「それもさうですね、」と少《すこ》し考《かんが》へて、「しかし、私《わつし》の手賴《たよ》りにするのは彼《か》ればかりで、此頃《このごろ》は每晚《まいばん》のやうに彼《か》れを夢《ゆめ》に見《み》ます、だから私《わつし》が酒《さけ》も飮《の》まずに每日《まいにち》何《なに》か案《あん》じて暮《くら》してる樣子《やうす》を、よく腑《ふ》に落《お》ちるやうに知《し》らせてやつて彼《か》れが私《わつし》の事《こと》を夢《ゆめ》にでも見《み》るやうにさせたいんです、さうでもしないと、世《よ》の中《なか》が心細《こゝろぼそ》くつてなりません」
「隨分《ずゐぶん》六《むづ》ケ《か》敷《しい》御註文《ごちうもん》だが、力《ちから》一|杯《ぱい》工夫《くふう》して見《み》ませう」
と、私《わたし》は三十|分間《ぷんかん》も考《かんが》へ、三四|度《ど》も書直《かきなほ》して、哀《あは》れつぽい文句《もんく》を二つ三つ書《か》き加《くは》へ、認《したゝ》め終《をは》つて讀《よ》んで聞《きか》すと、津坂《つさか》は膝《ひざ》に手《て》を置《お》いて耳《みゝ》を傾《かたむ》け、感《かん》に打《う》たれてか、どんより[#「どんより」に傍点]した目《め》に淚《なみだ》をさへ浮《うか》べた。
「結構《けつこう》です〳〵」と、彼《か》れは胸《むね》の蟠《わだかまり》が融《と》けた如《ごと》く感《かん》じたらしく、手紙《てがみ》を持《も》つて勇《いさ》ましく二|階《かい》を下《お》りた。
それから五六|日《にち》後《のち》、津坂《つさか》は私《わたし》にかの水晶《すゐしやう》の印《いん》を送《おく》り屆《とゞ》けたが、それと共《とも》に、多年《たねん》大切《たいせつ》にした自分《じぶん》の見臺《けんだい》を、師匠《しゝやう》に進呈《しんてい》したさうである。私《わたし》は間《ま》もなく轉宅《てんたく》したから、その後《ご》一|度《ど》も津坂《つさか》に遇《あ》はぬ。手紙《てがみ》の遣取《やりと》りもせぬ。只《たゞ》遺物《かたみ》の印《いん》は今《いま》も座右《ざいう》にあり、その面影《おもかげ》は今《いま》も私《わたし》の目《め》に殘《のこ》つてゐる。


彼《か》れの一日

彼《か》れ――黑塚《くろづか》白雨《はくう》――は九|時《じ》に目《め》を醒《さ》ました。下女《げぢよ》の紙箒《はたき》の音《おと》が部屋《へや》の兩隣《りやうどなり》で騷々《さう〴〵》しく聞《きこ》える。電車《でんしや》の音《おと》がギイ〳〵耳《みゝ》に響《ひゞ》く。彼《か》れは今《いま》までうつら〳〵[#「うつら〳〵」に傍点]淺《あさ》い夢《ゆめ》を見《み》てゐたのだ――草山《くさやま》が赤《あか》い鉢卷《はちまき》して逆立《さかだち》して踊《をど》つてる。喇叭《ラツパ》や太皷《たいこ》で囃《はや》し立《た》てる。自分《じぶん》も手拭《てぬぐひ》を頭《あたま》に載《の》せ褄《つま》を取《と》つて踊《をど》らうとする。場所《ばしよ》は何《なん》でも七八|年前《ねんまへ》に住《す》んでた西方寺《さいはうじ》の一|室《しつ》らしい――彼《か》れはその夢《ゆめ》を考《かんが》へて厭《い》やな氣《き》がした。社《しや》には素面《すめん》でカツポレを踊《をど》る人《ひと》があるが、自分《じぶん》は何《なに》かの拍子《ひやうし》で、一度《いちど》琉球節《りうきうぶし》を唄《うた》つたため、今《いま》思《おも》ひ出《だ》しても冷汗《ひやあせ》が出《で》る。何《なん》だつてあんな夢《ゆめ》を見《み》たことか……
彼《か》れは身體《からだ》を伸《のば》して新聞《しんぶん》を取《と》り、又《また》寢床《ねどこ》へずり込《こ》んで、それを開《ひら》いた。朝日《あさひ》が障子《しやうじ》の破目《やれめ》を通《とほ》つて、新聞《しんぶん》に圓《まる》く映《うつ》り、鮮《あざや》かに光《ひか》つた。彼《か》れは一|通《とほ》り讀《よ》んで了《しま》うと、むく〳〵と起《お》き、小走《こばし》りで洗面場《せんめんば》へ行《い》つた。五|分間《ふんかん》計《ばか》り冷水《れいすゐ》摩擦《まさつ》に餘念《よねん》がない。これは十|年《ねん》も前《まへ》に身心《しん〳〵》鍛鍊《たんれん》のために初《はじ》めたので、今《いま》はその必要《ひつえう》を感《かん》じてるのではないが、只《たゞ》習慣《しふくわん》で止《や》められぬのだ。この寒《さむ》いのに醉興《すゐきよう》なと、人《ひと》も云《い》へば自分《じぶん》にも思《おも》ふ。しかし苦學《くがく》時代《じだい》の名殘《なごり》がまだ消《き》ゑてしまはぬ。
彼《か》れは朝食《あさめし》を濟《す》ますと、元町《もとまち》の停留場《ていりうば》から電車《でんしや》に乗つた。
車掌《しやしやう》が回數券《くわいすうけん》に鋏《はさみ》を入《い》れるまでは氣《き》が落付《おちつ》かなんだが、お茶《ちや》の水《みづ》を渡《わた》る時《とき》、その車中《しやちう》の役目《やくめ》が濟《す》み一安心《ひとあんしん》した。そして目《め》を閉《と》じ手《て》を拱《こまね》いた。彼《か》れはかねて往復《わうふく》の乗車《じやうしや》時間《じかん》を利用《りよう》して獨逸語《どいつご》を硏究《けんきう》するつもりで、今日《けふ》は懷中《くわいちう》にヂヤーマンコースを潜《ひそ》ませてゐるが、容易《ようゐ》に取出《とりだ》さうともしない。數寄屋橋《すきやばし》まで二十|分間《ぷんかん》、此頃《このごろ》の例《れい》により取留《とりと》めもない空想《くうさう》に耽《ふけ》つた。空想《くうさう》と云《い》つても翠帳《すゐちやう》紅閨《こうけい》が浮《うか》んで來《く》るのでもなく、天外《てんぐわい》無窮《むきう》の境《きやう》に思《おも》ひ及《およ》ぶのでもなく、彼《か》れの顏《かほ》の乾涸《ひから》びてゐる如《ごと》く、その空想《くうさう》も乾涸《ひから》びてゐる。
朝《あさ》讀《よ》んだ社《しや》の新聞《しんぶん》の記事《きじ》が斷片的《きれ〴〵》に頭《あたま》に浮《うか》び、空想《くうさう》がそれに附随《ふずゐ》して飛《と》び廻《まは》る――。自分《じぶん》が力《ちから》を籠《こ》めて書《か》いた或派《あるは》の議員《ぎゐん》買收《ばいしう》の記事《きじ》が悉《こと〴〵》く抹殺《まつさつ》され、今朝《けさ》の新聞《しんぶん》には一|行《ぎやう》も出《で》てゐない。そして下《くだ》らない記事《きじ》はどつさり[#「どつさり」に傍点]出《で》てゐる。電車《でんしや》會社《ぐわいしや》の重役《ぢうやく》の手前《てまへ》勝手《かつて》の意見《いけん》が、さも尤《もつと》もらしく長々《なが〳〵》と出《で》てゐる。あれを書《か》いたのは佐々良《さゝら》に違《ちが》ひない。彼奴《きやつ》何《なに》か魂膽《こんたん》があつて書《か》いたのだらう。怪《け》しからん奴《やつ》だ。常《つね》に新聞《しんぶん》を自分《じぶん》の利益機關《りえきゝくわん》のやうに用《もち》ひる。どう思《おも》つても怪《け》しからん。それで洒蛙々々《しやあ〳〵》として更《さら》に心《こゝろ》にも顏《かほ》にも疚《やま》しい風《ふう》はない。……紙面《しめん》の賑《にぎは》ひと云《い》ふ大憲法《だいけんぱふ》の下《もと》には、針《はり》程《ほど》のことも仰山《ぎやうさん》に吹聽《ふゐちやう》して、人《ひと》に迷惑《めいわく》を掛《か》け、讀者《どくしや》に虛僞《きよぎ》を傳《つた》へ、やうやく下宿《げしゆく》料《れう》に足《た》るか足《た》らぬの報酬《はうしう》を貰《もら》ふ。情《なさけ》ない商賣《しやうばい》、怪《け》しからん職業《しよくげふ》だ。たま〳〵正義《せいぎ》と思《おも》つて破邪《はじや》の筆《ふで》を揮《ふる》ふと抹殺《まつさつ》される――
彼《か》れの空想《くうさう》は一|轉《てん》して今日《けふ》の晝飯《ひるめし》を考《かんが》へた。蕎麥《そば》、五目鮨《ごもくずし》、餡《あん》パンが早速《さつそく》頭《あたま》に浮《うか》ぶ。どれもどれも度々《たび〳〵》の事《こと》で鼻《はな》についてる。偶《たま》にや變《かは》つた者《もの》が慾《ほ》しい。――遂《つひ》に「大新《たいしん》の天麩羅《てんぷら》」と腹《はら》の蟲《むし》が叫《さけ》んで、彼《か》れは我《われ》知《し》らず袂《たもと》から蟇口《がまぐち》を出《だ》して見《み》た。銀貨《ぎんくわ》が六十|錢《せん》ばかりある。入社《にふしや》以來《いらい》三|年《ねん》月給《げつきう》は居据《ゐすわ》りで、天《てん》ドンは十三|錢《せん》から十八|錢《せん》になつた。どうかしなくちやならん正義《せいぎ》呼《よば》はりもないもんだ。
