羹 - 4
實は杉浦も、遲延に遲延した授業料を漸く二三日前に納めた爲め、正月早々一圓の小遣ひすら持つて居なかつた。
二人は空屋のやうな學校の門から連れ立つて、春めいた本郷通の大道へ出た。去年の暮から飾り付けた門松も、今は一と入整然として、さすがに町は陽氣である。
「此の前の冬は故國《くに》へ歸つて知らなかつたが、やつぱり東京は面白いなあ。」
と、杉浦は小首をかしげて、しきりに都會を讚嘆する。
「橘さんの近所はモツト面白いぜ。わしや芳町の藝者の姿が拜みたうてならん。」
山口の口にかゝると、藝者と云ふ者はまるで神樣のやうに、貴く有難く取り扱はれて居る。
電車の中も、山高帽や七子《なゝこ》の紋附や、酒臭い息の男が澤山乘り込んで、赤い顏を並べて居る。淺草橋から兩國を過ぎて、追ひ〳〵下町へ入つて來ると、
「ほう………。」
と、山口は時々黃な聲を發して、戶外を指さしながら、
「ちよいと杉浦さん、あれを見い。下町の娘は綺麗だなう、何處となく垢拔けがしとるから不思議ぢやなあ。」
かう云つて、恐い程眼を見張つて、念入りに目的物を睨みつける。
屠蘇《とそ》の醉の廻つたらしい廻禮の人々が通る。塗り立てのゴム輪の俥が何臺も往來する。立矢《たてや》の字《じ》に萌えたつやうな鬱金《うこん》の扱帶《しごき》をだらりと下げた娘逹が、カチンカチンと羽子《はね》を衝いて居る。皮羽織を着た鳶の頭が、輪飾りの下を潜つて、手拭ひを配つて步く。獅子舞ひの太鼓の音、紙鳶《たこ》の唸り。―――人形町は水天宮の緣日で、殊に雜沓が夥しい。山口の樂しみにして居た芳町の藝者が、出の着物を着飾つて箱屋を從へ、彼方此方の新道から繪のやうな姿を現はす。
濱町へ訪ねて行くと、果して宗一は在宅であつた。
「やあ、おめでたう。―――何卒二階へ。」
と、機嫌よく云ひながら、玄關に飛んで出て來た。
家の前には、虎の皮の褥《しとね》や、びろうどの膝掛けが着いた嚴《いか》めしい人力が二三臺待つて居た。立派な疊表だの柾目の正しい男物の下駄が、踏み石に一杯揃へてあつて、突き當りにある萬歲の衝立の向うには、五六人の年始の客が落ち合つて居るらしい。宗一の母と思はれる女の聲と、客の男の笑ひ聲とで、賑かな座敷はゴタゴタに賑はつて居る。
丁度二人が宗一に案内されて、廊下の方から曲らうとする時、衝立の後の襖がスラリと開いて、
「や、それでは、もう此れで御免を蒙ります。」
と、美々しく盛裝した五十恰好の男が、仙臺平の袴をキユツキユツと鳴らしながら、玄關の帽子掛けの下に立つた。
「宗一ツつあん、お友逹がおいでゞげすかな。」
かう云つて、獵虎《らつこ》の襟卷を結んで、外套を肩に、ちよいと反身《そりみ》に構へて見せる。髮の脫け上つた、赤ツ鼻の、氣の好ささうな爺さんである。
「………唯今おツ母さんに伺ひましたが、昨年あんなにお病《わづら》ひなすつたのに、學校を及第なすつたつてえなあ、驚きやしたなあ。もう再來年《さらいねん》は、大學だてえぢやありませんか。」
「えゝ、お蔭樣で。」
「ふうん、早いもんですなあ。」と、鼻の穴を膨らがして、二三度頤を强く引いて、
「なんしろ、お父さんはお樂しみだ。何ですぜ、ちとお休み中に宅へも遊びに入らつしやい。ね、ようがすか、三日の晚に娘逹が骨牌會《かるたくわい》をやるさうだから、其の時がいゝ。」
こんな事を云ひながら、例の虎の皮の俥へ乘り移るや否や、顏を平手で撫で下すと同時に、きちんと取り濟まして、梶棒を上げさせた。
「學校を及第なすつたてえなあ、驚きやしたなあか。」
杉浦は廊下を案内されながら、口眞似をして、
「ありや一體何處の爺さんだい。」
「やつぱり兜町の人間さ。大分醉拂つて居るんだ。」
「醉つてるかも知れんが、好い年をして、滑稽な人間が居るねえ。―――橘宗一君も、下町へ來ると嶄然《ざんぜん》頭角を露はして、秀才面をして居るから面白いナ。」
「けれども、三日に骨牌會のあるのはいゝぜエ。橘さん彼《あ》の人の娘は別嬪かどうぢや。」
三人縱に並んで、窮屈な螺旋の梯子段を上る時、一番下の方から山口が云ふ。
「そんなによくはないよ。」
「しかし、君は行くんぢやらうがな、どうだ、わしも連れて行け。」
「お前のやうな惡黨は、女の居る所へはとても連れて行かれないよ。新年早々、煙草屋の事件に就いて、非道い報吿を齎して來てるのを、橘は知つて居るか。」
三人は二階へ上つて、蒲團に坐るまで、始終休まず話し續けた。宗一も久し振で心配を忘れたやうに、元氣よく語つた。
「ひどい報吿と云ふのは何だい。」
「煙草屋の娘に立派な男があるんださうだ。山口は道德上 Adultery を犯して居るんだから怪しからん。」
杉浦は居丈高になつて說明し始める。
「まあ、其の話は止してくれや。わしや君に云はんと置けばよかつた。」
「云はんと置けばよかつたつて、そりや知れるから駄目だよ。惡黨も惡黨、他人の女を押領《あふりやう》するとは、實際驚きやしたなあ。」と、又爺さんの口眞似をして、
「どうせ判つたんだから、酒でも飮みながらすつかり白狀したら好からう。―――橘どうだい、山口を少し醉はせないか。」
「うん、御馳走してもいゝ。」
今迄書生の友逹が訪ねて來ても、酒だけは出した例《ためし》がないから、母が許すかどうであらう。宗一は其れを危ぶんで、若し許さなかつたら、近所の鳥屋へでも飮みに行かうと、腹を極めた。さうして、階下《した》へ下りて行つて、
「おツ母さん、ちよいと。」
と、客間の外の緣側から呼んだ。
「お友逹に何か御飯を出してくれませんか。二人共お酒が行けるんですが、飮ませちやいけませんか知ら。」
「さうさね、みんな大學の方なんだらう。」
母は襖の間から、首だけ出して、
「修行中はマア止した方がいゝけれど、不斷と違つてお正月だから、上げるならお上げなさい。お重に辨松《べんまつ》の料理があるから、有り合せ物だけれど、あれでもお肴にしてね。―――お兼に云ひ附けて、支度をさせたら宜からう。」
かう云つて、承知してくれた。
やがて三人は二階で杯の遣り取りを始めた。
「君ン處の酒はいゝ酒だなあ。此れで漸く正月らしい氣持になつた………。」
「山口を醉はせるんだ。」と宣言して置きながら、一番先に杉浦が醉拂つて、
「おい、早く一件を打《ぶ》ちまけたらいゝぢやないか。」
と、執拗に肉薄する。
「話してもいゝが、Adultery などゝと云はんでくれや。そりや多少不道德な行爲かも知れんが、わしや始めに男のあるのを知らなかつたんぢや。娘は最近になるまで、其れを知らせなかつたんぢや。つまりわしが娘に欺されたんぢやと思ふ。」
「あんまり欺される柄でもないぜ。」
「ま、さう云はないで。」
と、宗一は制して、
「しまひまで默つて聽く事にしよう。其の男といふのは何者だい。」
「大學生ぢや。」
「大學生ツて、帝大なのかい。」
「帝大ぢや。其奴の事はあんまり尋ねんで置いてくれ。あの娘は家が貧乏の癖に、女學校へ通つて居るんぢやが、其れはみんな男の方から學費を給してやつとるんぢや。なんでも大學生があの娘に惚れ込んで、女學校をやらせる代りに、エンゲーヂしたいんぢやさうな。尤も娘は不服ぢやさうなが、親父が壓制的に取り極めるかも知れんと云ふ。」
「ほんたうに不服だつたか何《どう》か、あンな娘の云ふことがアテになるかい。」
杉浦が嘴を入れた。
「いや、そりや恐らく本當なんぢや。親父と云ふ奴は、極く舊弊な頑固な人間だから。―――兎に角、現在は其の男よりわしの方に惚れて居るのは確かなんぢや。」
「そりや女の事だもの、一遍でも關係のあつた方に惚れるのは當り前さ。何と云つてもお前の誘惑したのが惡いんだよ。」
「惡くないと云やせんが、娘だつて隨分不都合なところがあるぜエ。關係のあつたのは、わし斗《ばか》りぢやないんぢや。ありや恐ろしい淫婦ぢやがな。」
「君と不都合のあつた事が、もう男へ知れちまつたのかい。」
「そんな、露顯するやうなヘマはやらんよ。此れから先、萬一氣が付いたつて、證據がなけりやどうもならん。」
山口は傲然と空嘯いて、杯を唇にあてた。醉が廻つて來たと見えて、以前のやうに悄氣《しよげ》ては居ない。襟頸から耳朶《みゝたぼ》の緣を好い色にさせて、眉毛まで眞赤に染まりさうになつて居る。
「お前、此れから先も、依然として繼續する了見なんだらう。」
「うん、さうぢや。」
あたり前だと云はんばかりに、山口は輕く頷いて、
「判りさへせんけりや、當分吉原へ行かんでも濟むだけでも得ぢやらうがな。」
「ひどい奴だなあ。」
杉浦はわざと仰山《ぎやうさん》に、甲走《かんばし》つた聲を出した。
「ヘマをやらん積りだつて、長い間にはきつと知れるに極まつて居るから笑止千萬だ。ほんとだぜ、山口、好い加減に止した方がいゝぜ。」
「さう頭からケチを附けんでも好からう。―――君はわしの事を一々ケナシ居るが、そりやどう云ふ譯なんぢや。をかしい男ぢやなあ。内々面白がつて居る癖に、口ではモーラリストのやうな事ばかり云うて居やがる。―――杉浦さん、惡い事を云はんから、君一遍道樂をせい。君は利口な男なんぢやから、少し道樂をすると、屁理窟を云はんやうになる。」
「餘計なお世話だよ。道樂をしなくつても、お前の氣持ぐらゐ大槪解つて居るよ。………」
二人は川甚の二の舞を演じさうに、凄じい顏をして睨み合つた。
「僕は決してモーラリストぢやないが、無理に道德に反抗して痛快がつたり、新らしがつたりするのは、今ぢやもう古いよ。實際無意味な話だよ。今日の社會は、さう云ふ生半可《なまはんか》の近代人の多きに苦しんで居るんだから、道德に遵奉しない迄も、何とか新機軸を作らんけりやあならんね。僞善の人を誤るよりも、寧ろ僞惡の人を誤る方が、どのくらゐ有害だか知れやしないぜ。世間では多く功利主義の道德を目して僞善と云ふけれど、其のくらゐの程度の道德を持つて居ることは一應必要だらうと思ふ。勿論其れが、根柢のある人生觀の上に築かれて居なくつても差支ないんだ。寸毫も自己の Sincerity を傷つけやしないんだ。」
かう云つて杉浦は眞面目になつた。
「さう云ふ話は、わしにやよく解らんがな。」
と、山口は默つて了つた。到底議論をしても、抗はないとあきらめたらしい。
「橘、君は嘗て佛敎か耶蘇敎の信者になつたことがあるのかい。」
杉浦は山口の相手にならぬのを見て、今度は宗一に話しかけた。
「佐々木にかぶれ[#「かぶれ」に傍点]て、二三度敎會へ出入りしたが、其れも僅かの間だよ。今ぢや全く信仰なんか持つて居ない。―――僕なぞは宗敎に賴つて生きて行ける人間ぢやないんだが、一時熱に浮かされたんだね。クリスチヤンを標榜して居る時代でも、今考へると本當の信仰があつたか何《どう》か、怪しいものさ。」
「佐々木はいまだに信者なのかい。」
「先生も僕が止めようとした時には散々忠吿した癖に、いつの間にか還俗《げんぞく》したから可笑しいよ。しかし思ひ切りが惡くつて、『僕にはどうも神の存在を全然否定する氣になれない。』と云つて居るがね。一體何かに感じ易い男なんだから、いまだにエマーソンやカーライルを讀めば、直ぐと動かされるんだ。どうしても彼は文學者よりプリーチヤーの方が適任だね。―――ま、あゝ云ふ人間は、始終何かに刺戟されて、緊張したライフを送つて行けるだけ幸福だよ。」
「あんまり幸福でもないさ。―――そんなライフは煩悶が少くつて氣樂かも知れないが、決して羨ましいとは思はんぜ。何の爲めに僕等は學問をしたんだ。何の爲めに僕等は知識を要求したんだ。われ〳〵はモウ少し眼を高い所に据ゑて、努力を續ける必要があるよ。神を信じたり、女に惚れたりして、濟まして行かうとするのは恥づ可きことだ。苦しくつても淋しくつても、光榮ある孤立を維持して行く人間があつたら、それが一番えらい[#「えらい」に傍点]んだ。僕の如きは、たしかに其の一人たるを失はないね。」
酒臭い息と一緖に議論を吹き掛けながら、杉浦は肩を怒らし、眼をむき出して夢中になつて居る。傍若無人に滔々と喋り捲くる樣子は、あんまり苦しくも、淋しくもなさゝうである。さうして、時々ガブリ〳〵と水でも飮むやうに酒を呷つた。
「かう見えても、實際僕は寂しい人間だよ。山口が Adultery をする。橘が美代ちやんを追つ駈ける。佐々木が春子を振つたり惚れたりする。此の間に處して、僕の孤立は眞に偉とするに足るね。野村江戶趣味とか、淸水クリスチヤンのやうな眼の低い連中は、彼等相應のライフに甘んじて居るからいゝが、吾輩不幸にして眼識一世に高く、天下に賴る可き何物の價値をも認めない爲めに、斯くの如く孤立して居る。どうだいえら[#「えら」に傍点]からう。」
かう云つて、盃を置いてごろりと橫になつた。
宗一も杉浦の氣焰を聽きながら、知らず識らず量を過ごした。額の皮が、鉢卷をしたやうに痺れて、動悸が激しく體中へ響き、坐つて居てさへ、ふら〳〵と眩暈が起る。舌の附け根から、不快な生唾吐が湧いて、口中が引き締められるやうである。こんなに醉つたのは生れて始めてゞあつた。
後の二人もやがて橫になつて、パチ〳〵と豆を炒《い》るやうな追ひ羽子の音を遠くに聞きつゝ、のどかな元日の晝をとろ〳〵[#「とろ〳〵」に傍点]と眠つて了つた。
十
十二月の試驗の結果が、本館の廊下の壁へ貼出されたのは、七草の頃であつた。淸水は豫期の通り野村を追ひ越して、英法の一の組の主席を占めた。野村は三番、杉浦は四番、宗一が八番。―――英文の方では大山が主席になつて、朶寮一番の連中はみんな中以上の成績を贏《か》ち得た。
淸水は遇ふ人每に冷かされて、
「いや、アレは君、全く僥倖《げうかう》に過ぎないよ。全體試驗なんてものは Lottery のやうなものだから、あれで實力を測ることは出來んさ。」
と、言ひ譯して廻つて居る。宗一はいつかの日記の事件を想ひ出して、小憎らしいやうな、をかしいやうな心地がした。
野村は主席から三番目まで落ちたにも拘はらず、格別悲觀して居なかつた。ふだん自分の頭腦の許す範圍で、急がず騷がず氣樂に勉强して、大槪相当な成績さへ得れば、それほど不平はないのであらう。
「野村は人が好いだけあつて、胸にこだはり[#「こだはり」に傍点]がないから、每日コツ〳〵勉强して居られるんだね。試驗になつても、別段惶てないで、可なり成績のいゝところは、模範學生だよ。尤も學問に對する頭は、元來惡くないんだらう。」
と、惡口屋の杉浦も感心して居る。
しかし杉浦自身が遊び放題遊び暮らした上、僅か四五日準備したゞけで同級生四十人中の四番目に居るのは、最も不思議な現象であつた。
「君は實際いゝ頭を持つて居るなあ。」
かう云つて宗一が感心すると、
「それはさうさ、君は僕の頭の好い事を今知つたのかい。」
と、得意の鼻を蠢かして、
「それより山口の成績のいゝのが、餘程氣拔だよ。每日のやうに女を買つて居て、よく元氣が衰へないもんだね。」
こんな事を云つた。
成る程、山口は佛法の十二三番に踏み止《とゞ》まつて居る。英文科一年の佐々木の方は、春子の一件が打擊になつたと見え、前學期より二三番下つて、まんなか頃に挾まつて了つた。
今迄にない懶惰《らんだ》な生活を送つた報いに、嘸かし醜《みぐる》しい成績を見るだらうと懸念して居た宗一は、相變らず十番以内に入れたのを意外に感じた。頭腦の好い證據とするよりも、寧ろ在來の惰勢の結果とする方がたしからしかつた。けれども此の惰勢がどれだけ續くものであらう。美代子の問題に埒が明かぬ限り、此の放逸な狀態が改まらないとしたら、來學期の慘めさはどんなであらう。其の場合を想像すると、小學校以來一度も十番以下に甘んじた經驗のない彼の自尊心は著しく傷つけられた。
「しかし君なんざ、少しぐらゐ遊んだつて大丈夫だから、心配はないぢやありませんか。―――それより僕の方がどんなにミゼラブルだか、考へて御覽なさい。」
佐々木は其の朝、運動場で宗一を捉へると、慰めがてらいろ〳〵な愚痴をこぼした。彼は宗一よりも一層神經質なだけ、成績の不良に殊更胸を痛めて居た。
「春子の事があつたりすると、とても本なんか讀んで居られやしませんよ。去年の後半期と云ふものは、間斷なく頭の中に Storm が續いて居て、殆ど何に費やしたか、今から考へると無茶苦茶ですね。ほんとに恐ろしいもんです。」
佐々木は陰鬱な調子で、俯向いたまゝ後庭の草原を步みつゝ語つた。
「君は運が惡いんだよ。杉浦でも僕でもあんなに怠けたのが、其れほど影響して居ないんだもの。山口と來た日にや、あの通りの不行跡をやつて、依然として十二三番に漕ぎ付けて居るからね。」
「そりや、山口君なんぞとは氣持が違ひます。」佐々木は昂然と首を擡げ、
「どうして、どうして、僕が春子から受けた打擊は非道いもんですよ。山口君のやうな、呑氣なのとはまるで一緖になるもんですか。君にしたつて、隨分頭を使つたでせうが、君はまだ、男性的な、强い氣象があるから好ござんす。………」
