何處へ
正宗白鳥著

目次

何處へ (四十一年一月―四月 早稻田文學)…………………一
玉突屋 (同 年一月 太 陽)………………………一三五
六號記事(同 年一月 文章世界)………………………一四三
彼の一日(同 年三月 趣 味)………………………一五九
五月幟 (同 年三月 中央公論)………………………一七三
村 塾 (同 年四月 中央公論)………………………二〇五
空想家 (四十年十 月 太 陽)………………………二二一
株 虹 (同 年十二月 新思潮)………………………二六九
凄い眼 (四十一年八月 太 陽)………………………二九一
世間並 (同 年七月 趣 味)………………………三一一

何處へ

(一)

可愛《かあい》い目元《めもと》をほんのり酒《さけ》に染《そ》めた女《をんな》が高《たか》くさし掛《か》けた傘《かさ》の下《した》に入《はい》つて、菅沼健次《すがぬまけんじ》は敷石傳《しきいしづた》ひに門口《かどぐち》へ來《き》た。
「ぢや明後日《あさつて》、屹度《きつと》ですよ」と、女中《ぢよちう》は笑顏《ゑがほ》で覗《のぞ》き込《こ》み、艶氣《つやけ》を含《ふく》んだ低《ひく》い聲《こゑ》で云《い》つた。
「むゝん」と健次《けんじ》は女《をんな》の顏《かほ》をも見《み》ず、引《ひつ》たくるやうに傘《かさ》を取《と》つて、さつさと急《いそ》ぎ足《あし》で步《ある》き出《だ》したが、五六|間《けん》も步《あゆ》んで我知《われし》らず振返《ふりかへ》ると、「鳥《とり》」と行書《ぎやうしよ》で書《か》いた濕《しめ》つた軒燈《がすとう》の下《もと》に彼《か》の女《ぢよ》がぼんやり立《た》つてゐる。
健次《けんじ》は何《なん》の譯《わけ》もなく微笑《につこり》する。女《をんな》も微笑《につこり》して、胸《むね》を突出《つきだ》して會釋《ゑしやく》する。
それも一瞬間《またゝくま》で、健次《けんじ》は傘《かさ》を肩《かた》にかけ、側目《わきめ》も振《ふ》らず上野《うへの》の廣小路《ひろこうぢ》へ出《で》て、道《みち》を山下《やました》の方《はう》へ取《と》る。
昨日《きのふ》の天長節《てんちやうせつ》に降《ふ》り通《とほ》した雨《あめ》は、今日《けふ》も一|日《にち》絕間《たえま》なく、濕《しめ》つぽい夜風《よかぜ》が冷《つめ》たく顏《かほ》に吹《ふ》き當《あた》る。往來《わうらい》の人々《ひと〴〵》は皆《みな》傘《かさ》を斜《なゝ》めに膝《ひざ》を曲《ま》げて、ちよこ〳〵と小股《こまた》に急《いそ》いでゐる。健次《けんじ》も膝《ひざ》から下《した》はびしよ濡《ぬ》れになつたが、敢《あえ》てそれを氣《き》に留《と》めるでもなく、只《たゞ》いゝ氣持《きもち》で、口《くち》の内《うち》で小唄《こうた》か何《なに》か呟《つぶや》いて、沈《しづ》んだ空《そら》へ酒臭《さけくさ》い息《いき》を吐《ふ》きながら、根岸《ねぎし》の近《ちか》くまで來《く》ると、橫合《よこあひ》から底《そこ》の深《ふか》い大《おほ》きな蝙蝠傘《かうもりがさ》が、不意《ふい》に健次《けんじ》の蛇《じや》の目《め》にぶつ付《つ》かる。チエツと舌打《したうち》して避《さ》けやうとする機會《とたん》に、蝙蝠傘《かうもりがさ》の男《をとこ》が聲《こゑ》をかけて、
「やあ君《きみ》」と立留《たちどま》つた。
健次《けんじ》は少《すこ》し驚《おどろ》いて、「やあ君《きみ》か、何處《どこ》へ行《い》つた」
「君《きみ》の家《うち》さ、今夜《こんや》は雨《あめ》だから、屹度《きつと》ゐるだらうと思《おも》つたのに、何處《どこ》を浮《うか》れてた、いい顏《かほ》つきをしてるぢやないか」
「そりや氣《き》の毒《どく》だつたね、これから僕《ぼく》の家《うち》へ行《い》かうぢやないか」
「いや、もう遲《おそ》いからよさう」と、蝙蝠傘《かうもりがさ》の男《をとこ》は長《なが》い身體《からだ》を屈《かゞ》めて、下駄屋《げたや》の時計《とけい》をのぞいて見《み》て、「もう彼此《かれこれ》九|時《じ》だね」と一寸《ちよつと》考《かんが》え、「實《じつ》は君《きみ》に少《すこ》しお賴《たの》みがあるんだが……此處《こゝ》で話《はな》してもいゝが、どうだ其邊《そこら》の珈琲店《コーヒーてん》へでも寄《よ》つて吳《く》れんか」と、首《くび》をまはして周圍《あたり》を捜《さが》す。
「ぢや、さうしよう、この先《さ》きにいゝ家《うち》がある」と、健次《けんじ》は先《さ》きに立《た》つて、半丁《はんちやう》ばかり泥濘《ぬかるみ》の中《なか》を通《とほ》つて、擦玻璃《すりがらす》に一品亭《いつぴんてい》とある小《ちい》さい西洋料理店《せいやうれうりてん》へ行《い》つた。
客《きやく》は一人《ひとり》もゐない。白布《ぬの》で蔽《おほ》うたテーブルの上《うへ》に火鉢《ひばち》を置《お》いて、籐椅子《とういす》が四五|脚《きやく》周圍《まはり》に不秩序《ふちつじよ》に置《お》かれてある。健次《けんじ》は火鉢《ひばち》の火《ひ》を搔《か》き廻《まは》して、
「君《きみ》は馬鹿《ばか》に寒《さむ》さうぢやないか、さあ當《あた》り給《たま》へ」
と云《い》つて、卷煙草《まきたばこ》に火《ひ》を付《つ》けて、反身《そりみ》で椅子《いす》に寄《よ》りかゝり、頻《しき》りに瞬《まばたき》をしながら仰向《あふむ》いて煙草《たばこ》を吸《す》ふ。
今迄《いまゝで》板《いた》の間《ま》に腰掛《こしか》け、左右《さいう》の袖《そで》を搔《か》き合《あ》はせて居眠《いねむ》りをしてゐた小娘《こむすめ》が、高《たか》い足駄《あしだ》を引摺《ひきず》つて、
「お誂《あつら》へは」と寢呆聲《ねぼけごゑ》で聞《き》く。
「寒《さむ》いから日本酒《にほんしゆ》がいゝだらう、料理《れうり》は何《なに》がいゝ、ビフテキにでもするか」と、骨太《ほねぶと》い手《て》を火鉢《ひばち》の上《うへ》に翳《かざ》しぽかん[#「ぽかん」に傍点]としてゐる相手《あひて》の顏《かほ》を見《み》て、默諾《もくだく》を得《え》て、健次《けんじ》は小娘《こむすめ》に命《めい》じた。
この丈高《たけたか》き男《をとこ》は織田《おだ》常吉《つねきち》と云《い》ひ、健次《けんじ》が昔《むかし》の同窓《どうそう》の友《とも》で、今《いま》は私立學校《しりつがくかう》に英語《えいご》の敎師《けうし》を勤《つと》め、傍《かたは》ら飜譯《ほんやく》などをしてゐる。年齡《とし》は健次《けんじ》より僅《わづ》か一つ上《うへ》だが、健次《けんじ》の小柄《こがら》で若《わか》く見《み》えるのに反《はん》して、格段《かくだん》に老《ふ》けて見《み》える。丈《たけ》の高《たか》きのみならず、それに釣合《つりあ》ふ程《ほど》に肉付《にくづ》きもよく、見《み》た所《ところ》魁偉《くわいゐ》なる人物《じんぶつ》であるが、何處《どこ》となく身體《からだ》にゆるみ[#「ゆるみ」に傍点]がある。鹽氣《しほけ》が足《た》らぬ。顏《かほ》は平《ひら》たく目《め》は細《ほそ》く、耳《みゝ》は福々《ふく〴〵》と垂《た》れてゐる。
「君《きみ》は相變《あひかは》らず氣樂《きらく》さうだね、殊《こと》に今日《けふ》は愉快《ゆくわい》な顏《かほ》をしてるぢやないか」と、織田《おだ》は健次《けんじ》を見《み》て、ゆつたりした聲《こゑ》で云《い》ふ。
「はゝゝゝ、そう見《み》えるかな、これで二三日|打續《ぶつつゞ》けだよ、まあ社《しや》の方《はう》が暇《ひま》つぶしで、遊《あそ》ぶ方《はう》が本職《ほんしよく》のやうな者《もの》だ、しかし本職《ほんしよく》となると、遊《あそ》ぶ方法《はうはふ》に苦心《くしん》する。如何《いか》にして遊《あそ》ぶべきかが、僕《ぼく》の當面《たうめん》の問題《もんだい》である」と、陽氣《ようき》な聲《こゑ》で、一寸《ちよつと》桂田《かつらだ》博士《はかせ》の假聲《こはいろ》を使《つか》ひ、顏《かほ》に愛嬌《あいけう》を湛《たゝ》えて微笑々々《にこ〳〵》する。
「まあ遊《あそ》べる間《うち》は遊《あそ》ぶがいゝやね、しかし今《いま》もね、君《きみ》の母堂《マザー》と話《はな》して來《き》たんだが、健次《けんじ》も此頃《このごろ》は酒好《さけず》きになつて困《こま》ると云《い》つてたよ、祖父《おぢい》さんのやうにならなきやいゝがと云《い》つてゐられた」
「さうか、僕《ぼく》の母方《はゝかた》の祖父《ぢいさん》は、大酒呑《おほざけの》みで終《しまひ》には狂人《きちがひ》になつて死《し》んだんだからね、それに僕《ぼく》の顏《かほ》が次第《しだい》に祖父《ぢいさん》に似《に》て來《く》るさうだから、母《はゝ》は心配《しんぱい》してるだらう」
