしているのか、わたし、分っている」その口調は奇妙に熱を帯びていた。「彼女にやめろといわれても、言うことを聞かないで。ねずみ一匹隠れるところがなくなるまで、切って、焼いて、刻んでちょうだい。約束してくれる?」
「約束するよ」
ミセス・アンサンクは必死になって激しい動揺を抑えようとしていた。ドミニーが部屋に入ってくると、立ちあがって古風なお辞儀をした。
「ミセス・アンサンク、どういったご用件ですか」
「森のことでもう一度お話がございます。わたし、耐えられません。一晩中、斧や人夫たちの叫び声が聞こえるようで」
「ブラック・ウッドの木を切り払うことが、どうしていけないのですか、ミセス・アンサンク」ドミニーは単刀直入に尋ねた。「不愉快な汚らしい場所に過ぎないじゃありませんか。あそこにあるというだけで、ドミニー夫人の神経をめいらせるのですよ。今までも、さんざん苦しんできたというのに。あんなものは地上からきれいさっぱりなくしてしまうつもりです」
無理に装っていた恭順の見せかけが、すでに彼女の態度から消えはじめていた。
「そんなことをすれば不幸が訪れますよ、サー・エヴェラード」彼女は強情に言い張った。
「今でもあの森からは山ほど不幸がやって来ている」と彼はやり返した。
「息子の魂をかき乱すつもりですか。あなたがあそこに死体を投げ捨てた男の魂を」
ドミニーは冷静に相手を見た。得体のしれない悪意がその顔に輝いていた。唇がめくれて、そのあいだから黄色い歯がのぞいている。細めた目にともる炎は憎しみの炎だ。
「わたしは殺していません、ミセス・アンサンク。あなたの息子はあの森の暗がりからこっそり出てきて、卑怯にもわたしを襲い、格闘になったのです。襲ってきたとき、彼は気がふれていて、狂ったように向かってきました。わたしのほうが力は上でしたが、それでも生きて逃げることができたのは幸いでした。それから彼の身体には指一本触れていません。彼は倒れたところにじっと横たわっていました。森のなかに這っていって、そこで死んだのなら、わたしに責任はない。彼はわたしの命を狙ったのですよ。わたしは何もしてないのに」
「あなたは息子に不当な仕打ちを与えた」と女は呟いた。
「それも間違っています。ドミニー夫人への懸想は、彼女にとって迷惑であり、報われるようなものではなかった。彼女が抱いていたのは、ただ恐れです。そのことはこの辺の人ならみんな知っています。あなたの息子は孤独で陰気な生活破綻者だった。われわれのどちらかが殺人を胸に秘めていたとしたら、それは彼のほうであって、わたしではない。それから、あなたについてですが」ドミニーは一息ついて、こうつづけた。「もう復讐は気の済むほどやったでしょう、ミセス・アンサンク。妻を狂気に追いやったのはあなただ。あなたの息子の魂とやらを恐れるようになったのは、あなたがそう吹きこんだからです。帰ってくるのがあと二年遅ければ、妻は今頃、精神病院に送られていたかもしれない」
「あなたはアフリカでのたれ死にすればよかったのよ!」と女は叫んだ。
「度が過ぎますよ、あなたの悪意は。わたしの言うことを聞いて、息子さんの魂が今もブラック・ウッドに住み着いているなんて、馬鹿なことを考えるのはやめなさい。どこか違う土地へ行き、年金暮らしをして、忘れることです」
彼は窓のほうに歩いていった。彼女の目はいぶかるようにその姿を追った。
「噂を聞きましたよ」彼女はゆっくりと言った。「あちこちであなたの噂がささやかれている。ときどき、わたしも疑ったのです。あなたが喋るたびにね。あなたは本当にエヴェラード・ドミニーですか」
彼は振り向いて、彼女を正面から見た。
「それ以外の誰だというのですか」
「本物じゃないと思っている人が一人います。あなたの奥様ですよ。あなたの傲慢なやり方に接した人から、おかしな話を聞きました。あなたはわたしが覚えているエヴェラード・ドミニーよりも情け容赦がない。あなたが偽者だとしたら、どうなるのでしょう」
「それを証明しさえすれば、ミセス・アンサンク、少なくともブラック・ウッドの一部はそのまま残ることになるでしょう。ただし、いささか難しいとは思いますがね――失礼だが、呼び鈴を鳴らさなければならない。これ以上、お引き留めする理由もないようだから」
彼女は不承不承立ちあがった。その態度はふてくされ、反抗的だった。
「あなたは不幸を招き寄ようとしている」と彼女は警告した。
「安心しなさい。不幸が来ても、対処の仕方を心得ていますから」
ロザモンドは村から歩いてきたハリソン医師とテラスに立っていた。
「いいところに来ましたね、先生。おつき合いしてくれる人がいなかったので、ポートワインを味ききせずに置いてあるんですよ。しばらく二人で話をしたいんだが、かまわないかい、ロザモンド」
彼女は快く頷いた。医師は主人のあとについて食事室に入り、デザートの片づけられていないテーブルについた。
「あの老婦人が面倒でも?」医師はもじゃもじゃした灰色の眉の下から鋭い視線を向けてきた。
「本気で邪魔立てしようと考えているみたいですね」ドミニーは客のグラスをいっぱいにしながら答えた。そして短い間を置いて話しつづけた。「個人的には、今の状況はまえから抱いていた疑いをますます強めるものだと思っています。ご存じのように、先生、わたしはある種の事柄に関しては、徹底した物質主義者です。不衛生な森を切り払ったら、天使のような息子の魂が冷たい世界に放り出されるなどと怯えている、執念深い母親の言うことなど、毛ほども信じていません」
「君はあそこに何がいると思っているのだ?」医師は直裁に尋ねた。
「今は言いたくありません。途方もないと思われるかも知れませんから」
「今日の午後に受け取った伝言には、緊急と書いてあったが」
「緊急の用件です。是非ともお願いしたいことがあります――今晩、ここに泊まっていただけないでしょうか」
「何か起きるとでも?」
「少なくとも用意だけはしておこうと」
「喜んで泊まるよ」と医師は約束した。「手回り品をいくつか貸してもらえるだろうね。寝るところはドミニー夫人の部屋の近くに頼む。ところで」と彼は言いかけて、口ごもった。
「先生の忠告、というか、命令はずっと守りましたよ」ドミニーはやや語気荒く相手の言葉をさえぎった。「必ずしも容易ではありませんでした、特にロンドンでは。ロザモンドは妄想から解放されていましたから。――今晩か、あるいは近々起きる事態に、大きな期待をかけています」
医師は同情するように頷いた。
「君は正しい方向に向かっていると思うよ」
ロザモンドはガラス戸を通って、彼らのところに来ると、ドミニーのそばに座った。
「どうして陰謀者みたいにささやいているの」
「陰謀者だからだよ」と彼は朗らかに答えた。「ハリソン先生に今晩泊まっていくよう、お願いしたんだ。わたしたちと同じ棟に部屋を取ってほしいそうだ。女中に知らせておいてくれないか」
彼女は考えながら頷いた。
「もちろんよ。準備のできている部屋がいくつかあるわ。わたしたちがお客様を連れてくるかもしれないって、ミセス・ミジレイは思っていたんですって。ハリソン先生には気持ちよく泊まっていただけると思うわ」
「その点は心配していませんよ、ドミニー夫人。できるだけ、あなたの部屋に近いところをお願いします」
彼女の顔にかすかな不安が浮かんだ。
「今晩、何か起きるとお考えなの?」
「今晩か、近いうちにね。用心に越したことはない。怖くはないだろう?先生とわたしが両側から守っているんだから」
「わたしにとって怖いことは一つしかないわ」彼女はどこか謎めいた返事をした。「最近、とっても幸せだったから」
ドミニーは普段着に着替えて、太い紐を身体に巻きつけた。ポケットに拳銃、手には仕こみ杖を持ち、夜になってから真夜中過ぎまで、大きなツツジの茂みの陰に隠れて、屋敷とブラック・ウッドのあいだに広がる、ほの暗い庭園を監視した。月は出ていなかったが、晴れた夜で、うっすらとくすんだ闇に目が慣れると、あたりの風景と、そこを動くものの姿がぼんやり見分けられた。待機している数時間のあいだに、アフリカの奥地で身につけた習性が本能的によみがえったようだった。あらゆる感覚が張りつめ、活動をはじめた。どんな夜の声も――ブラック・ウッドに潜むフクロウが、何かに慌てて鳴く声も含めて――一つ一つがはっきりと聞きとれ、その意味も察しがついた。時計を見て、もうすぐ二時になることを知ったとき、はじめて何かが起こりそうな気配を感じた。庭園を横切り、彼のほうに向かってくる、かすかな足音が聞こえた。奇妙な不規則なリズムを持ち、低い丘の向こう側からやってくるらしかった。四つんばいのまま身体を持ちあげ、目を凝らした。視線をある一点、自分と丘のあいだに広がる、何もない庭園の一部分に集中させた。足音は止まり、また動き出した。視界の開けた場所に黒い影があらわれた。動きの不規則な理由はすぐに判明した。それは四つんばいになって動いたかと思うと、次の瞬間には二本足で立ち、また四つんばいに戻るのだ。それがさらに近づいてきたとき、ドミニーは目をそらすことなく杖を脇に置いた。それはテラスに到達すると、ロザモンドの窓の下で止まった。彼がしゃがんでいるところから六ヤードしか離れていない。彼は落ち着いて待った。もうすぐあることが起こるはずだと思っていた。そのとき、風ひとつない夜の静寂を破って、あの聞き慣れた、この世のものとは思えない叫び声が響き渡った。ドミニーは最後のこだまが消えるまで待った。そして上体を屈めたまま数歩飛び出したかと思うと、腕を伸ばした。最後の悪魔の叫び声が八月の夜更けの深いしじまをもう一度破った。その声は新たな恐怖におののくようにかすかに震え、尾を引いて消えた。張りつめた喉の奥で声を粉砕した指が、不浄な命の最後の光をも粉砕してしまったかのように。