「僕を强いと云ふのは、君ぐらゐなもんだよ。」
「いゝえ、君は强うござんすよ。僕なんぞ我れながら腑甲斐ないと思ふくらゐ、決斷力がなくつて、女々《めゝ》しくつて、お話しにならないんです。」
何でも彼でも、彼は自分の煩悶が一倍深刻であると極めて居るらしかつた。
「それにしたつて、君はもうきれいに春子さんと手を切つたんだから、此れから十分に讀書が出來るだらう。」
「えゝ、さうしたい積りですが、當分精神がぼんやりして、仕事が手に付かないで困ります。君にしても、同じことでせう。やつぱり今學期も入寮なさるんですか。」
「うん、多分明日あたり入寮するだらう。―――實は今日と思つたんだけれど、晚に近所で骨牌會があるから、もう一晚家へ寢ることにした。若し都合が宜かつたら、君も一緖に骨牌へ來ないか。」
「一體どんな家なんです。」
「親父の知つて居る仲買人の本宅さ。成る可く多く友逹を誘つて來てくれつて、賴まれて居るんだから、一緖に行つて見ないか。遲くなれば、僕の所へ泊まつてもいゝ。―――君の好きな下町風の娘が澤山見られるぜ。」
かう云つて、宗一はにや〳〵笑つた。
「さうですね、行つても好ござんすね。」
と、佐々木は同じく妙に笑ひながら、煮え切らない返答をした。
「そんなら、直ぐと飯を食つて出掛けよう。一時迄に集まる約束なんだから。」
二人は淀見軒の安いまづい洋食で晝餐《ちうさん》を濟ますと、三丁目の停留場へ急いだ。寒空のところ〴〵にちぎれちぎれの雲が散亂して、烈しい北風が、砂埃を捲き上げつゝ荒《すさ》ぶ日であつた。乘手の少い電車の中に、ぴつたり體を摺寄せ乍ら、二人とも澁い顏をして膝頭を顫はせた。
茅場町の四つ角で下りて、植木店《うゑきだな》の橫町へ曲ると、杵屋の家元から二三軒先の小粹な二階建の前で宗一は立止まつた。
「あゝ、此處ですか。」
と云つて、佐々木は「淺川」と記した軒燈の球を仰いだ。大分來會者が集まつたと見えて、家の内からなまめかしい女の囀りが、酣《たけなは》に聞えて居る。板塀の上の二階座敷にはきやしや[#「きやしや」に傍点]な中硝子の障子が締まつて、緣側の手すり[#「すり」に傍点]の傍に籐椅子が一脚据ゑてある。格子を開けると、ちりん〳〵とけたゝましく鈴が鳴つた。
「今日は。―――一人ぢや心細いから、友逹に援兵を賴んで、とう〳〵やつて來ました。」
玄關に現はれた四十三四の、如才なささうな上《かみ》さんに挨拶して、宗一は活潑に口を利いた。
「おや、ようこそ、さつきからみなさんが宗ちやんを待ち焦れて居るんですよ。」
上さんは佐々木の樣子を盗み視てから、再び宗一を振り返つた。
「お友逹はお一人なの。もつと多勢さんで入らつしやればいゝぢやありませんか。―――さあ、さあ何卒お上んなさい。」
かう云ひながら、二人の脫ぎ捨てた外套を片寄せて、
「ちよいと、誰か皆さんのお穿き物をチヤンと直してお置きなさいよ。こんなに土間が散らかつて居ちや、足の入れ場がありやしないやね。」
と、高い調子で叱言を云つた。
佐々木は宗一の後へ附いて、遠慮がちに身をすくめつつ玄關へ上つた。丁度突きあたりの芭蕉布《ばせうふ》の唐紙の、一寸ばかり開いた隙間から、ずらりと居並んだ令孃逹の花やかな衣服の色彩が、細長い六歌仙の縱繪のやうに窺はれた。すると忽ち、其の繪がお納戶地の縮緬の羽織で一杯に塞がれたかと思ふと、冴え冴えした、黑味がちの圓い瞳が、白い頰を襖の緣へ押し着けて、一生懸命に此方を隙見して居る。佐々木は極り惡さに下を向いた。
「お勢ちやん、何をしてるんだい。」
宗一はかう云つて、瞳を追ひ駈けるやうに其處を開けると、座敷の中へ入つた。矢庭にお勢は疊へ突つ伏して、
「おほゝゝゝ。」
と、頓狂に笑ひ崩れた。二十前後の、發逹し盡した豐かな肩の肉が、笑ひを堪へる息づかひと一緖に、背筋のあたりでグリ〳〵と力强く動いて居る。
新らしい靑疊の八疊の間に、紬《つむぎ》の座蒲團だの、桑の煙草盆などが秩序よく置かれて、煙草の煙や炭火の熱が、少しカツとする樣に籠つて居た。床框《とこかまち》の前と、緣側に近い柱の傍と、二箇所に据ゑられた大きい桐の火鉢の周圍《まはり》へ、七八人の男女が花瓣の如く取り縋り、互に肘を張り合つて、骨牌のうまさうな、細長い手先を炙《あぶ》つて居る。緣側の向うには、下町に珍らしい、こんもりとした植込みがあつて、生茂つた枝葉の透き間から小さな稻荷の祠が見える。佐々木は一人離れて、一番遠い座蒲團の方へ腰を下ろした。
「此れは僕の友逹で、一高の文科の佐々木と云ふ人です。」
宗一が紹介すると、みんな一度に佐々木へお辭儀をした。
「宗ちやん、佐々木さんにもつと此方へ來て頂けなくつて。」
と、二十一二になる此處の娘のお靜と云ふのが、火鉢を包んだ一團の中から首を擡げた。すらりとした鶴のやうな撫で肩へ、地味な絣の大島お召の羽織を纏つて、銀杏返しの鬢の毛をふるはせながら、きれいな、メタリツクの聲を出す樣子と云ひ、引き締まつた目鼻立ちと云ひ、新派の喜多村にそつくりの女である。
「靜ちやん、君は默つていらツしやいよ。高等學校の方はみんなお勢ちやんのお受持ちでさあ。」
かう云つたのは、頭をてか〳〵と分けた、にきび[#「にきび」に傍点]の痕のまだ消え切らない男である。毛絲のシヤツの上へ、襦袢や胴着や絣の銘仙の對《つゐ》の綿入や、何枚も寒さうに重ね込んで居る。
「あら噓よ、澤崎さん覺えていらツしやい。」
突伏して居たお勢は急に起ち上つて、さも憎々しさうに睨みつけた。
「だつて、さうぢやありませんか、ねえ。」
と、澤崎は圖に乘つて嬉しがつて、
「君は一高の生徒が好きだつて云つたぢやないか。」
「あたし、何時さう云つて?」
「云つたとも、云つたとも。―――此の間僕と一緖に本郷通りを步いた時に、後から一高の生徒が來たら、『あたし彼《あ》の人にハンケチを拾はしてやるんだ』ツて、君はわざとハンケチを落したぢやないか。」
「あら、噓よ。」
お勢は慌てゝ取り消したが、一座は可笑しがつて、笑ひどよめいた。
「へーえ、それからどうしたの。とう〳〵拾はしたんですか。」
と、お靜が訊いた。
「えゝ、とう〳〵其の學生が拾つて、お勢ちやんにお渡ししたんです。『ほら御覽なさい。拾はせてやつたでせう。』ツて、お勢ちやんは得意になつて居るんです、僕ア驚いちやつた。」
澤崎は一座の幇間のやうな格で、頻りと滑稽な仕業や辯舌を弄しては、如才なく娘逹に愛嬌を振り撒いて居る。人を毛嫌ひする癖のある宗一は、何となく嫌な男だと思つたが、それでもお勢の氣拔な行動には、吹き出さざるを得なかった。
「君のハンケチなら、僕等はいつでも拾つて上げるぜ。」
かう云つて、彼は萎れ返つて居るお勢の顏を嬲《なぶ》るやうに眺め込んだ。
「宗ちやんお止しなさいよ。あんまりからかふと、お勢ちやんだつて怒つちまふわ。―――それよりか、もうそろ〳〵始めなくつて。」
お靜は宗一を睨めて、骨牌の箱を取り寄せた。
同勢九人のうち、一人が迭る迭る讀手になつて、四人づゝ二組に別れ、何囘も勝負が行はれた。宗一も佐々木も一度づゝは總ての人を敵に廻して札を爭つた。一番上手なのは澤崎で、「ハツ」「ハツ」と景氣の好い掛け聲を浴びせながら、指先で撥ね飛ばす働きの素早さ。骨牌は彼に彈かれると、燕のやうに室内を舞つて走つた。其の間も、彼は種々雜多な身振手眞似を弄して、敵方を笑はせ、狼狽《あわ》てさせ、威嚇かす可くあらん限りの術策を施すことを怠らない。勝敗の埒外《らちぐわい》に出て、歌を讀み上げる時でさへ、得意さ加減、可笑しさ加減は一と入で、「天津《テンシン》風《プウ》雲のかよひ路」だの、「むべサンプウを嵐」だの、「振さけ見ればシユンジツなる」だの、いろ〳〵の讀み方を心得て居て、薩摩琵琶のやうな節になつたり、浪花節のやうな音になつたり、激しくなると、「天智天皇あきんどの假り寢の夢」だとか「菅家紺の足袋《たび》は黑くて丈夫」だとかたわい[#「たわい」に傍点]ない惡洒落に、女逹の腹の皮を綯《よ》らせた。
澤崎に次いで上手なのはお勢であつた。澤崎が女を喜ばせるよりも、もつと格別な意味で、お勢は男を喜ばせた。初對面の佐々木だらうが、宗一だらうが、お勢にかゝると散々に鼻毛を拔かれ、容赦なく引ツ搔かれるやら、組み付かれるやら、打たれるやらした。佐々木は勝負の最中、幾度となく自分の額に觸れたお勢の前髮の柔かさを忘れることが出來なかつた。
「お勢ちやんは一高の生徒にハンカチを拾はせても、骨牌は拾はせないんだね。」
宗一がかう云ふと、お勢は息せき[#「せき」に傍点]切つて、
「そんなに口惜しがらなくたつて好い事よ。骨牌に負けたもんだから、口で讐《かたき》を取るなんて、男の癖に卑怯だわ。」
「さうだわ〳〵。一高の生徒の癖に卑怯だわ。」
と、後から澤崎が交ぜつ返した。
斯界の兩雄―――澤崎とお勢とが敵味方に別れた時の騒擾、喧囂亂脈は、實に当日の壯觀であつた。殆ど全體の勝敗が其の一騎打ちに依つて決するかの如く、互に祕術を盡し、お轉婆を極めたが、たま〳〵此の兩人が同じ組の鬮《くじ》に中ると、敵方は滅茶々々に蹂躙されるので、
「これぢや、とても抗はないわ、澤崎さんとお勢ちやんとは、始終敵味方でなけりや面白くないわ。」
こんな動議をお靜が提出した。さうして、最後の試合迄、二人は別れ別れになつた。結局七度の戰ひのうち、五度は澤崎の勝利に歸した。
四時頃になると、みんな休憩して、御馳走の鮓《すし》を頰張りながら、一しきり賑やかに戲談《じやうだん》を云ひ合つた。
「お勢ちやんどうでした。やつぱり男の方《かた》には抗はないと見えますね。」
かう云つて、さつきの上さんも出て來て席に加はつた。
「えゝ、お勢ちやんなんぞ、まるで相手にならないんです。弱い人ばかりいぢめて居て、僕にはちつとも向つて來ないんですからなあ。」
澤崎は肩を搖す振つて、兩手に拵へた握り拳を、鼻の先へ高々と重ねた。
「あら、小母さん噓よ。澤崎さんそんなに威張るなら、二人で勝負をするから、此處へ出ていらつしやい。あなたなんぞに負けるもんですか。」
「おほゝゝゝまあお勢ちやん、急がないでもゆつくり讐をお取んなさいな。今お靜にさう云つて、かるたの間に福引をやらせますから。―――どうぞ皆さん、どんな物が中《あた》つても、苦情を仰しやらずに、持つて歸つて下さいましよ。」
上さんは用意して置いた福引のかんじより[#「かんじより」に傍点]を娘へ渡して、
「さあ、めい〳〵で、一本づゝお引き下さい。」
と云つた。
淺草觀音の鳩が豆の皿へ群る樣に、多勢はお靜の手元へ集まつて、我れがちに鬮を引いた。紙の端には、一つ一つ謎《なぞ》の文句が認めてあつた。佐々木の引いたのは「小松内大臣」、宗一のは「間男《まをとこ》」と云ふのであつた。
「間男と云ふのは怪しからんね、一體此れは何です。」
「あら、宗ちやんが間男を引いたんですか。―――そりやいゝものよ。家のお父さんが考へた謎なの。」
お靜はかう云つて、魚を燒く二重の金網を出した。
「宗ちやん其れが解りますか。『兩方から燒く』と云ふんですつて。」
上さんが說明すると、みんな手を叩いて可笑しがつた。
佐々木の「小松内大臣」は「苦諫」と云ふ謎で、蜜柑が三つ來た。澤崎は「往きは二人で歸りは一人」といふのに中つて、往復はがきを貰つた。其の外澤庵を持たされたり、草箒木を擔がせられたり、大分迷惑したらしい連中があつた。謎の秀逸はお勢の引いた「晝は消えつゝ物をこそ思へ」で、電燈の球が來たのには、奇警にして上品な思ひつきに、誰も彼も感服した。
「電氣の球はよかつたな。それは誰が考へたんです。」
と、宗一はお靜に訊いた。
「うまいでせう。あたしが考へたのよ。」
「『晝は消えつゝ物をこそ思へ』は、全く頭が好うござんしたね。何しろ今日中の傑作に違ひありません。」
佐々木までが、かう云つて賞め讚へた。
福引が濟むと、再び戰闘が開始された。丁度五時から七時頃の間に五六囘勝負をやつたが、お勢はとう〳〵澤崎に抗はないで、
「あたし口惜しいわね。―――澤崎さん近いうちに家でかるた會をやるから、是非入らつしやいな。きつと負かして上げるから。」
などゝ云つた。
「もう大分遲くなりましたから、徐々《そろ〳〵》失禮しませんか。」と、誰かゞ云ひ出した時、
「まあお待ちなさい。皆さんの運動が激しいから、お腹が減つたでせうと思つて。」
と、上さんは氣を利かして、尾張屋のそばを振舞つた。みんな暖かい鴨南蠻と玉子とぢ[#「とぢ」に傍点]とを默つて貪るやうにして喰べた。
「佐々木さん、どうぞ此れからも宗ちやんと一緖に遊びに入らしつて下さいな。別にお構ひ申しませんが、内は此の通り呑氣なんですから。」
お靜にかう云はれると、佐々木は實直らしく膝頭へ兩手を衝いて、
「えゝ、また今度、骨牌會があつたら是非伺ひます。」
と、馬へ乘つて居るやうに、臀を彈ませて云つた。
「かるたの時でなくつても、いゝぢやありませんか。近いうちに弟が退院して戾つて參りますと、お話相手も出來ますから。」
「弟と云ふのはお靜さんより一つ年下で、高等商業へ行つて居るんだよ。」
傍から宗一が說明して、
「良ちやんは、まだ退院が出來ないんですか。」
「もう四五日かゝるんですツて、良作も體が弱くつて困つ了《ちま》ひますよ。宗ちやんの樣に丈夫になるといゝんですがね。」
お靜は火箸の上へ白く柔かな兩手を重ね、何か知ら長話の端緖《いとぐち》でも語り出すやうに、落ち着いて、しみ〴〵と喋舌り始めた。淋しい冬の夜寒を、二人共成らう事なら、此の女を相手に今少し時を過ごしたく思つたが、お勢も澤崎も歸つて行くので、據んどころなく、名殘を惜みながら席を立つた。
「佐々木君、もう遲いから、僕の家へ泊らないか。」
戶外へ出ると、宗一は云つた。晝間の風が未だ止まないで、街鐵《がいてつ》の敷石の上に渦を卷く砂煙が、電柱のあかり[#「あかり」に傍点]にぼんやりと照されて居る。電車が時々、クオーと悲鳴を擧げるやうに軋《きし》みながら通る。
「彼處の娘は喜多村にそつくりですね。聲まで似て居るぢやありませんか。」
佐々木は鎧橋を渡る時、不意にこんな事を云つた。
「誰もさう云ふよ、當人も喜多村が贔屓なんだ。―――君はお氣に入つたのかい。」
「えゝ、ちよいと好ござんすね。」
「春子第二世にしたらどうだい。」
「さあ。」
と、佐々木は考へて、
「春子の轍《てつ》を踏んぢや困りますから、一番出直して、靜子第一世にしませうか。さつきの『ひるは消えつゝ』の謎なんか見ると、頭もなか〳〵いゝやうぢやありませんか。」
「惚れた弱味で、謎にまで感心しなくつてもいゝよ。惚れられると德をするんだなあ。」
と、宗一は笑つた。
濱町の家へ着くと、丁度時計が九時を打つた。「まだ風呂を拔かずにあるから、女中の入らないうちに」と進められて、二人は早速湯に漬かつた。
「佐々木さん、此處に宗一のフランネルの洗濯したのがありますから、お上りになつたら、浴衣代りにお召し下さいまし。」
母は湯殿へ出て、二人の體質を並べて見ながら、
「ほんとに佐々木さんは好いかつぷく[#「かつぷく」に傍点]でいらつしやること、宗一なんぞはとても抗ひませんねえ。」
と云つた。宗一も佐々木の裸體を見るのは久し振で、筋肉が瘤のやうに隆起して居る逞しい骨組や、丈夫さうな赤黑い皮膚の上に、石鹼《しやぼん》の白泡が快い對照をなして流れて行くのを、羨ましく思つた。
「かうやつて居ると、何だか田舎の溫泉へでも來て居るやうな氣がしますね。」
佐々木は湯船の緣へ頭を載せて、湯氣の籠つた天井を眺めながら、伸び伸びと空嘯いた。
風呂から上つて、二階の書齋へ行くと、いつの間にか蒲團が二つ敷いてあつた。互に顏を向け合つて、夜具を被つたものの、容易に眠られない。―――階下で時々、宗兵衞の咳拂ひの音が聞える外、淺川の家に比べると、ズツト陰氣な、死んだやうな座敷の沈默が、妙に眼を冴え冴えとさせた。
「どうだい、僕の家は靜かだらう。―――こんな晚に獨《ひとり》で居ると、淋しくつて淋しくつて、とても寢られやしない。」
かう云つて、宗一は蒲團の中で、肩を顫はせた。雨戶の外では、凩《こがらし》がひゆうひゆうと鳴つて居た。
「僕はこんな所が大好きですよ。君だつて、ラブ、アツフエイアがなければ、此處の方が却つて勉强出來る筈です。寮に居ると下らない附き合ひに時間を浪費して、いけませんね。旅行でも、讀書でも、僕は Solitude が一番いゝと思ひます。」
「しかし、昨今の僕は Solitude に堪へられないよ。」
「そりやあゝ云ふ事情があつては、無理もありません。―――どうなりました小田原の方は。」
「やつぱり破談になつた。暮に母親から散々意見されて、一と先づ斷念しろとまで云はれた。」
「それから、君はマーザーに何と答へたんです。」