「曲《まが》りますから御注意《ごちうい》を」と、車掌《しやしやう》が大聲《おほごゑ》で機械的《きかいてき》に云《い》つた。電車《でんしや》が激《はげ》しく動搖《どうえう》する。立《た》つてる乗客《じやうかく》が靴《くつ》の踵《かゝと》で彼《か》れの爪先《つまさき》を踏《ふ》んだ。彼《か》れは角《かど》立《た》つた目《め》で恨《うら》めしさうに相手《あひて》の後姿《うしろすがた》を見上《みあ》げた。電車《でんしや》が落付《おちつ》くと、彼《か》れは又《また》目《め》を閉《と》ぢる。
夢《ゆめ》に踊《をど》つてた草山《くさやま》の現實《げんじつ》の顏《かほ》が憎々《にく〳〵》しく浮上《うきあが》つて來《く》る。――あの野郞《やらう》、社長《しやちやう》にお謟《べつ》かつて、狡《づる》いことをしてやがる。俳優《やくしや》の投票《とうひやう》、小說《せうせつ》の懸賞《けんしやう》募集《ぼしふ》、皆《みな》彼奴《あいつ》の差金《さしがね》だ。體《てい》よく社長《しやちやう》を說《と》いて、社《しや》の發展《はつてん》の爲《ため》だと、お爲《ため》ごかしに自身《じしん》の勢力《せいりやく》擴張《ゝわくちやう》をやつてる。出勤《しゆつきん》時間《じかん》だつて少《ちつ》とも守《まも》つてゐない。朝《あさ》は遲《おそ》く出《で》て晚《ばん》は早《はや》く歸《かへ》る。よく注意《ちうい》して見《み》てるに、おれの三|分《ぶん》の一の仕事《しごと》さへして居《を》らん。それに世間《せけん》からは、やれ何《なに》新聞《しんぶん》の敏腕家《びんわんか》だの、新進《しん〳〵》小說家《せうせつか》で御座《ござ》るの、劇通《げきつう》で候《さふらふ》のと、出放題《ではうだい》な稱賛《しやうさん》をしてゐる。何《なん》だい彼《あ》れが、碌《ろく》そつぽに語學《ごがく》も出來《でき》ねば、文章《ぶんしやう》だつておれの目《め》から見《み》ると些《ちつ》とも甘《うま》くはない。腕前《うでまへ》と云《い》へば新聞《しんぶん》を甘《うま》く利用《りよう》しては本屋《ほんや》の提灯《ちやうちん》持《もち》をして、そのお禮《れい》に拙《まづ》い小說《せうせつ》を賣込《うりこ》む位《くらゐ》だ。何《なん》でも役者《やくしや》からの付屆《つけとゞけ》もありや、御馳走《ごちさう》にもなつてるらしい。昨夜《ゆふべ》だつて大坂《おほさか》役者《やくしや》に百尺《ひゃくせき》へ招待《せうだい》されたさうだ………おれは新聞《しんぶん》へ入《はい》つてから、役德《やくとく》と云《い》やあ、あれと此《こ》れと、招待《せうだい》も三|度《ど》しきや受《う》けてやしない――
空想《くうさう》はふら〳〵と一|轉《てん》する。「今日《けふ》は何《なに》を書《か》かう」、輪轉機《りんてんき》すら一|臺《だい》もない小新聞《せうしんぶん》だから、彼《か》れの如《ごと》き政治《せいぢ》智識《ちしき》の乏《とぼ》しい者《もの》も、一|週《しう》に一|度《ど》は論說《ろんせつ》を割付《わりつ》けられてあるので、今日《けふ》がその當番《たうばん》だ。彼《か》れはその問題《もんだい》を捜《さが》して、增稅案《ざうぜいあん》、移民《ゐみん》會社《くわいしや》取締《とりしまり》、對《たい》朝鮮《てうせん》政策《せいさく》、どれも六ケ|敷《し》い。國民《こくみん》の驕奢《きやうしや》を攻擊《こうげき》するか、それとも惡小說《あくせうせつ》の流行《りうかう》を罵倒《ばたふ》するか、どちらが手易《たやす》いだらうか、小說論《せうせつろん》にしても、どう論《ろん》じたら早《はや》く書《か》け手數《てすう》が掛《かゝ》らないだらう………と考《かんが》へたが、別《べつ》に妙案《めうあん》の纏《まと》まりもせず、又《また》强《し》いて纏《まと》めやうともせぬ間《うち》、
「數寄屋橋《すきやばし》」
彼《か》れは詮方《せんかた》なく空想《くうさう》を拂《はら》つて電車《でんしや》を下《お》りた。ノソ〳〵と二三|町《ちやう》步《ある》いて社《しや》へ行《ゆ》くと、下駄箱《げたばこ》の側《そば》で草山《くさやま》に出《でつ》くはした。
「やあ、今日《けふ》は馬鹿《ばか》に早《はや》いぢやないか」と、草山《くさやま》の方《はう》から聲《こゑ》を掛《か》ける。黑塚《くろづか》は「それや此方《こちつ》の言分《いひぶん》だ」と、忌々《いま〳〵》しく思《おも》つたが、、口《くち》では尋常《じんじやう》に、
「君《きみ》こそ早《はや》いぢやないか、僕《ぼく》は何時《いつ》も今《いま》時分《じぶん》に來《く》る」
「さうか、女房《にようぼ》のない者《もの》あ異《ちが》つたものだね」と、草山《くさやま》は晴々《はれ〴〵》した聲《こゑ》で云《い》つて二|階《かい》へ上《あが》つた。黑塚《くろづか》は後《あと》から付《つ》いて行《ゆ》く。
草山《くさやま》は黑塚《くろづか》よりも三つ歲上《としうへ》だが、學校《がくかう》も同《おな》じくクラスも同《おな》じく、共《とも》に苦學生《くがくせい》で、半年《はんとし》ばかりは一|緖《しよ》に本鄉《ほんがう》のお寺《てら》で自炊《じすゐ》したこともある。黑塚《くろづか》の入社《にふしや》も草山《くさやま》の周旋《しうせん》によるのだ。しかし今《いま》は二人《ふたり》の生活《くらし》はその着物《きもの》の結城紬《ゆうきつむぎ》と瓦斯織《がすおり》と異《ちが》つてる位《くらゐ》異《ちが》つてゐる。一人《ひとり》は既《すで》に一|家《か》を構《かま》へ女房《にようぼ》もあり子《こ》の二人《ふたり》もあり、多少《たせう》の借金《しやくきん》もある。一人《ひとり》は自炊《じすゐ》から下宿屋《げしゆくや》に移《うつ》つた位《くらゐ》で、さしたる變化《へんくわ》もない。入社《にふしや》と同時《どうじ》に今《いま》の下宿屋《げしゆくや》に轉《てん》じたので、もう彼此《かれこれ》四|年《ねん》同《おな》じ部屋《へや》に居《ゐ》る。せめて宿《やど》でも變《かは》つたらばと思《おも》つてゐるが、思《おも》うばかりで斷行《だんかう》はしない。
そして草山《くさやま》は屡々《しば〳〵》、
「君《きみ》、何《なに》か書《か》かんか、僕《ぼく》が周旋《しうせん》しよう、君《きみ》は原書《げんしよ》が讀《よ》めるんだから、その中《なか》に面白《おもしろ》い話《はなし》が見《み》つかるだらう、何《なん》なら、僕《ぼく》に話《はな》して吳《く》れんか、翻案《ほんあん》の材料《ざいれう》に」
と云《い》つて、多少《たせう》生活《くらし》の補助《ほじよ》を計《はか》つてやるが、黑塚《くろづか》は何時《いつ》も淋《さび》しく笑《わら》つて、首《くび》と手《て》とを橫《よこ》に振《ふ》る。
「僕《ぼく》はとても書《か》けりやしない。それにどうも忙《いそが》しくつて、何《なに》をする暇《ひま》もない」と云《い》つて最後《さいご》は「君《きみ》は餘暇《よか》があるから結構《けつこう》だ」と、褒《ほ》めるのか羨《うらや》ましいのか冷《ひや》かすのか、この男《をとこ》獨得《どく〳〵》の調子《てうし》で云《い》ふ。これが彼《か》れのお定《きま》りの返事《へんじ》だ。そして腹《はら》の中《うち》では「何《なに》彼等《あれら》に利用《りよう》されて溜《たま》るもんか」と、竊《ひそ》かに反抗《はんかう》してゐる。
彼《か》れは編輯室《へんしうしつ》に入《はい》ると、ストーブの側《そば》で煙草《たばこ》を一|本《ぽん》吸《す》ふ。「給使《きうじ》、お茶《ちや》と原稿紙《げんかうし》」と呼《よ》ぶ。その聲《こゑ》は高《たか》く力《ちから》がある。軍曹《ぐんさう》が新兵《しんぺい》にでも命令《めいれい》する口調《くてう》だ。草山《くさやま》は椅子《いす》に反身《そりみ》になり諸新聞《しよしんぶん》の綴込《とぢこ》みを見《み》てゐたが、
「開《ひら》けない奴等《やつら》だ。何《なん》だつてこんな眞似《まね》をするんだらう」と、鼻《はな》で笑《わら》つて、新聞《しんぶん》を下《した》に置《お》き、「君《きみ》讀《よ》んだかい、綾瀨《あやせ》と櫻井《さくらゐ》の喧噪《けんくわ》を」と黑塚《くろづか》の顏《かほ》を見《み》た。
「ふん、大變《たいへん》面白《おもしろ》い、綾瀨《あやせ》に同情《どうじやう》する、眞劍《しんけん》だから活氣《くわつき》がある」