しばらくしてハリソン医師があたふたとあらわれたとき、ドミニーはテラスに座ってさかんに煙草をふかしていた。数ヤード離れた地面には黒いものがじっと動かず横たわっている。
「何だね、これは」医師は息を呑んだ。
ドミニーは初めて動揺した様子を示した。声はつかえ、ひび割れていた。
「そばで見てください、先生。手も足も縛ってあります。ロジャー・アンサンクの魂がどこに隠れていたか、お分かりになるでしょう」
「何かと思えば、ロジャー・アンサンク本人じゃないか」医師は強くさげすむように言った。「けだものみたいになりおって!」
召使いたちが列をなして外に走り出てきた。ドミニーはさっそく指示を出した。
「車庫に電話しろ。誰か一人、ノリッジの病院に向かえ。先生、上に行って妻を看てくれませんか」
生まれてからずっとつづいてきた習慣が破られた。完全無欠の沈黙せる自動人形パーキンスが思わず勢いこんで質問した。
「旦那様、あれは何でございます?」
頭上で窓を開ける音がした。そのとき、パーキンスが退職金を求めたとしても、それは決して戯れに要求したのではなかっただろう。ドミニーは小さな半円形に居並ぶ召使いを見て、声をはげました。
「これでロジャー・アンサンクの幽霊などというたわごとはお終いだ。ここに横たわっているのは半分けものになり、半分人間のまま残っているロジャー・アンサンクだ。どういうわけか――もちろん狂人にしか分からない理由なのだろうが――彼は今までずっとブラック・ウッドに隠れていたのだ。母親は彼の共犯者で、食べ物を与えていたのだろう。彼は今も生きていたのだ、見るもいとわしい姿で」
茫然とささやきかわす声が小さく聞えた。ドミニーは淡々とした口調に戻った。
「おそらく最初はわれわれとこの屋敷に復讐をするつもりだったのだろう。不当な仕打ちを受けたと思いこんで。しかし、この男は、近所に越してきたころから気がふれていた。行動もずっとおかしかった――ジョンソン」ドミニーは体格のいい、迷信に振り回されない常識家の召使を選んで言った。「こいつをノリッジ病院に連れて行く用意をしろ。昼間、わたしが行けないようなら、手紙を送って知らせると伝えてくれ。他の者はパーキンス以外、寝室に戻りたまえ」
小さく驚きの声をあげながら、彼らは散りはじめた。すると一人が足を止め、庭園の向こうを指差した。信じがたい素早さでやってきたのは,黒ずくめの痩せこけたレイチェル・アンサンクだった。ときどき足元がふらついたが、それでもあっという間に彼らのなかに割りこんできた。よろめきながら、うずくまる人影に駆け寄ると、すとんと膝をついた。手を見えない顔の上に置き、目はドミニーをにらんだ。
「とうとう捕まえたのね」彼女は息を切らして言った。
「ミセス・アンサンク」ドミニーの声は厳しかった。「ちょうどいい。息子さんに付き添ってノリッジ病院に行きなさい。二分後には車が来ます。あなたには何も言うことはない。この哀れな生き物をこんな状態で生かしつづけ、わたしが不在のあいだ、その呪われた復讐欲を満たしてやろうとしたことに対しては、あなた自身の良心が十分な罰を与えるだろう」
「わたしが食べ物を持って行かなければ、この子は死んでいた」と彼女は呟いた。「わたしは張り裂けた女の胸が、絞り出せるかぎりの涙を流し、この子に戻ってくるよう頼んだ」
ドミニーは反論した。「しかし、あなたは無害な女性に復讐するという卑劣な陰謀に加担した。夜な夜な屋敷に近づいて、この窓の下で、化け物のような叫び声をあげるのを、一言もいさめることなく、やらせつづけた。その忌まわしい目的が何であるか、あなたはよく知っていたはずです――神経の弱った女性を守らなければならない立場だったのに。しかも妻はあなたを信頼していた。あなた方はどちらも悪党だが、あなたは気のふれた息子さんより悪党だ」
女は返事をしなかった。膝をつき、倒れ伏した影の上に身を屈めたままだった。その影はいまや唇からかすかなうめき声を漏らしていた。車庫から出てきた車のライトが光った。鉄門を通り、数ヤード彼らのほうににじり寄った。
「なかに運びこめ」とドミニーは命じた。「ジョンソン、出発したら、すぐに縄をゆるめてやれ。抵抗する力はない。病院に着いたら、わたしも行くと伝えてくれ。たぶん今日の日中か、明日になると思う」
軽くぶるっと身震いしてから、二人の男はかがみこんで仕事に取りかかった。囚われの身となった男は終始、独り言を呟いていたが、暴れることはなかった。レイチェル・アンサンクは彼の隣に席を占めると、もう一度ドミニーのほうを振り返った。すっかり打ちひしがれた様子だった。
「わたしたちを厄介払いできましたね」彼女はすすり泣いた。「たぶん永遠に。わたしたちのことを悪し様におっしゃいましたが、ロジャーは――悪いばかりの人間ではありません。時には優しくなることだってあるのです。そんなときはまるで赤ん坊みたい。あそこに住み着いたのも風や木や鳥が大好きだったからなのです。正気に戻ったら――」
彼女は言葉をつづけることができなかった。ドミニーの返事は素早く、思いやりがこもっていた。彼は上の窓を指さした。
「ドミニー夫人が回復したら、あなたと息子さんのことは許してさしあげます。もし回復しなかったら、あなた方二人が地獄に落ちるよう祈ります」
車は走り去った。屋敷のなかに戻ろうとした彼は、入り口のところでハリソン医師に出会った。
「奥さんは今、気を失っている。良い兆候なのかもしれない。あの不自然な落ち着きぶりは気に入らなかったからね。意識不明の状態は何時間も続くよ。さあ、ウイスキー・ソーダを一杯くれないか!」
朝日が庭園に降り注ぐ頃になって、二人の男はようやく別れることになった。彼らはあたりを見回しながら、しばらく立っていた。ブラック・ウッドからはのこぎりの音が聞こえてきた。人夫の小隊はもうテントから出ていたのだ。倒れる木の音が朝の仕事のはじまりを告げた。
「あれは継続するんだね」と医師が訊いた。
「木の株も、藪も、草の茂みも、最後の一つがなくなるまで」ドミニーの口調が急に熱をおびた。「地肌しか残らなくなるまで、あの場所は刈り尽くします。毒々しい沼地は空になるまで水を抜きます。あの汚らしい場所は前から好きじゃなかった。彼女にとって耐えがたい苦痛でしかないと知ったときから。わたしがここの主人でいられるのも、そう長いことではないでしょう、先生――わたしの前途には辛い運命が待ち構えています――しかし、わたしのあとに来るものは、あの呪われた場所の毒気に悩まされることはありません」
医師は唸った。心のなかで思ったことを、彼は口にしなかった。
「その通りかもしれないね」と彼は認めた。
第二十九章
地獄の業火のような午後の熱気――奇妙なことにそれはドミニーに急接近する嵐を予告するものでもあったが――その熱気がドミニーを書斎からテラスへ向かわせた。隣の椅子にもたれていたのは、真っ白なフラノのスーツを着たエディ・ペラムだった。ブラック・ウッドの謎が解けて五日目のことだった。
「ここに呼んでくれて感謝するよ」若者はにこやかにそう言い、脇に置いてあるタンブラーに手を伸ばした。「氷さえあれば、こんな天気の田舎は天国だ。しかもロンドンときたらぞっとしない噂なんぞにあふれているからね。奥様の容態はどうなんだい」
「意識不明のままだよ。しかし医者はこれで良しとすっかり満足している。目を覚ます瞬間が問題だな」
若者は快方に向かえばいいねと呟き、その話を切りあげた。彼の目は遠くの小さな砂埃に焦点を合わせていた。
「今日、誰か来るのかい」
「来てもおかしくないさ」素っ気ない返事がかえってきた。
若者は立ちあがってあくびをし、伸びをした。
「ぼくは消えるとするか。おやおや!」彼はふと足を止め、感心したようにこう言った。「その軍服のチュニックは立派な仕立てだね、ドミニー。この国が切羽詰まってひ弱なぼくでもかまわず外地に送り出してくれるときがきたら、君の仕立て屋を訪ねることにしよう」
ドミニーはにっこりと笑った。