「一應反抗したけれども、到底根本から考へが一致しないんだから、好い加減な氣休めを云つて置いた。徒に心配させたつて、仕樣がないもの。」
「此れから先、どうする積りなんです。」
「どうしていゝか、全く迷つて居るよ。美代子さへ約束を守つて居てくれゝば、結局は大丈夫だと信じて、それ程悲觀もしないがね。」
「かう云ふ問題は、だら〳〵長くなると、仕事が出來ないで困りますから、成るたけ手取早く片附ける方が宜ござんす………。」
佐々木はだん〳〵眠さうな聲を出して、やがて、
「もう寢ませうかね。」
と云つて、ぐるりと壁の方を向いた。
十一
歌舞伎座の春の狂言が、十四日に蓋を開けたので、初日から五日目の日曜日に、野村は中島と杉浦を誘ひ、西の花道に近い平土間へ陣取つて居た。遲れ馳せに宗一の駈け着けた頃は、旣に一番目の大詰の幕が下りて、天井、棧敷、一面の穹窿《きゆうりゆう》に電燈が燦然と閃き、劇場の内部は、さながら灯の雨が降るやうに光の海を現じて居た。
「おい、其處に居るのか。」
と、聲をかけながら、土間の劃《しき》りを傳はつて行く時、宗一には二三人の友逹の顏が眞赤に燃えて輝いて見えた。
「おう、君遲かつたなう。もう一番目が濟んで了つたぞ。」
野村は半分席を讓つて、自分の橫に宗一を坐らせ、頻りとオペラ、グラスを八方へ廻して居る。「市村羽左衞門」「片岡仁左衞門」などゝ記した緞子《どんす》や綸子《りんず》の引幕が舞臺の一方から一方へ、何枚も何枚もする〳〵と展いては縮まつて行く。
「鬼と呼ばれし高力《かうりき》も、淚の味を覺えて御座る。………」
杉浦は唇をへの字なりに歪めて、仁左衞門の口眞似をして、
「今の幕は、仁左衞門が好かつたぜエ。もう少し早く來ると、面白かつたのになあ。」
「家光になつたのは、ありや何と云ふ役者かい。」
と、相變らず中島は說明を求めて居る。
「アレは八百藏さ。―――どうも家光らしい機略が見えないで、八百藏としては出來の惡かつた方だよ。」
「しかし、立派な聲ぢやなう。輪廓もなか〳〵整つとるぢやないか。」
中島は杉浦の批評が腑に落ちないで、内々八百藏に感心したらしい口吻である。
出方が五六人東の花道に立つて、
「○○御連中樣、御手を拜借!」
と、怒鳴つたかと思ふと、向う側の鶉《うづら》、高土間、新高《にひたか》の觀客の間から、バタ〳〵と拍手が起つて、無數の掌が胡蝶のやうに飜る。
杉浦は伸び上つて、劃りの板に腰かけながら、
「ありや、みんな藝者だぜ。山口が居たら喜ぶだらうなあ。」
「左の隅から三番目の柱の處に居るのは、素敵な別嬪ぢやなう。」
かう云つて、指差した中島の手の先には、粹な年增が旦那らしい紳士と、何處かの女將《おかみ》らしい老婆を捉へて、睦ましさうに話をして居る。金煙管と指輪の寶石が、遠くまでピカ〳〵光つて居る。
「うむ、ありや大變な美人だな。萬龍や靜枝なんぞが繪ハガキになつて、彼《あ》の女《をんな》が繪ハガキにならないのは怪しからんね。第一、あんな醜男《ぶをとこ》を旦那に持つて居るのが不都合だよ。われ〳〵有爲《いうゐ》の靑年が、あゝ云ふ男に、おめ〳〵美人を取られて居る法はないぜ。」
杉浦は仰山に地團太を踏んで、
「實際殘念至極だ。………仕方がないから、僕は寮へ歸つたら、鐵亞鈴《てつあれい》を二三百振つてやるんだ。」
と肩を聳やかした。
「橘、彼處に佐々木が來とるやうだぜ。」
野村はオペラ、グラスをヂツと西の棧敷に据ゑて云つた。
「佐々木が來て居る?」
「ほら、彼處に居るぢやないか。」
杉浦は目敏《めざと》く氣が付いて、
「………うむ、さうだ〳〵。佐々木に違ひない。而も此れがまた別嬪を連れて來て居るぜ。―――佐々木の傍に居る若い男は、何だらう。一高の奴ぢやないやうだが。」
「あれは高等商業の淺川と云ふ男だよ。僕の友逹で此の間佐々木に紹介したばかりなんだ。」
宗一も漸く見付け出して、二階を仰いだが、先では一向知らないらしい。佐々木と淺川が腕組をして坐つて居る前に、姉のお靜は母親と並んで手すりに凭《もた》れ、平土間に波打つ群衆の頭の上を、餘念もなく眺めて居る。丁度一階と二階の境目の提灯に電燈がともつ[#「ともつ」に傍点]てお靜の額を眞下からあり〳〵[#「あり〳〵」に傍点]と照らし、うつとり[#「うつとり」に傍点]と無心に一方を視詰めた儘人形のやうに靜止して居る目鼻立を、極めて鮮明に浮き出させて居る。殊に、ピクリとも動かさぬ瞳の色の潤澤、魅力の强さ、宗一は今日程お靜の眼つきを美しいと思つたことはなかつた。
「彼《あ》の女は何者だい。まさか藝者ぢやあるまいな。」
と、杉浦が訊く。
「あの男の姉さんなんだ。」
「へーえ、佐々木もナカ〳〵隅へ置けないね。紹介してくれた君を出し拔いて、芝居へ來るなんか、彼《あ》の男に不似合な藝當をやつたもんだ。」
「僕にもちつと意外だね。たしか七草の晚に淺川の内で骨牌會があつて、其の時先生を連れて行つたんだが、あれから二三度も僕と一緖に出かけたかな。何にしても紹介してから、まだ十日位にしかならないんだ。」
「春子で手を燒いた代りに、あのシスターをどうかしようと云ふ氣が知らん。」
「そんな深い計畫はなからうが、多少惚れて居るらしいね。先生はふだん臆病の癖に、ラブしたとなると、隨分大膽な眞似をするよ。」
「あの器量では、佐々木の惚れるのも無理はないなう。」
豪傑の中島も、半分は惚れたやうな言《こと》を云ふ。
「新派の喜多村にそつくり[#「そつくり」に傍点]な顏をしとるぜ。何處ぞ女學校でも遣つたのかい。」
と、今度は野村が尋ねる。
「虎の門を出たんだ。學校が同じだから美代子もよく知つて居るよ。」
「うん、さうかな。美代ちやんとは何方が別嬪かの。」
「美代子なんか、とても比べ物にならない。淺川の一家は、あの弟にしても、母親にしても、みんな眉目《びもく》秀麗だからな。」
「そりやさうだらう、あの位の女が、無闇とわれ〳〵仲間の細君になられちや困るからな。佐々木だつて、結局失敗するに極まつて居るから安心し給へ。―――第一、ソクラテスのやうな面を提げて居て、あの女に好かれる筈はないよ。」
杉浦はこんな毒舌を振つて居る。
宗一は直ぐ二階へ行つて、佐々木を驚かさうとしたが、もう拍子木が鳴つて居るので、次ぎの時間を待つ事にした。源平布引瀧《げんぺいぬのびきのたき》の中幕が開くと、揚げ幕の向うから羽左衞門の實盛、猿之助の瀨尾《せのを》が、頭の上の花道を步いて來る。丁度實盛の穿いて居る白足袋が、三人の眼の前へ止まつた時、
「羽左衞門は痩せて居るなあ。」
と、突然杉浦が、足許から大きな聲を出した。
しかし、羽左衞門の實盛は濟まし込んで鼻を尖らし、七三《しちさん》の邊《あたり》で、
「瀨尾殿。」
「實盛殿。」
と、互に挨拶しつゝ、本舞臺の九郞助の住家へと練つて行く。
芝居は追ひ追ひ面白くなる。九郞助の家にかくまはれた義仲の奧方|葵《あふひ》御前《ごぜん》が產氣《さんけ》づいたり、生れたのが女の片腕であつたり、其れは怪しいと云つて瀨尾がいきまく[#「いきまく」に傍点]やら、實盛が源氏に志を寄せて辯解するやら、なかなか賑やかである。
口角泡を飛ばすと云ふのは、瀨尾の事だらう。―――「腕《かひな》を生んだ、例《ためし》はねエわイ。」
などゝ、赤面《あかつら》をむき出して喰つて掛かる。
實盛の方は落ち着き拂つて、古《いにしへ》を說き、今を論じ、强引《きやういん》該博《がいはく》、見たところ大變な智慧者らしい。
「團十郞は、實盛と云ふ人物の腹が解らないで、此の芝居をやらなかつたさうだ。」
宗一は低い調子で、ちよい[#「ちよい」に傍点]〳〵通を振り撒いて居る。
「さうかなあ、考へると滑稽だからなあ。」と、中島が相槌を打つ。
「團十郞は馬鹿だよ。こんな芝居に腹も糞もないぢやないか。」
杉浦はかう云つて一喝して了ふ。
とう〳〵瀨尾は追拂はれて、九藏の葵御前がしづ〳〵と二重へ現れる。
實盛九郞助、一同畏まつて平伏して居る。
「あの葵御前には悲觀したな、ひどくまづい面ぢやないか。九藏たる者、羽左衞門や松助に土下座《どげざ》をされて、少し面喰つて居るぜ。………」
杉浦の批評には、端の人まで耳を傾けて、クス〳〵笑つて居る。
勇ましい物語が濟んで、瀨尾が切腹するまでは靜かであつたが、それから又一しきり、杉浦のお喋舌が始まる。
「何と云つても、近來での實盛だつたよ。うまいもんだ。―――實盛の腹はどうでもいゝとして、馬鹿を見たのは瀨尾君だね。白髮を着けるやら、顏を赤く塗るやら、大騷ぎをして跳び出して來ながら、愚にもつかない屁理窟でギヤフンと參つたり、藪の中へ隱れ込んで眼の中へ埃《ごみ》を入れたり、娘の死骸を足蹴《あしげ》にしたり、揚句の果が腹を切つて、ウン〳〵云つてふん[#「ふん」に傍点]反り返るのは御苦勞だなあ。恐ろしく奮鬪的生活をやつたもんだね。」
カチンと木の頭《かしら》を打つて、舞臺は旣に幕切れの見え[#「見え」に傍点]に移つた。きらびやかな緞帳《どんちやう》が、天井からゆる〳〵下り始めて、活人畫《くわつじんぐわ》の天地を一寸二寸と縮めて行く。馬に跨がつて扇を擴げた實盛の頭が先づ隱れる。次いで手塚の太郞の首が隱れる。其の傍に蹲踞つて居る九郞助も順々に隱されて、間の拔けた馬の足ばかりが見える。やがて緞帳の裾がフツト、ライトの光炎に燃えながらばつたりと地に着いて了ふ。
宗一は花道を駈け拔けて、梯子段を上つたが、二階の廊下でばつたりとお靜に出遇つた。後から弟の良作も佐々木もやつて來た。
「おや。」
とお靜はにつこりして、
「宗ちやん何時入らつしやつたの、誰かお連れがおあんなさるの。」
「學校の友逹と一緖なんです。尤も僕は用事があつて、たツた今、中幕の前に駈け付けたんです。」
かう云つて、宗一はお靜と佐々木を等分に眺めた。
「妙な所で遇ひましたねえ。今朝淺川君の前を通つて、ちよいとお寄りしたら誘はれちまつてね。」
佐々木は、何處やら烟つたいやうな顏をして、言譯がましい事を云つた。ソハ〳〵した、嬉しさうな素振が餘所目にも著しかつた。
「お勢ちやんが急に來られなくなつたので、御迷惑だつたでせうが、佐々木君を引張り込んだのです。お母親《ふくろ》も居ますから彼方へ入らつしやいませんか。」
良作も佐々木の尾に附いて辯解した。
「えゝ有難う。小母さんのいらつしやる事も知つて居ますよ。君逹の場所は、丁度僕等の頭の上なんです。―――お靜ちやん實盛は如何《いかゞ》でした。御贔屓の羽左衞門が大分振ひますね。」
「あたしなんか、贔屓の引倒しですけれど、今のは可なり見堪《みごた》へがしましたよ。―――佐々木さんは羽左衞門より高麗藏の方がお好きなんですつて。」
「いえ、さう云ふ譯ぢやありませんが………。」
と、佐々木は頭を搔きながら、
「何だか、羽左衞門は冷酷で、暖みがないから近寄り難いやうに思はれるんです。しかし猿之助の瀨尾は、逹者で、熱があつて好ござんしたねえ。」
「うん、まあ惡かないが、ちつと騷々し過ぎるよ。」
「いつか歌六の瀨尾を見ましたが、あゝ云ふ役は角々が極まつて、猿之助よりズツとうまござんす。『腹に腕《かひな》があるからは』なんぞ、澤瀉屋《おもだかや》は無雜作にすら〳〵と云つ了《ちま》ひましたね。」
良作は團十郞時代から歌舞伎を缺かさないだけあつて、黑人《くろうと》じみた事を云ふ。
「そりや彼《あ》の方が好かつたわ。今度は團藏が演《や》る筈だつたのに、途中で猿之助に變つたんですツて。―――團藏がやると、藝が枯れて居るから、面白かつたでせう。」
佐々木は門外漢の如く、自分の劇評に一顧の價値も與へられないで、憮然《ぶぜん》として三人の傍らに立つた。
又幕が開いた。今度は仁左衞門の「鰻谷《うなぎだに》」である。宗一は此の一と幕だけ、淺川の席へ割り込んで見物したが、お靜も良作も、母親も、一心に舞臺へ注目して、殆んど言葉を交はす機會を與へなかつた。
「あゝ、くだびれたこと。」
幕が閉まると、お靜はガツカリしたやうに、腰を擡げて、
「誰か一緖に運動場へ行きませんか、―――佐々木さんも、宗ちやんも入らつしやらなくツて?」
と云つた。
「僕は、もう直き下へ行きますから………」
宗一が辭退すると、佐々木も氣の進まない面持で、
「僕はお留守居をして居りますから、皆さん入らしツたら宜いでせう。」
かう云つて、苦しさうに笑つた。
「佐々木君、杉浦や中島が來て居るから、ちツと下へも話しに來給へ。」
淺川の家族が出て行つた後で、宗一は置いてき堀[#「置いてき堀」に傍点]にされた佐々木を顧みて云つた。
「えゝ有り難う。中島君は運動家の癖に、やつぱり芝居を見るんですか。」
佐々木の顏には、知らず識らず陰鬱な表情が浮かんで居たが、それでも彼は、努めてあいそ[#「あいそ」に傍点]好く口を利かうとして居るらしい。
「芝居を見ると云つても、大して解りやしないんだよ。中島の事だから、子供が錦繪を見るぐらゐな無邪氣な考へで、面白がつて居るんだらう。別に藝術がどうのと云ふ譯ぢやないのさ。」
「どうせ僕だつてさうですよ。かう云ふ都會の藝術は、細《こまか》いところはとても田舎者に解りませんね。僕は芝居へ來る度每に、何となく妙な壓迫を感じます。」
「しかし、今日はお靜さんが居るから、さうでもないらしいぜ。―――それぢや又後程。」
宗一はから〳〵と高笑ひを殘して其處を立つた。廊下の外の眞黑な夜空には、星がきら〳〵輝いて居た。
「鰻谷」の次ぎに、花やかな所作事《しよさごと》があつて、打ち出しは十時過ぎになつた。
宗一は別れしなにもう一度、淺川へ挨拶をしようとしたが、混雜に紛れて、とう〳〵捜し出せなかつた。杉浦を始め四人の連中は、銀座のそば屋で一と休みして寮へ戾つた。
其の晚、遲くまで佐々木は寮へ歸らなかつた。淺川に進められて、植木店《うゑきだな》に泊つたと云ふ事を、宗一は明くる日の朝になつて知つた。
四五日過ぎてから、朶寮一番の宗一の自修室へ、川崎の消印のある長い手紙が舞ひ込んで來た。「六郷河畔にて、佐々木生」と認めてある封筒を開くと、眞書《しんかき》のやうな筆で、原稿用紙へ細字が二三枚も書き列《つら》ねてある。
[#ここから一字下げ]
歌舞伎座以來、御無沙汰をいたしました。今夜用事があつて歸省したのを好機會に、あなたへ手紙を差し上げます。いづれ明日はお目にかゝるでせうが、手紙の方が思ふ事を十分に述べられると存じますから、御面倒でも讀んで下さい。
先日、歌舞伎座で私はあなたに飛んだ失禮をしました。あなたは勿論、其れに氣が付いていらしツたでせう。さうして、或は私を淺ましい人間だと御考へになつたかも知れません。あゝ、私はどうして、斯うも了見の狹い、片意地な男でせう。どうして、斯うも我が儘な、固陋な人間なんでせう。歸つて來て、自分でつく〴〵呆れて了ひました。
而もあの晚あなたに對しては、あれ程冷淡な態度を示しながら、植木屋へ戾つて來ると、もうすつかり上機嫌になつて、お靜さんや良作君と、夜の二時頃まで元氣よく話をしました。其の樣子をあなたが御覽になつたら、嘸《さぞ》勝手な奴と思つたでせう。私はまるで子供のやうな、取り止めのない感情を持つて居るんです。―――子供のやうなと云へば、いかにも無邪氣に聞えますが、其の實決して無邪氣ではありませんでした。内々私は、殆んど口にす可からざる卑しい動機から、あなたを恨んで居たのでした。それが殘念でなりません。恥かしくてなりません。
有體《ありてい》に懺悔《ざんげ》したら、あなたは御立腹なさるよりも、寧ろお笑ひなさるでせう。實に Trivial な事なんです。お話しするだに極りの惡い位、些細な事なんです。あの日、私逹の連中が突然廊下で、あなたと出遇つて、俳優の噂をしました時、私は言ひ知れぬ淋しさと哀れさを感じました。私の如き田舎者と、あなたやお靜さんや良作君のやうな都會人との間には、永劫に一致し難い Gap があるのだと感じました。
こゝまで申し上げたら、すでにお解りになるでせう。羽左衞門に對する好惡《かうを》、猿之助に對する批評、私の云ふ事は、あなた方に一つとして顧みられませんでした。私は一時、全く會話の埒外に捨て去られて了ひました。無論其れは、あなた方が故意になすつた所行でない事は存じて居ります。けれども私は何となく、お靜さんを自分の掌中からあなたに奪はれたやうに感じました。私は實に Jealousy! の强い人間ではありませんか。
Jealousy! Jealousy! ―――私はもうお靜さんに對して Jealousy を持つまでになつて了ひました。お靜さんは私を正直な朴訥な、田舎者として愛してくれるやうです。芝居へ誘つたり、家へ泊めたりして吳れるのが、通り一遍の深切のやうには考へられません。しかし萬一、私がこんなに頑《かたくな》な、エゴイスチツクな男だと知れたら、お靜さんはどう思ふでせう。幸に此の間の事は感づかれないで濟みましたけれど………。