「何《なに》、さうでもないらしい、只《たゞ》早《はや》く嫁《よめ》を貰《もら》ひたいやうな話《はなし》をしてゐた、僕《ぼく》にもいゝのを見《み》つけて吳《く》れつて、本氣《ほんき》で云《い》つてられたよ、親《おや》は有難《ありがた》いものだね」
「さうかね」と、健次《けんじ》は嘲《あざ》けるやうに云《い》つて、「君《きみ》も精々《せい〴〵》美人《びじん》を捜《さ》がして呉《く》れ賜《たま》へな」
「そんな氣《き》があるんなら周旋《しうせん》しよう、しかし何《なん》だよ」と云《い》ひかけた所《ところ》へ、小娘《こむすめ》が銚子《てうし》を持《も》つて來《く》ると、織田《おだ》はぽかんとして、前《まへ》の話《はなし》の緖《いとぐち》を忘《わす》れてしまひ、健次《けんじ》の矢繼早《やつぎばや》にさす盃《さかづき》を三四|杯《はい》引受《ひきう》けた。
「で、君《きみ》、僕《ぼく》に用事《ようじ》と言《い》つて何《なん》だい」と、健次《けんじ》は强《つよ》い調子《てうし》で押付《おしつ》けるやうに云《い》ふと、織田《おだ》は「何《なに》、急《きふ》な事《こと》でもないんだがね」と、前《まへ》に自分《じぶん》が賴《たの》みがあると云《い》つた癖《くせ》に、その用談《ようだん》を避《さ》けるやうにして、ビフテキの小《ちい》さい切《き》れをもぐ〳〵させながら、顏《かほ》を顰《しか》め、「非常《ひじやう》に堅《かた》い」と呟《つぶや》き、暫《しばら》く無言《むごん》の後《のち》「僕《ぼく》も弱《よわ》つたぜ、親爺《おやぢ》の病氣《びやうき》がます〳〵よくないんで、入院《にふゐん》させなくちやならんのだ、まだ確定《かくてい》はしないが、どうも胃癌《ゐがん》らしい」
と、フオークとナイフとを持《も》つたまゝ、仰向《あふむ》いて云《い》つたが、顏《かほ》にも言葉《ことば》にも弱《よは》つてる樣子《ようす》は見《み》えず、例《れい》の通《とほ》りポカンとしてゐる。
「さうかい、そりや困《こま》つたね」と、健次《けんじ》は少《すこ》しも手《て》を付《つ》けぬ皿《さら》を見詰《みつ》めたなりで、氣《き》のない聲《こゑ》で云《い》ひ、心《こゝろ》でも左程《さほど》同情《どうじやう》してる風《ふう》はない。織田《おだ》は相手《あひて》に頓着《とんちやく》なく、悠長《いうちやう》な聲《こゑ》で、
「妻《ワイフ》は身《み》が重《おも》いし、母《はゝ》はあの通《とほ》りの無性者《ぶしやうもの》で、一日《いちにち》煙草《たばこ》ばかり吸《す》つてゝ役《やく》にや立《た》たず、妹《いもと》は學校《がつかう》へ行《い》つたきりで、遲《おそ》くまで歸《かへ》つて來《こ》んから、何《なに》もかも僕《ぼく》一人《ひとり》でやらなくちやならんのでね、本當《ほんたう》に困《こま》るよ、それでこの四五|日《にち》は學校《がつかう》も缺勤《けつきん》ばかりしてる」
「ぢや妹《いもと》を學校《がつかう》へやつて、君《きみ》は缺勤《けつきん》して家《うち》の世話《せわ》をしてるんだね、しかし病人《びやうにん》の看護《かんご》なんか君《きみ》の適任《てきにん》ぢやないね」
「だつて仕方《しかた》がないさ、どうも一|家《か》の主人《しゆじん》となると面倒《めんだう》なものだ、今《いま》に君《きみ》も結婚《けつこん》すると困《こま》るぜ、何《なん》だのかだのと、そりや五月蠅《うるさ》くつてね、それに子供《こども》なんか出來《でき》なきやいゝんだが」
「そいつあ當然《あたりまへ》だから仕方《しかた》がないさ、しかし僕《ぼく》だつたら、家《うち》が五月蠅《うるさ》けりや一|日《にち》外《そと》へ出《で》てゐらあ、女房《にようばう》の產《さん》の世話《せわ》から借金《しやくきん》の言譯《いひわけ》まで亭主《ていしゆ》がしなくつたつていゝ」
「さうもいかんよ、君《きみ》、それに僕《ぼく》の月給《げつきう》が安《やす》いから、平生《ふだん》だつて内職《ないしよく》をしなくちや引足《ひきた》らんのに、病人《びやうにん》が出來《でき》ちや災難《さいなん》だ、だから此頃《このごろ》は酒《さけ》どころぢやない、煙草《たばこ》も止《や》めてしまつた」と、少《すこ》し萎《しほ》れた。その樣子《やうす》を見《み》ると、健次《けんじ》は急《きふ》に不憫《ふびん》になり、
「だが君《きみ》は感心《かんしん》だよ、家庭《かてい》のために犧牲《ぎせい》になるから」と云《い》つて、後《うしろ》を見《み》て「もう一|本《ぽん》」と叫《さけ》んだ。
「僕《ぼく》はもういゝよ、遲《おそ》くなると家《うち》で心配《しんぱい》するから、そろ〳〵歸《かへ》らなくちや」
「まあいゝさ、久振《ひさしぶ》りだから、も少《すこ》し話《はなし》をしやうぢやないか」と、健次《けんじ》は少《すこ》しも手《て》を付《つ》けぬ皿《さら》を押《をし》のけ、煙草《たばこ》を啣《くは》へたまゝ腕組《うでぐみ》して、半《なか》ば目《め》を閉《と》ぢ、降《ふ》りしきる雨《あめ》の音《おと》やら、幽《かす》かに響《ひゞ》く車《くるま》の掛聲《かけごゑ》やら、前《まへ》を通《とほ》つてる按摩《あんま》の震《ふる》え聲《ごゑ》に耳《みゝ》を傾《かたむ》け、森《しん》とした淋《さみ》しい空氣《くうき》に心《こゝろ》が吸込《すひこ》まれ、快活《くわいくわつ》な色《いろ》も顏《かほ》から失《う》せかゝつて來《き》たが、コトンと銚子《てうし》の音《おと》がするので、振返《ふりかへ》つてパツと目《め》を開《あ》けた。惡夢《あくむ》から醒《さ》めたやうに、銳《するど》く四圍《あたり》を見《み》まはし、やがて眉《まゆ》をぴりゝとさせ、二|本《ほん》の指《ゆび》で熱《あつ》さうに銚子《てうし》の首《くび》を持《も》つて、
「さあ受《う》け玉《たま》へ」と、無雜作《むざうさ》に相手《あひて》の盃《さかづき》へどぶ〳〵と注《つ》ぎ、「そして肝心《かんじん》の用事《ようじ》は何《なん》だい」と問《と》ふと、織田《おだ》は言憎《いひに》さうに暫《しばら》く口籠《くごも》り、
「少《すこ》し無理《むり》なお願《ねが》ひだがね」と、盃《さかづき》を持《も》つては置《お》き〳〵して、「又《また》原稿《げんかう》の事《こと》さ」と、氣《き》の毒《どく》さうに云《い》ふ。
「うん原稿《げんかう》の周旋《しうせん》か、僕《ぼく》が引受《ひきう》けてどうかしやう」と、健次《けんじ》は快《こゝろよ》く首《うな》づく。織田《おだ》はやうやく安心《あんしん》したらしく、甘《うま》そうに盃《さかづき》を呑《の》み干《ほ》して健次《けんじ》に差《さ》し、
「實際《じつさい》忙《いそが》しい間《あひだ》に書《か》いたので、よくはなからうがね、それでも毆《なぐ》り書《が》きぢやないんだ、會話《くわいわ》にや格別《かくべつ》苦心《くしん》して、一|機軸《きぢく》を出《だ》したつもりだから、まあ讀《よ》んで吳《く》れ賜《たま》へ、物《もの》はゴルキーの小說《せうせつ》だ」
「さうか、いゝだらう」と、健次《けんじ》は輕《かる》く答《こた》へて、物《もの》が何《なん》であれ、譯筆《やくひつ》が何《なん》であれ、そんな事《こと》は身《み》を入《い》れて聞《き》かうともせぬ。
「それからね、少《すこ》し無理《むり》だが原稿料《げんかうれう》を早《はや》く貰《もら》つて吳《く》れまいか、月初《つきはじ》めから一|文無《もんな》しだから、それに……」
と、健次《けんじ》の煙草《たばこ》を一|本《ほん》取《と》つて、指先《ゆびさ》きで揉《も》みながら、何《なに》をか訴《うつた》へんとする。それと見《み》て健次《けんじ》は頭《あたま》から打消《うちけ》し、
「よし〳〵、それも僕《ぼく》が受合《うけあ》つた、引替《ひきか》へに貰《もら》つてやらう」
と話《はなし》を轉《てん》じ、「で、君《きみ》は此頃《このごろ》箕浦《みのうら》に會《あ》つたか」と何時《いつ》も長々《なが〴〵》と聞《き》かされる無味《むみ》の生活談《せいくわつだん》や金錢論《きんせんろん》は避《さ》けやうとする。