「兩方《りやうはう》とも眞劍《しんけん》さ、だから可笑《おか》しい、あの連中《れんぢう》は朝《あさ》から拔身《ぬきみ》で構《かま》へてるんだね」と、草山《くさやま》は無斷《むだん》で黑塚《くろづか》の煙草《たばこ》を一|本《ぽん》奪《と》つて火《ひ》を借《か》り、「綾瀨《あやせ》も西方寺《さいはうじ》時代《じだい》にはよく來《き》たものだが、この頃《ごろ》はちつとも姿《すがた》を見《み》せん、君《きみ》は遇《あ》うかい。」
「いや滅多《めつた》に會《あ》はん、眞面目《まじめ》に勉强《べんきやう》してるやうだよ、あの男《をとこ》は狡《づる》い所《ところ》がないからいい」と、黑塚《くろづか》は心《こゝろ》の中《なか》では、多少《たせう》草山《くさやま》に當《あて》こすつたつもりであつたが、草山《くさやま》は氣《き》つかぬ風《ふう》で、
「馬鹿《ばか》正直《しやうぢき》で損《そん》ばかりしてると、人樣《ひとさま》に同情《どうじやう》して貰《もら》へるんだが」と笑《わら》ひ〳〵云《い》つた。黑塚《くろづか》は不快《ふくわい》な顏《かほ》をして席《せき》についた。彼《か》れの机《つくゑ》は窓際《まどぎは》に沿《そ》うて孤立《こりつ》してゐる。硯《すゞり》の塵《ちり》を吹《ふ》き墨《すみ》を磨《す》り、凡《およ》そ二十|分《ぷん》も、考《かんが》へてゐると編輯長《へんしうちや》が來《き》たので、
「問題《もんだい》はありませんか、緊要《きんえう》な問題《もんだい》がなければ、小說《せうせつ》の禁止《きんし》について論《ろん》じて見《み》ようと思《おも》ひます、少《すこ》し考《かんが》へもありますから」と後《うしろ》を顧《かへり》みた。
「ぢや、それを書《か》き玉《たま》へ」と、編輯長《へんしうちやう》は卒氣《そつけ》ない返事《へんじ》をする。
彼《か》れは筆《ふで》を嚙《か》んで一二|行《ぎやう》書《か》いたが、次《つぎ》の句《く》が出《で》て來《こ》んので、原稿紙《げんかうし》を丸《まる》めて反古籠《ほごかご》へ投《な》げ込《こ》み、案《あん》を立《た》て直《なほ》した。机《つくゑ》の左右《さいう》では草山《くさやま》や佐々良《さゝら》、それに編輯長《へんしうちやう》も加《くは》はつて競馬《けいば》談《だん》株式《かぶしき》の話《はなし》。
彼《か》れはつい[#「つい」に傍点]四邊《あたり》の話《はなし》に氣《き》を取《と》られ、筆《ふで》が更《さら》に墓取《はかど》らぬ間《うち》、時計《とけい》は一|回轉《くわいてん》する。「何《なん》でおればかり急《いそ》がしんだらう」「社長《しやちやう》はこの寒《さむ》さに競馬《けいば》に行《い》つてる」と、云《い》ふやうな考《かんが》へが、四邊《あたり》の話聲《はなしごゑ》に和《わ》して頭《あたま》に浮《うか》ぶ。
「黑塚《くろづか》君《くん》、もう三十|分《ぷん》ですよ」と、編輯長《へんしうちやう》が急《せ》き立《た》てる。
彼《か》れは慌《あは》てゝ何《なに》が何《なに》やら分《わか》らぬながらに文字《もんじ》を臚列《ろれつ》し、一|段《だん》半《はん》程《ほど》書《か》きなぐつた。これで一|日中《にちゞう》の大役《たいやく》が終《をは》り、二三|時間《じかん》は手《て》が隙《す》く。で、ストーブに近《ちか》よつて、冷《つめ》たくなつた天《てん》ドンを食《く》つた。働《はたら》いて食《く》ふ甘《うま》さを感《かん》じた。飯《めし》一粒《ひとつぶ》も殘《のこ》さない。
ストーブの向《むか》うの薄汚《うすぎたな》い新聞《しんぶん》臺《だい》には女《をんな》記者《きしや》が居《ゐ》る。何時《いつ》もの通《とほ》り地方《ちはう》新聞《しんぶん》の切拔《きりぬき》をしてゐる。彼《か》れは何時《いつ》もの通《とほ》り「哀《あは》れなる女《をんな》よ」と思《おも》つた。もう結婚《けつこん》期《き》を過《す》ぎて顏《かほ》に艶《つや》がなく目《め》にも力《ちから》がないと思《おも》ひながら、その赤《あか》い房《ふさ》のついた可愛《かあい》らしい鋏《はさみ》の動《うご》くのを見《み》てゐた。
「この方《かた》が御面會《ごめんくわい》」と、突如《だしぬけ》に給使《きうじ》が名刺《めいし》を出《だ》した。彼《か》れは言葉《ことば》少《すく》なに腮《あご》で指圖《さしづ》した。しかし椅子《いす》から立上《たちあが》るには少《すこ》し間《あひだ》があつた。女《をんな》記者《きしや》は切拔《きりぬき》を持《も》つて無心《むしん》に彼《か》れを見《み》て席《せき》を轉《てん》ずる。彼《か》れも無心《むしん》に見《み》て應接所《おうせつじよ》へ行《ゆ》く。
來客《らいきやく》は頰髯《ほゝひげ》の見事《みごと》に生《は》へた男《をとこ》。彼《か》れを見《み》ると面相《めんさう》を軟《やはら》げ、吸《す》ひかけの卷煙草《まきたばこ》を火鉢《ひばち》に突込《つきこ》み、
「どうも御多忙《ごたばう》の所《ところ》を」と恭《うや〳〵》しく腰《こし》を屈《かゞ》め、「何《なに》新聞《しんぶん》の鶴見《つるみ》さんが貴下《あなた》にお願《ねが》い申《まを》せといふことで」
「はあ、何《なん》の御用《ごよう》で」
「實《じつ》は今日《けふ》の新聞《しんぶん》に私《わたし》の學校《がくかう》の事《こと》が出《で》て居《を》りますが、あれは事實《じゞつ》相違《さうゐ》で御座《ござ》いましてな」と、ぼつ〳〵その理由《りいう》を說《と》き出《だ》した。
「ハア〳〵」と、黑塚《くろづか》は身《み》を入《い》れて聞《き》いてもゐなかつたが、相手《あひて》が口《くち》を閉《と》ぢるのも待《ま》たず、「しかし貴下《あなた》のお望《のぞ》み通《どほ》りの正誤《せいご》も出《だ》せん、貴下《あなた》の方《はう》で新聞紙《しんぶんし》條例《でうれい》によつて、取消《とりけし》でもお出《だ》しなれば格別《かくべつ》」と、目《め》を据《す》ゑて嚴然《げんぜん》として云《い》ふ。彼《か》れの顏《かほ》にも活氣《くわつき》があつた。
「ですが取消《とりけし》だけではどうも」と、髯《ひげ》は容易《ようゐ》に納得《なつとく》しない。二三|度《ど》押問答《おしもんだう》の後《のち》、黑塚《くろづか》は、
「この新聞《しんぶん》は徹頭《てつとう》徹尾《てつび》責任《せきにん》を以《も》つて書《か》いてるんですから、輕々《かろ〴〵》しく正誤《せいご》も出《だ》せません」と斷言《だんげん》して、「少《すこ》し用事《ようじ》が殘《のこ》つてますから、これで」と、輕《かる》く會釋《ゑしやく》して應接所《おうせつじよ》を出《で》た。
草山《くさやま》はもう帽子《ぼうし》を被《かぶ》つて編輯室《へんしうしつ》の戶口《とぐち》に立《た》つてゐたが、
「黑塚君《くろづかくん》、君《きみ》を捜《さが》してたんだ、一寸《ちよつと》話《はな》したいことがある」と柔《やさ》しく云《い》つて、應接所《おうせつじよ》へ連《つ》れて行《い》つた。黑塚《くろづか》はポカンとして髯男《ひげをとこ》の座《すは》つてた椅子《いす》に腰掛《こしか》けた。
「別《べつ》に急《いそ》いだ話《はなし》ぢやないんだが、君《きみ》どうだね、三|面《めん》へ來《き》て吳《く》れちや、實《じつ》は三|面《めん》も少《すこ》し改良《かいりやう》するので、君《きみ》に助《たす》けて貰《もら》うと至極《しごく》都合《つがふ》がいゝんだ」
黑塚《くろづか》は不思議《ふしぎ》さうにヂロ〳〵相手《あひて》を見《み》て、「だつて僕《ぼく》は二|面《めん》の方《はう》がいゝ、政治《せいぢ》や敎育《けういく》に關係《かんけい》した方《はう》が興味《きようみ》が多《おほ》い」と、自分《じぶん》でも信《しん》ぜぬことを云《い》ふ。
「しかし、編輯《へんしう》をやつてゝは政界《せいかい》のこともよくは分《わか》るまいし、君《きみ》の素養《そやう》から云《い》つても三|面《めん》の方《はう》が適《てき》してるぢやないか、相互《おたがひ》のためだ、一《ひと》つうん[#「うん」に傍点]と云《い》つて吳《く》れ玉《たま》へ……尤《もつと》も今《いま》が今《いま》返事《へんじ》をしなくてもいゝがね」と、草山《くさやま》は杖《つえ》で床《ゆか》を叩《たゝ》きながら、少《すこ》し俯首《うつむ》いて云《い》ふ。
黑塚《くろづか》は、相互《おたがひ》の爲《ため》と云《い》ふ言葉《ことば》を不快《ふくわい》に感《かん》じ、「でも僕《ぼく》にや今《いま》の受持《うけもち》がいゝ、少《すこ》し抱負《はうふ》もあるから」と云《い》つて、腹《はら》では何《なん》でこんな男《をとこ》の下《した》に使《つか》はれるものかと力《りき》んだ。