戀をする男の精神は多忙です。いとしい女の一つの趣味、一つの好惡に就いてさへ、こんなに氣を揉まなければなりません。だが私には果して、羽左衞門が好きになれるでせうか。都會人のリフアインされた生活が理解されるでせうか。
「佐々木さん、あなたは正直で着實な末賴もしい靑年です。あなたは愛すべき靑年です。しかし都會の女にはあなたを戀する事が出來ません。あなたの妻になる事は出來ません。」―――お靜さんにかう云はれたら、何としませう。あゝ私はお靜さんを知つてから、始めて自分の田舎者である事を後悔しました。都會に生れなかつた自分の運命を悲しみました。
ほんたうにお靜さんは、私をどう思つて居るでせう。あの氣高い美しい額の蔭、頭の奧の片隅にでも、私の事を考へて居て下さるでせうか。私は江戶兒の美點とも云ふ可き公明淡泊なお靜さんの性質を、寧ろ齒痒く感じて居ます。お靜さんは男に向つて冷酷だと思へる程淡泊でテキパキして居ます。いろ〳〵の冗談を云つたり、いたはつてくれたりするのが、溫情と云ふよりも、サツパリしたキビ〳〵した氣象から出て居るらしく推察されます。私ばかりか、誰に對しても寸毫《すんがう》の城壁を設けず、嬌羞《けうしう》を帶びずに話をされます。都會の女はあゝもサバケた、さうしてつめたい者でせうか。私には其れが飽き足らなくてなりません。
お靜さんは私を愛して下さらずとも、私がお靜さんを愛して居る事だけ、心付いてくれますまいか。たツた一と言「佐々木はあなたを戀ひ慕つて居ります。」とお靜さんの耳へ入れて置きたいのが、今の私の願ひです。それで可哀さうだと思つて下されば私の氣が晴れます。
あゝ怪しくも奇《く》しきは緣《えにし》なるかな。つい先頃は春子を慕つて居た私、春子を捨てゝ了つた私、それがあなたに紹介されて、僅か半月も立たぬのに、此れ程|彼《あ》の人を思ひ詰めるやうにならうとは。
今時分、植木店の家では暖かい電燈の下に姉弟が睦まじく膝を擦り寄せて話をし合つて居るでせう。なつかしき淺川一家の人々よ。
Shizu-chan よ。―――私は淋しい片田舎に、うす暗いランプの心《しん》を便りとして手紙を書いて居るのです。明日は朝早く戾ります。戀しい戀しい東京の地へ戾ります。
橘君、どうぞ此の物狂はしい手紙を笑止と思つて讀んで下さい。せめて私の切なる戀を、あなただけでも知つて居て下さい。
[#ここで字下げ終わり]
文句は此處でぽつんと終つて居る。戀をせずに一日も生きて居られぬ人間は、佐々木ばかりではない。「あゝ私もかうして居られないのだ。」と宗一は思つた。さうして、手紙を机に投げて、椅子に反り返りながら長大息をした。美代子、美代子、…………美代子はどうして居るだらう。
十二
其の年の春、四月頃の事である。ちやうど第三學期が初まつた時分の或る日の夕方、山口が森川町の下宿の二階でぼんやりと寢そべつて居ると、そこへぶらりと橘が這入つて來た。
「やあ失敬、大分待たせた。どうだいこれから出かけるかい。」
「うん、出かけてもえゝがな。」
と云つて、山口は依然として寢ころんだまゝ、大儀さうに相手の顏をぢろぢろと上眼《うはめ》で眺めて居る。
「なんだい、いやに元氣がないぢやないか。今夜の約束を忘れちまつたのかい。」
「いや、忘れたと云ふ譯でもないんぢやがな、私《わし》はあの約束をえゝ加減の事ぢやと思つて居たんぢやが、いよいよ君が、ほんたうに決心したんだとすると、少々私も驚いて居る次第ぢや。」
「どうしてさ、何も驚かなくたつていゝぢやないか。」
さう云つて、橘は少し極り惡さうににやにや[#「にやにや」に傍点]笑つた。
「しかし後になつて、私が誘惑したなんて云はれて恨まれたりすると困るからなあ。それさへなければ案内してもえゝんぢやけれど、………」
「ふん、柄にもない心配をするぢやないか。いつもそはそは[#「そはそは」に傍点]して遊びに行く癖に、そんなに臀を落ち着けなくてもよささうなものだ。」
「そりや私《わし》一人なら喜んで行くがな、何しろ君は今までに經驗がないんぢやから、さう云ふ人を私《わし》が始めて連れて行くのは、何となく氣が咎めるんぢや。また杉浦にでも知れると、彼奴《あいつ》いよ〳〵私を攻擊するぢやらう。」
「いや大丈夫だ。杉浦には知れないやうにそうつと[#「そうつと」に傍点]出て來たんだから、分りつこはないんだよ。ねえ、だから早く行かうぢやないか。此の間の晚はあんなに僕を勸めて置きながら、いざとなつて澁るなんて甚だ怪しからんぜ。」
「それ、それを云はれるから私《わし》は迷惑すると云ふんぢや。私が勸めたから遊びに行つたと云はれるならほんたうに御免蒙るぜ。私はたゞ一時の興味に驅られてあんな話をしたんぢやからな。」
「あゝさうか、さう云つたのは僕が惡かつた。成る程此の間の話は君が冗談に云つたんだらう。しかし其の冗談に挑發されて、今夜は僕の方から斯うして誘ひに來たんだから、まあ行つてくれてもいゝぢやないか。」
橘には山口が自分の足許を見拔いていやにゆつくり構へて居るのがよく分つた。それでも彼は見す見す相手の策略に乘つて、思ふ壺へ陷つてまでも連れて行つて貰ひたかつた。
「まあ君がそれ程に云ふのなら行つてもえゝ。だが、一體金をいくら持つて居るんぢや。」
「實は此處に二十兩ばかりあるんだ。此れだけあればいゝだらう。」
「ほゝう、大分持つとるんぢやなう。」
山口はにやりとして、
「二十圓あれば何處へでも行ける。だが其の金を全部使はんとえゝだらう。此の間も云うたやうに二人で五兩あつたら大丈夫ぢや。そんなに君に使はせやせん。」
「僕も要心に持つて來たんだから、十圓位は殘して置きたいんだ。兎に角直ぐに支度をして出かける事にしようぢやないか。誰かやつて來ると面倒だから。」
「よろしい、それでは先づ淺草の方へでも行つて見るか。………私《わし》は大分|髯《ひげ》が生えたからちよつと剃つて行きたいもんぢや。ちよつとの間ぢや、待つて居てくれ給へ。」
山口はいそ〳〵と立ち上つて、机の抽出しから西洋剃刀と、剝げちよろの手鏡とを出して、血色の惡い、煤ぼけたやうな頰《ほつ》ぺたへ石鹼の泡をぬる〳〵と塗つた。さうしてところどころに瑕《きず》を拵へたり長い毛を殘したりして、大急ぎで髯を剃つてしまふと、今度は押入を開けて、柳行李の蓋を開いたまゝ何か考へ込んで居る。
「はて困つたもんぢやなあ、餘所行きの着物は此の銘仙きりしかないんぢやが、何しろ親父のお古でもつておまけに此の間臀を拔いてしまつたんでなあ。」
斯う云つて繩のやうに綯《よ》れたまゝ突込んであるものを、ぞろ〳〵と引き出して高く差し上げて見せた。成る程臀の所が一尺程綻びて綿がだらしなく飛び出して居る。
「どうしような、君はひどく洒落とるやうぢやなあ。」
と云つて山口は、節絲の綿入れに新しい小倉の袴を穿いた橘の服裝を羨ましさうに見上げ見下ろした。
「なんだい、君なんぞは年中出かける癖に今更めかす必要もないぢやないか。」
「ところがさうでないて、此れでもやつぱりいゝなりをして行かんと大分持て方が違ふんぢや。よし〳〵、臀が破れて居ても、袴を穿けば分りやせんわ。」
それから山口は足袋が汚いの下駄が穢《よご》れて居るのと云つて、それ等の品を本郷通りで買つて貰ふ約束をしたが、表へ出ると彼はだん〳〵圖に乘つてハンケチや鳥打帽子までも買はせた。しまひには「あの蜜柑を五錢ばかり買つてくれりや。」などと云つて八百屋の前で立ち止つたりした。
二人が雷門で電車を下りた時分にはもう夜になつて居た。
「どうだな橘さん、君は一體吉原がいゝのかそれとも千束町へ行きたいのか、どつちなんぢや。それを極めて置かんといろ〳〵時間の都合があるんぢや。」
と、山口は向島の花見客が雜踏して居る中店を步きながら、何か眞面目な相談でもするやうに仔細らしく橘の耳に囁いた。
「さうだな、僕は何だか吉原へ行きたくないな。千束町にしようぢやないか。」
「なぜ吉原は嫌なんぢや。銘仙屋の女なんぞより花魁《おいらん》の方がいくら氣持がいゝか知れやせんがな。大店へ行けば座敷も綺麗だし、寢道具なんぞそりや素晴しいもんだぜ。」
「けれども僕は何だか花魁と云ふものが嫌ひなんだよ。あの毒々しいゴテゴテの衣裳を着けて居るのからして氣に喰はない。まだ銘仙屋の女の方が、幾分かすつきりして居るやうに思はれるんだ。」
「はゝそりやあ君が無經驗だからさう思ふんぢや。私のやうに遊びの經驗を積んでみると、結局花魁が一番いゝと云ふことになる。君が嫌ならば孰方でも構やせんけれど。」
「いや、いくら經驗を積んだつて、僕にはとても花魁は好きになれさうもない。あんなグロテスクな風つきをした、化物みたやうなものは、てんで僕の趣味には合はないんだ。僕はあつさりとした意氣な女がいゝんだ。」
「ふん、分つた。さうすると何ぢやな、君はつまり藝者のやうなのを要求しとるんぢやな。」
「うん、まあさうなんだ。」
「意氣といふ點から言へば、そりや銘仙屋の女の方が幾分か藝者に近いかも知れん。しかし、斷《ことわ》つて置くが、藝者買をするやうなつもりで居ると大きにあてが外れるから、後になつて愚痴をこぼしても私や責任を持たんぜ。千束町に萬龍や靜枝のやうなのが居ると思つたら、とんだ間違ひぢやからなあ。」
「僕だつてまさかさうは思つて居ないよ。でもまあ、君の働きでなるたけ藝者らしい奴を紹介して貰ひたいのさ。さうして泊るところも、銘仙屋の二階でなしに、どこか待合じみたところへ連れて行つて貰へないだらうか。」
「そこは話しやうでどうにもなる。あゝいふ女を連れて行くには、また其の方の專門の待合があるのぢや。さうすると、何も言はずに私に十兩預けて置いたらどうぢや。今から行くのはちよつと時間が早や過ぎるから、少しその邊をうろついて、十時頃になつたら出掛けるとしよう。十兩あれば、明日の朝まで遊んでも私はお釣《つり》を殘して見せる。うまく行けば朝飯に牛肉ぐらゐは食べられるかも知れんぜ。」
山口は仁王門の蔭のところで橘から十圓札を受取りながら、
「これを何とかして崩さんではいかんな。こんな大きな札を見せたら、きつとぼられる[#「ぼられる」に傍点]に極つとるからな。隙つぶしにおでんでも食うて一杯飮むとしようぢやないか。」
かう言つて、こんもりした公園の櫻の木の間を、十二階の方へ辿つて行つた。
朝からどんよりとしてゐた雨曇りの空が、今にも降り出しさうに曇つて、妙に生暖い、風のない晚であつた。向うの空を焦して居る活動寫眞のイルミネーシヨンや、樂隊の響や、緞帳芝居の囃《はやし》の音や、池の汀に並んで居る露店の灯影や、そんなものが橘には今夜に限つて夢のやうに感ぜられた。子供の時分から幾度となく見馴れて居る公園の夜景が、今夜始めて連れて來られた遠い國の、何か不思議な珍しくも恐しい巷《ちまた》のやうであつた。自分の左右を往き違ふ群衆さへも、自分とはひどくかけ離れた世界の人種のやうに見えた。橘はふと、兩親や乳母の手に牽かれて、花屋敷の猛獸だの奧山の見世物だのを見に來た時分の、二十年も前の頑是《ぐわんぜ》ない己れの姿を想ひ出した。あのころの幼い彼は、淺草に連れて來られるのが何よりも嬉しくて、中店の通りから觀音樣のお堂を眺めると、譯もなく小さな胸が浮き立つて來て小躍りしたいやうな心地になつたものであるが、今夜の彼もちやうど同じやうな心地がする。しかしあの時の無邪氣な喜びと、今の自分の喜びとは、何といふ相違であらう。二十年後の今になつて、この公園が斯うして自分を待構へて居ようとは、その頃の彼には思ひもよらぬ事であつた。父や母は未だに彼をその頃の子供のやうに考へて居るのに、彼はいつの間にか、親から貰つた學費を誤魔化して遊びに來るやうになつてしまつた。それはいゝとしても、今夜の樣子を美代子が知つたならば何と云ふだらう。彼女との仲を割かれた結果だと云ふ事が、何の言ひ譯になるであらう。自分が斯うなる代りに、美代子がこんな眞似をしたら、自分はどんな氣持がするだらう。
「自分はこれを機會に墮落してしまふのではないだらうか。自分はもう、山口と選ぶ所がなくなつて居やしないか。」
さう反省して見ても、それが橘には何の感情をも齎らさなかつた。彼は全身に麻醉藥をかけて物凄い手術を受けて居る人間のやうに自分を思つた。自分が今、忌まはしい穢らはしい境涯に泥《なづ》みつゝあるのだと云ふことが、まるで他人の身の上のやうに空々しく感ぜられた。たゞ何處までも淺ましい惡友のなすがまゝに、快く彼の傀儡《くわいらい》となつて、お坊ちやん扱ひにされて居たかつた。ならうことならば、いつそ目隱しをしてぐんぐんと手を引張つて行つて貰ひたかつた。
「橘さん、君は何を食ふんぢや。私はがんもどきと燒豆腐にしよう。それから其の月見芋を取つてくれや。」
………氣が付いて見ると、橘はおでん屋の暖簾を潜つて、ぐつ〳〵湯氣の立つた煮込みの鍋を前にしながら、山口と肩を並べて居た。
「それから姐《ねえ》さん、正宗一本、お燗を熱くしてな。―――大いに景氣をつけてこれからいゝ處へ繰り込むんぢや。だが何ぢやな、この姐さんのやうな別嬪が云ふ事を聽いてくれゝば、私は何處へも行きたうないぜ。」
山口は一二杯飮んだかと思ふと、直ぐに眞赤な顏になつて他愛もなく女中にからかつて居る。もう先のやうな勿體ぶつた素振りや仔細らしい態度は、疾《と》うに飛んで行つてしまつたらしい。
「君は女さへ見れば誰を掴《つか》まへても口說《くど》くんだな。あの女の何處がいゝんだい。」
おでんやの店を出ると、橘は苦々しさうに云つた。
「いゝ女ぢやないか君、色が白くつてぽつちやり[#「ぽつちやり」に傍点]として居て、私やあゝ云ふ愛嬌のある女が好きぢや。君は全體標準が高過ぎていかんわい。淺草へ女を買ひに來るのに、新橋の一流の待合へ行くやうな了簡で居るからいかんのぢや。あのおでん屋の姐さんのやうなのが惡かつたら、吉原でも千束町でもとても滿足できやせん。だから先《さつき》も斷つて置いたんぢや。ほんたうに君、案内するのもえゝが、後になつて、恨んだりしちや困るぜエ。そのくらゐなら私《わし》は御免を蒙りたいもんぢや。」
山口はわざと仰山に怫然《ふつぜん》として、往來のまん中で立ち止つた。
「まあさ、何もそんなに怒るには及ばないさ。一切君に任してあるのだから、さう手數をかけなくてもいゝぢやないか。」
「いや、手數をかけると云ふ譯ぢやないが、あんまり君が贅澤を云ふからぢや。私は一昨日《をとゝひ》吉原へ行つたばかりだから、今夜はそんなに氣が進んで居らんのぢや。今日は君に賴まれたから據んどころなく出て來たんぢや。全く君の犠牲になつとるやうなものぢや。」
「あはゝゝゝ、犠牲はちつと大袈裟だな。さう恩に着せないでもよからうぜ。」
「冗談ぢやない。ほんたうの話ぢやがな。なんぼ私《わし》が道樂者《だうらくもの》だつて、始めての人を誘惑するのは實際いやな役廻りぢやからなあ。」
「始めてと云へば、僕にさう云ふ經驗が無いのだと云ふことを、先《さき》の女に君から斷つてくれ給へね。さうでないと僕は何だか工合《ぐあひ》が惡いからな。」
「いゝよ、心配せんでも大丈夫だよ。そんなことに氣を揉むなんて、君も可愛い男ぢやなあ。」
こんな事を語り合ひながら、二人は一二時間も公園の彼方此方をさまよつて、バアへ這入つたり立ち見をしたりして隙を潰した。やがて十時頃になつてから、「さあそろ〳〵行つてみよう。」と云ひながら、山口はずん〳〵先に立つて、十二階の下の細い新路《しんみち》へ踏み込んで、兩側にぎつしりと並んだ、明るい家の軒下をぐるぐると經廻《へめぐ》つて行つた。かういふ狹い區域に、どうしてこれほど澤山な横丁があるかと驚かれるくらゐ、其處は蜂の巢のやうに交錯した路地と路地とが、目まぐるしく折れ曲つて居た。さうして其の家々は、孰《ど》れも此《こ》れも同じやうにマチ箱のやうな粗末な普請《ふしん》で、軒燈を掲げた格子戶と曇り硝子の障子を嵌めた窓とが附いて居た。その曇り硝子の内には、白い顏の女共が眼ばかり見えるやうにして、障子の隙間《すきま》から表を覗いて居る。橘は同じ路地を何度も往つたり來たりしたやうに思つたが、實はみんな異つた橫町であつた。橫町から橫町へ拔ける間に、また第三の橫町があつて、それへ這入ると其處にも同じやうな世界が擴がつて居た。もしもあらゆる橫町の底を究めようとすれば、それが細く長く無限に續いて居て、東京市の外へまでも延びてゐるらしかつた。もう公園から餘程遠いところへきたやうな氣がして、ふと立ち止つて空を仰ぐと、不思議にも未だ十二階が頭の上に聳えてゐる。それが橘にはいよ〳〵夢のやうに思はれるのであつた。
「どうぢやな橘さん、この女はちよいと可愛い顏をしとるが、此所《こゝ》いらではお氣に召さんかな。これは千束町の萬龍といふ仇名《あだな》があるんぢや。」
さう云つて山口は、とある窓の前で臆面《おくめん》もなく說明したり、どうかすると馴染の女の家と見えて、