「これは地元の義勇農騎兵団のいでたちだよ。敵は君を捕まえても、警防団だと思うだろう」
ペラムが出て行くと、ドミニーはガラス戸を通って書斎に戻った。机の前に座り、何通か手紙を見ていると、数分後、シーマンが部屋に通されてきた。ほんの一瞬、筋肉がこわばり、身体が緊張した。次の瞬間、再会を祝するように伸ばされた訪問者の手に気づき、緊張は解けた。シーマンは汗をかき、大声を出し、興奮していた。
「やっと会えたね。おい、どうした《ドナー・ウント》!その格好は何なんだ」
「十三年前にノーフォーク義勇農騎兵団を脱退してしまっていたのさ。でもうまく戻ることができたよ。事態が緊迫してきたからね――」
「うむ、周到だな」シーマンの重々しい声が彼をさえぎった。「君は期待通りの男だよ。用意周到、やることに抜かりがない。だからこそ」彼は少し声をひそめた。「われわれは世界でもっとも優秀な民族なのだ。何よりもまず一杯やろう。喉がからからだ。まったくなんて日だろう。太陽を隠していた雲にまで地獄のような熱気がこもっている」
ドミニーは呼び鈴を鳴らし、氷入りのホック・アンド・セルツァーを持ってくるように命じた。シーマンはそれを飲むと安楽椅子に身を投げた。
「その仕事のせいで国外に行かされる心配はないのだろうね」彼は相手の軍服を顎で示しながら、やや不安そうに尋ねた。
「今のところは、ね。わたしは少々年がいっているから、先発隊に加えられることはない。今までどこにいたんだい」
シーマンは自分の椅子を少し引き寄せた。
「アイルランドだ。ほったらかしにしてすまなかった。だが、まだ君の出番じゃないからね。イギリスがどういう抑留政策を取るのか、ちょっと不安だったので、アイルランド旅行は中止せざるを得なかった」
「で、イギリスは抑留政策をどうすることにしたんだい」
「政府はいま協議中だよ」シーマンはくすくすと笑った。「逃げ出さなくちゃならなくなるまで六ヶ月は間違いなく余裕があるな。ところで、どうして田舎のほうに来たのかね」
「ターニロフが帰国してから、都会がいやになったんだよ。こちらで新兵募集の仕事も頼まれていたし」
「ターニロフは――例の小冊子を君に預けていったんだね」
「そうだよ」
「どこにある」
「安全なところさ」
シーマンは額の汗を拭いた。
「そうでなくちゃ困るよ。焼いてしまえという命令を受けたんだ。あとでさっそくその話をしよう。君から離れているとき、ときどき心配のあまりいらいらすることがある。馬鹿げているようだが、君の手元には――例の地図やら、フォン・ターニロフの回想録やら――世界中でやっているわが国のプロパガンダを台無しにするものがあるからね」
「どちらも安全なところにしまってある」ドミニーは安心させるように言った。「ところで、君はいつもの用心を忘れていることに気がついているかい」
「どういうことだ」
「今、座ろうと腰を屈めたとき、ポケットが拳銃の形にふくらんでいた。分かっていると思うが、君のような名前を持ち、イギリス人といっても帰化しただけの人間が、この時期、小火器を持ち歩くというのは、言い訳の立たない無思慮な振る舞いだよ」
シーマンはポケットに手を突っこみ、拳銃を机に投げだした。
「君の言う通りだ。預かっておいてくれ。そいつはアイルランドに持っていったんだ。あの驚くべき国では何が起こるか分からないから」
ドミニーは何気なくそれをつかんで、自分が座っている机の引き出しにしまいこんだ。
「これからわれわれが使う武器は狡猾と策略だ。残念だが、君とわたしは、今までのように頻繁に顔を合わせることができない。あと数ヶ月、イギリスをそっとしておきたかったのだが、それができなかったのは、いろいろな意味で不運だった。しかしこうなったからには、それに対処するしかない。君は事実上、誰からも疑われることのない地位を築きあげた。偉大な将軍にお仕えする者のなかでも、君は輝かしい、独自の位置にある。わたしがこれから君に近づくとしたら、それは同情と援助を求める時だろう、先見の明あふれるイギリス人どもに疑われてね!」
ドミニーは頷いた。
「今晩は泊まっていくだろう?」
「そうさせてもらえるとありがたい。この先、何ヶ月も、こんなふうに親しく接触することはないだろう。われらが友人、パーキンスが、この機会を葡萄酒で祝ってくれるかな」
「つまりドミニー家秘蔵の白葡萄酒とポートワインを、祖国の栄光のために飲もうというわけだね」
「祖国の栄光か」シーマンは相手の言葉をくり返した。「その通りだ、友よ――あれは何の音だね?」
家の前の道を一台の車が通った。ホールで人声がし、ドアがノックされ、女の服の衣擦れの音がした。やや慌てたパーキンスが来客を告げた。
「アイダーシュトルム王女と――紳士の方がお見えになっています。王女は緊急の用だとおっしゃっています」彼は申し訳なさそうに主人に向かって言った。
王女はすでに部屋のなかに入っていた。そのあとから地味な黒いスーツに白いネクタイをしめ、山高帽を手にした小柄な男がついてきた。男は厚い眼鏡を通して部屋のなかを一瞥した。ドミニーは最後が訪れたことを悟った。彼らのうしろでドアが閉まった。王女はさらに数歩、部屋のなかに進んできた。その手がドミニーに向かって差し伸ばされたが、挨拶のためではなかった。白い指がまっすぐ彼を差した。彼女は連れの男のほうを振り向いた。
「あの男ですか、シュミット先生」
「何てことだ、あのイギリス人だ!」とシュミットは言った。
数秒間、水を打ったような静寂がその場を支配した。四人のなかでいちばん落ち着いていたのはドミニーだっただろう。王女は怒りに顔が真っ青になった。彼女が口をきいたとき、激しい感情が言葉の背後で嗚咽しているように思われた。
「エヴェラード・ドミニー。わたしの恋人に何をしたの。レオポルド・フォン・ラガシュタインをどうしたの」
「彼は運命に出会ったのです。わたしを陥れようとしていた運命に。わたしたちは争い、わたしが勝った」
「殺したの?」
「殺しました」ドミニーはおうむ返しに言った。「そうせざるを得なかったのです。死体はブルー・リバーの河床に眠っています」
「そしてここで偽者の生活を送っていたのね」
「とんでもない。本当の生活を送っていたのです」とドミニーは言い返した。「あなたがカールトン・ホテルで初めて話しかけてきたとき、言ったではありませんか。そのあとも何度も言いましたよ、わたしはエヴェラード・ドミニーだと。それがわたしの名前です。それがわたしの正体です」
シーマンの声はどこか遠くから聞こえてくるようだった。しばらく彼は卒中にでも襲われたかのように勇気も気力も失っていた。彼の心は過去をさかのぼった。
「わたしに会うため、君はケープタウンに来た。そのとき君はフォン・ラガシュタインの手紙をすべて持っていた。身の上も知っていたし、皇帝の命令書も持っていた」
「フォン・ラガシュタインとわたしは、キャンプでごく親密な会話を交わしたのだ。そちらのシュミット先生がご存じだろう。わたしは自分の生い立ちを話し、彼は彼の生い立ちを話した。手紙や書類は彼から奪い取った」
シュミットはしばらく両手で顔を覆っていた。肩が震えていた。
「おいたわしい!」彼はすすり泣いた。「お慕いしていたのに!酔っぱらいのイギリス人に殺されるなんて!」
「あなたが思うほど酒に溺れてはいなかった」とドミニーは冷静に言った。「不摂生にたたられていたが、ここぞという大事な時に、立ち直れないほどではなかった」
王女の視線は二人の男のあいだを行き交った。シーマンは悪夢から抜け出そうといまだにもがいているようだった。
「わたしが、初めて、たった一度だけ疑ったのは」とシーマンは口ごもるように言った。「ヴォルフが消えた夜だった」
「ヴォルフの来訪はとんだ災難だった。幸い、屋敷に秘密諜報員がいて始末してもらったけれど」
「彼の失踪はおまえの仕業だったのか」シーマンは愕然とした。
「もちろん。彼は真相を知っていて、あなたにそれを伝えようとしていたからね」
「金はどうした」シーマンは目をしばたたかせながらつづけた。「十万ポンド以上あったが」
「あれは贈り物と解釈したよ。しかしドイツの秘密諜報部が権利を主張して、わたしを訴えるのなら――」
王女が急に彼らのやりとりをさえぎった。目が燃えるように光っていた。
「あなた方は二人とも、いったい何なの」彼女はシュミットとシーマンに指を突きつけて叫んだ。「土くれか、泥人形か、知性も勇気もない生き物なの。わたしの恋人を殺し、あなたたちを欺したイギリス人がそこに立っているのに、何もしようとしない。そこであなたたちを嘲笑っているのに、手も出さず、何も言わないなんて!この男の命は神聖で犯しがたいとでも言うつもり?この男は秘密を知っているのではないの?」
「しまった!」シーマンは突然恐怖に顔を蒼白にしてうめいた。「やつは王子の回想録を持っている!皇帝の地図も!」
「とんでもない。どちらも外務省に保管してある。のちほど大いに役立つだろうと期待しているんだ」