「さうだらう」と輕《かる》く首背《うなづ》いて、「けれどね、實《じつ》は何《なん》だよ、主筆《しゆひつ》もそれを望《その》んでるんだよ」
「主筆《しゆひつ》が」と、黑塚《くろづか》は目《め》を尖《とが》らせ、「何《なに》か僕《ぼく》に落度《おちど》があるんかい、」
「何《なに》、さうでもあるまい」と、あやふや[#「あやふや」に傍点]に云《い》つて、强《し》いて笑顏《えがほ》を造《つく》り、「まあ、何時《いつ》かゆつくり[#「ゆっくり」に傍点]話《はな》さう、どうだいビールでも呑《の》みに行《ゆ》かんか」とお愛相《あいそ》に云《い》つた。
「いや、僕《ぼく》はまだ仕事《しごと》が殘《のこ》つてる、君《きみ》のやうに早《はや》く歸《かへ》れるといゝけれど」
と、黑塚《くろづか》は編輯室《へんしうしつ》へ歸《かへ》り、机上《きじやう》に堆積《たいせき》せる外交《ぐわいかう》記者《きしや》の齎《もた》らした議會《ぎくわい》の記事《きじ》を添削《てんさく》した。粗末《そまつ》な原稿紙《げんかうし》の曖昧《あいまい》な筆蹟《ひつせき》を辿《たど》つて「國家《こくか》十|年《ねん》の大計《たいけい》」だの、「満面《まんめん》朱《しゆ》を濺《そゝ》いで演壇《えんだん》へ上《のぼ》り」だのと元氣《げんき》のいゝ文句《もんく》を見《み》てる中《うち》に瓦斯《がす》がつく。
彼《か》れは硯箱《すゞりばこ》を仕舞《しま》ふと同時《どうじ》に、草山《くさやま》の言葉《ことば》が急《きふ》に毒氣《どくき》を帶《お》びて浮《うか》んで來《く》る。「彼奴《あいつ》の中傷《ちうしやう》だらう」「あんな奴《やつ》の下《した》に使《つか》はれてなるもんか」と反抗心《はんかうしん》を起《おこ》してゐた。
社員《しやゐん》は一人《ひとり》減《へ》り二人《ふたり》減《へ》る。
彼《か》れは暫《しば》らく机《つくゑ》を離《はな》れない。反抗心《はんかうしん》は次第《しだい》にゆるんで[#「ゆるんで」に傍点]手賴《たよ》りない氣《き》になる。
「そうだ、今日《けふ》は綾瀨《あやせ》を尋《たづ》ねよう、彼《か》れは我黨《わがたう》の士《し》だ、僕《ぼく》に同感《どうかん》して吳《く》れるに違《ちが》ひない、草山《くさやま》のやうな俗物《ぞくぶつ》ぢやない」と立上《たちあが》り、今《いま》刷上《すりあが》つた初版《しよはん》の新聞《しんぶん》を取《と》つて、自分《じぶん》の書《か》いた慷慨的《かうがいてき》論文《ろんぶん》を讀《よ》み〳〵階下《した》へ下《お》りた。下駄箱《げたばこ》の前《まへ》に社長《しやちやう》が立《た》つてゐて、使方《つかひかた》が草履《ざうり》を出《だ》してゐる。競馬《けいば》に負《ま》けたのか、社長《しやちやう》の顏《かほ》は苦虫《にがむし》嚙潰《かみつぶ》したやうだ。「何《なに》か云《い》はれるか」と、彼《か》れは胸騷《むなさわ》ぎをさせ、恭《うや〳〵》しく會釋《ゑしやく》して、コソ〳〵戶外《そと》へ出《で》た。
五六|間《けん》前《さき》には、女《をんな》記者《きしや》が白《しろ》い肩掛《シヨール》を纏《まと》うて步《あゆ》んでゐる。彼《か》れも同《おな》じ道《みち》を取《と》つた。埃《ほこり》臭《くさ》い風《かぜ》が萎《しな》びた路傍《ろばう》の柳《やなぎ》を吹《ふ》いた。


五月幟

(一)

「穗浪《ほなみ》村《むら》は人家《じんか》三百|戶《こ》」と、小學《せうがく》の敎師《けうし》は二十|年《ねん》も前《まへ》から兒童《じどう》に敎《をし》へてゐる。この三百|戶《こ》の八九|分《ぶ》は漁業《ぎよげふ》か農業《のうげふ》、或《あるひ》は漁農《ぎよのう》兼帯《けんたい》で生活《くらし》を立《た》てゝゐるが、百八十|番地《ばんち》の「瀨戶《せと》吉松《きちまつ》」の一|家《か》は、母《はゝ》は巫女《みこ》、息子《むすこ》は畵工《ぐわこう》。村《むら》に不似合《ふにあひ》な最《もつと》も風變《ふうがは》りの仕事《しごと》をしてゐる。で、海《うみ》が荒《あ》れて不漁《ふれう》が續《つゞ》いたり、暴風雨《ぼうふうゝ》や蟲害《ちうがい》で麥《むぎ》や稻《いね》の充實《みのり》が惡《わる》いと商人《しやうにん》も大工《だいく》も石屋《いしや》も疊屋《たゝみや》も、或《あるひ》は僧侶《そうりよ》神主《かんぬし》、皆《みな》その影響《えいけう》を受《う》けるのだが、殊《こと》に吉松《きちまつ》一|家《か》は酷《ひど》い。
しかし今歲《ことし》は漁《れう》がよかつた。鯛《たい》も捕《と》れた、鰆《さはら》も捕《と》れた、漁夫《れうし》は沖《おき》で釣《つ》つた魚《うを》を賣《う》つて、岡山《をかやま》や牛窓《うしまど》から縮緬《ちりめん》の兵兒帶《へこおび》、疊付《たゝみつき》の下駄《げた》、洋銀《やうぎん》の簪《かんざし》やら派手《はで》な手拭《てぬぐひ》やら、土產物《みやげもの》をどつさり[#「どつさり」に傍点]買込《かひこ》み、尙《なほ》魚籠《どうまる》には兩手《りやうて》で掬《すく》い切《き》れぬ程《ほど》の銀貨《ぎんくわ》や銅貨《どうくわ》を殘《のこ》して歸《かへ》つて來《き》た。明後日《あさつて》は舊歷《きうれき》五|月《ぐわつ》の節句《せつく》であれば、遠海《えんかい》へ出稼《でかせぎ》に行《い》つてる舟《ふね》も、よく〳〵不漁《ふれう》でない限《かぎ》りは、久振《ひさしぶ》りに陸《くが》の鹽辛《しほから》くない飯《めし》を食《く》ひに歸《かへ》り、濱邊《はまべ》には珍《めづ》らしく百|艘《そう》近《ちか》くの小舟《こぶね》親船《おやぶね》が並《なら》んでゐる。そして吉松《きちまつ》は諸方《しよはう》から幟《のぼり》の揮毫《きがう》を賴《たの》まれて、近年《きんねん》に無《な》く多忙《たばう》である。
彼《か》れは日限《にちげん》に迫《せ》まられ、五六|日《にち》戶外《そと》へ出《で》ず、夜《よる》も行燈《あんどん》の側《そば》で書《か》いてゐたが、いよ々々今《いま》一《ひと》つで描《か》き終《をは》れるのだ。圖題《づだい》は鎧姿《よろひすがた》の淸正《きよまさ》で、略々《ほぼ》形《かたち》だけ出來《でき》上《あが》つてゐる。彼《か》れは禿筆《ちびふで》の先《さき》で淸正《きよまさ》の髯《ひげ》を細《こまか》く描《か》きながら、疲《つか》れた肩《かた》を左《ひだり》の手《て》で揉《も》んだり、墨《すみ》の染《し》みた下唇《したくちびる》を噛《か》んで、細《ほそ》長《なが》い布《ぬの》を見上《みあ》げ見下《みおろ》してゐる。一|筆《ふで》每《ごと》に凛々《りゝ》しい姿《すがた》の浮《う》き上《あが》るのを見《み》るにつけて、もつと奇麗《きれい》な繪具《ゑのぐ》が欲《ほ》しくてならぬ。あの草摺《くさずり》もその臑當《すねあて》も他《ほか》の色《いろ》で彩《いろど》つて見《み》たい。何時《いつ》ぞや大福寺《だいふくじ》で蟲干《むしぼし》のあつた時《とき》、佛樣《ほとけさま》の繪《ゑ》を二三|幅《ぷく》見《み》せて貰《もら》つたが、どれも懷《なつ》かしい繪具《ゑのぐ》を用《もち》ひてあつて、見《み》てゐて何《なん》といふ事《こと》なしにいゝ氣持《きもち》がして、その前《まへ》を離《はな》れたくなかつた。あんな繪具《ゑのぐ》は何《なん》で拵《こしら》へるのか知《し》らんが、自分《じぶん》も一|年《ねん》に一|度《ど》でも、立派《りつぱ》な繪具《ゑのぐ》で絹地《きぬぢ》へ書《か》いて見《み》たいな。
彼《か》れの左右《さいう》には墨《すみ》を溶《と》かした飯《めし》茶碗《ぢやわん》と、小《ちい》さい朱硯《しゆすゞり》と、臙脂《べこ》と藍《あひ》を兩緣《りやうふち》に塗《ぬ》つた小皿《こざら》があるばかり。筆《ふで》も小學《せうがく》生徒《せいと》の手習《てならひ》用《よう》の一|本《ぽん》二|錢《せん》か三|錢《せん》のを毛《け》が擦《す》り切《き》れるまで使《つか》つてゐる。で、道具《だうぐ》には不平《ふへい》を抱《いだ》いてゐるが、好《す》きな仕事《しごと》ではあり、第《だい》一|金《かね》が取《と》れるのだから、自然《しぜん》に勵《はげ》みもついて、身體《からだ》の怠《だる》いのも我慢《がまん》して、筆《ふで》を運《はこ》ばせた。家《いへ》は二室《ふたま》だが、只《たゞ》閾《しきゐ》で區切《くぎ》つてあるのみで襖《ふすま》も障子《しやうじ》もない。上等《じやうとう》の室《ま》には床板《ゆかいた》の上《うへ》に薄緣《うすべり》を敷《し》き詰《つ》め、次《つぎ》の室《ま》には座蒲團《ざぶとん》代《がは》りに一|枚《まい》の蓆《むしろ》を敷《し》いてある。繪布《ゑぬの》の裾《すそ》は蓆《むしろ》の室《ま》へ挾出《はみだ》され巫女《みこ》婆《ばあ》さんの膝《ひざ》に觸《ふ》れてゐる。婆《ばあ》さんは片袖《かたそで》をまくり上《あ》げ、肥《ふと》つた腕《かひな》を露《あら》はして臼《うす》を挽《ひ》いてゐる。居眠《ゐねむり》をし通《どほ》して、朝《あさ》から掛《かゝ》つてゝ、まだ一|升《しやう》足《た》らずの粉《こな》が挽《ひ》け切《き》らぬ。