「よう今晚は、先日は失禮。」
などと挨拶をして通つたりする。
二人は空屋のやうな學校の門から連れ立つて、春めいた本郷通の大道へ出た。去年の暮から飾り付けた門松も、今は一と入整然として、さすがに町は陽氣である。
「此の前の冬は故國《くに》へ歸つて知らなかつたが、やつぱり東京は面白いなあ。」
と、杉浦は小首をかしげて、しきりに都會を讚嘆する。
「橘さんの近所はモツト面白いぜ。わしや芳町の藝者の姿が拜みたうてならん。」
山口の口にかゝると、藝者と云ふ者はまるで神樣のやうに、貴く有難く取り扱はれて居る。
電車の中も、山高帽や七子《なゝこ》の紋附や、酒臭い息の男が澤山乘り込んで、赤い顏を並べて居る。淺草橋から兩國を過ぎて、追ひ〳〵下町へ入つて來ると、
「ほう………。」
と、山口は時々黃な聲を發して、戶外を指さしながら、
「ちよいと杉浦さん、あれを見い。下町の娘は綺麗だなう、何處となく垢拔けがしとるから不思議ぢやなあ。」
かう云つて、恐い程眼を見張つて、念入りに目的物を睨みつける。
屠蘇《とそ》の醉の廻つたらしい廻禮の人々が通る。塗り立てのゴム輪の俥が何臺も往來する。立矢《たてや》の字《じ》に萌えたつやうな鬱金《うこん》の扱帶《しごき》をだらりと下げた娘逹が、カチンカチンと羽子《はね》を衝いて居る。皮羽織を着た鳶の頭が、輪飾りの下を潜つて、手拭ひを配つて步く。獅子舞ひの太鼓の音、紙鳶《たこ》の唸り。―――人形町は水天宮の緣日で、殊に雜沓が夥しい。山口の樂しみにして居た芳町の藝者が、出の着物を着飾つて箱屋を從へ、彼方此方の新道から繪のやうな姿を現はす。
濱町へ訪ねて行くと、果して宗一は在宅であつた。
「やあ、おめでたう。―――何卒二階へ。」
と、機嫌よく云ひながら、玄關に飛んで出て來た。
家の前には、虎の皮の褥《しとね》や、びろうどの膝掛けが着いた嚴《いか》めしい人力が二三臺待つて居た。立派な疊表だの柾目の正しい男物の下駄が、踏み石に一杯揃へてあつて、突き當りにある萬歲の衝立の向うには、五六人の年始の客が落ち合つて居るらしい。宗一の母と思はれる女の聲と、客の男の笑ひ聲とで、賑かな座敷はゴタゴタに賑はつて居る。
丁度二人が宗一に案内されて、廊下の方から曲らうとする時、衝立の後の襖がスラリと開いて、
「や、それでは、もう此れで御免を蒙ります。」
と、美々しく盛裝した五十恰好の男が、仙臺平の袴をキユツキユツと鳴らしながら、玄關の帽子掛けの下に立つた。
「宗一ツつあん、お友逹がおいでゞげすかな。」
かう云つて、獵虎《らつこ》の襟卷を結んで、外套を肩に、ちよいと反身《そりみ》に構へて見せる。髮の脫け上つた、赤ツ鼻の、氣の好ささうな爺さんである。
「………唯今おツ母さんに伺ひましたが、昨年あんなにお病《わづら》ひなすつたのに、學校を及第なすつたつてえなあ、驚きやしたなあ。もう再來年《さらいねん》は、大學だてえぢやありませんか。」
「えゝ、お蔭樣で。」
「ふうん、早いもんですなあ。」と、鼻の穴を膨らがして、二三度頤を强く引いて、
「なんしろ、お父さんはお樂しみだ。何ですぜ、ちとお休み中に宅へも遊びに入らつしやい。ね、ようがすか、三日の晚に娘逹が骨牌會《かるたくわい》をやるさうだから、其の時がいゝ。」
こんな事を云ひながら、例の虎の皮の俥へ乘り移るや否や、顏を平手で撫で下すと同時に、きちんと取り濟まして、梶棒を上げさせた。
「學校を及第なすつたてえなあ、驚きやしたなあか。」
杉浦は廊下を案内されながら、口眞似をして、
「ありや一體何處の爺さんだい。」
「やつぱり兜町の人間さ。大分醉拂つて居るんだ。」
「醉つてるかも知れんが、好い年をして、滑稽な人間が居るねえ。―――橘宗一君も、下町へ來ると嶄然《ざんぜん》頭角を露はして、秀才面をして居るから面白いナ。」
「けれども、三日に骨牌會のあるのはいゝぜエ。橘さん彼《あ》の人の娘は別嬪かどうぢや。」
三人縱に並んで、窮屈な螺旋の梯子段を上る時、一番下の方から山口が云ふ。
「そんなによくはないよ。」
「しかし、君は行くんぢやらうがな、どうだ、わしも連れて行け。」
「お前のやうな惡黨は、女の居る所へはとても連れて行かれないよ。新年早々、煙草屋の事件に就いて、非道い報吿を齎して來てるのを、橘は知つて居るか。」
三人は二階へ上つて、蒲團に坐るまで、始終休まず話し續けた。宗一も久し振で心配を忘れたやうに、元氣よく語つた。
「ひどい報吿と云ふのは何だい。」
「煙草屋の娘に立派な男があるんださうだ。山口は道德上 Adultery を犯して居るんだから怪しからん。」
杉浦は居丈高になつて說明し始める。
「まあ、其の話は止してくれや。わしや君に云はんと置けばよかつた。」
「云はんと置けばよかつたつて、そりや知れるから駄目だよ。惡黨も惡黨、他人の女を押領《あふりやう》するとは、實際驚きやしたなあ。」と、又爺さんの口眞似をして、
「どうせ判つたんだから、酒でも飮みながらすつかり白狀したら好からう。―――橘どうだい、山口を少し醉はせないか。」
「うん、御馳走してもいゝ。」
今迄書生の友逹が訪ねて來ても、酒だけは出した例《ためし》がないから、母が許すかどうであらう。宗一は其れを危ぶんで、若し許さなかつたら、近所の鳥屋へでも飮みに行かうと、腹を極めた。さうして、階下《した》へ下りて行つて、
「おツ母さん、ちよいと。」
と、客間の外の緣側から呼んだ。
「お友逹に何か御飯を出してくれませんか。二人共お酒が行けるんですが、飮ませちやいけませんか知ら。」
「さうさね、みんな大學の方なんだらう。」
母は襖の間から、首だけ出して、
「修行中はマア止した方がいゝけれど、不斷と違つてお正月だから、上げるならお上げなさい。お重に辨松《べんまつ》の料理があるから、有り合せ物だけれど、あれでもお肴にしてね。―――お兼に云ひ附けて、支度をさせたら宜からう。」
かう云つて、承知してくれた。
やがて三人は二階で杯の遣り取りを始めた。
「君ン處の酒はいゝ酒だなあ。此れで漸く正月らしい氣持になつた………。」
「山口を醉はせるんだ。」と宣言して置きながら、一番先に杉浦が醉拂つて、
「おい、早く一件を打《ぶ》ちまけたらいゝぢやないか。」
と、執拗に肉薄する。
「話してもいゝが、Adultery などゝと云はんでくれや。そりや多少不道德な行爲かも知れんが、わしや始めに男のあるのを知らなかつたんぢや。娘は最近になるまで、其れを知らせなかつたんぢや。つまりわしが娘に欺されたんぢやと思ふ。」
「あんまり欺される柄でもないぜ。」
「ま、さう云はないで。」
と、宗一は制して、
「しまひまで默つて聽く事にしよう。其の男といふのは何者だい。」
「大學生ぢや。」
「大學生ツて、帝大なのかい。」
「帝大ぢや。其奴の事はあんまり尋ねんで置いてくれ。あの娘は家が貧乏の癖に、女學校へ通つて居るんぢやが、其れはみんな男の方から學費を給してやつとるんぢや。なんでも大學生があの娘に惚れ込んで、女學校をやらせる代りに、エンゲーヂしたいんぢやさうな。尤も娘は不服ぢやさうなが、親父が壓制的に取り極めるかも知れんと云ふ。」
「ほんたうに不服だつたか何《どう》か、あンな娘の云ふことがアテになるかい。」
杉浦が嘴を入れた。
「いや、そりや恐らく本當なんぢや。親父と云ふ奴は、極く舊弊な頑固な人間だから。―――兎に角、現在は其の男よりわしの方に惚れて居るのは確かなんぢや。」
「そりや女の事だもの、一遍でも關係のあつた方に惚れるのは當り前さ。何と云つてもお前の誘惑したのが惡いんだよ。」
「惡くないと云やせんが、娘だつて隨分不都合なところがあるぜエ。關係のあつたのは、わし斗《ばか》りぢやないんぢや。ありや恐ろしい淫婦ぢやがな。」
「君と不都合のあつた事が、もう男へ知れちまつたのかい。」
「そんな、露顯するやうなヘマはやらんよ。此れから先、萬一氣が付いたつて、證據がなけりやどうもならん。」
山口は傲然と空嘯いて、杯を唇にあてた。醉が廻つて來たと見えて、以前のやうに悄氣《しよげ》ては居ない。襟頸から耳朶《みゝたぼ》の緣を好い色にさせて、眉毛まで眞赤に染まりさうになつて居る。
「お前、此れから先も、依然として繼續する了見なんだらう。」
「うん、さうぢや。」
あたり前だと云はんばかりに、山口は輕く頷いて、
「判りさへせんけりや、當分吉原へ行かんでも濟むだけでも得ぢやらうがな。」
「ひどい奴だなあ。」
杉浦はわざと仰山《ぎやうさん》に、甲走《かんばし》つた聲を出した。
「ヘマをやらん積りだつて、長い間にはきつと知れるに極まつて居るから笑止千萬だ。ほんとだぜ、山口、好い加減に止した方がいゝぜ。」
「さう頭からケチを附けんでも好からう。―――君はわしの事を一々ケナシ居るが、そりやどう云ふ譯なんぢや。をかしい男ぢやなあ。内々面白がつて居る癖に、口ではモーラリストのやうな事ばかり云うて居やがる。―――杉浦さん、惡い事を云はんから、君一遍道樂をせい。君は利口な男なんぢやから、少し道樂をすると、屁理窟を云はんやうになる。」
「餘計なお世話だよ。道樂をしなくつても、お前の氣持ぐらゐ大槪解つて居るよ。………」
二人は川甚の二の舞を演じさうに、凄じい顏をして睨み合つた。
「僕は決してモーラリストぢやないが、無理に道德に反抗して痛快がつたり、新らしがつたりするのは、今ぢやもう古いよ。實際無意味な話だよ。今日の社會は、さう云ふ生半可《なまはんか》の近代人の多きに苦しんで居るんだから、道德に遵奉しない迄も、何とか新機軸を作らんけりやあならんね。僞善の人を誤るよりも、寧ろ僞惡の人を誤る方が、どのくらゐ有害だか知れやしないぜ。世間では多く功利主義の道德を目して僞善と云ふけれど、其のくらゐの程度の道德を持つて居ることは一應必要だらうと思ふ。勿論其れが、根柢のある人生觀の上に築かれて居なくつても差支ないんだ。寸毫も自己の Sincerity を傷つけやしないんだ。」
かう云つて杉浦は眞面目になつた。
「さう云ふ話は、わしにやよく解らんがな。」
と、山口は默つて了つた。到底議論をしても、抗はないとあきらめたらしい。
「橘、君は嘗て佛敎か耶蘇敎の信者になつたことがあるのかい。」
杉浦は山口の相手にならぬのを見て、今度は宗一に話しかけた。
「佐々木にかぶれ[#「かぶれ」に傍点]て、二三度敎會へ出入りしたが、其れも僅かの間だよ。今ぢや全く信仰なんか持つて居ない。―――僕なぞは宗敎に賴つて生きて行ける人間ぢやないんだが、一時熱に浮かされたんだね。クリスチヤンを標榜して居る時代でも、今考へると本當の信仰があつたか何《どう》か、怪しいものさ。」
「佐々木はいまだに信者なのかい。」
「先生も僕が止めようとした時には散々忠吿した癖に、いつの間にか還俗《げんぞく》したから可笑しいよ。しかし思ひ切りが惡くつて、『僕にはどうも神の存在を全然否定する氣になれない。』と云つて居るがね。一體何かに感じ易い男なんだから、いまだにエマーソンやカーライルを讀めば、直ぐと動かされるんだ。どうしても彼は文學者よりプリーチヤーの方が適任だね。―――ま、あゝ云ふ人間は、始終何かに刺戟されて、緊張したライフを送つて行けるだけ幸福だよ。」
「あんまり幸福でもないさ。―――そんなライフは煩悶が少くつて氣樂かも知れないが、決して羨ましいとは思はんぜ。何の爲めに僕等は學問をしたんだ。何の爲めに僕等は知識を要求したんだ。われ〳〵はモウ少し眼を高い所に据ゑて、努力を續ける必要があるよ。神を信じたり、女に惚れたりして、濟まして行かうとするのは恥づ可きことだ。苦しくつても淋しくつても、光榮ある孤立を維持して行く人間があつたら、それが一番えらい[#「えらい」に傍点]んだ。僕の如きは、たしかに其の一人たるを失はないね。」
酒臭い息と一緖に議論を吹き掛けながら、杉浦は肩を怒らし、眼をむき出して夢中になつて居る。傍若無人に滔々と喋り捲くる樣子は、あんまり苦しくも、淋しくもなさゝうである。さうして、時々ガブリ〳〵と水でも飮むやうに酒を呷つた。
「かう見えても、實際僕は寂しい人間だよ。山口が Adultery をする。橘が美代ちやんを追つ駈ける。佐々木が春子を振つたり惚れたりする。此の間に處して、僕の孤立は眞に偉とするに足るね。野村江戶趣味とか、淸水クリスチヤンのやうな眼の低い連中は、彼等相應のライフに甘んじて居るからいゝが、吾輩不幸にして眼識一世に高く、天下に賴る可き何物の價値をも認めない爲めに、斯くの如く孤立して居る。どうだいえら[#「えら」に傍点]からう。」
かう云つて、盃を置いてごろりと橫になつた。
宗一も杉浦の氣焰を聽きながら、知らず識らず量を過ごした。額の皮が、鉢卷をしたやうに痺れて、動悸が激しく體中へ響き、坐つて居てさへ、ふら〳〵と眩暈が起る。舌の附け根から、不快な生唾吐が湧いて、口中が引き締められるやうである。こんなに醉つたのは生れて始めてゞあつた。
後の二人もやがて橫になつて、パチ〳〵と豆を炒《い》るやうな追ひ羽子の音を遠くに聞きつゝ、のどかな元日の晝をとろ〳〵[#「とろ〳〵」に傍点]と眠つて了つた。
十
十二月の試驗の結果が、本館の廊下の壁へ貼出されたのは、七草の頃であつた。淸水は豫期の通り野村を追ひ越して、英法の一の組の主席を占めた。野村は三番、杉浦は四番、宗一が八番。―――英文の方では大山が主席になつて、朶寮一番の連中はみんな中以上の成績を贏《か》ち得た。
淸水は遇ふ人每に冷かされて、
「いや、アレは君、全く僥倖《げうかう》に過ぎないよ。全體試驗なんてものは Lottery のやうなものだから、あれで實力を測ることは出來んさ。」
と、言ひ譯して廻つて居る。宗一はいつかの日記の事件を想ひ出して、小憎らしいやうな、をかしいやうな心地がした。
野村は主席から三番目まで落ちたにも拘はらず、格別悲觀して居なかつた。ふだん自分の頭腦の許す範圍で、急がず騷がず氣樂に勉强して、大槪相当な成績さへ得れば、それほど不平はないのであらう。
「野村は人が好いだけあつて、胸にこだはり[#「こだはり」に傍点]がないから、每日コツ〳〵勉强して居られるんだね。試驗になつても、別段惶てないで、可なり成績のいゝところは、模範學生だよ。尤も學問に對する頭は、元來惡くないんだらう。」
と、惡口屋の杉浦も感心して居る。
しかし杉浦自身が遊び放題遊び暮らした上、僅か四五日準備したゞけで同級生四十人中の四番目に居るのは、最も不思議な現象であつた。
「君は實際いゝ頭を持つて居るなあ。」
かう云つて宗一が感心すると、
「それはさうさ、君は僕の頭の好い事を今知つたのかい。」
と、得意の鼻を蠢かして、
「それより山口の成績のいゝのが、餘程氣拔だよ。每日のやうに女を買つて居て、よく元氣が衰へないもんだね。」
こんな事を云つた。
成る程、山口は佛法の十二三番に踏み止《とゞ》まつて居る。英文科一年の佐々木の方は、春子の一件が打擊になつたと見え、前學期より二三番下つて、まんなか頃に挾まつて了つた。
今迄にない懶惰《らんだ》な生活を送つた報いに、嘸かし醜《みぐる》しい成績を見るだらうと懸念して居た宗一は、相變らず十番以内に入れたのを意外に感じた。頭腦の好い證據とするよりも、寧ろ在來の惰勢の結果とする方がたしからしかつた。けれども此の惰勢がどれだけ續くものであらう。美代子の問題に埒が明かぬ限り、此の放逸な狀態が改まらないとしたら、來學期の慘めさはどんなであらう。其の場合を想像すると、小學校以來一度も十番以下に甘んじた經驗のない彼の自尊心は著しく傷つけられた。
「しかし君なんざ、少しぐらゐ遊んだつて大丈夫だから、心配はないぢやありませんか。―――それより僕の方がどんなにミゼラブルだか、考へて御覽なさい。」
佐々木は其の朝、運動場で宗一を捉へると、慰めがてらいろ〳〵な愚痴をこぼした。彼は宗一よりも一層神經質なだけ、成績の不良に殊更胸を痛めて居た。
「春子の事があつたりすると、とても本なんか讀んで居られやしませんよ。去年の後半期と云ふものは、間斷なく頭の中に Storm が續いて居て、殆ど何に費やしたか、今から考へると無茶苦茶ですね。ほんとに恐ろしいもんです。」
佐々木は陰鬱な調子で、俯向いたまゝ後庭の草原を步みつゝ語つた。
「君は運が惡いんだよ。杉浦でも僕でもあんなに怠けたのが、其れほど影響して居ないんだもの。山口と來た日にや、あの通りの不行跡をやつて、依然として十二三番に漕ぎ付けて居るからね。」
「そりや、山口君なんぞとは氣持が違ひます。」佐々木は昂然と首を擡げ、
「どうして、どうして、僕が春子から受けた打擊は非道いもんですよ。山口君のやうな、呑氣なのとはまるで一緖になるもんですか。君にしたつて、隨分頭を使つたでせうが、君はまだ、男性的な、强い氣象があるから好ござんす。………」
「僕を强いと云ふのは、君ぐらゐなもんだよ。」