シーマンは虎のように飛び出したが、ドミニーが突き出した拳をかろうじてよけると、ごろりと床に転がった。シュミットはじりじりとにじり寄ってきた。袖口から取り出した何かがきらりと光った。
「二対一よ!」二人が攻撃を躊躇したとき、王女は興奮して叫んだ。「わたしも武器があったらいいのに。さもなければ男だったらいいのに!」
「王女様」窓のほうから気さくな声が言った。「逆に四対二になりましたよ」
エディ・ペラムが両手をポケットに突っこみ、ガラス戸のところに立っていた。いつもはぽかんとしている顔が油断なく警戒していた。その後ろから二人の恐ろしく屈強な男が部屋のなかに入ってきた。争いはおろか、揉めることさえなかった。シーマンは驚きのあまり、完全に動転して、あっという間に手錠をかけられた。シュミットは武器を取りあげられた。奇妙な沈黙を最初に破ったのはシュミットだった。
「わたしが何をしたと言うのだ。なぜこんな扱いを受けねばならないのだ」
「シュミット先生ですね」エディは快活に訊いた。
「そうだ」と敵意に満ちた答が返ってきた。「わたしは東アフリカから来たばかりだ。出発したときは、戦争になるとは思ってもいなかった。わたしはこの男の正体を暴きに来たのだ。あいつは偽者だ――殺人者だ。ドイツ人の貴族を殺したのだ」
「あいつは大逆罪を犯したのだぞ!」シーマンはあえぎながら言った。「皇帝を欺いた!あつかましくも皇帝の御前でフォン・ラガシュタイン男爵になりすました」
フラノの若者はドミニーのほうを見やり、にやりとした。
「冗談をおっしゃるつもりはないのでしょうけど、そんなふうに聞こえますね。まずシュミット先生ですが、サー・エヴェラードが偽者だと言って非難する。その理由は、彼が自分の本名を使ったからですか?また彼を殺人者呼ばわりなさるが、相手のほうこそ彼を残忍にも殺そうとしたのですよ――ちなみにあなたもその共犯者ですからね、シュミット。そしてこちらのお友達は、イギリスとドイツの実業家のあいだに友好関係を築こうとする協会の書記をなさっているけど、サー・エヴェラードがドイツに行ってイギリスのためにやったことはけしからんとおっしゃる。でも、フォン・ラガシュタインがここイギリスでドイツのためにやっていると、あなたが信じていたことだって、同じことじゃないですか。ドイツ人というのは、おかしな、頭の悪い民族ですねえ」
「もう一度訊く」とシュミットが叫んだ。「何の権利があって、わたしを犯罪者扱いするのだ」
「犯罪者だからですよ」エディは平然と言った。「あなたとフォン・ラガシュタインは東アフリカでサー・エヴェラード・ドミニーを殺害しようとした。それにたった今、あなたがナイフを手に、忍び寄っていくのを見ました。逮捕するのに十分な理由です。シーマン、質問がありますか」
「ない」苛立たしげな返事だった。
「聞き分けがいいですね」若者は落ち着いて言った。「昨日、一昨日と、フォレスト・ヒルのお宅と、ロンドン・ウォールの事務所を捜索しました」
「もう分かった。運はわたしに味方してくれなかったのだな。皇帝には、わたしよりも有能な部下がいる。しかもありがたいことに、めかし屋とうすのろが住むこの島を、握りつぶしてしまう力をお持ちだ」
「めかし屋とはひどいことを言う」エディは憤慨したように呟いた。「しかし、とにかく、この事件を片づけてしまおう」彼は二人の部下に向かって言った。「外には軍用車輛が待っている。この男たちをノリッジ兵舎の衛兵詰所へ連れて行け。護衛兵をつけて彼らを町に送ることになっている。後ほど、わたしも行くと大佐に伝えてくれ」
王女は最前座りこんだ椅子から立ちあがった。ドミニーが彼女のほうを見た。
「王女、お話することは何もありません。しかし、これだけは覚えておいてください。フォン・ラガシュタインは冷酷にもわたしを殺そうとしました。わたしは、やろうと思えば、少しも危険を冒すことなく、彼を殺すことができました。しかし、わたしは正々堂々と渡り合いたかった。命を取るか、取られるか。わたしは祖国のために闘いました。彼が彼の祖国のために闘ったように」
「わたしはあなたを死ぬまで憎みつづけるわ。あなたはわたしの愛する人を殺したのだから。でも、女とはいえ、わたしは公平に振る舞うことを知っています。あなたはわたしに優しく、礼儀正しく接してくれた。レオポルドに対しても、たぶん、彼があなたに接する仕方以上に、気を配っていたかもしれない。あなたには二度とお目にかかりません。見送りはいりませんから、いますぐこの屋敷を出て行かせてください」
ドミニーはテラスに出るガラス戸を開け、脇に退いた。彼女は彼に一瞥もくれず姿を消した。エディがそのあと、テラスをゆっくり歩いてきた。
「いい玉だよ、あの二人は。シーマンは、ついさっき、フォーサイスという青いサージのスーツを着ていた巨漢に百ポンドを渡して、撃ち殺してくれと頼んだんだ。逃げようとしたという口実で」
「シュミットは?」
「士官の権利を主張して前部席に座らせろと言うんだ。出発前には葉巻を要求したよ!うまくやったね、ドミニー。きれいに片づいた」
ドミニーは二台の車が埃を蹴立てて走り去るのを見ていた。
「エディ、教えてくれないか。一つだけ、ずっと不思議に思っていたことがある。あのヴォルフという男、戦争もはじまっていないし、法も犯していないのに、どうして監禁できたんだ?」
若者はにやりと笑った。
「あのときは無理をして容疑をでっちあげなければならなかった。要塞の見取り図、さ」
「彼は要塞の見取り図を持っていたのか?」
「ノリッジ城の絵はがきをね」と若者は打ち明けた。「誰にも言っちゃ駄目だぜ。車で帰る前に一杯もらえるかい」
一日の騒動が終わった。異常な緊張をしいる生活がついに終わり、ドミニーは静かな、しかし湧きあがるような感謝の念を覚えた。しかし彼の心は、二階の寝室で繰り広げられている戦いに、すぐさま占領されてしまった。
晩餐のとき、老医師が上から降りてきた。彼はドミニーの食い入るような眼差しを受けて、こくりと頷いた。
「容態はいい」
「熱も異常もありませんか」
「幸いにね。肉体的にはほとんど申し分のない健康状態だ。去年の今頃と比べたら、見違えるようだ。目が覚めたら、彼女は自分を取り戻し、妄想からすっかり解放されているか、さもなければ――」
医師は一呼吸置いてワインに口をつけ、それを飲み干すと、いかにも良い酒だというように、グラスを置いた。
「さもなければ?」ドミニーは先を促した。
「さもなければ頭の一部に何らかの障害が残る。良い結果が出ることを祈っているよ。君がこの場にいてくれて本当に助かった!」
二人はろくに口もきかず、食事を終えた。そのあとは、しばらく、テラスで煙草を吸ってから、足音を忍ばせて二階にあがっていった。医師はドミニーの部屋の前で別れた。
「一時間ほど奥さんのそばについているが、そのあとは奥さん一人にするよ。何かあったときに備えて君もここにいるね?」
「います」ドミニーは約束した。
一分一分がいつの間にか一時間に変わった。ドミニーは大波のような激しい感情に揺すぶられながら、安楽椅子に座っていた。帰国した当初の記憶が痛いほどの切なさとともによみがえってきた。あの頃と同じ、心のなかをかきむしられるような、奇妙な、落ち着きのない、優しい気持ちを再び感じた。この世界という大舞台で役を演じつづけなければならないことは分かっていたが、それが遙か遠いところで起きているような、まるで人間とは違う種族の問題事であるかのような気がした。彼の全存在が狂おしいほど一つのことを期待し、その魔法のような音楽をとらえようとしている、そんな感じだった。しかし長いこと耳を澄まし、じっと待っていた音がとうとう聞こえたとき、期待は凍りついて恐怖に変わったように思えた。彼は少しだけ安楽椅子から身を乗り出した。両手は手もたれをつかみ、目はゆっくりと広がる羽目板の割れ目を見ていた。以前と同じことがくり返された。彼女は屈めた身体を伸ばして、彼のほうに近づいてきた。そのうしろで見えない手が羽目板を閉じた。彼女は腕を突き出し、輝く目にこの世の良きものすべてと愛をあふれさせ、彼のそばにやってきた。あのかすかに夢遊病者めいた様子は消えていた。こんなふうに近づく彼女は見たことがなかった。彼女はまさに本物の、生き生きとした女性だった。
「エヴェラード!」
彼は彼女をかき抱いた。最初のキスをしたとき、彼女は頭のてっぺんから足の先まで戦慄が駆け抜けるのを感じた。しばらく彼女は相手の肩に頭をもたせかけていた。
「まあ、わたし、何て馬鹿だったんでしょう!ときどき、あなたがエヴェラードでないような、夫でないような気がしていたの。でも、今、分かったわ」
彼女の唇はもう一度、彼の唇を求めた。それは何年も満たされなかった欲求に乾ききっていた。廊下では老医師がほほえみを浮かべ、こっそりと自分の部屋に戻っていった。
「なんだい?」