「むん昨日《さくじつ》見舞《みま》ひに來《き》て吳《く》れたがね、會《あ》ふと例《れい》の通《とほ》り大《おほ》きな人生問題《じんせいもんだい》を論《ろん》じてる。讀書《どくしよ》も盛《さかん》にやつてるやうだし、此頃《このごろ》は長《なが》い論文《ろんぶん》も書《か》いてるさうだ、いづれ君《きみ》の所《ところ》へでも持込《もちこ》むだらう、しかしね、僕《ぼく》が云《い》ふんだが、箕浦《みのうら》なんかは己惚《うぬぼれ》が過《す》ぎる、人生《じんせい》がどうの宇宙《うちう》がかうのと、人間《にんげん》が誤託《ごたく》を並《なら》べるのは、身《み》の程《ほど》知《し》らずの極《きよく》だ、獨身《どくしん》で親爺《おやぢ》の脛《すね》でも嚙《かじ》つてる間《うち》は、そんな事《こと》を道樂《どうらく》にしてゐられやうがね、家庭《かてい》でも造《くつ》つて、一人前《いちにんまへ》の人間《にんげん》になると、そんな事《こと》は馬鹿々々《ばか〴〵》しくて問題《もんだい》にもならんさ」
と、多少《たせう》の活氣《くわつき》を帶《お》びて論《ろん》ずる。健次《けんじ》は微紅《うすくれなゐ》の艶々《つや〳〵》した頰《ほう》に靨《えくぼ》を見《み》せ、切《き》れの長《なが》い目尻《めじり》に皺《しわ》を寄《よ》せ、
「はゝゝゝ、珍《めづ》らしく君《きみ》の名論《めいろん》を聞《き》くね、しかし箕浦《みのうら》はコツ〳〵根氣《こんき》よく學問《がくもん》を續《つゞ》けてるし、文章《ぶんしやう》も上手《じやうず》になつたぢやないか、感心《かんしん》だよ」
「今《いま》に肺病《はいびやう》か惱病《なうびやう》になるのが落《お》ちだ」と、織田《おだ》は澄《すま》してゐる。
「いや博士《はかせ》ぐらゐにやなれらあ」と、健次《けんじ》は皮肉《ひにく》に云《い》つて、「だが箕浦《みのうら》は君《きみ》の妹《いもと》に惚《ほ》れてるよ」と、少《すこ》し乗出《のりだ》して、聲《こゑ》を低《ひく》くする。
「馬鹿《ばか》なことを」と、織田《おだ》は締《しま》りのない大口《おほぐち》を開《あ》けて、ハツ〳〵と笑《わら》ふ。
「うんにや惚《ほ》れてる、君《きみ》の目《め》にやどうだか、僕《ぼく》には一|目《もく》瞭然《れうぜん》よ」
「さうか知《し》らん」
「さうだとも、それにね君《きみ》の妹《シスター》のラブしてる男《をとこ》がある」
「え、本當《ほんたう》かい君《きみ》、虛言《うそ》だらう、君《きみ》はよく色《いろ》んなことを云《い》つて、僕《ぼく》を調戯《からか》ふからいかんよ、若《も》し本當《ほんたう》なら相手《あひて》が誰《た》れだか聞《き》かせて吳《く》れ玉《たま》へ、僕《ぼく》も一|家《か》の主人《しゆじん》だから、妹《あれ》の身《み》の上《うへ》についても責任《せきにん》があるんだもの、間違《まちが》ひのないやうに警戒《けいかい》しなくちやならん」
「いくら警戒《けいかい》したつて駄目《だめ》さ、歲頃《としごろ》の女《をんな》が色氣《いろけ》づくのは當然《たうぜん》ぢやないか、で、若《も》し相手《あひて》が分《わか》つたらどうする、妹《シスター》を柱《はしら》にでも縛《しば》りつけるかい」
「君《きみ》、そんな馬鹿《ばか》な眞似《まね》をする者《もの》か、僕《ぼく》は何《なに》さ、向《むか》うが相當《さうたう》の男《をとこ》だつたら正式《せいしき》の結婚《けつこん》さすし、不相當《ふさうたう》の男《をとこ》だつたら思《おも》ひ切《き》らせる」
「成程《なるほど》譯《わけ》の分《わか》つた兄樣《にいさま》だ、何處《どこ》の親《おや》だつてそれと同樣《どうやう》の事《こと》を申《まを》します」
「だつて主人《しゆじん》の義務《ぎむ》としてそれが當然《たうぜん》ぢやないか、君《きみ》ならどうする」
「僕《ぼく》なら放任《はうにん》しとかあ」
「馬鹿《ばか》な、君《きみ》も箕浦流《みのうらりう》の空論家《くうろんか》だね」
「ふゝん、僕《ぼく》と箕浦《みのうら》とは一|荷《か》にならんぜ、向《むか》ふ樣《さま》は本《ほん》をどつさり抱《だ》いてるから貫目《かんめ》があらあね」
「君《きみ》は氣樂《きらく》な事《こと》ばかり云《い》つてるが、僕《ぼく》は何時《いつ》も確信《かくしん》してる、人間《にんげん》は要《えう》するに僕《ぼく》のやうにならにや虛言《うそ》だ、遲《おそ》かれ疾《はや》かれ君《きみ》なども同《おな》じ道《みち》へ落《お》ちて來《く》るんだ」
健次《けんじ》はぞつと寒氣《さむけ》がして、思《おも》はず手《て》を火鉢《ひばち》に翳《かざ》し、織田《おだ》の顏《かほ》を見詰《みつ》め、「お互《たが》ひに君《きみ》の道連《みちづ》れになつて、テク〳〵步《ある》きで、電信柱《でんしんばしら》でも數《かぞ》へて行《ゆ》くんだね、大通《おほどほ》りの左側《ひだりがは》を步《ある》いてりや、自然《しぜん》に日本橋《にほんばし》に出《で》られる」
「君《きみ》、戯言《じやうだん》は止《よ》して、今《いま》の話《はな》しの相手《あひて》は誰《た》れだい、一|體《たい》向《むか》うの男《をとこ》は妹《いもと》を思《おも》つてるんかい」
「さあ、どうだかね、よく知《し》らんよ」
「誰《たれ》だらう」と、頰杖《ほゝづゑ》ついて、眞面目《まじめ》に考《かんが》へてゐる。
健次《けんじ》は人差指《ひとさしゆび》でテーブルを打《う》ちながら、「先《さき》あ左程《さほど》にも思《おも》やせぬ」と小聲《こごゑ》で唄《うた》つてゐたが、急《きふ》に何《なに》をか感《かん》じて、額《ひたひ》に皺《しわ》を寄《よ》せ、邪慳《じやけん》に煙草《たばこ》の吸口《すゐくち》を嚙《か》み出《だ》した。
織田《おだ》は思《おも》ひ飽《あぐ》んで面《おもて》を上《あ》げ、「君《きみ》は不斷《のべつ》に煙草《たばこ》を吸《す》つてる、毒《どく》だよ」
「毒《どく》だつていゝさ」と、健次《けんじ》は吸殻《すゐがら》を吐《は》き出《だ》し、「僕《ぼく》は阿片《あへん》を吸《す》つて見《み》たくてならん、あれを吸《す》ふと、身體《からだ》がとろけちやつて、金鵄勳章《きんしくんしよう》も壽命《じゆめい》も入《い》らなくなるさうだ、阿片《あへん》だ〳〵あれに限《かぎ》る」
と、獨《ひと》りで合點《がてん》してゐる。それが戯語《じやうだん》とも思《おも》へず、眞《しん》から感《かん》じてるやうなので、織田《おだ》は細《ほそ》い目《め》を丸《まる》くして、
「よくそんな下《くだ》らぬ事《こと》を眞面目《まじめ》で考《かんが》へてるね、阿片《あへん》でなくつたつて快味《くわいみ》を感《かん》ずる者《もの》は幾《いく》らもあるぢやないか」
「さうかね、僕《ぼく》はこれ程《ほど》煙草《たばこ》を吸すつてゝも、眞《しん》に味《うま》いと思《おも》つたことは一|度《ど》もないよ、酒《さけ》だつてさうだ、ビフテキだつてさうだ、一寸《ちよつと》舌《した》の先《さき》で甘《うま》いと思《おも》つても、染々《しみ〴〵》と五|體《たい》がとろける程《ほど》快味《くわいみ》を感《かん》じたことがない。どうも物足《ものた》らんね、それで何時《いつ》も思《おも》ふんだ、何處《どこ》か世界《せかい》の隅《すみ》つこに最上《さいじやう》の珍味《ちんみ》が潜《ひそ》んでるに違《ちが》ひない、僕《ぼく》はそいつを捜《さが》し出《だ》したい、で、今《いま》もそれを考《かんが》へてたんだが、或《あるひ》はその珍味《ちんみ》が阿片《あへん》ぢやないか知《し》らん、阿片《あへん》を吸《す》ひ出《だ》すと、何《なん》にも代《か》へられんちうぢやないか」
「馬鹿《ばか》な」と、織田《おだ》は一口《ひとくち》に斥《しりぞ》けて、「まだ甘《うま》い料理《れうり》を食《く》はんから、そんな事《こと》が云《い》つてられるんだ、櫻木《さくらぎ》の鳥《とり》なんか食《た》べてて、甘《うま》い物《もの》がないなんて廣言《かうげん》する權利《けんり》はないよ」と、天麩羅《てんぷら》鰻《うなぎ》椀盛《わんもり》などの名代《なだい》の家《いへ》を數《かぞ》へ上《あ》げ、諄々《じゆん〳〵》とその說明《せつめい》をし、「近々《ちか〴〵》長編《ちやうへん》を譯《やく》して仕舞《しま》つたら、藏田屋《くらたや》でも奢《おご》るよ」
健次《けんじ》は苦笑《にがわらひ》して、「何《いづ》れ御馳走《ごちそう》にならうよ」と立上《たちあが》り、「もう十|時《じ》だ、行《い》かうか」と、勘定《かんぢやう》を濟《す》ませて外《そと》へ出《で》た。雨《あめ》は稍々《やゝ》小降《こぶ》りになつたが、道《みち》は暗《くら》く風《かぜ》は冷《つめ》たく、健次《けんじ》は來《く》る時《とき》の元氣《げんき》に引變《ひきか》へ、傘《かさ》を兩手《りやうて》で持《も》つて、ぶる〳〵と慄《ふる》へたが、織田《おだ》は前《まへ》と同《おな》じく泰然自若《たいぜんじじやく》、急《せ》かず騷《さわ》がず、長靴《ながぐつ》を踏占《ふみし》め〳〵電車道《でんしやみち》へ向《むか》ふ。

(二)