「いゝえ、君は强うござんすよ。僕なんぞ我れながら腑甲斐ないと思ふくらゐ、決斷力がなくつて、女々《めゝ》しくつて、お話しにならないんです。」
何でも彼でも、彼は自分の煩悶が一倍深刻であると極めて居るらしかつた。
「それにしたつて、君はもうきれいに春子さんと手を切つたんだから、此れから十分に讀書が出來るだらう。」
「えゝ、さうしたい積りですが、當分精神がぼんやりして、仕事が手に付かないで困ります。君にしても、同じことでせう。やつぱり今學期も入寮なさるんですか。」
「うん、多分明日あたり入寮するだらう。―――實は今日と思つたんだけれど、晚に近所で骨牌會があるから、もう一晚家へ寢ることにした。若し都合が宜かつたら、君も一緖に骨牌へ來ないか。」
「一體どんな家なんです。」
「親父の知つて居る仲買人の本宅さ。成る可く多く友逹を誘つて來てくれつて、賴まれて居るんだから、一緖に行つて見ないか。遲くなれば、僕の所へ泊まつてもいゝ。―――君の好きな下町風の娘が澤山見られるぜ。」
かう云つて、宗一はにや〳〵笑つた。
「さうですね、行つても好ござんすね。」
と、佐々木は同じく妙に笑ひながら、煮え切らない返答をした。
「そんなら、直ぐと飯を食つて出掛けよう。一時迄に集まる約束なんだから。」
二人は淀見軒の安いまづい洋食で晝餐《ちうさん》を濟ますと、三丁目の停留場へ急いだ。寒空のところ〴〵にちぎれちぎれの雲が散亂して、烈しい北風が、砂埃を捲き上げつゝ荒《すさ》ぶ日であつた。乘手の少い電車の中に、ぴつたり體を摺寄せ乍ら、二人とも澁い顏をして膝頭を顫はせた。
茅場町の四つ角で下りて、植木店《うゑきだな》の橫町へ曲ると、杵屋の家元から二三軒先の小粹な二階建の前で宗一は立止まつた。
「あゝ、此處ですか。」
と云つて、佐々木は「淺川」と記した軒燈の球を仰いだ。大分來會者が集まつたと見えて、家の内からなまめかしい女の囀りが、酣《たけなは》に聞えて居る。板塀の上の二階座敷にはきやしや[#「きやしや」に傍点]な中硝子の障子が締まつて、緣側の手すり[#「すり」に傍点]の傍に籐椅子が一脚据ゑてある。格子を開けると、ちりん〳〵とけたゝましく鈴が鳴つた。
「今日は。―――一人ぢや心細いから、友逹に援兵を賴んで、とう〳〵やつて來ました。」
玄關に現はれた四十三四の、如才なささうな上《かみ》さんに挨拶して、宗一は活潑に口を利いた。
「おや、ようこそ、さつきからみなさんが宗ちやんを待ち焦れて居るんですよ。」
上さんは佐々木の樣子を盗み視てから、再び宗一を振り返つた。
「お友逹はお一人なの。もつと多勢さんで入らつしやればいゝぢやありませんか。―――さあ、さあ何卒お上んなさい。」
かう云ひながら、二人の脫ぎ捨てた外套を片寄せて、
「ちよいと、誰か皆さんのお穿き物をチヤンと直してお置きなさいよ。こんなに土間が散らかつて居ちや、足の入れ場がありやしないやね。」
と、高い調子で叱言を云つた。
佐々木は宗一の後へ附いて、遠慮がちに身をすくめつつ玄關へ上つた。丁度突きあたりの芭蕉布《ばせうふ》の唐紙の、一寸ばかり開いた隙間から、ずらりと居並んだ令孃逹の花やかな衣服の色彩が、細長い六歌仙の縱繪のやうに窺はれた。すると忽ち、其の繪がお納戶地の縮緬の羽織で一杯に塞がれたかと思ふと、冴え冴えした、黑味がちの圓い瞳が、白い頰を襖の緣へ押し着けて、一生懸命に此方を隙見して居る。佐々木は極り惡さに下を向いた。
「お勢ちやん、何をしてるんだい。」
宗一はかう云つて、瞳を追ひ駈けるやうに其處を開けると、座敷の中へ入つた。矢庭にお勢は疊へ突つ伏して、
「おほゝゝゝ。」
と、頓狂に笑ひ崩れた。二十前後の、發逹し盡した豐かな肩の肉が、笑ひを堪へる息づかひと一緖に、背筋のあたりでグリ〳〵と力强く動いて居る。
新らしい靑疊の八疊の間に、紬《つむぎ》の座蒲團だの、桑の煙草盆などが秩序よく置かれて、煙草の煙や炭火の熱が、少しカツとする樣に籠つて居た。床框《とこかまち》の前と、緣側に近い柱の傍と、二箇所に据ゑられた大きい桐の火鉢の周圍《まはり》へ、七八人の男女が花瓣の如く取り縋り、互に肘を張り合つて、骨牌のうまさうな、細長い手先を炙《あぶ》つて居る。緣側の向うには、下町に珍らしい、こんもりとした植込みがあつて、生茂つた枝葉の透き間から小さな稻荷の祠が見える。佐々木は一人離れて、一番遠い座蒲團の方へ腰を下ろした。
「此れは僕の友逹で、一高の文科の佐々木と云ふ人です。」
宗一が紹介すると、みんな一度に佐々木へお辭儀をした。
「宗ちやん、佐々木さんにもつと此方へ來て頂けなくつて。」
と、二十一二になる此處の娘のお靜と云ふのが、火鉢を包んだ一團の中から首を擡げた。すらりとした鶴のやうな撫で肩へ、地味な絣の大島お召の羽織を纏つて、銀杏返しの鬢の毛をふるはせながら、きれいな、メタリツクの聲を出す樣子と云ひ、引き締まつた目鼻立ちと云ひ、新派の喜多村にそつくりの女である。
「靜ちやん、君は默つていらツしやいよ。高等學校の方はみんなお勢ちやんのお受持ちでさあ。」
かう云つたのは、頭をてか〳〵と分けた、にきび[#「にきび」に傍点]の痕のまだ消え切らない男である。毛絲のシヤツの上へ、襦袢や胴着や絣の銘仙の對《つゐ》の綿入や、何枚も寒さうに重ね込んで居る。
「あら噓よ、澤崎さん覺えていらツしやい。」
突伏して居たお勢は急に起ち上つて、さも憎々しさうに睨みつけた。
「だつて、さうぢやありませんか、ねえ。」
と、澤崎は圖に乘つて嬉しがつて、
「君は一高の生徒が好きだつて云つたぢやないか。」
「あたし、何時さう云つて?」
「云つたとも、云つたとも。―――此の間僕と一緖に本郷通りを步いた時に、後から一高の生徒が來たら、『あたし彼《あ》の人にハンケチを拾はしてやるんだ』ツて、君はわざとハンケチを落したぢやないか。」
「あら、噓よ。」
お勢は慌てゝ取り消したが、一座は可笑しがつて、笑ひどよめいた。
「へーえ、それからどうしたの。とう〳〵拾はしたんですか。」
と、お靜が訊いた。
「えゝ、とう〳〵其の學生が拾つて、お勢ちやんにお渡ししたんです。『ほら御覽なさい。拾はせてやつたでせう。』ツて、お勢ちやんは得意になつて居るんです、僕ア驚いちやつた。」
澤崎は一座の幇間のやうな格で、頻りと滑稽な仕業や辯舌を弄しては、如才なく娘逹に愛嬌を振り撒いて居る。人を毛嫌ひする癖のある宗一は、何となく嫌な男だと思つたが、それでもお勢の氣拔な行動には、吹き出さざるを得なかった。
「君のハンケチなら、僕等はいつでも拾つて上げるぜ。」
かう云つて、彼は萎れ返つて居るお勢の顏を嬲《なぶ》るやうに眺め込んだ。
「宗ちやんお止しなさいよ。あんまりからかふと、お勢ちやんだつて怒つちまふわ。―――それよりか、もうそろ〳〵始めなくつて。」
お靜は宗一を睨めて、骨牌の箱を取り寄せた。
同勢九人のうち、一人が迭る迭る讀手になつて、四人づゝ二組に別れ、何囘も勝負が行はれた。宗一も佐々木も一度づゝは總ての人を敵に廻して札を爭つた。一番上手なのは澤崎で、「ハツ」「ハツ」と景氣の好い掛け聲を浴びせながら、指先で撥ね飛ばす働きの素早さ。骨牌は彼に彈かれると、燕のやうに室内を舞つて走つた。其の間も、彼は種々雜多な身振手眞似を弄して、敵方を笑はせ、狼狽《あわ》てさせ、威嚇かす可くあらん限りの術策を施すことを怠らない。勝敗の埒外《らちぐわい》に出て、歌を讀み上げる時でさへ、得意さ加減、可笑しさ加減は一と入で、「天津《テンシン》風《プウ》雲のかよひ路」だの、「むべサンプウを嵐」だの、「振さけ見ればシユンジツなる」だの、いろ〳〵の讀み方を心得て居て、薩摩琵琶のやうな節になつたり、浪花節のやうな音になつたり、激しくなると、「天智天皇あきんどの假り寢の夢」だとか「菅家紺の足袋《たび》は黑くて丈夫」だとかたわい[#「たわい」に傍点]ない惡洒落に、女逹の腹の皮を綯《よ》らせた。
澤崎に次いで上手なのはお勢であつた。澤崎が女を喜ばせるよりも、もつと格別な意味で、お勢は男を喜ばせた。初對面の佐々木だらうが、宗一だらうが、お勢にかゝると散々に鼻毛を拔かれ、容赦なく引ツ搔かれるやら、組み付かれるやら、打たれるやらした。佐々木は勝負の最中、幾度となく自分の額に觸れたお勢の前髮の柔かさを忘れることが出來なかつた。
「お勢ちやんは一高の生徒にハンカチを拾はせても、骨牌は拾はせないんだね。」
宗一がかう云ふと、お勢は息せき[#「せき」に傍点]切つて、
「そんなに口惜しがらなくたつて好い事よ。骨牌に負けたもんだから、口で讐《かたき》を取るなんて、男の癖に卑怯だわ。」
「さうだわ〳〵。一高の生徒の癖に卑怯だわ。」
と、後から澤崎が交ぜつ返した。
斯界の兩雄―――澤崎とお勢とが敵味方に別れた時の騒擾、喧囂亂脈は、實に当日の壯觀であつた。殆ど全體の勝敗が其の一騎打ちに依つて決するかの如く、互に祕術を盡し、お轉婆を極めたが、たま〳〵此の兩人が同じ組の鬮《くじ》に中ると、敵方は滅茶々々に蹂躙されるので、
「これぢや、とても抗はないわ、澤崎さんとお勢ちやんとは、始終敵味方でなけりや面白くないわ。」
こんな動議をお靜が提出した。さうして、最後の試合迄、二人は別れ別れになつた。結局七度の戰ひのうち、五度は澤崎の勝利に歸した。
四時頃になると、みんな休憩して、御馳走の鮓《すし》を頰張りながら、一しきり賑やかに戲談《じやうだん》を云ひ合つた。
「お勢ちやんどうでした。やつぱり男の方《かた》には抗はないと見えますね。」
かう云つて、さつきの上さんも出て來て席に加はつた。
「えゝ、お勢ちやんなんぞ、まるで相手にならないんです。弱い人ばかりいぢめて居て、僕にはちつとも向つて來ないんですからなあ。」
澤崎は肩を搖す振つて、兩手に拵へた握り拳を、鼻の先へ高々と重ねた。
「あら、小母さん噓よ。澤崎さんそんなに威張るなら、二人で勝負をするから、此處へ出ていらつしやい。あなたなんぞに負けるもんですか。」
「おほゝゝゝまあお勢ちやん、急がないでもゆつくり讐をお取んなさいな。今お靜にさう云つて、かるたの間に福引をやらせますから。―――どうぞ皆さん、どんな物が中《あた》つても、苦情を仰しやらずに、持つて歸つて下さいましよ。」
上さんは用意して置いた福引のかんじより[#「かんじより」に傍点]を娘へ渡して、
「さあ、めい〳〵で、一本づゝお引き下さい。」
と云つた。
淺草觀音の鳩が豆の皿へ群る樣に、多勢はお靜の手元へ集まつて、我れがちに鬮を引いた。紙の端には、一つ一つ謎《なぞ》の文句が認めてあつた。佐々木の引いたのは「小松内大臣」、宗一のは「間男《まをとこ》」と云ふのであつた。
「間男と云ふのは怪しからんね、一體此れは何です。」
「あら、宗ちやんが間男を引いたんですか。―――そりやいゝものよ。家のお父さんが考へた謎なの。」
お靜はかう云つて、魚を燒く二重の金網を出した。
「宗ちやん其れが解りますか。『兩方から燒く』と云ふんですつて。」
上さんが說明すると、みんな手を叩いて可笑しがつた。
佐々木の「小松内大臣」は「苦諫」と云ふ謎で、蜜柑が三つ來た。澤崎は「往きは二人で歸りは一人」といふのに中つて、往復はがきを貰つた。其の外澤庵を持たされたり、草箒木を擔がせられたり、大分迷惑したらしい連中があつた。謎の秀逸はお勢の引いた「晝は消えつゝ物をこそ思へ」で、電燈の球が來たのには、奇警にして上品な思ひつきに、誰も彼も感服した。
「電氣の球はよかつたな。それは誰が考へたんです。」
と、宗一はお靜に訊いた。
「うまいでせう。あたしが考へたのよ。」
「『晝は消えつゝ物をこそ思へ』は、全く頭が好うござんしたね。何しろ今日中の傑作に違ひありません。」
佐々木までが、かう云つて賞め讚へた。
福引が濟むと、再び戰闘が開始された。丁度五時から七時頃の間に五六囘勝負をやつたが、お勢はとう〳〵澤崎に抗はないで、
「あたし口惜しいわね。―――澤崎さん近いうちに家でかるた會をやるから、是非入らつしやいな。きつと負かして上げるから。」
などゝ云つた。
「もう大分遲くなりましたから、徐々《そろ〳〵》失禮しませんか。」と、誰かゞ云ひ出した時、
「まあお待ちなさい。皆さんの運動が激しいから、お腹が減つたでせうと思つて。」
と、上さんは氣を利かして、尾張屋のそばを振舞つた。みんな暖かい鴨南蠻と玉子とぢ[#「とぢ」に傍点]とを默つて貪るやうにして喰べた。
「佐々木さん、どうぞ此れからも宗ちやんと一緖に遊びに入らしつて下さいな。別にお構ひ申しませんが、内は此の通り呑氣なんですから。」
お靜にかう云はれると、佐々木は實直らしく膝頭へ兩手を衝いて、
「えゝ、また今度、骨牌會があつたら是非伺ひます。」
と、馬へ乘つて居るやうに、臀を彈ませて云つた。
「かるたの時でなくつても、いゝぢやありませんか。近いうちに弟が退院して戾つて參りますと、お話相手も出來ますから。」
「弟と云ふのはお靜さんより一つ年下で、高等商業へ行つて居るんだよ。」
傍から宗一が說明して、
「良ちやんは、まだ退院が出來ないんですか。」
「もう四五日かゝるんですツて、良作も體が弱くつて困つ了《ちま》ひますよ。宗ちやんの樣に丈夫になるといゝんですがね。」
お靜は火箸の上へ白く柔かな兩手を重ね、何か知ら長話の端緖《いとぐち》でも語り出すやうに、落ち着いて、しみ〴〵と喋舌り始めた。淋しい冬の夜寒を、二人共成らう事なら、此の女を相手に今少し時を過ごしたく思つたが、お勢も澤崎も歸つて行くので、據んどころなく、名殘を惜みながら席を立つた。
「佐々木君、もう遲いから、僕の家へ泊らないか。」
戶外へ出ると、宗一は云つた。晝間の風が未だ止まないで、街鐵《がいてつ》の敷石の上に渦を卷く砂煙が、電柱のあかり[#「あかり」に傍点]にぼんやりと照されて居る。電車が時々、クオーと悲鳴を擧げるやうに軋《きし》みながら通る。
「彼處の娘は喜多村にそつくりですね。聲まで似て居るぢやありませんか。」
佐々木は鎧橋を渡る時、不意にこんな事を云つた。
「誰もさう云ふよ、當人も喜多村が贔屓なんだ。―――君はお氣に入つたのかい。」
「えゝ、ちよいと好ござんすね。」
「春子第二世にしたらどうだい。」
「さあ。」
と、佐々木は考へて、
「春子の轍《てつ》を踏んぢや困りますから、一番出直して、靜子第一世にしませうか。さつきの『ひるは消えつゝ』の謎なんか見ると、頭もなか〳〵いゝやうぢやありませんか。」
「惚れた弱味で、謎にまで感心しなくつてもいゝよ。惚れられると德をするんだなあ。」
と、宗一は笑つた。
濱町の家へ着くと、丁度時計が九時を打つた。「まだ風呂を拔かずにあるから、女中の入らないうちに」と進められて、二人は早速湯に漬かつた。
「佐々木さん、此處に宗一のフランネルの洗濯したのがありますから、お上りになつたら、浴衣代りにお召し下さいまし。」
母は湯殿へ出て、二人の體質を並べて見ながら、
「ほんとに佐々木さんは好いかつぷく[#「かつぷく」に傍点]でいらつしやること、宗一なんぞはとても抗ひませんねえ。」
と云つた。宗一も佐々木の裸體を見るのは久し振で、筋肉が瘤のやうに隆起して居る逞しい骨組や、丈夫さうな赤黑い皮膚の上に、石鹼《しやぼん》の白泡が快い對照をなして流れて行くのを、羨ましく思つた。
「かうやつて居ると、何だか田舎の溫泉へでも來て居るやうな氣がしますね。」
佐々木は湯船の緣へ頭を載せて、湯氣の籠つた天井を眺めながら、伸び伸びと空嘯いた。
風呂から上つて、二階の書齋へ行くと、いつの間にか蒲團が二つ敷いてあつた。互に顏を向け合つて、夜具を被つたものの、容易に眠られない。―――階下で時々、宗兵衞の咳拂ひの音が聞える外、淺川の家に比べると、ズツト陰氣な、死んだやうな座敷の沈默が、妙に眼を冴え冴えとさせた。
「どうだい、僕の家は靜かだらう。―――こんな晚に獨《ひとり》で居ると、淋しくつて淋しくつて、とても寢られやしない。」
かう云つて、宗一は蒲團の中で、肩を顫はせた。雨戶の外では、凩《こがらし》がひゆうひゆうと鳴つて居た。
「僕はこんな所が大好きですよ。君だつて、ラブ、アツフエイアがなければ、此處の方が却つて勉强出來る筈です。寮に居ると下らない附き合ひに時間を浪費して、いけませんね。旅行でも、讀書でも、僕は Solitude が一番いゝと思ひます。」
「しかし、昨今の僕は Solitude に堪へられないよ。」
「そりやあゝ云ふ事情があつては、無理もありません。―――どうなりました小田原の方は。」
「やつぱり破談になつた。暮に母親から散々意見されて、一と先づ斷念しろとまで云はれた。」
「それから、君はマーザーに何と答へたんです。」
「一應反抗したけれども、到底根本から考へが一致しないんだから、好い加減な氣休めを云つて置いた。徒に心配させたつて、仕樣がないもの。」