「話してくれないけど、あなたがあそこで何をしているのか、わたし、分っている」その口調は奇妙に熱を帯びていた。「彼女にやめろといわれても、言うことを聞かないで。ねずみ一匹隠れるところがなくなるまで、切って、焼いて、刻んでちょうだい。約束してくれる?」
「約束するよ」
ミセス・アンサンクは必死になって激しい動揺を抑えようとしていた。ドミニーが部屋に入ってくると、立ちあがって古風なお辞儀をした。
「ミセス・アンサンク、どういったご用件ですか」
「森のことでもう一度お話がございます。わたし、耐えられません。一晩中、斧や人夫たちの叫び声が聞こえるようで」
「ブラック・ウッドの木を切り払うことが、どうしていけないのですか、ミセス・アンサンク」ドミニーは単刀直入に尋ねた。「不愉快な汚らしい場所に過ぎないじゃありませんか。あそこにあるというだけで、ドミニー夫人の神経をめいらせるのですよ。今までも、さんざん苦しんできたというのに。あんなものは地上からきれいさっぱりなくしてしまうつもりです」
無理に装っていた恭順の見せかけが、すでに彼女の態度から消えはじめていた。
「そんなことをすれば不幸が訪れますよ、サー・エヴェラード」彼女は強情に言い張った。
「今でもあの森からは山ほど不幸がやって来ている」と彼はやり返した。
「息子の魂をかき乱すつもりですか。あなたがあそこに死体を投げ捨てた男の魂を」
ドミニーは冷静に相手を見た。得体のしれない悪意がその顔に輝いていた。唇がめくれて、そのあいだから黄色い歯がのぞいている。細めた目にともる炎は憎しみの炎だ。
「わたしは殺していません、ミセス・アンサンク。あなたの息子はあの森の暗がりからこっそり出てきて、卑怯にもわたしを襲い、格闘になったのです。襲ってきたとき、彼は気がふれていて、狂ったように向かってきました。わたしのほうが力は上でしたが、それでも生きて逃げることができたのは幸いでした。それから彼の身体には指一本触れていません。彼は倒れたところにじっと横たわっていました。森のなかに這っていって、そこで死んだのなら、わたしに責任はない。彼はわたしの命を狙ったのですよ。わたしは何もしてないのに」
「あなたは息子に不当な仕打ちを与えた」と女は呟いた。
「それも間違っています。ドミニー夫人への懸想は、彼女にとって迷惑であり、報われるようなものではなかった。彼女が抱いていたのは、ただ恐れです。そのことはこの辺の人ならみんな知っています。あなたの息子は孤独で陰気な生活破綻者だった。われわれのどちらかが殺人を胸に秘めていたとしたら、それは彼のほうであって、わたしではない。それから、あなたについてですが」ドミニーは一息ついて、こうつづけた。「もう復讐は気の済むほどやったでしょう、ミセス・アンサンク。妻を狂気に追いやったのはあなただ。あなたの息子の魂とやらを恐れるようになったのは、あなたがそう吹きこんだからです。帰ってくるのがあと二年遅ければ、妻は今頃、精神病院に送られていたかもしれない」
「あなたはアフリカでのたれ死にすればよかったのよ!」と女は叫んだ。
「度が過ぎますよ、あなたの悪意は。わたしの言うことを聞いて、息子さんの魂が今もブラック・ウッドに住み着いているなんて、馬鹿なことを考えるのはやめなさい。どこか違う土地へ行き、年金暮らしをして、忘れることです」
彼は窓のほうに歩いていった。彼女の目はいぶかるようにその姿を追った。
「噂を聞きましたよ」彼女はゆっくりと言った。「あちこちであなたの噂がささやかれている。ときどき、わたしも疑ったのです。あなたが喋るたびにね。あなたは本当にエヴェラード・ドミニーですか」
彼は振り向いて、彼女を正面から見た。
「それ以外の誰だというのですか」
「本物じゃないと思っている人が一人います。あなたの奥様ですよ。あなたの傲慢なやり方に接した人から、おかしな話を聞きました。あなたはわたしが覚えているエヴェラード・ドミニーよりも情け容赦がない。あなたが偽者だとしたら、どうなるのでしょう」
「それを証明しさえすれば、ミセス・アンサンク、少なくともブラック・ウッドの一部はそのまま残ることになるでしょう。ただし、いささか難しいとは思いますがね――失礼だが、呼び鈴を鳴らさなければならない。これ以上、お引き留めする理由もないようだから」
彼女は不承不承立ちあがった。その態度はふてくされ、反抗的だった。
「あなたは不幸を招き寄ようとしている」と彼女は警告した。
「安心しなさい。不幸が来ても、対処の仕方を心得ていますから」
ロザモンドは村から歩いてきたハリソン医師とテラスに立っていた。
「いいところに来ましたね、先生。おつき合いしてくれる人がいなかったので、ポートワインを味ききせずに置いてあるんですよ。しばらく二人で話をしたいんだが、かまわないかい、ロザモンド」
彼女は快く頷いた。医師は主人のあとについて食事室に入り、デザートの片づけられていないテーブルについた。
「あの老婦人が面倒でも?」医師はもじゃもじゃした灰色の眉の下から鋭い視線を向けてきた。
「本気で邪魔立てしようと考えているみたいですね」ドミニーは客のグラスをいっぱいにしながら答えた。そして短い間を置いて話しつづけた。「個人的には、今の状況はまえから抱いていた疑いをますます強めるものだと思っています。ご存じのように、先生、わたしはある種の事柄に関しては、徹底した物質主義者です。不衛生な森を切り払ったら、天使のような息子の魂が冷たい世界に放り出されるなどと怯えている、執念深い母親の言うことなど、毛ほども信じていません」
「君はあそこに何がいると思っているのだ?」医師は直裁に尋ねた。
「今は言いたくありません。途方もないと思われるかも知れませんから」
「今日の午後に受け取った伝言には、緊急と書いてあったが」
「緊急の用件です。是非ともお願いしたいことがあります――今晩、ここに泊まっていただけないでしょうか」
「何か起きるとでも?」
「少なくとも用意だけはしておこうと」
「喜んで泊まるよ」と医師は約束した。「手回り品をいくつか貸してもらえるだろうね。寝るところはドミニー夫人の部屋の近くに頼む。ところで」と彼は言いかけて、口ごもった。
「先生の忠告、というか、命令はずっと守りましたよ」ドミニーはやや語気荒く相手の言葉をさえぎった。「必ずしも容易ではありませんでした、特にロンドンでは。ロザモンドは妄想から解放されていましたから。――今晩か、あるいは近々起きる事態に、大きな期待をかけています」
医師は同情するように頷いた。
「君は正しい方向に向かっていると思うよ」
ロザモンドはガラス戸を通って、彼らのところに来ると、ドミニーのそばに座った。
「どうして陰謀者みたいにささやいているの」
「陰謀者だからだよ」と彼は朗らかに答えた。「ハリソン先生に今晩泊まっていくよう、お願いしたんだ。わたしたちと同じ棟に部屋を取ってほしいそうだ。女中に知らせておいてくれないか」
彼女は考えながら頷いた。
「もちろんよ。準備のできている部屋がいくつかあるわ。わたしたちがお客様を連れてくるかもしれないって、ミセス・ミジレイは思っていたんですって。ハリソン先生には気持ちよく泊まっていただけると思うわ」
「その点は心配していませんよ、ドミニー夫人。できるだけ、あなたの部屋に近いところをお願いします」
彼女の顔にかすかな不安が浮かんだ。
「今晩、何か起きるとお考えなの?」
「今晩か、近いうちにね。用心に越したことはない。怖くはないだろう?先生とわたしが両側から守っているんだから」
「わたしにとって怖いことは一つしかないわ」彼女はどこか謎めいた返事をした。「最近、とっても幸せだったから」
ドミニーは普段着に着替えて、太い紐を身体に巻きつけた。ポケットに拳銃、手には仕こみ杖を持ち、夜になってから真夜中過ぎまで、大きなツツジの茂みの陰に隠れて、屋敷とブラック・ウッドのあいだに広がる、ほの暗い庭園を監視した。月は出ていなかったが、晴れた夜で、うっすらとくすんだ闇に目が慣れると、あたりの風景と、そこを動くものの姿がぼんやり見分けられた。待機している数時間のあいだに、アフリカの奥地で身につけた習性が本能的によみがえったようだった。あらゆる感覚が張りつめ、活動をはじめた。どんな夜の声も――ブラック・ウッドに潜むフクロウが、何かに慌てて鳴く声も含めて――一つ一つがはっきりと聞きとれ、その意味も察しがついた。時計を見て、もうすぐ二時になることを知ったとき、はじめて何かが起こりそうな気配を感じた。庭園を横切り、彼のほうに向かってくる、かすかな足音が聞こえた。奇妙な不規則なリズムを持ち、低い丘の向こう側からやってくるらしかった。四つんばいのまま身体を持ちあげ、目を凝らした。視線をある一点、自分と丘のあいだに広がる、何もない庭園の一部分に集中させた。足音は止まり、また動き出した。視界の開けた場所に黒い影があらわれた。動きの不規則な理由はすぐに判明した。それは四つんばいになって動いたかと思うと、次の瞬間には二本足で立ち、また四つんばいに戻るのだ。それがさらに近づいてきたとき、ドミニーは目をそらすことなく杖を脇に置いた。それはテラスに到達すると、ロザモンドの窓の下で止まった。彼がしゃがんでいるところから六ヤードしか離れていない。彼は落ち着いて待った。もうすぐあることが起こるはずだと思っていた。そのとき、風ひとつない夜の静寂を破って、あの聞き慣れた、この世のものとは思えない叫び声が響き渡った。ドミニーは最後のこだまが消えるまで待った。そして上体を屈めたまま数歩飛び出したかと思うと、腕を伸ばした。最後の悪魔の叫び声が八月の夜更けの深いしじまをもう一度破った。その声は新たな恐怖におののくようにかすかに震え、尾を引いて消えた。張りつめた喉の奥で声を粉砕した指が、不浄な命の最後の光をも粉砕してしまったかのように。