健次《けんじ》の家《うち》は御行《ごぎやう》の松《まつ》を右手《みぎて》に見《み》て、暗闇《くらやみ》には危險《きけん》な道《みち》を一|丁《ちやう》ばかり入《はい》つた曲《まが》り角《かど》にある。土藏付《どぞうつき》で、狭《せま》いながらも庭《には》もあり周圍《しうゐ》を高《たか》い板塀《いたべい》で取《とり》かこみ、可成《かな》りの物持《ものも》の住宅《じうたく》と見《み》られるが、その實《じつ》屋根《やね》も壞《こは》れ柱《はしら》も傾《かたむ》き、大雨《おほあめ》には臺所《だいどころ》で傘《かさ》をさゝねばならぬ有樣《ありさま》。本當《ほんたう》なら隅《すみ》から隅《すみ》まで大修繕《だいしうぜん》を施《ほどこ》さねばならぬので、近所《きんじよ》の差配《さはい》なども見兼《みか》ねて、賴《たの》まれもせぬに家屋敷《いへやしき》を檢分《けんぶん》して、「早《はや》く手《て》をお入《い》れなさらなくちや御損《ごそん》ですぜ、何《なん》なら私《わたくし》がお引受《ひきう》けして、見積《みつも》りを立《た》てゝ見《み》ませう」と注意《ちゆうい》するが、健次《けんじ》の父《ちゝ》は「近々《きん〳〵》どうかしよう」と云《い》つて、別《べつ》に心《こゝろ》に掛《か》ける風《ふう》はない。健次《けんじ》は早《はや》くから「こんな陰氣《いんき》な古《ふる》びた家《いへ》はうり拂《はら》つて、山《やま》の手《て》へでも引越《ひつこ》した方《はう》がよからう」と勸《すゝ》め、母《はゝ》は全然《ぜんぜん》同意《どうい》して、せめて此家《こゝ》を修繕《しうぜん》して他人《ひと》に貸《か》し、自分逹《じぶんたち》は小《こ》ぢんまりした借家《しやくや》に住《す》まつた方《はう》が幾《いく》らいゝか知《し》れぬ。第《だい》一こんな廣《ひろ》い家《うち》にゐては、世間《せけん》から有福《いうふく》に見《み》られて、何《なに》かと取上《とりあげ》られる金高《きんだか》も多《おほ》くて不輕濟《ふけいざい》ではあるしと說《と》くが、穩《おだ》やかな父《ちゝ》もこればかりは頑《ぐわん》として聞入《きゝい》れぬ。おれは此家《こゝ》で息《いき》を引取《ひきと》るつもりで越《こ》して來《き》たのだから、决《けつ》して他《ほか》へは移轉《いてん》せぬ。それに借家《しやくや》は厭《いや》だと云《い》ふ。彼《か》れには借家住《しやくやずま》ひは不見識《ふけんしき》だという氣《き》があるのだ。
菅沼家《すがぬまけ》は微祿《びろく》ではあつたが、旗本《はたもと》の家柄《いへがら》。健次《けんじ》の父《ちゝ》は十四五の頃《ころ》、維新《いしん》の渦中《くわちう》に浮沈《ふちん》して、多少《たせう》の辛苦《しんく》を甞《な》めた。その後《のち》も生活《せいくわつ》には惱《なや》んで、遂《つひ》に四|國《こく》九|州《しう》の郵便局《いうびんきよく》にも二三|年《ねん》づゝ勤《つと》め、今《いま》は多少《たせう》榮逹《えいたつ》して會計檢査院《くわいけいけんさゐん》に奉職《ほうしよく》してゐるが、五十五|歲《さい》の老朽《らうきう》で、地位《ちゐ》も安固《あんこ》ではなく、長官《ちやうくわん》のお慈悲《じひ》の下《もと》に脈《みやく》をつないでゐる。俸給《はうきふ》も左程《さほど》多《おほ》くはない。それに健次《けんじ》の下《した》に女《をんな》の子《こ》が二人《ふたり》、支出《しゝゆつ》は容易《ようい》ではないが、彼《か》れはあまりくよ〳〵[#「くよ〳〵」に傍点]苦《く》に病《や》む風《ふう》はなく、每晚《まいばん》の晚酌《ばんしやく》二|合《がふ》に陶然《たうぜん》として太平樂《たいへいらく》を並《なら》べる、健次《けんじ》は一人前《いちにんまへ》の男《をとこ》になつたし、娘《むすめ》は二人《ふたり》とも容色《きりやう》はよし、おれはまだ〳〵お墓《はか》へ入《はい》る心配《しんぱい》はなし、これからがおれの世《よ》の中《なか》だ、健次《けんじ》に嫁《よめ》を貰《もら》つてやり、姉娘《あねむすめ》でも片付《かたづ》けたら、おれは第《だい》一に役所《やくしよ》を止《や》めて隱居《いんきよ》をする。恩給《おんきふ》も下《さが》るし心掛《こゝろがゝ》りはないから、うんと好《す》きな事《こと》をして遊《あそ》べるんだが、おれは物見遊山《ものみゆさん》はせん、差詰《さしづめ》馬術《ばじゆつ》の稽古《けいこ》がしたいな。全體《ぜんたい》子供《こども》の時《とき》から馬《うま》が好《す》きで、馬術《ばじゆつ》の逹人《たつじん》になるつもりだつたが、世《よ》が變《かは》つて算盤《そろばん》ばかり持《も》つて來《き》た。しかしこれからやる。自分《じぶん》の慾《よく》といつては外《ほか》に何《なに》もないが、一つ馬《うま》だけは買《か》つて見《み》たいと、この老人《らうじん》は馬《うま》の話《はなし》になると夢中《むちう》になつて來《く》る。
先祖《せんぞ》に馬術《ばじゆつ》の名人《めいじん》があつたとかで、その秘傳《ひでん》の卷物《まきもの》が桐《きり》の箱《はこ》に入《はい》つて、土藏《どぞう》に保存《ほぞん》されてゐる。これと一|領《れう》の甲冑《かつちう》と一|口《ふり》の無銘《むめい》の刀劍《とうけん》とが一|家《か》の寶物《はうもつ》、老人《ろうじん》の自慢《じまん》の種《たね》だ。冑《よろひ》は疎《まば》らに星《ほし》のついてる古色蒼然《こしよくさうぜん》たる者《もの》で、鎌倉時代《かまくらじだい》の作《さく》、刀《かたな》は國弘《くにひろ》の作《さく》だらうと云《い》ふ。そして老人《らうじん》は每年《まいねん》元日《ぐわんじつ》には此等《これら》の寶物《はうもつ》を床《とこ》の間《ま》に飾《かざ》り、家族《かぞく》を集《あつ》めて禮拜《れいはい》し、三方《みかた》ケ|原《はら》合戰《かつせん》以來《いらい》の祖先《そせん》の武勇《ぶいう》を談《だん》じ、この冑《よろひ》や刀《かたな》に籠《こも》つてる精神《せいしん》を忘《わす》れてはならぬと說《と》き聞《き》かせ、獨《ひと》りで喜《よろこ》んでゐる。
健次《けんじ》は少年時代《せうねんじだい》に此等《これら》の武具《ぶぐ》に興味《きやうみ》を感《かん》じて、父《ちゝ》の留守中《るすちう》竊《ひそ》かに土藏《どざう》へ忍《しの》び込《こ》み、漆《うるし》の剝《は》げた鎧櫃《よろひびつ》を開《あ》けて、昔《むかし》の戰爭《せんさう》を連想《れんそう》し、或《あるひ》は兩腕《りやううで》に力瘤《ちからこぶ》を出《だ》して冑《よろひ》を持《もち》まはつて悅《うれ》しがつてゐた。殊《こと》に刀《かたな》が大好《だいす》きで、恐々《おそる〳〵》拔《ぬ》きはなち、齒《は》を喰締《くひしば》り瞳《ひとみ》を据《す》ゑて、その冴《さ》えた光《ひかり》を見詰《みつ》めては感《かん》に打《う》たれることが多《おほ》い。刀《かたな》は武士《ぶし》の魂《たましひ》だとは父《ちゝ》からも屢屢《しば〴〵》敎《をし》へられ、自分《じぶん》でもこの家傳《かでん》の寶刀《ほうたう》を見《み》る每《ごと》に、義《ぎ》の爲《ため》には死《し》を厭《いと》はぬ、如何《いか》なる苦痛《くつう》をも忍《しの》ぶ、辱《はづか》しめらるれば死《し》すなどの感《かん》じが、その明晃々《めいくわう〳〵》たる切尖《きつさき》から彼《か》れの膓《はらわた》に染《し》み込《こ》むやうであつた。性質《せいしつ》は父《ちゝ》とは餘程《よほど》違《ちが》つて疳《かん》が强《つよ》く、母《はゝ》の故鄉《こきやう》、彼《か》れの生地《しやうち》たる丸龜《まるがめ》の尋常小學《じんじようせうがく》に學《まな》んだ頃《ころ》も、試驗《しけん》の成績《せいせき》が他《ひと》に劣《おと》ると口惜《くや》しくて夜《よ》も眠《ねむ》れぬといふ程《ほど》であつたが、東京《とうきやう》の學校《がくかう》へ通《かよ》ふことゝなつては、殊《こと》にこの考《かんがへ》がひどい。その爲《ため》に學課《がくくわ》の復習《ふくしふ》を勵《はげ》むのみならず、身體《からだ》の訓練《くんれん》をもつとめた。痩《やせ》つぽちと嘲《あざけ》られるのも無念《むねん》である、年嵩《としかさ》の學生《がくせい》に腕《うで》づくで意地《いぢ》められるのもつらし、腕力《わんりよく》を養《やしな》ひ筋肉《きんにく》も發逹《はつたつ》させねばならぬと、寒中《かんちう》シヤツ一|枚《まい》で木刀《ぼくたう》を揮《ふる》つたこともある。力試《ちからだめ》しだといつて二人《ふたり》の妹《いもと》を笊《ざる》に入《い》れて擔《にな》ひ、引《ひつ》くりかへつて傷《きづ》をつけたこともある、母《はゝ》からは惡戯《いたづら》が過《す》ぎると叱《しか》られたが、彼《か》れには惡戯《いたづら》でも慰《なぐさ》みでもないのだ。幼《おさな》い心《こゝろ》にも自分《じぶん》の脆弱《ぜいじやく》な體質《たいしつ》が情《なさけ》なく、行《ゆ》く先々《さき〴〵》が案《あん》じられてゐたので、外目《よそめ》には滑稽《こつけい》とも見《み》える體格《たいかく》修養《しうやう》も、自分《じぶん》には最《もつと》も眞面目《まじめ》な行爲《かうゐ》であつたのだ。しかし生來《しやうらい》の體質《たいしつ》は變《かは》りやうがない。それで度々《たび〳〵》母《はゝ》に向《むか》つて、