「吉《きち》よ、汝《われ》やまだ書《か》いてしまはんか」
と、婆《ばあ》さんは附木《つけぎ》で粉《こな》を搔寄《かきよ》せては張籠《はりかご》に移《う》つしてゐる。
「も少《すこ》しで書《か》いて仕舞《しま》わあ、お母《かあ》はまだ挽《ひ》いて仕舞《しま》はんのか」
「お母《かあ》も、もう一握《ひとにぎ》りでえゝんぢやがの、汝《われ》お腹《なか》が減《へ》つたら、お晝飯《ひる》にしやうか、太陽樣《こんにちさま》もそろ〳〵隣《とな》りの牛小屋《うしごや》へ當《あた》りだした」
「さうかな、もう正午《おひる》過《すぎ》か、そないになるたあ思《おも》はなんだ」
「どりやお茶《ちや》でも沸《わか》さう」
と、婆《ばあ》さんは片手《かたて》で膝《ひざ》を壓《おさ》へ、「うんとしよ」と伸《の》び上《あが》り、凸凹《でこぼこ》の多《おほ》い庭《には》へ下《お》りて、柴《しば》を一攫《ひとつかみ》を壓折《へしを》つて茶釜《ちやがま》の下《した》へ投《な》げ込《こ》み、附木《つけぎ》で火《ひ》を點《つ》けた。黑烟《くろけむり》が渦《うづ》を卷《ま》いて繪布《ゑぬの》の上《うへ》を這《は》ひ、低《ひく》い軒下《のきした》へ流《なが》れ出《で》る。吉松《きちまつ》は靑《あを》い顏《かほ》を顰《しか》め、勢《いきほひ》のない咳《せき》を出《だ》した。目《め》を細《ほそ》くして戶外《そと》を見《み》た。門口《かどぐち》には五月雨《つゆ》の用意《ようい》に柴《しば》や木片《こつぱ》を堆高《うづたか》く積《つ》んである。空《そら》は見《み》えぬが、日《ひ》は鮮《あざや》かに石《いし》ころ道《みち》を照《て》らし、帽子《ぼうし》代《がは》りに頰冠《ほゝかぶ》りして肥桶《こえたご》擔《にな》つた男《をとこ》が、腰《こし》を振《ふ》つて通《とほ》つてゐる。二三|人《にん》首《くび》を抱《だ》き合《あ》ひ、得意氣《とくいげ》に卷煙草《まきたばこ》を吹《ふ》き、ゲラゲラ笑《わら》つて村《むら》の若《わか》い衆《しゆ》が練《ね》つて行《ゆ》く。「吉《きち》マよ」「チビ松《まつ》」と聲《こゑ》を掛《か》けて行《ゆ》く者《もの》もある。尻《しり》端折《はしを》り藁《わら》草履《ざうり》を穿《は》いた水汲《みづくみ》女《をんな》が小《ちい》さい桶《をけ》を荷《にな》つて二人《ふたり》三|人《にん》續《つゞ》いて通《とほ》つた。井戶水《ゐどみづ》は鹽氣《しほけ》があり、山蔭《やまかげ》の泉《いづみ》のみが一|村《そん》の飮料水《いんれうすゐ》となるので、盆《ぼん》と節句《せつく》には泉《いづみ》が乾《か》れると云《い》ふが、急《きふ》に家族《かぞく》の殖《ふ》えた此頃《このごろ》、女房《かみさん》や娘《むすめ》は水汲《みづくみ》が一|日《にち》の大役《たいやく》なのだ。
吉松《きちまつ》はその水汲《みづくみ》の一人《ひとり》の後姿《うしろすがた》を見《み》て、お竹《たけ》ぢやないかと思《おも》つた。顏《かほ》をも見《み》せず、すた〳〵と行《い》つてしまつたが、その眞紅《しんく》の襷《たすき》、脹《ふく》らかな白《しろ》い脛《はぎ》、どうも彼女《あれ》らしい。で、彼《か》れは少《すこ》し伸《の》び上《あが》つてにつたり[#「につたり」に傍点]笑《わら》つた。これを書《か》いてしまつたら彼女《あれ》に遇《あ》へる。磯《いそ》の屋《や》では節句《せつく》を當《あ》て込《こ》んで、岡山《をかやま》からうん[#「うん」に傍点]と小間物《こまもの》を仕入《しい》れて來《き》たそうだから、彼女《あれ》に簪《かんざし》でも櫛《くし》でも買《か》つてやる。目顏《めかほ》で呼《よ》び出《だ》して泉《いづみ》の側《そば》の藪《やぶ》へ行《ゆ》くのだ。
二三|年前《ねんまへ》から目星《めぼし》をつけてたお竹《たけ》と、睦《むつま》じい言葉《ことば》を交《か》はすやうになつたのは去年《きよねん》の秋《あき》。忘《わす》れもしない、彼女《あれ》が藪下《やぶしも》の川《かは》で洗濯《せんたく》をしてゐた。澄《す》んだ水《みづ》がちよろ〳〵と草《くさ》の中《なか》から流《なが》れて來《く》る。お竹《たけ》は絞《しぼ》りの手拭《てぬぐひ》を姉樣《ねえさん》被《かぶ》りにし、幅《はゞ》の廣《ひろ》い滑《なめ》らかな石《いし》の上《うへ》に少《すこ》し屈《かゞ》んで立《た》ち、足《あし》の甲《かふ》まで水《みづ》に浸《ひた》し、兩足《りやうあし》で調子《てうし》よく汚《よご》れ物《もの》を踏《ふ》んでゐた。周圍《まわり》に人《ひと》の聲《こゑ》もしない。只《たゞ》烏《からす》が寺《てら》の屋根《やね》に鳴《な》いてゐるばかり。その時《とき》此處《こゝ》を繪《ゑ》に書《か》きたいと思《おも》つた。その姿《すがた》もその顏《かほ》も、この村《むら》にや比《くら》べる女《をんな》はありやしない。それで「私《わし》の女房《にようぼ》になるか」と云《い》ふと、首《くび》を橫《よこ》に振《ふ》らなかつた。あんな別嬪《べつぴん》が私《わし》の女房《にようぼ》になるんだぞ、村《むら》の小若連《こわかれん》の集會《よりあひ》に行《ゆ》くと、吉《きち》の野郞《やらう》は二十歲《はたち》になつて、まだ衒妻《げんさい》一人《ひとり》よう拵《こさ》へぬ、意氣地《いくぢ》なし奴《め》といつて、皆《み》んなして冷《ひや》かしやがるが、どうだ羨《うらや》ましからう。
彼《か》れはうつとり[#「うつとり」に傍点]考《かんが》へ込《こ》み、やがて又《また》にやり[#「にやり」に傍点]と薄氣味《うすきみ》惡《わる》く笑《わら》つて筆《ふで》を執《と》つた。で、漸《やうや》く書《か》き終《をは》つた頃《ころ》、茶釜《ちやがま》がジン〳〵音《おと》を立《た》てる。
「吉《きち》、お茶《ちや》が沸《わ》いたでえ」と、婆《ばあ》さんは棚《たな》から膳《ぜん》と飯櫃《めしびつ》を卸《おろ》してゐる。
「お母《かあ》、初野《はつの》はまだ戾《もど》らんかな」と、吉松《きちまつ》は痺《しび》れた足《あし》を撫《な》で〴〵膳《ぜん》の前《まへ》へ坐《すわ》つた。米《よね》一|分《ぶ》の黑々《くろ〴〵》とした麥飯《むぎめし》を茶碗《ちやわん》に山盛《やまも》りにし、茶柄杓《ちやびしやく》で茶《ちや》を打《ぶつ》かける。
「彼女《あれ》は今朝《けさ》飛出《とびだ》したきり、まだ戾《もど》つて來《こ》ん、柏餅《かしはもち》を早《はや》う拵《こせ》へて吳《く》れいとせがん[#「せがん」に傍点]どいて、今《いま》まで何處《どこ》を步《ある》いとるんだらう」
「又《また》皆《みん》なに冷《ひや》かされとるんぢやないか、あの阿房《あほう》に困《こま》るなあ、早《はや》う死腐《しにくさ》れやえゝのに」
「汝《われ》や何《なに》をいふ、阿房《あほう》でも狂人《きちがひ》でも、汝《われ》の眞實《ほんま》の妹《いもと》ぢやないか」と、婆《ばあ》さんは鐵漿《おはぐろ》の斑《まば》らな齒《は》で、漬菜《つけな》をばり〴〵噛《か》みながら、金壺《かなつぼ》眼《まなこ》で吉松《きちまつ》を睨《にら》んだ。
「そがい[#「そがい」に傍点]云《い》ふても、初野《はつの》が居《を》りやがるんで、物入《ものい》りが多《おほ》うなつて仕樣《しやう》がない」と、吉松《きちまつ》は慳貪《けんどん》に云《い》つた、「それになあお母《かあ》、彼女《あれ》が居《を》ると、私《わし》や嫁《よめ》が取《と》れんぞな、家《うち》は狹《せま》いし、初野《はつの》は大飯《おほめし》を食《くら》うから」
「そがい[#「そがい」に傍点]な事《こと》心配《しんぱい》せえでもえゝ、汝《われ》や苦勞性《くらうしやう》ぢやから、何《な》んだれ彼《かん》だれ案《あん》じてばかり居《を》るけいど、入《い》らんこつちやがな、嫁《よめ》を取《と》りたけりや、何時《いつ》でも好《す》きな女子《をなご》を連《つ》れて來《こ》いよ、お母《かあ》と初野《はつの》はこの蓆《むしろ》の上《うへ》へでも寢《ね》りやえゝ、それに彼女《あれ》を連《つ》れて御祈禱《ごきとう》に廻《まわ》りや、袋《ふくろ》に一|杯《ぱい》や二|杯《はい》のお米《こめ》は、何處《どこ》からでも貰《もら》うて來《こ》られる、汝《われ》一人《ひとり》の世話《せわ》にやならんがな」