しばらくしてハリソン医師があたふたとあらわれたとき、ドミニーはテラスに座ってさかんに煙草をふかしていた。数ヤード離れた地面には黒いものがじっと動かず横たわっている。
「何だね、これは」医師は息を呑んだ。
ドミニーは初めて動揺した様子を示した。声はつかえ、ひび割れていた。
「そばで見てください、先生。手も足も縛ってあります。ロジャー・アンサンクの魂がどこに隠れていたか、お分かりになるでしょう」
「何かと思えば、ロジャー・アンサンク本人じゃないか」医師は強くさげすむように言った。「けだものみたいになりおって!」
召使いたちが列をなして外に走り出てきた。ドミニーはさっそく指示を出した。
「車庫に電話しろ。誰か一人、ノリッジの病院に向かえ。先生、上に行って妻を看てくれませんか」
生まれてからずっとつづいてきた習慣が破られた。完全無欠の沈黙せる自動人形パーキンスが思わず勢いこんで質問した。
「旦那様、あれは何でございます?」
頭上で窓を開ける音がした。そのとき、パーキンスが退職金を求めたとしても、それは決して戯れに要求したのではなかっただろう。ドミニーは小さな半円形に居並ぶ召使いを見て、声をはげました。
「これでロジャー・アンサンクの幽霊などというたわごとはお終いだ。ここに横たわっているのは半分けものになり、半分人間のまま残っているロジャー・アンサンクだ。どういうわけか――もちろん狂人にしか分からない理由なのだろうが――彼は今までずっとブラック・ウッドに隠れていたのだ。母親は彼の共犯者で、食べ物を与えていたのだろう。彼は今も生きていたのだ、見るもいとわしい姿で」
茫然とささやきかわす声が小さく聞えた。ドミニーは淡々とした口調に戻った。
「おそらく最初はわれわれとこの屋敷に復讐をするつもりだったのだろう。不当な仕打ちを受けたと思いこんで。しかし、この男は、近所に越してきたころから気がふれていた。行動もずっとおかしかった――ジョンソン」ドミニーは体格のいい、迷信に振り回されない常識家の召使を選んで言った。「こいつをノリッジ病院に連れて行く用意をしろ。昼間、わたしが行けないようなら、手紙を送って知らせると伝えてくれ。他の者はパーキンス以外、寝室に戻りたまえ」
小さく驚きの声をあげながら、彼らは散りはじめた。すると一人が足を止め、庭園の向こうを指差した。信じがたい素早さでやってきたのは,黒ずくめの痩せこけたレイチェル・アンサンクだった。ときどき足元がふらついたが、それでもあっという間に彼らのなかに割りこんできた。よろめきながら、うずくまる人影に駆け寄ると、すとんと膝をついた。手を見えない顔の上に置き、目はドミニーをにらんだ。
「とうとう捕まえたのね」彼女は息を切らして言った。
「ミセス・アンサンク」ドミニーの声は厳しかった。「ちょうどいい。息子さんに付き添ってノリッジ病院に行きなさい。二分後には車が来ます。あなたには何も言うことはない。この哀れな生き物をこんな状態で生かしつづけ、わたしが不在のあいだ、その呪われた復讐欲を満たしてやろうとしたことに対しては、あなた自身の良心が十分な罰を与えるだろう」
「わたしが食べ物を持って行かなければ、この子は死んでいた」と彼女は呟いた。「わたしは張り裂けた女の胸が、絞り出せるかぎりの涙を流し、この子に戻ってくるよう頼んだ」
ドミニーは反論した。「しかし、あなたは無害な女性に復讐するという卑劣な陰謀に加担した。夜な夜な屋敷に近づいて、この窓の下で、化け物のような叫び声をあげるのを、一言もいさめることなく、やらせつづけた。その忌まわしい目的が何であるか、あなたはよく知っていたはずです――神経の弱った女性を守らなければならない立場だったのに。しかも妻はあなたを信頼していた。あなた方はどちらも悪党だが、あなたは気のふれた息子さんより悪党だ」
女は返事をしなかった。膝をつき、倒れ伏した影の上に身を屈めたままだった。その影はいまや唇からかすかなうめき声を漏らしていた。車庫から出てきた車のライトが光った。鉄門を通り、数ヤード彼らのほうににじり寄った。
「なかに運びこめ」とドミニーは命じた。「ジョンソン、出発したら、すぐに縄をゆるめてやれ。抵抗する力はない。病院に着いたら、わたしも行くと伝えてくれ。たぶん今日の日中か、明日になると思う」
軽くぶるっと身震いしてから、二人の男はかがみこんで仕事に取りかかった。囚われの身となった男は終始、独り言を呟いていたが、暴れることはなかった。レイチェル・アンサンクは彼の隣に席を占めると、もう一度ドミニーのほうを振り返った。すっかり打ちひしがれた様子だった。
「わたしたちを厄介払いできましたね」彼女はすすり泣いた。「たぶん永遠に。わたしたちのことを悪し様におっしゃいましたが、ロジャーは――悪いばかりの人間ではありません。時には優しくなることだってあるのです。そんなときはまるで赤ん坊みたい。あそこに住み着いたのも風や木や鳥が大好きだったからなのです。正気に戻ったら――」
彼女は言葉をつづけることができなかった。ドミニーの返事は素早く、思いやりがこもっていた。彼は上の窓を指さした。
「ドミニー夫人が回復したら、あなたと息子さんのことは許してさしあげます。もし回復しなかったら、あなた方二人が地獄に落ちるよう祈ります」
車は走り去った。屋敷のなかに戻ろうとした彼は、入り口のところでハリソン医師に出会った。
「奥さんは今、気を失っている。良い兆候なのかもしれない。あの不自然な落ち着きぶりは気に入らなかったからね。意識不明の状態は何時間も続くよ。さあ、ウイスキー・ソーダを一杯くれないか!」
朝日が庭園に降り注ぐ頃になって、二人の男はようやく別れることになった。彼らはあたりを見回しながら、しばらく立っていた。ブラック・ウッドからはのこぎりの音が聞こえてきた。人夫の小隊はもうテントから出ていたのだ。倒れる木の音が朝の仕事のはじまりを告げた。
「あれは継続するんだね」と医師が訊いた。
「木の株も、藪も、草の茂みも、最後の一つがなくなるまで」ドミニーの口調が急に熱をおびた。「地肌しか残らなくなるまで、あの場所は刈り尽くします。毒々しい沼地は空になるまで水を抜きます。あの汚らしい場所は前から好きじゃなかった。彼女にとって耐えがたい苦痛でしかないと知ったときから。わたしがここの主人でいられるのも、そう長いことではないでしょう、先生――わたしの前途には辛い運命が待ち構えています――しかし、わたしのあとに来るものは、あの呪われた場所の毒気に悩まされることはありません」
医師は唸った。心のなかで思ったことを、彼は口にしなかった。
「その通りかもしれないね」と彼は認めた。
第二十九章
地獄の業火のような午後の熱気――奇妙なことにそれはドミニーに急接近する嵐を予告するものでもあったが――その熱気がドミニーを書斎からテラスへ向かわせた。隣の椅子にもたれていたのは、真っ白なフラノのスーツを着たエディ・ペラムだった。ブラック・ウッドの謎が解けて五日目のことだった。
「ここに呼んでくれて感謝するよ」若者はにこやかにそう言い、脇に置いてあるタンブラーに手を伸ばした。「氷さえあれば、こんな天気の田舎は天国だ。しかもロンドンときたらぞっとしない噂なんぞにあふれているからね。奥様の容態はどうなんだい」
「意識不明のままだよ。しかし医者はこれで良しとすっかり満足している。目を覚ます瞬間が問題だな」
若者は快方に向かえばいいねと呟き、その話を切りあげた。彼の目は遠くの小さな砂埃に焦点を合わせていた。
「今日、誰か来るのかい」
「来てもおかしくないさ」素っ気ない返事がかえってきた。
若者は立ちあがってあくびをし、伸びをした。
「ぼくは消えるとするか。おやおや!」彼はふと足を止め、感心したようにこう言った。「その軍服のチュニックは立派な仕立てだね、ドミニー。この国が切羽詰まってひ弱なぼくでもかまわず外地に送り出してくれるときがきたら、君の仕立て屋を訪ねることにしよう」
ドミニーはにっこりと笑った。