「何故《なぜ》僕《ぼく》をこんな小《ちつ》ぽけな身體《からだ》に生《う》みつけたんです」
と詰《なじ》り、淚《なみだ》をこぼしたことさへあつた。その癖《くせ》友逹《ともだち》の間《あひだ》へ出《で》ると、「痩《や》せてゝもおれは强《つよ》いぞ」と力《りき》んで、喧嘩《けんくわ》をしかけられて逃《に》げることはない。或日《あるひ》も餓鬼大將《がきだいしやう》に嬲《なぶ》られた時《とき》、ナイフで切《き》りつけて、相手《あひて》を驚《おどろ》かしたこともある。
歲《とし》を取《と》るに從《したが》つて、戶外遊戯《こぐわいいうぎ》は止《や》めて、勉强部屋《べんきやうべや》に閉籠《とぢこも》り、課業外《くわげふぐわい》の雜書《ざつしよ》をも渉獵《あさ》るやうになり、最早《もはや》體質《たいしつ》の苦勞《くろう》はしなくなつた。で、中學《ちうがく》から高等學校《かうとうがくかう》と順序《じゆんじよ》を踏《ふ》んで進《すゝ》んだが、一|家《か》の財政《ざいせい》からいふと、それだけでも容易《ようい》ではなく、とても大學《だいがく》を卒業《そつげふ》する望《のぞみ》はなかつた。しかるに健次《けんじ》が他《た》の學生《がくせい》と對當《たいたう》の交際《かうさい》もして、別《べつ》に見《み》すぼらしくもなく、文科《ぶんくわ》の英文學《えいぶんがく》を終《を》へることの出來《でき》たのは、一に桂田《かつらだ》文學博士《ぶんがくはかせ》の助力《じよりよく》に依《よ》るのだ。桂田家《かつらだけ》と菅沼家《すがぬまけ》とは昔《むかし》から緣故《えんこ》の深《ふか》い上《うへ》、博士《はかせ》が健次《けんじ》の學才《がくさい》を認《みと》めたためである。
大學《だいがく》三|年《ねん》の生活《せいくわつ》、健次《けんじ》の頭腦《あたま》は非常《ひじやう》に變化《へんくわ》を來《きた》した。元《もと》法科《はふくわ》へ入《はい》りたい氣《き》もあつたのを、桂田《かつらだ》との關係《かんけい》から文科《ぶんくわ》と定《きま》つたので、入學後《にふがくご》も心《こゝろ》は迷《まよ》ふ。自分《じぶん》の素質《そしつ》から云《いつ》ても學者《がくしや》で安《やす》んじてゐられさうぢやない。多量《たれう》の書物《しよもつ》を讀《よ》んで一|生《せう》を終《おは》る、下《くだ》らないぢやないか、それよりも政治家《せいぢか》にでも實業家《じつげふか》にでもなつて、自分《じぶん》の考《かんがへ》が具體的《ぐたいてき》に目《め》の前《まへ》に現《あら》はれるを見《み》、生《い》きた人間《にんげん》生《い》きた事件《じけん》の動搖《どうえう》起伏《きふく》に接《せつ》する方《はう》が面白《おもしろ》くはないかと思《おも》ふこともあつたが、さりとて斷《だん》じて一を去《さ》つて他《た》に就《つ》く氣《き》にもなれぬ。それに課業《くわげふ》として學《まな》ぶ哲學《てつがく》の問題《もんだい》、外國《ぐわいこく》の詩歌《しか》小說《せうせつ》、新刊《しんかん》の雜誌《ざつし》雜著《ざつちよ》、皆《みな》過敏《くわびん》な神經《しんけい》を刺激《しげき》して、妄想《もうそう》は留《と》め度《ど》がない。制服《せいふく》制帽《せいぼう》を着《つ》け、博士《はかせ》夫人《ふじん》恩賜《おんし》の紅梅《こうばい》を散《ち》らした水色《みづいろ》の風呂敷包《ふろしきづゝみ》を抱《いだ》き、兩手《りやうて》をポツケツトに入《い》れ、大學《だいがく》の裏門《うらもん》から上野《うへの》を拔《ぬ》けて、根岸《ねぎし》の古屋《ふるや》へ歸《かへ》る間《あひだ》、彼《か》れは妄想《もうそう》の道《みち》を辿《たど》つてゐたのだ。單調《たんてう》の道《みち》には飽《あ》いてしまつた。しかし彼《か》れは一|度《ど》も泣言《なきごと》を云《い》つたことはない。人生《じんせい》の寂寞《せきばく》とかを文章《ぶんしよう》にして雜誌《ざつし》へ寄稿《きかう》したこともない。同窓《どうそう》の瞑想家《めいそうか》からは淺薄《せんぱく》と云《い》はれる程《ほど》あつて、飛花落葉《ひくわらくえふ》に對《たい》して、深沈《しめやか》な感《かん》に耽《ふけ》り、自然《しぜん》の默示《もくし》に打《う》たれるでもなく、友人《いうじん》にでも遇《あ》へば、急《きふ》に沈《しづ》んだ心《こゝろ》も浮立《うきた》つて快活《くわいくわつ》に談笑《だんせう》し警句《けいく》百|出《しゆつ》諧謔《かいぎやく》縱橫《じうわう》。クラスの集會《しふくわい》に缺席《けつせき》すると、「菅沼《すがぬま》はどうした」と、衆口《しうこう》一|致《ち》して遺憾《ゐかん》の聲《こゑ》を發《はつ》する程《ほど》であつた。テニスもやる、玉突《たまつき》もやる、彼《か》れはクラスの快男子《くわいだんし》として通《とほ》つてゐた。そして二|年目《ねんめ》の試驗前《しけんぜん》、制服《せいふく》を囚衣《しうい》の如《ごと》く感《かん》じ、引脫《ひきぬ》いで自由《じいう》の身《み》とならんとしたが、博士《はかせ》夫妻《ふさい》の强硬《きやうかう》な反對《はんたい》に會《あ》ひ、その時《とき》は恩人《おんじん》に背《そむ》く程《ほど》の勇氣《いうき》もなく、ぐづ〳〵で卒業《そつげふ》まで我慢《がまん》したものゝ、成績《せいせき》は圖拔《づぬ》けてよくはなく、博士《はかせ》夫妻《ふさい》の期待《きたい》に背《そむ》いた。彼《か》れの弱《よは》い身體《からだ》は長年月《ちやうねんげつ》の學校《がくかう》生活《せいくわつ》に倦《う》み疲《つか》れ、最早《もはや》席順《せきじゆん》の高下《かうげ》を爭《あらそ》ふの根氣《こんき》もなく、虛榮心《きよえいしん》も失《う》せ、他《た》の連中《れんぢう》が卒業試驗《そつげふしけん》の準備《じゆんび》に夜《よ》を徹《てつ》してる間《ま》に、獨《ひと》り球戯場《たまや》にゲームを爭《あらそ》ひ、或《あるひ》は牛屋《ぎうや》の二|階《かい》で女中《ぢよちう》に圍繞《ゐぎよう》されてゐた。櫻木《さくらぎ》に出入《しつにふ》し始《はじ》めたのも此頃《このころ》からである。卒業後《そつげふご》は博士《はかせ》の推薦《すゐせん》で、中學《ちうがく》敎師《けうし》となつたが、これは三月《みつき》ばかりで辭職《じしよく》、今日《けふ》まで一|年《ねん》あまり雜誌《ざつし》記者《きしや》を勤《つと》めてゐる。

(三)

大抵《たいてい》の家《いへ》は戶《と》を鎖《とざ》し、暗闇《くらやみ》の森閑《しんかん》とした道《みち》を、健次《けんじ》は雜念《ざつねん》に煩《わづら》はされ、俯首《うつむ》いてコツ〳〵辿《たど》つてゐる。彼《か》れは七歲で先祖《せんぞ》以來《いらい》のこの都《みやこ》へ歸《かへ》つてより二十七|歲《さい》の今《いま》まで殆《ほと》んど一|日《にち》もこの道《みち》を踏《ふ》まぬことなく、目《め》を瞶《つぶ》つてゝも、路次《ろじ》の隅々《すみ〴〵》まで間違《まちが》へる氣遣《きづか》ひはない。
そしてこの界隈《かいわい》の見《み》る物《もの》聞《き》く物《もの》に飽《あ》き〳〵してゐる。父《ちゝ》は交番《かうばん》の角《かど》まで來《く》ると肩《かた》の荷《に》が下《お》りるやうな氣《き》がすると云《い》ふが、健次《けんじ》は此處《こゝ》まで歸《かへ》ると、足《あし》が澁《しぶ》つて後《あと》へ引《ひき》かへしたくなる。彼《か》れは今《いま》織田《おだ》に分《わか》れ、その長靴《ながぐつ》の重《おも》い音《ね》の次第《しだい》に消《き》ゆるを聞《き》きながら、「阿片《あへん》を呑《の》みたい」を繰返《くりかへ》した。他人《たにん》が味《うま》さうに吸《す》ふのを見《み》て羨《うらや》ましく、煙草《たばこ》を吸《す》ひ習《なら》つたが、自分《じぶん》には左程《さほど》の甘味《うまみ》もない。阿片々々《あへん〳〵〳〵》、自分《じぶん》が内々《ない〳〵》求《もと》めてた者《もの》はあれだ、阿片《あへん》さへ吸《す》へばこの世《よ》からなる極樂淨土《ごくらくじやうど》へ行《い》けるのだ。アルコールランプに點火《てんくわ》し、長椅子《ながいす》に身《み》を埋《うづ》め、長《なが》い煙管《きせる》で匂《にほ》ひを呼《よ》び、沈睡《ちんすゐ》に陷《おちい》る支那人《しなじん》は、祖先《そせん》の詩人《しじん》が夢想《むそう》した無何有《むかう》の境《さかひ》に遊《あそ》んでゐるのだ。阿片《あへん》を嗅《か》ぎに支那《しな》へ行《ゆ》く。迦南《かなん》の樂土《らくど》は其處《そこ》にありと思《おも》はれる。