「此れから先、どうする積りなんです。」
「どうしていゝか、全く迷つて居るよ。美代子さへ約束を守つて居てくれゝば、結局は大丈夫だと信じて、それ程悲觀もしないがね。」
「かう云ふ問題は、だら〳〵長くなると、仕事が出來ないで困りますから、成るたけ手取早く片附ける方が宜ござんす………。」
佐々木はだん〳〵眠さうな聲を出して、やがて、
「もう寢ませうかね。」
と云つて、ぐるりと壁の方を向いた。
十一
歌舞伎座の春の狂言が、十四日に蓋を開けたので、初日から五日目の日曜日に、野村は中島と杉浦を誘ひ、西の花道に近い平土間へ陣取つて居た。遲れ馳せに宗一の駈け着けた頃は、旣に一番目の大詰の幕が下りて、天井、棧敷、一面の穹窿《きゆうりゆう》に電燈が燦然と閃き、劇場の内部は、さながら灯の雨が降るやうに光の海を現じて居た。
「おい、其處に居るのか。」
と、聲をかけながら、土間の劃《しき》りを傳はつて行く時、宗一には二三人の友逹の顏が眞赤に燃えて輝いて見えた。
「おう、君遲かつたなう。もう一番目が濟んで了つたぞ。」
野村は半分席を讓つて、自分の橫に宗一を坐らせ、頻りとオペラ、グラスを八方へ廻して居る。「市村羽左衞門」「片岡仁左衞門」などゝ記した緞子《どんす》や綸子《りんず》の引幕が舞臺の一方から一方へ、何枚も何枚もする〳〵と展いては縮まつて行く。
「鬼と呼ばれし高力《かうりき》も、淚の味を覺えて御座る。………」
杉浦は唇をへの字なりに歪めて、仁左衞門の口眞似をして、
「今の幕は、仁左衞門が好かつたぜエ。もう少し早く來ると、面白かつたのになあ。」
「家光になつたのは、ありや何と云ふ役者かい。」
と、相變らず中島は說明を求めて居る。
「アレは八百藏さ。―――どうも家光らしい機略が見えないで、八百藏としては出來の惡かつた方だよ。」
「しかし、立派な聲ぢやなう。輪廓もなか〳〵整つとるぢやないか。」
中島は杉浦の批評が腑に落ちないで、内々八百藏に感心したらしい口吻である。
出方が五六人東の花道に立つて、
「○○御連中樣、御手を拜借!」
と、怒鳴つたかと思ふと、向う側の鶉《うづら》、高土間、新高《にひたか》の觀客の間から、バタ〳〵と拍手が起つて、無數の掌が胡蝶のやうに飜る。
杉浦は伸び上つて、劃りの板に腰かけながら、
「ありや、みんな藝者だぜ。山口が居たら喜ぶだらうなあ。」
「左の隅から三番目の柱の處に居るのは、素敵な別嬪ぢやなう。」
かう云つて、指差した中島の手の先には、粹な年增が旦那らしい紳士と、何處かの女將《おかみ》らしい老婆を捉へて、睦ましさうに話をして居る。金煙管と指輪の寶石が、遠くまでピカ〳〵光つて居る。
「うむ、ありや大變な美人だな。萬龍や靜枝なんぞが繪ハガキになつて、彼《あ》の女《をんな》が繪ハガキにならないのは怪しからんね。第一、あんな醜男《ぶをとこ》を旦那に持つて居るのが不都合だよ。われ〳〵有爲《いうゐ》の靑年が、あゝ云ふ男に、おめ〳〵美人を取られて居る法はないぜ。」
杉浦は仰山に地團太を踏んで、
「實際殘念至極だ。………仕方がないから、僕は寮へ歸つたら、鐵亞鈴《てつあれい》を二三百振つてやるんだ。」
と肩を聳やかした。
「橘、彼處に佐々木が來とるやうだぜ。」
野村はオペラ、グラスをヂツと西の棧敷に据ゑて云つた。
「佐々木が來て居る?」
「ほら、彼處に居るぢやないか。」
杉浦は目敏《めざと》く氣が付いて、
「………うむ、さうだ〳〵。佐々木に違ひない。而も此れがまた別嬪を連れて來て居るぜ。―――佐々木の傍に居る若い男は、何だらう。一高の奴ぢやないやうだが。」
「あれは高等商業の淺川と云ふ男だよ。僕の友逹で此の間佐々木に紹介したばかりなんだ。」
宗一も漸く見付け出して、二階を仰いだが、先では一向知らないらしい。佐々木と淺川が腕組をして坐つて居る前に、姉のお靜は母親と並んで手すりに凭《もた》れ、平土間に波打つ群衆の頭の上を、餘念もなく眺めて居る。丁度一階と二階の境目の提灯に電燈がともつ[#「ともつ」に傍点]てお靜の額を眞下からあり〳〵[#「あり〳〵」に傍点]と照らし、うつとり[#「うつとり」に傍点]と無心に一方を視詰めた儘人形のやうに靜止して居る目鼻立を、極めて鮮明に浮き出させて居る。殊に、ピクリとも動かさぬ瞳の色の潤澤、魅力の强さ、宗一は今日程お靜の眼つきを美しいと思つたことはなかつた。
「彼《あ》の女は何者だい。まさか藝者ぢやあるまいな。」
と、杉浦が訊く。
「あの男の姉さんなんだ。」
「へーえ、佐々木もナカ〳〵隅へ置けないね。紹介してくれた君を出し拔いて、芝居へ來るなんか、彼《あ》の男に不似合な藝當をやつたもんだ。」
「僕にもちつと意外だね。たしか七草の晚に淺川の内で骨牌會があつて、其の時先生を連れて行つたんだが、あれから二三度も僕と一緖に出かけたかな。何にしても紹介してから、まだ十日位にしかならないんだ。」
「春子で手を燒いた代りに、あのシスターをどうかしようと云ふ氣が知らん。」
「そんな深い計畫はなからうが、多少惚れて居るらしいね。先生はふだん臆病の癖に、ラブしたとなると、隨分大膽な眞似をするよ。」
「あの器量では、佐々木の惚れるのも無理はないなう。」
豪傑の中島も、半分は惚れたやうな言《こと》を云ふ。
「新派の喜多村にそつくり[#「そつくり」に傍点]な顏をしとるぜ。何處ぞ女學校でも遣つたのかい。」
と、今度は野村が尋ねる。
「虎の門を出たんだ。學校が同じだから美代子もよく知つて居るよ。」
「うん、さうかな。美代ちやんとは何方が別嬪かの。」
「美代子なんか、とても比べ物にならない。淺川の一家は、あの弟にしても、母親にしても、みんな眉目《びもく》秀麗だからな。」
「そりやさうだらう、あの位の女が、無闇とわれ〳〵仲間の細君になられちや困るからな。佐々木だつて、結局失敗するに極まつて居るから安心し給へ。―――第一、ソクラテスのやうな面を提げて居て、あの女に好かれる筈はないよ。」
杉浦はこんな毒舌を振つて居る。
宗一は直ぐ二階へ行つて、佐々木を驚かさうとしたが、もう拍子木が鳴つて居るので、次ぎの時間を待つ事にした。源平布引瀧《げんぺいぬのびきのたき》の中幕が開くと、揚げ幕の向うから羽左衞門の實盛、猿之助の瀨尾《せのを》が、頭の上の花道を步いて來る。丁度實盛の穿いて居る白足袋が、三人の眼の前へ止まつた時、
「羽左衞門は痩せて居るなあ。」
と、突然杉浦が、足許から大きな聲を出した。
しかし、羽左衞門の實盛は濟まし込んで鼻を尖らし、七三《しちさん》の邊《あたり》で、
「瀨尾殿。」
「實盛殿。」
と、互に挨拶しつゝ、本舞臺の九郞助の住家へと練つて行く。
芝居は追ひ追ひ面白くなる。九郞助の家にかくまはれた義仲の奧方|葵《あふひ》御前《ごぜん》が產氣《さんけ》づいたり、生れたのが女の片腕であつたり、其れは怪しいと云つて瀨尾がいきまく[#「いきまく」に傍点]やら、實盛が源氏に志を寄せて辯解するやら、なかなか賑やかである。
口角泡を飛ばすと云ふのは、瀨尾の事だらう。―――「腕《かひな》を生んだ、例《ためし》はねエわイ。」
などゝ、赤面《あかつら》をむき出して喰つて掛かる。
實盛の方は落ち着き拂つて、古《いにしへ》を說き、今を論じ、强引《きやういん》該博《がいはく》、見たところ大變な智慧者らしい。
「團十郞は、實盛と云ふ人物の腹が解らないで、此の芝居をやらなかつたさうだ。」
宗一は低い調子で、ちよい[#「ちよい」に傍点]〳〵通を振り撒いて居る。
「さうかなあ、考へると滑稽だからなあ。」と、中島が相槌を打つ。
「團十郞は馬鹿だよ。こんな芝居に腹も糞もないぢやないか。」
杉浦はかう云つて一喝して了ふ。
とう〳〵瀨尾は追拂はれて、九藏の葵御前がしづ〳〵と二重へ現れる。
實盛九郞助、一同畏まつて平伏して居る。
「あの葵御前には悲觀したな、ひどくまづい面ぢやないか。九藏たる者、羽左衞門や松助に土下座《どげざ》をされて、少し面喰つて居るぜ。………」
杉浦の批評には、端の人まで耳を傾けて、クス〳〵笑つて居る。
勇ましい物語が濟んで、瀨尾が切腹するまでは靜かであつたが、それから又一しきり、杉浦のお喋舌が始まる。
「何と云つても、近來での實盛だつたよ。うまいもんだ。―――實盛の腹はどうでもいゝとして、馬鹿を見たのは瀨尾君だね。白髮を着けるやら、顏を赤く塗るやら、大騷ぎをして跳び出して來ながら、愚にもつかない屁理窟でギヤフンと參つたり、藪の中へ隱れ込んで眼の中へ埃《ごみ》を入れたり、娘の死骸を足蹴《あしげ》にしたり、揚句の果が腹を切つて、ウン〳〵云つてふん[#「ふん」に傍点]反り返るのは御苦勞だなあ。恐ろしく奮鬪的生活をやつたもんだね。」
カチンと木の頭《かしら》を打つて、舞臺は旣に幕切れの見え[#「見え」に傍点]に移つた。きらびやかな緞帳《どんちやう》が、天井からゆる〳〵下り始めて、活人畫《くわつじんぐわ》の天地を一寸二寸と縮めて行く。馬に跨がつて扇を擴げた實盛の頭が先づ隱れる。次いで手塚の太郞の首が隱れる。其の傍に蹲踞つて居る九郞助も順々に隱されて、間の拔けた馬の足ばかりが見える。やがて緞帳の裾がフツト、ライトの光炎に燃えながらばつたりと地に着いて了ふ。
宗一は花道を駈け拔けて、梯子段を上つたが、二階の廊下でばつたりとお靜に出遇つた。後から弟の良作も佐々木もやつて來た。
「おや。」
とお靜はにつこりして、
「宗ちやん何時入らつしやつたの、誰かお連れがおあんなさるの。」
「學校の友逹と一緖なんです。尤も僕は用事があつて、たツた今、中幕の前に駈け付けたんです。」
かう云つて、宗一はお靜と佐々木を等分に眺めた。
「妙な所で遇ひましたねえ。今朝淺川君の前を通つて、ちよいとお寄りしたら誘はれちまつてね。」
佐々木は、何處やら烟つたいやうな顏をして、言譯がましい事を云つた。ソハ〳〵した、嬉しさうな素振が餘所目にも著しかつた。
「お勢ちやんが急に來られなくなつたので、御迷惑だつたでせうが、佐々木君を引張り込んだのです。お母親《ふくろ》も居ますから彼方へ入らつしやいませんか。」
良作も佐々木の尾に附いて辯解した。
「えゝ有難う。小母さんのいらつしやる事も知つて居ますよ。君逹の場所は、丁度僕等の頭の上なんです。―――お靜ちやん實盛は如何《いかゞ》でした。御贔屓の羽左衞門が大分振ひますね。」
「あたしなんか、贔屓の引倒しですけれど、今のは可なり見堪《みごた》へがしましたよ。―――佐々木さんは羽左衞門より高麗藏の方がお好きなんですつて。」
「いえ、さう云ふ譯ぢやありませんが………。」
と、佐々木は頭を搔きながら、
「何だか、羽左衞門は冷酷で、暖みがないから近寄り難いやうに思はれるんです。しかし猿之助の瀨尾は、逹者で、熱があつて好ござんしたねえ。」
「うん、まあ惡かないが、ちつと騷々し過ぎるよ。」
「いつか歌六の瀨尾を見ましたが、あゝ云ふ役は角々が極まつて、猿之助よりズツとうまござんす。『腹に腕《かひな》があるからは』なんぞ、澤瀉屋《おもだかや》は無雜作にすら〳〵と云つ了《ちま》ひましたね。」
良作は團十郞時代から歌舞伎を缺かさないだけあつて、黑人《くろうと》じみた事を云ふ。
「そりや彼《あ》の方が好かつたわ。今度は團藏が演《や》る筈だつたのに、途中で猿之助に變つたんですツて。―――團藏がやると、藝が枯れて居るから、面白かつたでせう。」
佐々木は門外漢の如く、自分の劇評に一顧の價値も與へられないで、憮然《ぶぜん》として三人の傍らに立つた。
又幕が開いた。今度は仁左衞門の「鰻谷《うなぎだに》」である。宗一は此の一と幕だけ、淺川の席へ割り込んで見物したが、お靜も良作も、母親も、一心に舞臺へ注目して、殆んど言葉を交はす機會を與へなかつた。
「あゝ、くだびれたこと。」
幕が閉まると、お靜はガツカリしたやうに、腰を擡げて、
「誰か一緖に運動場へ行きませんか、―――佐々木さんも、宗ちやんも入らつしやらなくツて?」
と云つた。
「僕は、もう直き下へ行きますから………」
宗一が辭退すると、佐々木も氣の進まない面持で、
「僕はお留守居をして居りますから、皆さん入らしツたら宜いでせう。」
かう云つて、苦しさうに笑つた。
「佐々木君、杉浦や中島が來て居るから、ちツと下へも話しに來給へ。」
淺川の家族が出て行つた後で、宗一は置いてき堀[#「置いてき堀」に傍点]にされた佐々木を顧みて云つた。
「えゝ有り難う。中島君は運動家の癖に、やつぱり芝居を見るんですか。」
佐々木の顏には、知らず識らず陰鬱な表情が浮かんで居たが、それでも彼は、努めてあいそ[#「あいそ」に傍点]好く口を利かうとして居るらしい。
「芝居を見ると云つても、大して解りやしないんだよ。中島の事だから、子供が錦繪を見るぐらゐな無邪氣な考へで、面白がつて居るんだらう。別に藝術がどうのと云ふ譯ぢやないのさ。」
「どうせ僕だつてさうですよ。かう云ふ都會の藝術は、細《こまか》いところはとても田舎者に解りませんね。僕は芝居へ來る度每に、何となく妙な壓迫を感じます。」
「しかし、今日はお靜さんが居るから、さうでもないらしいぜ。―――それぢや又後程。」
宗一はから〳〵と高笑ひを殘して其處を立つた。廊下の外の眞黑な夜空には、星がきら〳〵輝いて居た。
「鰻谷」の次ぎに、花やかな所作事《しよさごと》があつて、打ち出しは十時過ぎになつた。
宗一は別れしなにもう一度、淺川へ挨拶をしようとしたが、混雜に紛れて、とう〳〵捜し出せなかつた。杉浦を始め四人の連中は、銀座のそば屋で一と休みして寮へ戾つた。
其の晚、遲くまで佐々木は寮へ歸らなかつた。淺川に進められて、植木店《うゑきだな》に泊つたと云ふ事を、宗一は明くる日の朝になつて知つた。
四五日過ぎてから、朶寮一番の宗一の自修室へ、川崎の消印のある長い手紙が舞ひ込んで來た。「六郷河畔にて、佐々木生」と認めてある封筒を開くと、眞書《しんかき》のやうな筆で、原稿用紙へ細字が二三枚も書き列《つら》ねてある。
[#ここから一字下げ]
歌舞伎座以來、御無沙汰をいたしました。今夜用事があつて歸省したのを好機會に、あなたへ手紙を差し上げます。いづれ明日はお目にかゝるでせうが、手紙の方が思ふ事を十分に述べられると存じますから、御面倒でも讀んで下さい。
先日、歌舞伎座で私はあなたに飛んだ失禮をしました。あなたは勿論、其れに氣が付いていらしツたでせう。さうして、或は私を淺ましい人間だと御考へになつたかも知れません。あゝ、私はどうして、斯うも了見の狹い、片意地な男でせう。どうして、斯うも我が儘な、固陋な人間なんでせう。歸つて來て、自分でつく〴〵呆れて了ひました。
而もあの晚あなたに對しては、あれ程冷淡な態度を示しながら、植木屋へ戾つて來ると、もうすつかり上機嫌になつて、お靜さんや良作君と、夜の二時頃まで元氣よく話をしました。其の樣子をあなたが御覽になつたら、嘸《さぞ》勝手な奴と思つたでせう。私はまるで子供のやうな、取り止めのない感情を持つて居るんです。―――子供のやうなと云へば、いかにも無邪氣に聞えますが、其の實決して無邪氣ではありませんでした。内々私は、殆んど口にす可からざる卑しい動機から、あなたを恨んで居たのでした。それが殘念でなりません。恥かしくてなりません。
有體《ありてい》に懺悔《ざんげ》したら、あなたは御立腹なさるよりも、寧ろお笑ひなさるでせう。實に Trivial な事なんです。お話しするだに極りの惡い位、些細な事なんです。あの日、私逹の連中が突然廊下で、あなたと出遇つて、俳優の噂をしました時、私は言ひ知れぬ淋しさと哀れさを感じました。私の如き田舎者と、あなたやお靜さんや良作君のやうな都會人との間には、永劫に一致し難い Gap があるのだと感じました。
こゝまで申し上げたら、すでにお解りになるでせう。羽左衞門に對する好惡《かうを》、猿之助に對する批評、私の云ふ事は、あなた方に一つとして顧みられませんでした。私は一時、全く會話の埒外に捨て去られて了ひました。無論其れは、あなた方が故意になすつた所行でない事は存じて居ります。けれども私は何となく、お靜さんを自分の掌中からあなたに奪はれたやうに感じました。私は實に Jealousy! の强い人間ではありませんか。
Jealousy! Jealousy! ―――私はもうお靜さんに對して Jealousy を持つまでになつて了ひました。お靜さんは私を正直な朴訥な、田舎者として愛してくれるやうです。芝居へ誘つたり、家へ泊めたりして吳れるのが、通り一遍の深切のやうには考へられません。しかし萬一、私がこんなに頑《かたくな》な、エゴイスチツクな男だと知れたら、お靜さんはどう思ふでせう。幸に此の間の事は感づかれないで濟みましたけれど………。