「これは地元の義勇農騎兵団のいでたちだよ。敵は君を捕まえても、警防団だと思うだろう」
ペラムが出て行くと、ドミニーはガラス戸を通って書斎に戻った。机の前に座り、何通か手紙を見ていると、数分後、シーマンが部屋に通されてきた。ほんの一瞬、筋肉がこわばり、身体が緊張した。次の瞬間、再会を祝するように伸ばされた訪問者の手に気づき、緊張は解けた。シーマンは汗をかき、大声を出し、興奮していた。
「やっと会えたね。おい、どうした《ドナー・ウント》!その格好は何なんだ」
「十三年前にノーフォーク義勇農騎兵団を脱退してしまっていたのさ。でもうまく戻ることができたよ。事態が緊迫してきたからね――」
「うむ、周到だな」シーマンの重々しい声が彼をさえぎった。「君は期待通りの男だよ。用意周到、やることに抜かりがない。だからこそ」彼は少し声をひそめた。「われわれは世界でもっとも優秀な民族なのだ。何よりもまず一杯やろう。喉がからからだ。まったくなんて日だろう。太陽を隠していた雲にまで地獄のような熱気がこもっている」
ドミニーは呼び鈴を鳴らし、氷入りのホック・アンド・セルツァーを持ってくるように命じた。シーマンはそれを飲むと安楽椅子に身を投げた。
「その仕事のせいで国外に行かされる心配はないのだろうね」彼は相手の軍服を顎で示しながら、やや不安そうに尋ねた。
「今のところは、ね。わたしは少々年がいっているから、先発隊に加えられることはない。今までどこにいたんだい」
シーマンは自分の椅子を少し引き寄せた。
「アイルランドだ。ほったらかしにしてすまなかった。だが、まだ君の出番じゃないからね。イギリスがどういう抑留政策を取るのか、ちょっと不安だったので、アイルランド旅行は中止せざるを得なかった」
「で、イギリスは抑留政策をどうすることにしたんだい」
「政府はいま協議中だよ」シーマンはくすくすと笑った。「逃げ出さなくちゃならなくなるまで六ヶ月は間違いなく余裕があるな。ところで、どうして田舎のほうに来たのかね」
「ターニロフが帰国してから、都会がいやになったんだよ。こちらで新兵募集の仕事も頼まれていたし」
「ターニロフは――例の小冊子を君に預けていったんだね」
「そうだよ」
「どこにある」
「安全なところさ」
シーマンは額の汗を拭いた。
「そうでなくちゃ困るよ。焼いてしまえという命令を受けたんだ。あとでさっそくその話をしよう。君から離れているとき、ときどき心配のあまりいらいらすることがある。馬鹿げているようだが、君の手元には――例の地図やら、フォン・ターニロフの回想録やら――世界中でやっているわが国のプロパガンダを台無しにするものがあるからね」
「どちらも安全なところにしまってある」ドミニーは安心させるように言った。「ところで、君はいつもの用心を忘れていることに気がついているかい」
「どういうことだ」
「今、座ろうと腰を屈めたとき、ポケットが拳銃の形にふくらんでいた。分かっていると思うが、君のような名前を持ち、イギリス人といっても帰化しただけの人間が、この時期、小火器を持ち歩くというのは、言い訳の立たない無思慮な振る舞いだよ」
シーマンはポケットに手を突っこみ、拳銃を机に投げだした。
「君の言う通りだ。預かっておいてくれ。そいつはアイルランドに持っていったんだ。あの驚くべき国では何が起こるか分からないから」
ドミニーは何気なくそれをつかんで、自分が座っている机の引き出しにしまいこんだ。
「これからわれわれが使う武器は狡猾と策略だ。残念だが、君とわたしは、今までのように頻繁に顔を合わせることができない。あと数ヶ月、イギリスをそっとしておきたかったのだが、それができなかったのは、いろいろな意味で不運だった。しかしこうなったからには、それに対処するしかない。君は事実上、誰からも疑われることのない地位を築きあげた。偉大な将軍にお仕えする者のなかでも、君は輝かしい、独自の位置にある。わたしがこれから君に近づくとしたら、それは同情と援助を求める時だろう、先見の明あふれるイギリス人どもに疑われてね!」
ドミニーは頷いた。
「今晩は泊まっていくだろう?」
「そうさせてもらえるとありがたい。この先、何ヶ月も、こんなふうに親しく接触することはないだろう。われらが友人、パーキンスが、この機会を葡萄酒で祝ってくれるかな」
「つまりドミニー家秘蔵の白葡萄酒とポートワインを、祖国の栄光のために飲もうというわけだね」
「祖国の栄光か」シーマンは相手の言葉をくり返した。「その通りだ、友よ――あれは何の音だね?」
家の前の道を一台の車が通った。ホールで人声がし、ドアがノックされ、女の服の衣擦れの音がした。やや慌てたパーキンスが来客を告げた。
「アイダーシュトルム王女と――紳士の方がお見えになっています。王女は緊急の用だとおっしゃっています」彼は申し訳なさそうに主人に向かって言った。
王女はすでに部屋のなかに入っていた。そのあとから地味な黒いスーツに白いネクタイをしめ、山高帽を手にした小柄な男がついてきた。男は厚い眼鏡を通して部屋のなかを一瞥した。ドミニーは最後が訪れたことを悟った。彼らのうしろでドアが閉まった。王女はさらに数歩、部屋のなかに進んできた。その手がドミニーに向かって差し伸ばされたが、挨拶のためではなかった。白い指がまっすぐ彼を差した。彼女は連れの男のほうを振り向いた。
「あの男ですか、シュミット先生」
「何てことだ、あのイギリス人だ!」とシュミットは言った。
数秒間、水を打ったような静寂がその場を支配した。四人のなかでいちばん落ち着いていたのはドミニーだっただろう。王女は怒りに顔が真っ青になった。彼女が口をきいたとき、激しい感情が言葉の背後で嗚咽しているように思われた。
「エヴェラード・ドミニー。わたしの恋人に何をしたの。レオポルド・フォン・ラガシュタインをどうしたの」
「彼は運命に出会ったのです。わたしを陥れようとしていた運命に。わたしたちは争い、わたしが勝った」
「殺したの?」
「殺しました」ドミニーはおうむ返しに言った。「そうせざるを得なかったのです。死体はブルー・リバーの河床に眠っています」
「そしてここで偽者の生活を送っていたのね」
「とんでもない。本当の生活を送っていたのです」とドミニーは言い返した。「あなたがカールトン・ホテルで初めて話しかけてきたとき、言ったではありませんか。そのあとも何度も言いましたよ、わたしはエヴェラード・ドミニーだと。それがわたしの名前です。それがわたしの正体です」
シーマンの声はどこか遠くから聞こえてくるようだった。しばらく彼は卒中にでも襲われたかのように勇気も気力も失っていた。彼の心は過去をさかのぼった。
「わたしに会うため、君はケープタウンに来た。そのとき君はフォン・ラガシュタインの手紙をすべて持っていた。身の上も知っていたし、皇帝の命令書も持っていた」
「フォン・ラガシュタインとわたしは、キャンプでごく親密な会話を交わしたのだ。そちらのシュミット先生がご存じだろう。わたしは自分の生い立ちを話し、彼は彼の生い立ちを話した。手紙や書類は彼から奪い取った」
シュミットはしばらく両手で顔を覆っていた。肩が震えていた。
「おいたわしい!」彼はすすり泣いた。「お慕いしていたのに!酔っぱらいのイギリス人に殺されるなんて!」
「あなたが思うほど酒に溺れてはいなかった」とドミニーは冷静に言った。「不摂生にたたられていたが、ここぞという大事な時に、立ち直れないほどではなかった」
王女の視線は二人の男のあいだを行き交った。シーマンは悪夢から抜け出そうといまだにもがいているようだった。
「わたしが、初めて、たった一度だけ疑ったのは」とシーマンは口ごもるように言った。「ヴォルフが消えた夜だった」
「ヴォルフの来訪はとんだ災難だった。幸い、屋敷に秘密諜報員がいて始末してもらったけれど」
「彼の失踪はおまえの仕業だったのか」シーマンは愕然とした。
「もちろん。彼は真相を知っていて、あなたにそれを伝えようとしていたからね」
「金はどうした」シーマンは目をしばたたかせながらつづけた。「十万ポンド以上あったが」
「あれは贈り物と解釈したよ。しかしドイツの秘密諜報部が権利を主張して、わたしを訴えるのなら――」
王女が急に彼らのやりとりをさえぎった。目が燃えるように光っていた。
「あなた方は二人とも、いったい何なの」彼女はシュミットとシーマンに指を突きつけて叫んだ。「土くれか、泥人形か、知性も勇気もない生き物なの。わたしの恋人を殺し、あなたたちを欺したイギリス人がそこに立っているのに、何もしようとしない。そこであなたたちを嘲笑っているのに、手も出さず、何も言わないなんて!この男の命は神聖で犯しがたいとでも言うつもり?この男は秘密を知っているのではないの?」
「しまった!」シーマンは突然恐怖に顔を蒼白にしてうめいた。「やつは王子の回想録を持っている!皇帝の地図も!」
「とんでもない。どちらも外務省に保管してある。のちほど大いに役立つだろうと期待しているんだ」