敎師《けうし》の職《しよく》は蓄音器《ちくおんき》か鸚鵡《あふむ》の役廻《やくまは》りだと感《かん》じて、否應《いやおう》なしに辭職《じしよく》し、もつと活氣《くわつき》のあり動《うご》きのある役《やく》をと志《こゝろざ》し、現在《げんざい》の職《しよく》を求《もと》めたが、これも此頃《このころ》は厭《いや》で〳〵溜《たま》らぬ。どうせ長《なが》くは續《つゞ》きはしない。いつそ向《むか》うから不勉强《ふべんきよう》の爲め免職《めんしよく》と來《く》ると、新《あら》たなる地《ち》が開《ひら》けさうだが、當分《たうぶん》そんな運《うん》も向《む》ひて來《き》さうでない。だから明日《あす》は桂田《かつらだ》を訪《たづ》ねて「現代《げんだい》の思潮《しちやう》」とか何《なん》とかの問題《もんだい》で、的《てき》の字《じ》づくめの談話《だんわ》を筆記《ひつき》して來《こ》なくちやならん。
雨《あめ》はしよぼ〳〵と飽《あ》きもせずに降《ふ》つてゐる。電燈《でんとう》の輝《かゞや》いてる或《ある》別邸《べつてい》の犬《いぬ》は今夜《こんや》も飽《あ》きもせずに生命《いのち》限《かぎ》り吠《ほ》え立《た》てゝゐる。
健次《けんじ》は睡《ねむ》い目《め》をして元氣《げんき》のない欠伸《あくび》をした。
先々月《せん〳〵げつ》の初《はじ》め、殘暑《ざんしよ》のまだ酷《きび》しい時分《じぶん》、西日《にしび》の當《あた》る桂田《かつらだ》の書齋《しよさい》で、長々《なが〴〵》しい文學論《ぶんがくろん》、獨逸語《どいつご》やラテン語《ご》交《まじ》りの味《あじ》のない只《たゞ》六ケ|敷《しい》議論《ぎろん》を筆記《ひつき》させられ、浴衣《ゆかた》の着流《きなが》しでありながら、汗《あせ》に漬《つか》つて弱《よは》つたことがあつたが、その時《とき》下座敷《したざしき》から柔《やはら》かいピアノの音《ね》が洩《も》れ聞《きこ》え、博士《はかせ》の頑固《かたくな》な言葉《ことば》を追《お》ひのけては、健次《けんじ》の耳《みゝ》に忍《しの》び込《こ》み、膓《はらわた》まで盪《とろ》かさうとした。そして彼《か》れの筆記《ひつき》はしどろもどろ[#「しどろもどろ」に傍点]に亂《みだ》れ、聞違《きゝちが》へ書誤《かきあやま》りの夥《おびたゞ》しかつたのを、そのまゝ雜誌《ざつし》に掲《かゝ》げて博士《はかせ》の怒《いか》りに觸《ふ》れたが、あの時《とき》ほど博士《はかせ》が怖《こわ》い顏《かほ》して激《はげ》しい言葉《ことば》を吐《は》いたことはない。で、後々《のち〳〵》までも健次《けんじ》の耳《みゝ》には、その音樂《おんがく》が染《し》みついて、踏飽《ふみあ》いた道《みち》を步《あゆ》んでる時《とき》など、耳《みゝ》の底《そこ》でぴん〳〵鳴《な》り響《ひゞ》いて、心《こゝろ》に異樣《ゐやう》な感《かん》じが起《おこ》る。
ピアノの主《ぬし》の博士《はかせ》夫人《ふじん》も美《うつ》くしい、櫻木《さくらぎ》のお雪《ゆき》も美《うつ》くしい、織田《おだ》の妹《いもと》も醜《みに》くゝはない。紅葉《こうえふ》や綠雨《りよくう》の小說《せうせつ》の主人公《しゆじんこう》の如《ごと》く、女《をんな》が生命《いのち》の凡《すべ》てなら、憧憬《あこが》れたり煩悶《もだへ》たり若《わか》い盛《さか》りの今《いま》時分《じぶん》、さぞ戀《こひ》に忙《いそが》しいことであらうが、
「しかし自分《じぶん》は箕浦《みのうら》ぢやない」と、自分《じぶん》の胸《むね》に答《こた》へた。その聲《こゑ》は他《た》を嘲《あざ》けつた自尊心《じそんしん》から出《で》たのであらうが、絕望《ぜつばう》の調《てう》も交《まじ》つてゐる。で、彼《か》れは煙草《たばこ》を啣《くは》へ袂《たもと》からマツチ箱《はこ》を取出《とりだ》したが、マツチは一|本《ほん》もないので、舌打《したうち》して箱《はこ》を投《な》げつけ、傘《かさ》を持直《もちなほ》してさつさ[#「さつさ」に傍点]と步《ある》き出《だ》した。目《め》の前《まへ》には自分《じぶん》の家《いへ》の軒燈《がすとう》が、今《いま》にも消《き》えさうに微《かす》かに光《ひか》つてゐる。
彼《か》れは雨《あめ》にふやけた[#「ふやけた」に傍点]潜戶《くゞりど》を兩手《りやうて》で開《あ》け、成《なる》べく音《おと》のせぬやうに敷石《しきいし》を傳《つた》ひ、玄關《げんくわん》の隅《すみ》へ傘《かさ》を投《な》げ出《だ》すと、母《はゝ》は雨戶《あまど》を開《あ》けて釣《つり》ランプを差出《さしだ》し、
「おや衣服《きもの》がびしよ濡《ぬ》れぢやないか、この冷《ひ》えるのにそんなに濡《ぬ》れちやつては身體《からだ》に毒《どく》ですよ」
と、氣遣《きづか》はしさうに健次《けんじ》を見詰《みつ》めてゐる。
「今日《けふ》は早《はや》く歸《かへ》る筈《はず》でしたが、又《また》友人《いうじん》に誘《さそ》はれて遲《おそ》くなりました、明日《あす》は屹度《きつと》早《はや》く歸《かへ》ります」
と、言《い》はれぬ前《まへ》に言譯《いひわけ》しながら、足袋《たび》を脫《ぬ》いで、爪先《つまさき》で臺所《だいどころ》へ步《ある》いて行《ゆ》き、足《あし》を濯《そゝ》いだ後《のち》、そつと柄杓《ひしやく》から口《くち》うつしに冷水《れいすゐ》を呑《の》んだ。臺所《だいどころ》には盥《たらひ》を据《す》ゑ、柱《はしら》を傳《つたは》つた雨《あめ》の雫《しづく》がぽたり〳〵落《お》ちてゐる。
健次《けんじ》は長火鉢《ながひばち》の前《まへ》へ戾《もど》つて、着物《きもの》を脫《ぬ》いで母《はゝ》の手《て》から搔卷《かいまき》を取《と》り、酒氣《しゆき》の名殘《なごり》で温《あたゝ》かい肌《はだへ》にふはりと纏《まと》ひ、菊《きく》を染《そ》め出《だ》した八ツ橋《はし》の略帶《しごき》を柔《やはらか》く締《し》めて胡座《あぐら》を搔《か》き、「皆《み》なもう寢《ね》たんですか」と、隣室《となり》の父《ちゝ》の高鼾《たかいびき》を聞《き》いてゐる。
「あ、もう二|時間《じかん》も前《まへ》から寢《ね》てらあね、それにお父《とつ》さんは風邪氣《かぜけ》だといつてね、お夕飯《ゆうはん》が濟《す》むと直《す》ぐにお休《やす》みさ」と母《はゝ》は戶締《とじま》りをして火鉢《ひばち》の側《わき》に戾《もど》り、「お前《まへ》、織田《おだ》さんがお出《いで》だよ、何《なに》か用事《ようじ》がおありのやうで、大分《だいぶ》待《ま》つてゐなすつたがね」
「いや、織田《おだ》にや途中《とちう》で會《あ》ひました、親爺《おやぢ》が病氣《びやうき》だとか云《い》つてた」
「さうだつてねえ、餘程《よほど》お惡《わる》いんだつてねえ」と眉《まゆ》を顰《ひそ》め、「織田《おだ》さんも大抵《たいてい》ぢやあるまいよ、稼人《かせぎて》はあの方《かた》一人《ひとり》で、それで病人《びやうにん》なんか出來《でき》てはね、……でも感心《かんしん》な人《ひと》さ、一|生懸命《しやうけんめい》に働《はたら》いてゐなさる」
「何《なに》、あの男《をとこ》は他人《たにん》が思《おも》ふ程《ほど》苦《く》にしちやゐないさ、呑氣《のんき》な人間《にんげん》ですもの」
「さうでもあるまいよ、厄介者《やくかいもの》が多《おほ》いんだから、浮《うは》の空《そら》ぢやゐられないさ、お前《まへ》だつて今《いま》の間《うち》はどんなにしてゝもよからうがね、もうそろ〳〵先々《さき〴〵》の事《こと》も考《かんが》へなければね、お父《とつ》さんも口《くち》ばかりは元氣《げんき》がよくても、何時《いつ》までもお役所《やくしよ》通《がよ》ひも出來《でき》まいし織田《おだ》さんのやうにお前《まへ》が家《うち》の心棒《しんばう》になつてお吳《く》れでなくちや」と、何《なに》につけてもお定《きま》りの御敎訓《ごけうくん》が始《はじ》まりかけたので、