「貰《もら》う者《もの》は何《なん》ぼ貰《もら》うてもえゝけど、乞食《こじき》見《み》たいな事《こと》をして下《くだ》んすな、村《むら》の者《もの》は私《わし》の父《とつ》ちやんは狂人《きちがひ》で、お母《かあ》は乞食《こぢき》、妹《いもと》は阿房《あほう》ぢやと云《い》ふて笑《わら》うとるがな」
「笑《わら》うたて構《かま》うもんか、澤山《たんと》お甘《いし》い者《もの》を食《た》べさへすりや、汝《われ》、云《い》ふ事《こと》あないでないか」
「お母《かあ》はようても、私《わし》やつらい[#「つらい」に傍点]がな」
婆《ばあ》さんは吉松《きちまつ》の憐《あは》れつぽい小言《こゞと》を聞《き》きながら、緩々《ゆる〳〵》食事《しよくじ》を終《をは》ると、汚《よご》れた茶碗や小皿《こざら》を隅《すみ》の方《はう》へ押《お》しのけ、坐《すわ》つたまゝ臼《うす》の側《そば》へにじり[#「にじり」に傍点]寄《よ》り、口《くち》の内《うち》で眠《ねむ》そうな引臼《ひきうす》唄《うた》を唄《うた》ひ、又《また》粉《こな》を磨《す》り出《だ》した。
吉松《きちまつ》は布《ぬの》の乾《かは》くのを待《ま》つて、それを白木綿《しろもめん》の大風呂敷《おほぶろしき》にくるんで外《そと》へ出《で》た。空《そら》には白《しろ》い雲《くも》が漂《たゞよ》ひ、柔《やさ》しい風《かぜ》が沖《おき》から吹《ふ》いて來《く》る。海邊《うみべ》近《ちか》く太《ふと》い松《まつ》に圍《かこ》まれた住吉《すみよし》神社《ゞんじや》では太皷《たいこ》の音《おと》がして、子供《こども》の喜《よろこ》び騷《さわ》ぐ聲《こゑ》がする。この前《まへ》お詣《まゐ》りした時《とき》は、神社《じんじや》の扉《とびら》は鎖《とざ》され、埃《ほこり》の積《つ》んだ階段《かいだん》に子守《こもり》が二三|人《にん》腰掛《こしか》けてるばかり。境内《けいだい》は寂寥《ひつそり》としてゐたが、今日《けふ》は馬鹿《ばか》に賑《にぎや》やかだ。今夜《こんや》神前《しんぜん》で大漁《たいれう》祝《いは》ひの集合《よりあひ》があるさうだが、宮《みや》を中心《ちうしん》にして、通《とほ》る路々《みち〳〵》何處《どこ》を見《み》ても景氣《けいき》付《づ》いてゐる。そして吉松《きちまつ》も生々《いき〳〵》した空氣《くうき》に胸《むね》の鼓動《こどう》し、譯《わけ》もなく悅《うれ》しくなつて、大急《おほいそ》ぎに步《ある》き出《だ》した。

(二)

彼《か》れは小學校《せうがくかう》も二|年《ねん》で止《や》めた。繪畫《くわいぐわ》の敎育《けういく》など更《さら》に受《う》けたことがない。しかし何時《いつ》の間《ま》にか獨《ひと》りで工夫《くふう》して書《か》き出《だ》した。少《ちいさ》い時《とき》から棒切《ぼうつき》れで地上《ちじやう》に描《か》いたり、消墨《けしずみ》で板《いた》に描《か》いたりした。草紙《さうし》へも碌《ろく》に手習《てなら》ひはせず、虎《とら》や人形《にんぎやう》を書《か》いてゐた。十三|歲《さい》の初夏《しよか》、大酒《おほざけ》呑《のみ》の父《ちゝ》が、麥刈《むぎかり》最中《さいちう》に發狂《はつきやう》してから、詮方《せんかた》なく自分《じぶん》も日雇稼《ひやうかせ》ぎをして、一|家《か》の活計《くらし》を助《たす》けたが、チビ松《まつ》と綽名《あだな》を付《つ》けられる位《くらゐ》、身體《からだ》が小《ちい》さくて弱《よわ》いため、人並《ひとなみ》の仕事《しごと》は出來《でき》ず、一|日《にち》鍬《くわ》を持《も》つと關節《ふし〴〵》が挫《くぢ》けるやうであつた。と云《い》つて一|日《にち》惰《なま》ければ、一|日《にち》食《く》はずにゐねばならぬ。狹《せま》い田舎《ゐなか》だから、力業《ちからわざ》をしなければ外《ほか》に糊口《くちすぎ》の道《みち》もない。泣《な》いても叫《さけ》んでも一|生《しやう》野良《のら》仕事《しごと》をして、鍬《くわ》と心中《しんぢう》する覺悟《かくご》を定《き》めねばならなかつた。所《ところ》が或《ある》正月《しやうぐわつ》豐年《ほうねん》祝《いは》ひとして、若《わか》い衆《しう》が勸進元《くわんじんもと》で村《むら》芝居《しばゐ》を催《もよほ》すことゝなり、寄《よ》つて集《たか》つて衣裳《いしやう》や小道具《こだうぐ》を借《か》り集《あつ》め、出《だ》し物《もの》も千本櫻《せんぼんざくら》に阿波鳴門《あはのなると》と定《きま》つたが、困《こま》るのは書割《かきわり》だ。無《な》くても濟《す》むが、凝《こ》り性《しやう》の連中《れんぢう》は、夫《そ》れ迄《まで》大趣向《だいしゆこう》を廻《めぐ》らし、どえらい[#「どえらい」に傍点]物《もの》を拵《こしら》へて播州《ばんしう》あたりの本職《ほんしよく》の役者《やくしや》をも驚《おどろ》かしてやらうと云《い》ひ出《だ》した。で、村中《むらぢう》で繪心《ゑごゝろ》のある者《もの》を捜《さが》して、間《ま》に合《あは》せに描《か》かすことゝなり、評定《ひやうでう》の結果《けつくわ》吉松《きちまつ》が命《めい》を受《う》けた。古老《こらう》の指圖《さしづ》で、木綿《もめん》の白布《しろぬの》や、數枚《すうまい》繼合《つぎあは》せた繪畫《くわいぐわ》用紙《ようし》に、鳥居《とりゐ》に玉垣《たまがき》、椎《しい》の木《き》などを描《か》いた。それが思《おも》ひの外《ほか》の出來《でき》榮《ばえ》なので、急《きふ》に彼《か》れの畫才《ぐわさい》が一|村《そん》の漁夫《れうふ》や百|姓《しやう》に認《みと》められ、次第《しだい》に隣村《りんそん》にも知《し》られるやうになつた。この界隈《かいわい》の五|月《ぐわつ》幟《のぼり》、漁夫《れうし》の崇《あが》める惠比壽《ゑびす》大黑《だいこく》の掛物《かけもの》は皆《みな》彼《か》れの筆《ふで》を煩《わづら》はすのである。
* * * * * *
彼《か》れは依賴者《いらいしや》にかの布繪《ぬのゑ》を渡《わた》して、五六十|錢《せん》のお禮《れい》を貰《もら》ひ、それから磯傳《いそづた》ひに二三|軒《げん》未納者《みなうしや》を訪《たづ》ねたが、何《いづ》れも氣持《きもち》よく拂《はら》つて吳《く》れる。
「吉《きち》ヤ汝《われ》や每歲《まいとし》繪《ゑ》が上手《じやうず》になるぜ」「今歲《ことし》の淸正《きよまさ》はどえらい[#「どえらい」に傍点]元氣《げんき》がえゝ、厄病神《やくびやうがみ》も逃《に》げてしまう」と、行《ゆ》く先々《さき〴〵》で褒《ほ》めて吳《く》れる。で、吉松《きちまつ》は袂《たもと》の中《なか》に錢《ぜに》の音《おと》をさせ、大得意《だいとくい》で心《こゝろ》は急《せ》いても、わざとゆつくり[#「ゆつくり」に傍点]步《ある》いて、お竹《たけ》を捜《さが》しに行《ゆ》きかけた。日《ひ》は山《やま》の端《は》近《ちか》くなり、潮《しほ》も退《ひ》きかけ、半《なか》ば海《うみ》へ突出《つきで》た駄菓子屋《だぐわしや》の支柱《つゝかいぼう》は、濡《ぬ》れたまゝ根本《ねもと》を露《あら》はしてゐる。店前《みせさき》には多數《たすう》の若《わか》漁夫《れうし》が陣取《ぢんど》り、粟《あわ》おこし[#「おこし」に傍点]やら大福餅《だいふくもち》やら、てんでに攫《つか》んでは食《く》ひ、大聲《おほごゑ》で笑《わら》つたり叫《さけ》んだりしてゐる。彼等《かれら》の話題《わだい》に上《のぼ》る者《もの》は、大抵《たいてい》は喧嘩《けんくわ》か女《をんな》、或《あるひ》は賭博《ばくち》、しかも四邊《あたり》かまはず露骨《ろこつ》な言葉《ことば》で持切《もちき》りだ。たま〳〵澁皮《しぶかは》の剝《む》けた若《わか》い女《をんな》でも通《とほ》れば、戯《ふざ》けた口《くち》を利《き》いて、大勢《おほぜい》でどつと囃《はや》し立《た》てるは愚《おろ》か、惡《わる》くすると道《みち》邪魔《じやま》をして罪《つみ》な諧戯《からかひ》を始《はじ》めることもある。又《また》中《なか》には諧戯《からかは》れたがつて、自分《じぶん》で押《おし》かけ、簪《かんざし》位《ぐらゐ》奢《おご》らせてやらうと云《い》ふ女《をんな》もある。漁夫《れうし》の休日《きうじつ》にはこの駄菓子屋《だぐわしや》が倶樂部《くらぶ》になつて、時《とき》には賭博宿《ばくちやど》も兼《か》ねるのだ。