シーマンは虎のように飛び出したが、ドミニーが突き出した拳をかろうじてよけると、ごろりと床に転がった。シュミットはじりじりとにじり寄ってきた。袖口から取り出した何かがきらりと光った。
「二対一よ!」二人が攻撃を躊躇したとき、王女は興奮して叫んだ。「わたしも武器があったらいいのに。さもなければ男だったらいいのに!」
「王女様」窓のほうから気さくな声が言った。「逆に四対二になりましたよ」
エディ・ペラムが両手をポケットに突っこみ、ガラス戸のところに立っていた。いつもはぽかんとしている顔が油断なく警戒していた。その後ろから二人の恐ろしく屈強な男が部屋のなかに入ってきた。争いはおろか、揉めることさえなかった。シーマンは驚きのあまり、完全に動転して、あっという間に手錠をかけられた。シュミットは武器を取りあげられた。奇妙な沈黙を最初に破ったのはシュミットだった。
「わたしが何をしたと言うのだ。なぜこんな扱いを受けねばならないのだ」
「シュミット先生ですね」エディは快活に訊いた。
「そうだ」と敵意に満ちた答が返ってきた。「わたしは東アフリカから来たばかりだ。出発したときは、戦争になるとは思ってもいなかった。わたしはこの男の正体を暴きに来たのだ。あいつは偽者だ――殺人者だ。ドイツ人の貴族を殺したのだ」
「あいつは大逆罪を犯したのだぞ!」シーマンはあえぎながら言った。「皇帝を欺いた!あつかましくも皇帝の御前でフォン・ラガシュタイン男爵になりすました」
フラノの若者はドミニーのほうを見やり、にやりとした。
「冗談をおっしゃるつもりはないのでしょうけど、そんなふうに聞こえますね。まずシュミット先生ですが、サー・エヴェラードが偽者だと言って非難する。その理由は、彼が自分の本名を使ったからですか?また彼を殺人者呼ばわりなさるが、相手のほうこそ彼を残忍にも殺そうとしたのですよ――ちなみにあなたもその共犯者ですからね、シュミット。そしてこちらのお友達は、イギリスとドイツの実業家のあいだに友好関係を築こうとする協会の書記をなさっているけど、サー・エヴェラードがドイツに行ってイギリスのためにやったことはけしからんとおっしゃる。でも、フォン・ラガシュタインがここイギリスでドイツのためにやっていると、あなたが信じていたことだって、同じことじゃないですか。ドイツ人というのは、おかしな、頭の悪い民族ですねえ」
「もう一度訊く」とシュミットが叫んだ。「何の権利があって、わたしを犯罪者扱いするのだ」
「犯罪者だからですよ」エディは平然と言った。「あなたとフォン・ラガシュタインは東アフリカでサー・エヴェラード・ドミニーを殺害しようとした。それにたった今、あなたがナイフを手に、忍び寄っていくのを見ました。逮捕するのに十分な理由です。シーマン、質問がありますか」
「ない」苛立たしげな返事だった。
「聞き分けがいいですね」若者は落ち着いて言った。「昨日、一昨日と、フォレスト・ヒルのお宅と、ロンドン・ウォールの事務所を捜索しました」
「もう分かった。運はわたしに味方してくれなかったのだな。皇帝には、わたしよりも有能な部下がいる。しかもありがたいことに、めかし屋とうすのろが住むこの島を、握りつぶしてしまう力をお持ちだ」
「めかし屋とはひどいことを言う」エディは憤慨したように呟いた。「しかし、とにかく、この事件を片づけてしまおう」彼は二人の部下に向かって言った。「外には軍用車輛が待っている。この男たちをノリッジ兵舎の衛兵詰所へ連れて行け。護衛兵をつけて彼らを町に送ることになっている。後ほど、わたしも行くと大佐に伝えてくれ」
王女は最前座りこんだ椅子から立ちあがった。ドミニーが彼女のほうを見た。
「王女、お話することは何もありません。しかし、これだけは覚えておいてください。フォン・ラガシュタインは冷酷にもわたしを殺そうとしました。わたしは、やろうと思えば、少しも危険を冒すことなく、彼を殺すことができました。しかし、わたしは正々堂々と渡り合いたかった。命を取るか、取られるか。わたしは祖国のために闘いました。彼が彼の祖国のために闘ったように」
「わたしはあなたを死ぬまで憎みつづけるわ。あなたはわたしの愛する人を殺したのだから。でも、女とはいえ、わたしは公平に振る舞うことを知っています。あなたはわたしに優しく、礼儀正しく接してくれた。レオポルドに対しても、たぶん、彼があなたに接する仕方以上に、気を配っていたかもしれない。あなたには二度とお目にかかりません。見送りはいりませんから、いますぐこの屋敷を出て行かせてください」
ドミニーはテラスに出るガラス戸を開け、脇に退いた。彼女は彼に一瞥もくれず姿を消した。エディがそのあと、テラスをゆっくり歩いてきた。
「いい玉だよ、あの二人は。シーマンは、ついさっき、フォーサイスという青いサージのスーツを着ていた巨漢に百ポンドを渡して、撃ち殺してくれと頼んだんだ。逃げようとしたという口実で」
「シュミットは?」
「士官の権利を主張して前部席に座らせろと言うんだ。出発前には葉巻を要求したよ!うまくやったね、ドミニー。きれいに片づいた」
ドミニーは二台の車が埃を蹴立てて走り去るのを見ていた。
「エディ、教えてくれないか。一つだけ、ずっと不思議に思っていたことがある。あのヴォルフという男、戦争もはじまっていないし、法も犯していないのに、どうして監禁できたんだ?」
若者はにやりと笑った。
「あのときは無理をして容疑をでっちあげなければならなかった。要塞の見取り図、さ」
「彼は要塞の見取り図を持っていたのか?」
「ノリッジ城の絵はがきをね」と若者は打ち明けた。「誰にも言っちゃ駄目だぜ。車で帰る前に一杯もらえるかい」
一日の騒動が終わった。異常な緊張をしいる生活がついに終わり、ドミニーは静かな、しかし湧きあがるような感謝の念を覚えた。しかし彼の心は、二階の寝室で繰り広げられている戦いに、すぐさま占領されてしまった。
晩餐のとき、老医師が上から降りてきた。彼はドミニーの食い入るような眼差しを受けて、こくりと頷いた。
「容態はいい」
「熱も異常もありませんか」
「幸いにね。肉体的にはほとんど申し分のない健康状態だ。去年の今頃と比べたら、見違えるようだ。目が覚めたら、彼女は自分を取り戻し、妄想からすっかり解放されているか、さもなければ――」
医師は一呼吸置いてワインに口をつけ、それを飲み干すと、いかにも良い酒だというように、グラスを置いた。
「さもなければ?」ドミニーは先を促した。
「さもなければ頭の一部に何らかの障害が残る。良い結果が出ることを祈っているよ。君がこの場にいてくれて本当に助かった!」
二人はろくに口もきかず、食事を終えた。そのあとは、しばらく、テラスで煙草を吸ってから、足音を忍ばせて二階にあがっていった。医師はドミニーの部屋の前で別れた。
「一時間ほど奥さんのそばについているが、そのあとは奥さん一人にするよ。何かあったときに備えて君もここにいるね?」
「います」ドミニーは約束した。
一分一分がいつの間にか一時間に変わった。ドミニーは大波のような激しい感情に揺すぶられながら、安楽椅子に座っていた。帰国した当初の記憶が痛いほどの切なさとともによみがえってきた。あの頃と同じ、心のなかをかきむしられるような、奇妙な、落ち着きのない、優しい気持ちを再び感じた。この世界という大舞台で役を演じつづけなければならないことは分かっていたが、それが遙か遠いところで起きているような、まるで人間とは違う種族の問題事であるかのような気がした。彼の全存在が狂おしいほど一つのことを期待し、その魔法のような音楽をとらえようとしている、そんな感じだった。しかし長いこと耳を澄まし、じっと待っていた音がとうとう聞こえたとき、期待は凍りついて恐怖に変わったように思えた。彼は少しだけ安楽椅子から身を乗り出した。両手は手もたれをつかみ、目はゆっくりと広がる羽目板の割れ目を見ていた。以前と同じことがくり返された。彼女は屈めた身体を伸ばして、彼のほうに近づいてきた。そのうしろで見えない手が羽目板を閉じた。彼女は腕を突き出し、輝く目にこの世の良きものすべてと愛をあふれさせ、彼のそばにやってきた。あのかすかに夢遊病者めいた様子は消えていた。こんなふうに近づく彼女は見たことがなかった。彼女はまさに本物の、生き生きとした女性だった。
「エヴェラード!」
彼は彼女をかき抱いた。最初のキスをしたとき、彼女は頭のてっぺんから足の先まで戦慄が駆け抜けるのを感じた。しばらく彼女は相手の肩に頭をもたせかけていた。
「まあ、わたし、何て馬鹿だったんでしょう!ときどき、あなたがエヴェラードでないような、夫でないような気がしていたの。でも、今、分かったわ」
彼女の唇はもう一度、彼の唇を求めた。それは何年も満たされなかった欲求に乾ききっていた。廊下では老医師がほほえみを浮かべ、こっそりと自分の部屋に戻っていった。