「ですがね、お母《つか》さん、織田《おだ》の大木《たいぼく》なら心棒《しんばう》にでも大黑柱《だいこくばしら》にでもなるでせうが、私《わたし》のやうな痩《や》せつぽちぢやお役《やく》に立《た》ちませんよ」と、健次《けんじ》は如何《いか》にも無邪氣《むじやき》さうに笑《わら》つた。母《はゝ》も釣込《つりこ》まれて靑《あを》い顏《かほ》に笑《わら》ひを浮《うか》べ、
「馬鹿《ばか》お云《い》ひでない」と云《い》つたが、話《はなし》は甘《うま》く外《そ》れて、「そう云《い》へばねお前《まへ》、家《うち》の冑《かぶと》は大變《たいへん》いゝ物《もの》で世間《せけん》に類《るい》が少《すくな》いんだとさ、今日《けふ》古物《こぶつ》陳列會《ちんれつくわい》とかへ出《だ》すとね、誰《たれ》だか目《め》の利《き》く方《かた》が見《み》て、大變《たいへん》褒《ほ》めてゐなすつたつて、だからお父《とつ》さんも、あれ程《ほど》世間《せけん》へ出《だ》すのを厭《いや》がつてた癖《くせ》に、今日《けふ》は歸《かへ》るとその話《はなし》ばかりして、大喜《おほよろこ》びで被入《いらつし》やるんだよ、賣《う》つたらば大變《たいへん》なお金《かね》になるんだらうね、あんな薄汚《うすきたな》い冑《かぶと》だけど」
「さうでせう、今《いま》は物好《ものず》きな人間《にんげん》が多《おほ》いから、……買手《かひて》があつたら早《はや》く賣《う》つたらいいでせう」
「でもね、お父《とつ》さんは饑《う》え死《じに》しても、先祖《せんぞ》の寶《たから》だから人手《ひとで》にや渡《わた》さないつて、獨《ひと》りで力《りき》んでるんだから」
「まあお父《とつ》さんはあれが生命《いのち》よりも大事《だいじ》なんだからいゝさ」と、欠伸《あくび》をして、「今《いま》にお父《とつ》さんの望《のぞ》みが屆《とゞ》いて、馬《うま》でも買《か》つたら、あの甲《かぶと》や鎧《よろひ》を着《き》て刀《かたな》を差《さ》して、この汚《きたな》い家《うち》から手綱《たづな》を執《と》つて妖怪《ばけもの》退治《たいぢ》にでも出《で》て行《ゆ》くでせう、さうなるとお父《とつ》さん萬歲《ばんざい》だが、何年《なんねん》先《さ》きのことかなあ」
老母《らうば》は險《けん》のある目《め》で健次《けんじ》を見《み》て、「お父《とつ》さんやお前《まへ》は何故《なぜ》さう呑氣《のんき》なんだらう、私《わたし》一人《ひとり》にやきもき[#「やきもき」に傍点]させといてさ」と、長煙管《ながきせる》をポンと邪慳《じやけん》に叩《たゝ》くので、健次《けんじ》は片膝《かたひざ》立《た》てて逃仕度《にげじたく》をし、
「呑氣《のんき》な者《もの》ですか、お父《とつ》さんは馬《うま》を買《か》ひたくつて、腰辨當《こしべんたう》で齷齪《あくせく》してるんだし、私《わたし》だつて、胸《むね》に苦勞《くろう》の絕《た》えたことはありやしない」と、眞面目《まじめ》か戯言《じやうだん》か分《わか》らぬ云《い》ひやうをしたが、急《きふ》に生眞面目《きまじめ》になり、「一昨日《おとつひ》の晚《ばん》にね、お母《つか》さん、私《わたし》は廣小路《ひろこうじ》でお父《とつ》さんに會《あ》つたんですよ、向《むか》うでは氣《き》が付《つ》かなかつたやうだが、私《わたし》が後《あと》から見《み》てると、あの蝙蝠傘《かうもりがさ》を突《つ》いて、馬丁《べつとう》と何《なん》だか話《はなし》をしてる。話《はなし》の筋《すぢ》は分《わか》らなかつたが、柳《やなぎ》の木《き》に軍人《ぐんじん》の誰《た》れかの馬《うま》が繋《つな》いであつて、お父《とつ》さんがその馬《うま》から目《め》を離《はな》さずに見惚《みと》れてるんです。凡《およ》そ十|分間《ぷんかん》もして、お父《とつ》さんは名殘惜《なごろお》しさうに振《ふ》り返《かへ》り〳〵して歸《かへ》つて行《い》つたが、私《わたし》はそれをぢつと見《み》てゝね、その時《とき》ばかりはお父《とつ》さんに早《はや》く馬《うま》を買《か》つて上《あ》げたいと思《おも》ひました」と云《い》つて、立上《たちあが》つた。
母《はゝ》は呆《あき》れた風《ふう》で見上《みあ》げて、「直《す》ぐお寢《やす》みかい」
「いや少《すこ》し勉强《べんきやう》してから寢《ね》ませう、明日《あす》は八|時《じ》に起《おこ》して下《くだ》さい」
と、書齋《しよさい》に入《はい》ると、母《はゝ》は追馳《おつか》けて來《き》て、マツチを擦《す》つて手《て》づからランプを點火《とぼ》し、「お前《まへ》、二|圓《ゑん》ばかり持《も》つてゐないかい、千代《ちよ》の月謝《げつしや》だの何《なん》だので、私《わたし》の手元《てもと》に大變《たいへん》不自由《ふじゆう》してるから」
と、低《ひく》い聲《こゑ》で歎願《たんがん》する。健次《けんじ》は無言《むごん》で、蟇口《がまぐち》からぐちや〳〵の札《ふだ》を手渡《てわたし》して机《つくゑ》に向《むか》つた。
書齋《しよさい》は土藏《どぞう》側《わき》の八|疊《じやう》の室《ま》、家中《かちう》で最《もつと》も醜《みにく》くない部屋《へや》だが、それでも疊《たゝみ》は茶色《ちやいろ》をして所々《ところ〴〵》擦《す》りむけ、壁《かべ》には斑點《しみ》が出來《でき》てゐる。小形《こがた》の本箱《ほんばこ》が二つ並《なら》んで、健次《けんじ》が中學《ちうがく》時代《じだい》からの敎課書《けうくわしよ》や愛讀書《あいどくしよ》が、ぎつしり詰込《つめこ》まれ、プルタークの英雄傳《えいゆうでん》樗牛《ちよぎう》全集《ぜんしふ》透谷《とうこく》全集《ぜんしふ》などの背皮《せがわ》の金字《きんじ》が微《かす》かに見《み》える、しかし此等《これら》の書物《しよもつ》は微曇《うすくも》りの玻璃戶《がらすど》から引出《ひきだ》されたことなく、机《つくゑ》の上《うへ》には新《あたら》しい經濟書《けいざいしよ》が置《お》かれてゐる。
健次《けんじ》は二三の郵便物《いうびんぶつ》を手《て》に取《と》つたが、一つは箕浦《みのうら》からで、二三|日中《にちちう》に會談《くわいだん》したい、云《い》ひたい事《こと》が山《やま》ほどあると書《か》き、尙《なほ》それだけでは飽氣《あつけ》ないと見《み》え、今月《こんげつ》の諸雜誌《しよざつし》を讀《よ》み、何《いづ》れも輕浮《けいふ》なる文字《もじ》の多《おほ》きを悲《かな》しむ、我々《われ〳〵》は滔々《たう〳〵》たる弊風《へいふう》に感染《かんせん》せず、徒《いたづ》らに虛名《きよめい》を求《もと》めずして眞面目《まじめ》なる硏究《けんきう》を續《つゞ》けたしと書《か》き添《そ》えてある。又《また》一つは織田《おだ》の妹《いもと》からの手紙《てがみ》で、「秋《あき》の日《ひ》」だの「望《のぞみ》の夜《よ》」だのゝ五六|首《しゆ》の歌《うた》を認《したゝ》めて、雜誌《ざつし》へ出《だ》して吳《く》れと切望《せつぼう》してゐる。健次《けんじ》は二つの手紙《てがみ》を抽斗《ひきだし》へ入《い》れ、書物《しよもつ》を擴《ひろ》げて二三|枚《まい》讀《よ》んでゐたが、やがて投《な》げ出《だ》して濃《こ》い眉《まゆ》をぴりゝとさせた。「箕浦《みのうら》の所謂《いはゆる》眞面目《まじめ》なる硏究《けんきう》は五|年前《ねんぜん》に過《す》ぎ去《さ》つたのだ」と、兩手《りやうて》で頭《あたま》を抱《だ》いて目《め》を瞑《つぶ》つた。すると歸宅《きたく》の途中《とちう》と同《おな》じい雜念《ざつねん》が湧《わ》き上《あが》つて留《と》め度《ど》がない。天井《てんじやう》には鼠《ねづみ》が暴《あば》れまはつて、時々《とき〴〵》チユツ〳〵と鳴聲《なきごゑ》がする。一|家《か》四|人《にん》はすや〳〵と眠《ねむ》つてゐるが、每夜《まいよ》その寢息《ねいき》を聞《き》くぐらゐ彼《か》れに取《と》つて厭《いや》な氣《き》のすることはない。人中《ひとなか》へ出《で》てる時《とき》には心《こゝろ》が動搖《どうえう》して紛《まぎ》れてゐるが、獨《ひと》り默然《もくねん》と靜《しづ》かな部屋《へや》に坐《すは》つてゐると、心《こゝろ》が自分《じぶん》の一|身《しん》の上《うへ》に凝《こ》り固《かた》まつて、その日常《にちじやう》の行爲《かうゐ》の下《くだ》らないこと、將來《しやうらい》の賴《たの》むに足《た》らぬこと、假面《かめん》を脫《ぬ》いだ自己《じこ》がまざ〳〵と浮《うか》び、終《しまひ》には自分《じぶん》の肉體《にくたい》までも醜《みにく》く淺間《あさま》しく思《おも》はれて溜《たま》らなくなる。その時《とき》こんな下《くだ》らない人間《にんげん》を手賴《たよ》りにしてゐる家族《かぞく》の寢息《ねいき》が忍《しの》びやかに聞《きこ》えると、急《きふ》に憐《あは》れに心細《こゝろぼそ》く、果《は》ては萎《しほ》れてしまう。