戀をする男の精神は多忙です。いとしい女の一つの趣味、一つの好惡に就いてさへ、こんなに氣を揉まなければなりません。だが私には果して、羽左衞門が好きになれるでせうか。都會人のリフアインされた生活が理解されるでせうか。
「佐々木さん、あなたは正直で着實な末賴もしい靑年です。あなたは愛すべき靑年です。しかし都會の女にはあなたを戀する事が出來ません。あなたの妻になる事は出來ません。」―――お靜さんにかう云はれたら、何としませう。あゝ私はお靜さんを知つてから、始めて自分の田舎者である事を後悔しました。都會に生れなかつた自分の運命を悲しみました。
ほんたうにお靜さんは、私をどう思つて居るでせう。あの氣高い美しい額の蔭、頭の奧の片隅にでも、私の事を考へて居て下さるでせうか。私は江戶兒の美點とも云ふ可き公明淡泊なお靜さんの性質を、寧ろ齒痒く感じて居ます。お靜さんは男に向つて冷酷だと思へる程淡泊でテキパキして居ます。いろ〳〵の冗談を云つたり、いたはつてくれたりするのが、溫情と云ふよりも、サツパリしたキビ〳〵した氣象から出て居るらしく推察されます。私ばかりか、誰に對しても寸毫《すんがう》の城壁を設けず、嬌羞《けうしう》を帶びずに話をされます。都會の女はあゝもサバケた、さうしてつめたい者でせうか。私には其れが飽き足らなくてなりません。
お靜さんは私を愛して下さらずとも、私がお靜さんを愛して居る事だけ、心付いてくれますまいか。たツた一と言「佐々木はあなたを戀ひ慕つて居ります。」とお靜さんの耳へ入れて置きたいのが、今の私の願ひです。それで可哀さうだと思つて下されば私の氣が晴れます。
あゝ怪しくも奇《く》しきは緣《えにし》なるかな。つい先頃は春子を慕つて居た私、春子を捨てゝ了つた私、それがあなたに紹介されて、僅か半月も立たぬのに、此れ程|彼《あ》の人を思ひ詰めるやうにならうとは。
今時分、植木店の家では暖かい電燈の下に姉弟が睦まじく膝を擦り寄せて話をし合つて居るでせう。なつかしき淺川一家の人々よ。
Shizu-chan よ。―――私は淋しい片田舎に、うす暗いランプの心《しん》を便りとして手紙を書いて居るのです。明日は朝早く戾ります。戀しい戀しい東京の地へ戾ります。
橘君、どうぞ此の物狂はしい手紙を笑止と思つて讀んで下さい。せめて私の切なる戀を、あなただけでも知つて居て下さい。
[#ここで字下げ終わり]
文句は此處でぽつんと終つて居る。戀をせずに一日も生きて居られぬ人間は、佐々木ばかりではない。「あゝ私もかうして居られないのだ。」と宗一は思つた。さうして、手紙を机に投げて、椅子に反り返りながら長大息をした。美代子、美代子、…………美代子はどうして居るだらう。
十二
其の年の春、四月頃の事である。ちやうど第三學期が初まつた時分の或る日の夕方、山口が森川町の下宿の二階でぼんやりと寢そべつて居ると、そこへぶらりと橘が這入つて來た。
「やあ失敬、大分待たせた。どうだいこれから出かけるかい。」
「うん、出かけてもえゝがな。」
と云つて、山口は依然として寢ころんだまゝ、大儀さうに相手の顏をぢろぢろと上眼《うはめ》で眺めて居る。
「なんだい、いやに元氣がないぢやないか。今夜の約束を忘れちまつたのかい。」
「いや、忘れたと云ふ譯でもないんぢやがな、私《わし》はあの約束をえゝ加減の事ぢやと思つて居たんぢやが、いよいよ君が、ほんたうに決心したんだとすると、少々私も驚いて居る次第ぢや。」
「どうしてさ、何も驚かなくたつていゝぢやないか。」
さう云つて、橘は少し極り惡さうににやにや[#「にやにや」に傍点]笑つた。
「しかし後になつて、私が誘惑したなんて云はれて恨まれたりすると困るからなあ。それさへなければ案内してもえゝんぢやけれど、………」
「ふん、柄にもない心配をするぢやないか。いつもそはそは[#「そはそは」に傍点]して遊びに行く癖に、そんなに臀を落ち着けなくてもよささうなものだ。」
「そりや私《わし》一人なら喜んで行くがな、何しろ君は今までに經驗がないんぢやから、さう云ふ人を私《わし》が始めて連れて行くのは、何となく氣が咎めるんぢや。また杉浦にでも知れると、彼奴《あいつ》いよ〳〵私を攻擊するぢやらう。」
「いや大丈夫だ。杉浦には知れないやうにそうつと[#「そうつと」に傍点]出て來たんだから、分りつこはないんだよ。ねえ、だから早く行かうぢやないか。此の間の晚はあんなに僕を勸めて置きながら、いざとなつて澁るなんて甚だ怪しからんぜ。」
「それ、それを云はれるから私《わし》は迷惑すると云ふんぢや。私が勸めたから遊びに行つたと云はれるならほんたうに御免蒙るぜ。私はたゞ一時の興味に驅られてあんな話をしたんぢやからな。」
「あゝさうか、さう云つたのは僕が惡かつた。成る程此の間の話は君が冗談に云つたんだらう。しかし其の冗談に挑發されて、今夜は僕の方から斯うして誘ひに來たんだから、まあ行つてくれてもいゝぢやないか。」
橘には山口が自分の足許を見拔いていやにゆつくり構へて居るのがよく分つた。それでも彼は見す見す相手の策略に乘つて、思ふ壺へ陷つてまでも連れて行つて貰ひたかつた。
「まあ君がそれ程に云ふのなら行つてもえゝ。だが、一體金をいくら持つて居るんぢや。」
「實は此處に二十兩ばかりあるんだ。此れだけあればいゝだらう。」
「ほゝう、大分持つとるんぢやなう。」
山口はにやりとして、
「二十圓あれば何處へでも行ける。だが其の金を全部使はんとえゝだらう。此の間も云うたやうに二人で五兩あつたら大丈夫ぢや。そんなに君に使はせやせん。」
「僕も要心に持つて來たんだから、十圓位は殘して置きたいんだ。兎に角直ぐに支度をして出かける事にしようぢやないか。誰かやつて來ると面倒だから。」
「よろしい、それでは先づ淺草の方へでも行つて見るか。………私《わし》は大分|髯《ひげ》が生えたからちよつと剃つて行きたいもんぢや。ちよつとの間ぢや、待つて居てくれ給へ。」
山口はいそ〳〵と立ち上つて、机の抽出しから西洋剃刀と、剝げちよろの手鏡とを出して、血色の惡い、煤ぼけたやうな頰《ほつ》ぺたへ石鹼の泡をぬる〳〵と塗つた。さうしてところどころに瑕《きず》を拵へたり長い毛を殘したりして、大急ぎで髯を剃つてしまふと、今度は押入を開けて、柳行李の蓋を開いたまゝ何か考へ込んで居る。
「はて困つたもんぢやなあ、餘所行きの着物は此の銘仙きりしかないんぢやが、何しろ親父のお古でもつておまけに此の間臀を拔いてしまつたんでなあ。」
斯う云つて繩のやうに綯《よ》れたまゝ突込んであるものを、ぞろ〳〵と引き出して高く差し上げて見せた。成る程臀の所が一尺程綻びて綿がだらしなく飛び出して居る。
「どうしような、君はひどく洒落とるやうぢやなあ。」
と云つて山口は、節絲の綿入れに新しい小倉の袴を穿いた橘の服裝を羨ましさうに見上げ見下ろした。
「なんだい、君なんぞは年中出かける癖に今更めかす必要もないぢやないか。」
「ところがさうでないて、此れでもやつぱりいゝなりをして行かんと大分持て方が違ふんぢや。よし〳〵、臀が破れて居ても、袴を穿けば分りやせんわ。」
それから山口は足袋が汚いの下駄が穢《よご》れて居るのと云つて、それ等の品を本郷通りで買つて貰ふ約束をしたが、表へ出ると彼はだん〳〵圖に乘つてハンケチや鳥打帽子までも買はせた。しまひには「あの蜜柑を五錢ばかり買つてくれりや。」などと云つて八百屋の前で立ち止つたりした。
二人が雷門で電車を下りた時分にはもう夜になつて居た。
「どうだな橘さん、君は一體吉原がいゝのかそれとも千束町へ行きたいのか、どつちなんぢや。それを極めて置かんといろ〳〵時間の都合があるんぢや。」
と、山口は向島の花見客が雜踏して居る中店を步きながら、何か眞面目な相談でもするやうに仔細らしく橘の耳に囁いた。
「さうだな、僕は何だか吉原へ行きたくないな。千束町にしようぢやないか。」
「なぜ吉原は嫌なんぢや。銘仙屋の女なんぞより花魁《おいらん》の方がいくら氣持がいゝか知れやせんがな。大店へ行けば座敷も綺麗だし、寢道具なんぞそりや素晴しいもんだぜ。」
「けれども僕は何だか花魁と云ふものが嫌ひなんだよ。あの毒々しいゴテゴテの衣裳を着けて居るのからして氣に喰はない。まだ銘仙屋の女の方が、幾分かすつきりして居るやうに思はれるんだ。」
「はゝそりやあ君が無經驗だからさう思ふんぢや。私のやうに遊びの經驗を積んでみると、結局花魁が一番いゝと云ふことになる。君が嫌ならば孰方でも構やせんけれど。」
「いや、いくら經驗を積んだつて、僕にはとても花魁は好きになれさうもない。あんなグロテスクな風つきをした、化物みたやうなものは、てんで僕の趣味には合はないんだ。僕はあつさりとした意氣な女がいゝんだ。」
「ふん、分つた。さうすると何ぢやな、君はつまり藝者のやうなのを要求しとるんぢやな。」
「うん、まあさうなんだ。」
「意氣といふ點から言へば、そりや銘仙屋の女の方が幾分か藝者に近いかも知れん。しかし、斷《ことわ》つて置くが、藝者買をするやうなつもりで居ると大きにあてが外れるから、後になつて愚痴をこぼしても私や責任を持たんぜ。千束町に萬龍や靜枝のやうなのが居ると思つたら、とんだ間違ひぢやからなあ。」
「僕だつてまさかさうは思つて居ないよ。でもまあ、君の働きでなるたけ藝者らしい奴を紹介して貰ひたいのさ。さうして泊るところも、銘仙屋の二階でなしに、どこか待合じみたところへ連れて行つて貰へないだらうか。」
「そこは話しやうでどうにもなる。あゝいふ女を連れて行くには、また其の方の專門の待合があるのぢや。さうすると、何も言はずに私に十兩預けて置いたらどうぢや。今から行くのはちよつと時間が早や過ぎるから、少しその邊をうろついて、十時頃になつたら出掛けるとしよう。十兩あれば、明日の朝まで遊んでも私はお釣《つり》を殘して見せる。うまく行けば朝飯に牛肉ぐらゐは食べられるかも知れんぜ。」
山口は仁王門の蔭のところで橘から十圓札を受取りながら、
「これを何とかして崩さんではいかんな。こんな大きな札を見せたら、きつとぼられる[#「ぼられる」に傍点]に極つとるからな。隙つぶしにおでんでも食うて一杯飮むとしようぢやないか。」
かう言つて、こんもりした公園の櫻の木の間を、十二階の方へ辿つて行つた。
朝からどんよりとしてゐた雨曇りの空が、今にも降り出しさうに曇つて、妙に生暖い、風のない晚であつた。向うの空を焦して居る活動寫眞のイルミネーシヨンや、樂隊の響や、緞帳芝居の囃《はやし》の音や、池の汀に並んで居る露店の灯影や、そんなものが橘には今夜に限つて夢のやうに感ぜられた。子供の時分から幾度となく見馴れて居る公園の夜景が、今夜始めて連れて來られた遠い國の、何か不思議な珍しくも恐しい巷《ちまた》のやうであつた。自分の左右を往き違ふ群衆さへも、自分とはひどくかけ離れた世界の人種のやうに見えた。橘はふと、兩親や乳母の手に牽かれて、花屋敷の猛獸だの奧山の見世物だのを見に來た時分の、二十年も前の頑是《ぐわんぜ》ない己れの姿を想ひ出した。あのころの幼い彼は、淺草に連れて來られるのが何よりも嬉しくて、中店の通りから觀音樣のお堂を眺めると、譯もなく小さな胸が浮き立つて來て小躍りしたいやうな心地になつたものであるが、今夜の彼もちやうど同じやうな心地がする。しかしあの時の無邪氣な喜びと、今の自分の喜びとは、何といふ相違であらう。二十年後の今になつて、この公園が斯うして自分を待構へて居ようとは、その頃の彼には思ひもよらぬ事であつた。父や母は未だに彼をその頃の子供のやうに考へて居るのに、彼はいつの間にか、親から貰つた學費を誤魔化して遊びに來るやうになつてしまつた。それはいゝとしても、今夜の樣子を美代子が知つたならば何と云ふだらう。彼女との仲を割かれた結果だと云ふ事が、何の言ひ譯になるであらう。自分が斯うなる代りに、美代子がこんな眞似をしたら、自分はどんな氣持がするだらう。
「自分はこれを機會に墮落してしまふのではないだらうか。自分はもう、山口と選ぶ所がなくなつて居やしないか。」
さう反省して見ても、それが橘には何の感情をも齎らさなかつた。彼は全身に麻醉藥をかけて物凄い手術を受けて居る人間のやうに自分を思つた。自分が今、忌まはしい穢らはしい境涯に泥《なづ》みつゝあるのだと云ふことが、まるで他人の身の上のやうに空々しく感ぜられた。たゞ何處までも淺ましい惡友のなすがまゝに、快く彼の傀儡《くわいらい》となつて、お坊ちやん扱ひにされて居たかつた。ならうことならば、いつそ目隱しをしてぐんぐんと手を引張つて行つて貰ひたかつた。
「橘さん、君は何を食ふんぢや。私はがんもどきと燒豆腐にしよう。それから其の月見芋を取つてくれや。」
………氣が付いて見ると、橘はおでん屋の暖簾を潜つて、ぐつ〳〵湯氣の立つた煮込みの鍋を前にしながら、山口と肩を並べて居た。
「それから姐《ねえ》さん、正宗一本、お燗を熱くしてな。―――大いに景氣をつけてこれからいゝ處へ繰り込むんぢや。だが何ぢやな、この姐さんのやうな別嬪が云ふ事を聽いてくれゝば、私は何處へも行きたうないぜ。」
山口は一二杯飮んだかと思ふと、直ぐに眞赤な顏になつて他愛もなく女中にからかつて居る。もう先のやうな勿體ぶつた素振りや仔細らしい態度は、疾《と》うに飛んで行つてしまつたらしい。
「君は女さへ見れば誰を掴《つか》まへても口說《くど》くんだな。あの女の何處がいゝんだい。」
おでんやの店を出ると、橘は苦々しさうに云つた。
「いゝ女ぢやないか君、色が白くつてぽつちやり[#「ぽつちやり」に傍点]として居て、私やあゝ云ふ愛嬌のある女が好きぢや。君は全體標準が高過ぎていかんわい。淺草へ女を買ひに來るのに、新橋の一流の待合へ行くやうな了簡で居るからいかんのぢや。あのおでん屋の姐さんのやうなのが惡かつたら、吉原でも千束町でもとても滿足できやせん。だから先《さつき》も斷つて置いたんぢや。ほんたうに君、案内するのもえゝが、後になつて、恨んだりしちや困るぜエ。そのくらゐなら私《わし》は御免を蒙りたいもんぢや。」
山口はわざと仰山に怫然《ふつぜん》として、往來のまん中で立ち止つた。
「まあさ、何もそんなに怒るには及ばないさ。一切君に任してあるのだから、さう手數をかけなくてもいゝぢやないか。」
「いや、手數をかけると云ふ譯ぢやないが、あんまり君が贅澤を云ふからぢや。私は一昨日《をとゝひ》吉原へ行つたばかりだから、今夜はそんなに氣が進んで居らんのぢや。今日は君に賴まれたから據んどころなく出て來たんぢや。全く君の犠牲になつとるやうなものぢや。」
「あはゝゝゝ、犠牲はちつと大袈裟だな。さう恩に着せないでもよからうぜ。」
「冗談ぢやない。ほんたうの話ぢやがな。なんぼ私《わし》が道樂者《だうらくもの》だつて、始めての人を誘惑するのは實際いやな役廻りぢやからなあ。」
「始めてと云へば、僕にさう云ふ經驗が無いのだと云ふことを、先《さき》の女に君から斷つてくれ給へね。さうでないと僕は何だか工合《ぐあひ》が惡いからな。」
「いゝよ、心配せんでも大丈夫だよ。そんなことに氣を揉むなんて、君も可愛い男ぢやなあ。」
こんな事を語り合ひながら、二人は一二時間も公園の彼方此方をさまよつて、バアへ這入つたり立ち見をしたりして隙を潰した。やがて十時頃になつてから、「さあそろ〳〵行つてみよう。」と云ひながら、山口はずん〳〵先に立つて、十二階の下の細い新路《しんみち》へ踏み込んで、兩側にぎつしりと並んだ、明るい家の軒下をぐるぐると經廻《へめぐ》つて行つた。かういふ狹い區域に、どうしてこれほど澤山な横丁があるかと驚かれるくらゐ、其處は蜂の巢のやうに交錯した路地と路地とが、目まぐるしく折れ曲つて居た。さうして其の家々は、孰《ど》れも此《こ》れも同じやうにマチ箱のやうな粗末な普請《ふしん》で、軒燈を掲げた格子戶と曇り硝子の障子を嵌めた窓とが附いて居た。その曇り硝子の内には、白い顏の女共が眼ばかり見えるやうにして、障子の隙間《すきま》から表を覗いて居る。橘は同じ路地を何度も往つたり來たりしたやうに思つたが、實はみんな異つた橫町であつた。橫町から橫町へ拔ける間に、また第三の橫町があつて、それへ這入ると其處にも同じやうな世界が擴がつて居た。もしもあらゆる橫町の底を究めようとすれば、それが細く長く無限に續いて居て、東京市の外へまでも延びてゐるらしかつた。もう公園から餘程遠いところへきたやうな氣がして、ふと立ち止つて空を仰ぐと、不思議にも未だ十二階が頭の上に聳えてゐる。それが橘にはいよ〳〵夢のやうに思はれるのであつた。
「どうぢやな橘さん、この女はちよいと可愛い顏をしとるが、此所《こゝ》いらではお氣に召さんかな。これは千束町の萬龍といふ仇名《あだな》があるんぢや。」
さう云つて山口は、とある窓の前で臆面《おくめん》もなく說明したり、どうかすると馴染の女の家と見えて、
「よう今晚は、先日は失禮。」
などと挨拶をして通つたりする。