吉松《きちまつ》は何氣《なにげ》なくこの店先《みせさき》を通《とほ》りかゝり、ふと氣《き》が付《つ》いて見《み》ると、意地《いぢ》の惡《わる》い奴等《やつら》が揃《そろ》つてゐる。牙齒《きば》の龜《かめ》もゐる、備前《びぜん》德利《とくり》の米《よね》もゐる。ダニの虎《とら》、猪首《ゐくび》の鶴《つる》、村《むら》を騷《さわ》がす連中《れんぢう》が皆《みな》久振《ひさしぶ》りで歸《かへ》つてゐる。惡《わる》い所《ところ》へ來合《きあ》はせた。あれ等《ら》に掛《かゝ》り合《あ》つちや碌《ろく》な事《こと》はないと、知《し》らん顏《かほ》で行過《ゆきす》ぎやうとすると、鶴《つる》が素早《すばや》く見《み》つけて「吉公《きちこう》ぢやないか、まあ寄《よ》れいよ」と呼留《よびと》めた。吉松《きちまつ》は仕方《しかた》なしに振向《ふりむ》いて、「今日《けふ》用《よう》が殘《のこ》つとるから遊《あす》んぢや居《を》れん」と、一寸《ちよつと》お世辭《せじ》笑《わらひ》をして行《ゆ》かうとしたが、「まあそないに云はずに寄《よ》れと云《い》うたら寄《よ》れいよ」と云《い》ふと共《とも》に、龜《かめ》は駈《か》け出《で》て、兩手《りやうて》を開《ひら》いて道《みち》を防《ふさ》いだ。
「今日《けふ》は堪《こら》へて吳《く》れ」と吉松《きちまつ》は情《なさけ》ない聲《こゑ》で云《い》つて、くゞり拔《ぬ》けやうとしたが、龜《かめ》は肩《かた》を攫《つかま》へて離《はな》さない。
「さうら逃《に》げるなら逃《に》げて見《み》い、鳴門《なると》の海《うみ》を漕《こ》ぎ切《き》つた腕《うで》ぢや」
吉松《きちまつ》は鷹《たか》に攫《つか》まつた小雀《こすゞめ》、爭《あらそ》ふも無駄《むだ》だから、そのまゝ小《ちい》さくなつて店《みせ》へ引摺《ひきずり》込《こ》まれた。袂《たもと》の銀貨《ぎんくわ》がヂヤラ〳〵音《おと》を立《た》てる。
「汝《われ》も澤山《たんと》錢《ぜに》を持《も》つてけつかるな」と、龜《かめ》は吉松《きちまつ》の袂《たもと》を握《にぎ》つて重味《おもみ》を量《はか》り、牙齒《きば》を剝《む》き出《だ》して笑《わら》ふ。
「汝《われ》に聞《き》くことがあるから、まあ坐《すわ》れい」と、年長《としかさ》の虎《とら》は後退《あとずさ》りして席《せき》を空《あ》けて、吉松《きちまつ》を坐《すわ》らせ、「吉公《きちこう》は何時《いつ》見《み》ても白瓜《しろうり》のやうな顏《かほ》しとる、何處《どこ》か工合《ぐあひ》が惡《わる》いんか、大事《だいじ》にせえよ、汝《われ》が煩《わづ》らうと、家《うち》の者《もの》あ乞食《こじき》せねや饑《かつ》え死《じ》にぢや」と柔《やさ》しく云《い》つたが、吉松《きちまつ》は厭《いや》な氣《き》がした。自分《じぶん》が死《し》ねば母《はゝ》と妹《いもと》とは乞食《こぢき》をするのは分《わか》つてゐる。それに母《はゝ》は乞食《こぢき》を恥《はぢ》とするやうな人《ひと》ぢやない。で、彼《か》れは魔《ま》がさしたやうに自分《じぶん》の死後《しご》を思《おも》つて、鬱《ふさ》ぎ込《こ》んで默《だま》つてゐると、米《よね》は鼻《はな》に皺《しわ》を寄《よ》せてヒツ〳〵と笑《わら》《わら》つて、
「思案《しあん》投首《なげくび》で何《なに》をしとる、衒妻《げんさい》の事《こと》でも考《かんが》へとるか、汝《われ》やお竹《たけ》と夫婦《めをと》約束《やくそく》したちうぢやないか、」
「さうぢや〳〵、誰《た》れやらがそんな噂《うはさ》をしとつた」
「汝《われ》も中々《なか〳〵》惡《わる》さをするのう、私等《わしら》が一寸《ちよつと》漁《れう》に出《で》て村《むら》に居《を》らん間《ま》に、こつそり女子《をなご》を拵《こしら》へるたあ、汝《われ》もえらいぞ、祝《いは》ひに酒《さけ》でも奢《おご》らんか、その袂《たもと》の錢《ぜに》で」
と、皆《み》んなで面白《おもしろ》さうに色《いろ》んな事《こと》を云《い》つて、冷《ひや》かしては笑《わら》ひ、笑《わら》つては冷《ひや》かす、吉松《きちまつ》は我知《われし》らず袂《たもと》を握《にぎ》り締《し》め、
「虛言《うそ》ぢや〳〵、そがいな事《こと》があるもんか」と、狼狽《あは》てゝ云《い》つて、顏《かほ》を少《すこ》し赤《あか》くした。
「隱《かく》さんでもえゝわ、ぢやけど汝《われ》もお竹《たけ》だけは諦《あき》らめい、あの女子《をなご》はな、ちやんと主《ぬし》が定《きま》つとるんぢやぞ」と、虎《とら》は毛脛《けずね》を出《だ》して胡座《あぐら》を搔《か》き、澄《す》ました顏《かほ》で煙草《たばこ》を吸《す》つてゐる。
吉松《きちまつ》は一|座《ざ》を見廻《みまわ》して、最後《さいご》に目《め》を丸《まる》くして、虎《とら》の顏《かほ》を見詰《みつ》めた。
「お竹《たけ》にやちやんと主《ぬし》がある」と、虎《とら》は繰返《くりかへ》して、「汝《われ》やまだ知《し》るまいが、彼女《あれ》は源兄《げんあに》の者《もの》に定《きま》つとるんぢや、源兄《げんあに》が去年《きょねん》土佐《とさ》へ行《ゆ》く時《とき》、お竹《たけ》は己《おら》が嫁《よめ》にする、五|月《ぐわつ》の節句《せつく》に歸《かへ》るまで、彼女《あれ》に手《て》でも觸《さは》つて見《み》い、承知《しやうち》せんぞと、私等《わしら》に云《い》ひ付《つ》けたんぢや、汝《われ》も氣《き》を付《つ》けい、うつかり[#「うつかり」に傍点]してお竹《たけ》の惚氣《のろけ》でもぬかす[#「ぬかす」に傍点]と源兄《げんあに》に首《くび》つ玉《たま》あ捻《ね》ぢ切《き》られるぞ。」
その様子《やうす》が萬更《まんざら》戯言《じやうだん》でもなささうなので、吉松《きちまつ》は眞靑《まつさを》になつて震《ふる》えた。頭《あたま》を奇麗《きれい》に刈込《かりこ》んだ新客《しんきやく》が入《はい》つて來《き》て、漁《れう》の話《はなし》を仕掛《しか》け、虎《とら》の仲間《なかま》は最早《もはや》吉松《きちまつ》を相手《あひて》にしなくなつた。鶴《つる》は何時《いつ》の間《ま》にか大《だい》の字《じ》に寢《ね》て鼾《いびき》をかいてゐる。
吉松《きちまつ》はこそ〳〵と外《そと》へ出《で》た。もう二月《ふたつき》も手入《てい》れをせぬ髮《かみ》は小《ちい》さい耳朶《みゝたぼ》を蔽《おほ》ひ隱《かく》し、細《こま》かい棒縞《ぼうじま》の單衣《ひとへ》は華《はな》やかな夕陽《ゆふひ》に照《て》りつけられ、繪具《ゑのぐ》の名殘《なごり》が黑《くろ》く靑《あを》く光《ひか》つてゐる。虎《とら》の威嚇《おどし》文句《もんく》がまだ耳元《みゝもと》で鳴《な》つてるやうで、彼《か》れの魂《たましひ》はくら〳〵して身《み》に添《そ》はぬ。源《げん》と云《い》へば駐在所《ちうざいしよ》の巡査《じゆんさ》も恐《おそ》れて手出《てだ》しをせぬ程《ほど》の暴《あば》れ者《もの》。腕力《うでぢから》が强《つよ》くて三|人前《にんまへ》の仕事《しごと》もする代《かは》り、癇《かん》に觸《さは》ると、出刃《でば》庖丁《ぼうちやう》を振《ふ》り翳《かざ》すのが評判《ひやうばん》の癖《くせ》だ。十五六で魚賣《さかなう》りをしてる時分《じぶん》から、魚源《うをげん》命知《いのちし》らずと、饅頭笠《まんぢうがさ》に書《か》いて隣村《となりむら》へも名《な》の通《とほ》つてる男《をとこ》だ。虎《とら》でも龜《かめ》でも源《げん》にや道《みち》を避《よ》けて諂言《おべつか》の一《ひと》つも云《い》ふ。彼《か》れに見込《みこ》まれちや、厄病神《やくびやうがみ》に取付《とつゝ》かれたやうなもの。何《なん》だつて私《わ》しやお竹《たけ》なんか思《おも》つたことか。
彼《か》れは源《げん》が下駄《げた》で旅商人《たびあきんど》を滅多打《めつたう》ちにしたこと。大酒《おほざけ》飮《の》んで素裸《すつぱだか》で村長《そんちやう》の家《うち》へ怒鳴《どな》り込《こ》んだことなど思《おも》ひ出《だ》してぞつ[#「ぞつ」に傍点]とした。お竹《たけ》を呼出《よびだ》す計畵《もくろみ》なんか頭《あたま》の中《なか》から消《き》えてしまひ、只《たゞ》源《げん》の顏《かほ》ばかり目《め》に浮《うか》ぶ。何故《なぜ》源《げん》の船《ふね》が土佐沖《とさおき》で沈沒《ちんぼつ》しなかつたんだらう。何故《なぜ》鳴戶《なると》の渦《うづ》に捲《ま》き込《こ》まれなかつたのだらう。何故《なぜ》私《わし》を庇《かば》つて吳《く》れた人《ひと》のいゝ芝居《しばゐ》好《ず》きの作藏《さくざう》爺《ぢい》が早《はや》く死《し》んで、源《げん》のやうな奴《やつ》は虎烈剌《これら》にも罹《かゝ》らぬのだらう。