健次《けんじ》は昨夜《さくや》と同《おな》じ考《かんがへ》を經驗《けいけん》し、心細《こゝろぼそ》くなつて萎《しほ》れて、遂《つひ》にぶつ倒《たふ》れて、睡《ねむ》る氣《き》ではなくても自然《しぜん》に眠《ねむ》つてしまう。
雨滴《あまだれ》は同《おな》じ音《おと》を繰返《くりかへ》し、鼠《ねづみ》も倦《う》みもせずに騷《さわ》いでゐる。

(四)

翌朝《よくちやう》目《め》の醒《さ》めた頃《ころ》は、目伏《まぶ》しい日光《につくわう》がカツと照《て》り渡《わた》り、半身《はんしん》を蒲團《ふとん》の上《うへ》に持上《もちあ》げると頭《あたま》がぐら〳〵する。健次《けんじ》は手《て》を伸《のば》して緣側《えんがは》の障子《しやうじ》を開《あ》けた。莖《くき》の細《ほそ》い花《はな》の小《ちい》さい黃白《くわうはく》の野菊《のぎく》の間《あひだ》に突立《つツた》つた物干竿《ものほしざほ》には、シヤツや足袋《たび》がぶら下《さが》つて、水氣《みづけ》が盛《さか》んに舞《ま》ひ上《のぼ》つてゐる、父《ちゝ》も妹《いもと》も出掛《でか》けたと見《み》え、家内《かない》はひつそりして只《たゞ》母《はゝ》の洗濯《せんたく》の音《おと》が聞《きこ》える。
健次《けんじ》は勇《いさ》ましく跳《は》ね起《お》きて、直樣《すぐさま》身仕度《みじたく》をし、獨《ひと》りで食事《しよくじ》をしてゐると、母《はゝ》は濡《ぬ》れ手《て》を拭《ぬぐ》ひ〳〵茶《ちや》の間《ま》へ入《はい》り、
「今日《けふ》は直《す》ぐに社《しや》へお出《い》でかい」
「いえ、一寸《ちよつと》桂田《かつらだ》の家《うち》へ寄《よ》つて行《い》きます」
「え、先生《せんせい》のお宅《たく》へ、ぢや先生《せんせい》にも奥樣《おくさま》にもよろしく云《い》つてお吳《く》れよ、ほんとに暫《しば》らく御無沙汰《ごぶさた》して申譯《まをしわけ》がないんだが、變《へん》にお思《おも》ひなさらぬやうにね、お前《まへ》も先生《せんせい》や奥樣《おくさま》の御機嫌《ごきげん》を損《そこ》ねんやうに氣《き》をおつけよ、これまでだつてお世話《せわ》にばかりなつたのだし、これからもどうせあの方《かた》にお手賴《たよ》り申《まを》さにやならんのだしね、だからお前《まへ》麁相《そさう》の事《こと》を云《い》つちやならないよ」
と、柔《やさ》しく幼兒《おさなご》にでも說聞《ときき》かすやうに云《い》ふ。
健次《けんじ》は「えゝ」と氣《き》のない返事《へんじ》をして茶漬《ちやづけ》を搔《か》き込《こ》み、「ね、お母《つか》さん、私《わたし》は當分《たうぶん》社《しや》の近《ちか》くへ下宿《げしく》したいと思《おも》ひます、家《うち》からぢや社《しや》へ遠《おほ》くつて、此頃《このごろ》のやうに忙《いそがし》くちや、少《すこ》し不便《ふべん》でもあるし、それに年内《ねんない》に著作《かきもの》をしたいんです」と、平生《ふだん》よりも落付《おちつ》いて穩《おだや》かに云《い》ふ。
「えツ、下宿《げしく》するつて」と、母《はゝ》は襷《たすき》のまゝ、長火鉢《ながひばち》に寄《よ》りかゝつたなり、健次《けんじ》の顏《かほ》を見《み》て驚《おどろ》いてゐる。「だつてお前《まへ》。下宿《げしく》すりや物《もの》がかゝる計《ばか》りぢやないか」
「何《なに》、下宿料《げしくれう》なんか廉《やす》いものでさあ、それに私《わたし》に少《すこ》し考《かんが》へがあるから、さう云《い》ふことに定《き》めさせて下《くだ》さい」
「まあお父《とつ》さんに聞《き》いて御覽《ごらん》な、私《わたし》にやお前《まへ》の云《い》ふことが分《わか》らないよ、學校《がくかう》へ通《かよ》つてる時《とき》とは異《ちが》つて、もう一|家《か》の主人《しゆじん》となる身分《みぶん》でさ、家《うち》を出《で》て下宿《げしく》するて一|體《たい》どうしたんでせう」と、向《む》きになつて責《せ》める。
「その代《かは》り暮《くれ》にや少《すこ》し金《かね》を造《つく》つて、妹《いもと》に春衣《はるぎ》位《ぐらゐ》買《か》つてやります」と、健次《けんじ》は宥《なだ》めるやうに云《い》つたが、母《はゝ》は胕《ふ》に落《お》ちぬらしく、額《ひたひ》に靑筋《あをすぢ》を立《た》てゝ少《すこ》し慳貪《けんどん》に、
「春衣《はるぎ》どころぢやないよ、暮《くれ》にはお前《まへ》を當《あて》にしてるんだから、一人《ひとり》で浮々《うき〳〵》遊《あそ》んでられちや困《こま》らあね、それに下宿《げしく》なんかして、無駄《むだ》なお錢《あし》を使《つか》ふつていふ方《はう》があるもんぢやない、まあお父《とつ》さんを御覽《ごらん》なさい、今朝《けさ》も加減《かげん》が惡《わる》いのに早《はや》くから出《で》て被入《いらつ》しやつたのに、お前《まへ》は每日《まいにち》々々《〳〵》お酒《さけ》を呑《の》んぢや遲《おそ》く歸《かへ》るしさ、三十|近《ちか》くもなつて、何故《なぜ》かう考《かんが》へがないんだらう」と、鐵瓶《てつびん》をこすり〳〵、目《め》に皺《しは》を寄《よ》せてゐる。
「私《わたし》だつて考《かんが》へてるさ」と、健次《けんじ》は小聲《こごゑ》で云《い》つて、母《はゝ》を相手《あひて》に理窟《りくつ》を云《い》ふ氣《き》もなかつたが、自分《じぶん》に似《に》てると云《い》はれる母《はゝ》の顏《かほ》の、年齡《とし》よりも老《ふ》けて、淋《さび》しく沈《しづ》んだ間《うち》に、神經《しんけい》の銳《するど》く動《うご》くを見《み》て、何《なん》となく氣《き》の毒《どく》になり、
「ですがねお母《つか》さん、私《わたし》は家《うち》へ歸《かへ》ると氣《き》が滅入《めい》つて仕方《しかた》がないんです、一|時間《じかん》もぢつとして書物《しよもつ》を見《み》ちやゐられんのです、何《なん》だかかう穴《あな》の中《なか》へでも入《はい》つてるやうで、氣《き》が落付《おちつ》かなくなるし、黴臭《かびくさ》い臭《にほ》ひがして息《いき》がつまります、お父《とつ》さんは住《す》み馴《な》れてるから、此家《ここ》が一|番《ばん》いゝと云《い》ふんだけど、私《わたし》にや一|日《にち》居《を》りや一|日《にち》壽命《じゆめう》が縮《ちゞ》まる氣《き》がする。去年《きよねん》まではさうでもなかつたが、此頃《このごろ》は殊《こと》にひどいんです、だから下宿《げしく》でもしたら、少《すこ》しは氣分《きぶん》が直《なほ》るかと思《おも》つて、昨夜《ゆうべ》獨《ひと》りで定《き》めたんです」と、健次《けんじ》は今《いま》も鬱陶《うつたう》しい毒氣《どくき》が壁《かべ》の隅《すみ》から噴《ふ》き出《で》て、自分《じぶん》を壓迫《あつぱく》する如《ごと》く感《かん》じた。
「それがお前《まへ》の我儘《わがまゝ》だよ」と、一口《ひとくち》にはね付《つ》けて、「家《うち》が汚《きたな》くつて厭《いや》なら厭《いや》で、お前《まへ》が自分《じぶん》で修繕《しうぜん》でもする氣《き》にならなくちや」
「だつてこんな家《いへ》を手入《てい》れしたつて駄目《だめ》さ、しかしお父《とつ》さんが好《す》きなんだから仕方《しかた》がない、私《わたし》だけ何處《どこ》かへ逃《に》げ出《だ》すんさ」
と、健次《けんじ》は母《はゝ》に何《なに》を云《い》つても無駄《むだ》だ、自分《じぶん》で無言《むごん》實行《じつこう》すればよいと思《おも》つて口《くち》を噤《つぐ》み、母《はゝ》が何《なに》か云《い》ひかけるのを冷《ひやゝ》かに見《み》て、新聞《しんぶん》をポツケツトに捻込《ねじこ》み、中折《なかをれ》を被《かぶ》つて急《いそ》いで戶外《そと》へ出《で》た。ステツキを小脇《こわき》に挿《はさ》み、新聞《しんぶん》を出《だ》して、「模範的《もはんてき》學生《がくせい》」や「醜業婦《しふげふふ》」の記事《きじ》、經濟論《けいざいろん》から運動界《うんどうかい》の消息《せうそく》まで、何物《なにもの》をか捜《さが》し求《もと》むる如《ごと》く、殘《のこ》る隈《くま》なく目《め》を通《とほ》し、漸《やうや》く讀《よ》み終《をは》つた時分《じぶん》、彼《か》れは千|駄木《だぎ》の桂田家《かつらだけ》の玄關《げんかん》に立《た》つてゐた。

(五)

博士《はかせ》はフロツクコートを着《き》て椅子《いす》に腰掛《こしか》け、新着《しんちやく》の外國《ぐわいこく》雜誌《ざつし》を讀《よ》んでゐたが健次《けんじ》を見《み》ると、