吉松《きちまつ》は神社《じんじや》の方《はう》へ向《むか》つて石《いし》ころ道《みち》を辿《たど》つた。道《みち》の左右《さいう》には貝殻《かいがら》の塚《つか》が所々《ところ〴〵》に築《きづ》かれ、真紅《しんく》の石榴《ざくろ》の花《はな》が白壁《しらかべ》の側《そば》に咲《さ》いてる。彼《か》れは夢心地《ゆめごゝち》でそれを見《み》てゐたが、太皷《たいこ》の音《おと》や鈴《すゞ》の音《おと》がます〳〵賑《にぎ》やかに聞《きこ》える。子供《こども》等《ら》は祭《まつり》ででもあるやうに、群《むれ》をなして玉垣《たまがき》の前《まへ》を飛《と》んだり跳《は》ねたりしてゐる。
「兄《ああ》よ」と、突如《だしぬけ》に聲《こゑ》がした。
驚《おどろ》いて見《み》ると、初野《はつの》は眞向《まむか》ひに立《た》つてキヨロ〳〵してゐる。鹽《しほ》たれた單衣《ひとへ》を赤《あか》い扱帶《しごき》で締《し》め、埃《ほこり》に染《そ》める白茶《しらちや》けた髮《かみ》を藁《わら》で茶筅《ちやせん》のやうに結《むす》び、顏《かほ》から首《くび》へかけて垢《あか》で塗《ぬ》られてゐる。
「兄《ああ》よ、お前《まへ》時《とき》さんに會《あ》はなんだか」と、尙《なほ》前後《ぜんご》を見廻《みまは》す。
「會《あ》ふもんか、汝《われ》ももう家《うち》へ戾《もど》れ、お母《かあ》が柏餅《かしはもち》を拵《こし》らへて待《ま》つとるから」と、吉松《きちまつ》が手《て》を執《と》ると、
「柏餅《かしはもち》か」と云《い》つて笑《わら》つたが、又《また》身《み》を藻搔《もが》いて手《て》を振放《ふりはな》し、
「そいでも、時《とき》さんが私《わし》を捜《さが》しとると、皆《みん》なが云《い》ふから、あの人《ひと》に會《あ》はにやならんもの」と呟《つぶや》いて、鳥居《とりゐ》の前《まへ》をウロ〳〵してゐる。以前《さつき》から玉垣《たまがき》に寄《よ》りかゝり初野《はつの》を調戯《からか》つて喜《よろこ》んでた連中《れんぢう》は、此方《こちら》を見《み》て「初野《はつの》さん〳〵、時《とき》さんはお地藏様《ぢざうさま》へ行《い》つた」と囃《はや》し立《た》てゝ、どつ[#「どつ」に傍点]と笑《わら》つた。
「本當《ほんたう》にお地藏樣《ぢざうさま》へ行《い》つたのかな」と勢《いきほひ》のない聲《こゑ》で云《い》つて、初野《はつの》は西《にし》の方《はう》へフラフラ步《ある》いて行《ゆ》く。
吉松《きちまつ》は情《なさけ》なくなつて淚《なみだ》を浮《うか》べた。この瞬間《しゆんかん》恐《おそ》ろしい源《げん》の事《こと》を忘《わす》れ、只《たゞ》白痴《ばか》の妹《いもと》が年中《ねんぢう》村《むら》の子供《こども》の玩具《おもちや》になるのを恥《はづか》しく思《おも》つた。そして悄然《しよんぼり》家《うち》へ歸《かへ》ると、母《はゝ》は膳《ぜん》を出《だ》したまゝ、板《いた》の間《ま》へ眠《ねむ》つてゐて、頭《あたま》の側《そば》には一《ひと》つ二《ふた》つの蚊《か》が幽《かす》かな音《おと》を立《た》てゝ飛《と》んでゐる。

(三)

吉松《きちまつ》は酒《さけ》も飮《の》まぬ。唄《うた》も唄《うた》へぬ。漁師《れうし》仲間《なかま》とは性《しやう》が合《あ》はぬから、平生《ふだん》仲《なか》のよい友逹《ともだち》は少《すくな》い。今夜《こんや》の集合《よりあひ》にも誘《さそ》ひに來《く》る者《もの》もなく、又《また》とても行《ゆ》く氣《き》にもなれぬ。で、早《はや》く晚食《ばんしよく》を濟《す》ませ、神棚《かみだな》の燈明皿《とうみやうざら》に燈火《あかり》をつけ、上《あが》り框《かまち》に腰《こし》を掛《か》けて沈《しづ》んでゐた。昨夜《ゆうべ》は幟《のぼり》に忙《いそが》しくて何《なん》となく悅《うれ》しかつたが、今夜《こんや》からは繪《ゑ》の仕事《しごと》もなくなつた。平生《ふだん》なら夜業《よなべ》に草鞋《わらじ》を造《つく》るのだが、今夜《こんや》は肩《かた》が怠《だる》くて氣分《きぶん》が欝《ふさ》いで槌《つち》を持《も》てさうでもない。婆《ばあ》さんは行燈《あんどん》も點火《とぼ》さず、燈明《とうみやう》の光《ひかり》で絲《いと》を紡《つむ》いでゐる。數町《すうちやう》を隔《へだ》てた宮《みや》では太皷《たいこ》の音《おと》がます〳〵賑《にぎ》やかに聞《き》こえる。
「吉《きち》よ、汝《われ》や錢《ぜに》を何處《どこ》へ置《お》いたか」と、母《はゝ》に問《と》はれて、吉松《きちまつ》は振返《ふりかへ》り。
「其處《そこ》の戶棚《とだな》に入《はい》つとらあ」と云《い》つて、薄光《うすあか》りに緖卷《をまき》の絲《いと》のブル〳〵震《ふる》ふのを見《み》てゐる。
「何《なん》ぼ溜《たま》つたか」
「今月《けふ》は三|圓《ゑん》ばかし貰《もら》うて來《き》た。まだ三|軒《げん》殘《のこ》つとらあ」
「そがい[#「そがい」に傍点]に吳《く》れたかい、そいぢやえゝお節句《せつく》が出來《でき》るなあ、お母《かあ》も明日《あした》はお高姊《たかねえ》の宅《うち》へお祈禱《はらひ》に賴《たの》まれとるから、又《また》錢《ぜに》になるし、麥《むぎ》の二|俵《ひやう》や三|俵《びやう》は庭《には》へ積《つ》めるわい、汝《われ》も嫁《よめ》を娶《と》るなら今《いま》が丁度《ちやうど》えゝ機會《しほ》ぢや、誰《だ》れでも好《す》きな女子《をなご》がありや連《つ》れて來《こ》い」
「私《わし》や嫁《よめ》を娶《と》らんでもえゝ、一|生《しやう》獨《ひと》りで暮《くら》すんぢや」
「そいでも、今朝《けさ》は嫁《よめ》を娶《と》りたいと云《い》ふたぢやないか、芳《よし》でも鶴《つる》でも梅《うめ》でも皆《み》んな嫁《よめ》があるんじやもの、汝《われ》も欲《ほ》しからうがな」
婆《ばあ》さんの聲《こゑ》は欠伸《あくび》まぜりで、次第《しだい》に絲車《いとぐるま》も間斷勝《とだえが》ちになる。吉松《きちまつ》は時折《ときをり》話《はな》しかけられても碌《ろく》に答《こた》へぬ。で、暫《しば》らく母子《おやこ》脊合《せなかあ》はせで默《だま》つてゐると、何時《いつ》の間《ま》にか初野《はつの》が勝手口《かつてぐち》からノロ〳〵入《はい》つて來《き》た。白痴《ばか》の中《うち》でも陽氣《やうき》に騷《さは》ぐ方《はう》ではなし、口數《くちかず》は少《すくな》く戶外《そと》へ出《で》るにも歸《かへ》るにも、大抵《たいてい》は忍《しの》び足《あし》で、家《うち》の者《もの》にも氣《き》づかぬ位《くらゐ》だ。兩方《りやうはう》の袖口《そでくち》を持《も》つて、しよんぼり[#「しよんぼり」に傍点]庭《には》に突立《つゝた》つたまゝ左右《さいう》を見廻《みまわ》し、
「お母《かあ》、家《うち》は暗《くら》いなあ、兄《ああ》よ、お宮《みや》は賑《にぎ》やかぢやぞ」と、低《ひく》い聲《こゑ》で云《い》つて、草履《ざうり》を引摺《ひきず》つて又《また》戶外《そと》へ出《で》かけた。
「初《はつ》は朝《あさ》から御飯《ごはん》も食《た》べいで、何《なに》をしとるんなら、もう何處《どこ》へも行《い》かいで、早《はや》うお夕飯《ゆふはん》を食《た》べなよ」
と、婆《ばあ》さんは猫撫聲《ねこなでごゑ》で云《い》つたが、初野《はつの》は「そいでも家《うち》は淋《さび》しいもの」と、何處《どこ》へか行《い》つてしまつた。
「また皆《み》んなに嬲《なぶ》られたいんか」と、婆《ばあ》さんは獨言《ひとりごと》のやうに云《い》つたが、最早《もはや》娘《むすめ》を氣《き》にも掛《か》けず、絲車《いとぐるま》を離《はな》れもせぬ。
吉松《きちまつ》も今宵《こよひ》は住《す》み馴《な》れた家《いへ》を、際立《きはだ》つて暗《くら》く感《かん》じた。室《うへ》に這《は》ひ上《あが》つて行燈《あんどん》をつけ、燈心《とうしん》をかき立《た》てたが、隅々《すみ〴〵》は尙《なほ》暗《くら》い。天氣《てんき》が變《かは》つたのか東風《こち》が吹《ふ》き出《だ》し、ソヨ〳〵と裏口《うらぐち》から入《はい》つて來《く》る。枇杷《びわ》の木《き》も騷《さわ》ぎ出《だ》した。宮《みや》の太鼓《たいこ》の音《おと》は止《や》んだが、ワイワイ叫《さけ》ぶ聲《こゑ》は一|層《そう》盛《さか》んに聞《きこ》える。彼《か》れは耳《みゝ》を傾《かたむ》けてゐたが、やがて不意《ふい》に起上《おきあが》つて、聲《こゑ》する方《はう》へ向《むか》つた。三日月《みかづき》は既《すで》に沈《しづ》んで、天《てん》遠《とほ》く星《ほし》が力《ちから》弱《よわ》く光《ひか》つてゐる。