其處《そこ》でも厩橋《うまやばし》と同《おな》じやうな滑稽《こつけい》を演《えん》じて人《ひと》を笑《わら》はせ、いよいよ向島《むかうじま》にかかりました。一|丁《ちやう》ふえた三味線《しやみせん》の音《ね》は益々《ます/\》景氣《けいき》づき、丁度《ちやうど》牛《うし》が馬鹿囃《ばかばや》しの響《ひゞき》に促《うなが》されて、花車《だし》を挽《ひ》くやうに、船《ふね》も陽氣《やうき》な音曲《おんぎよく》の力《ちから》に押《お》されて、徐々《しづ/\》と水上《すゐじやう》を進《すゝ》むやうに思《おも》はれます。大川《おほかは》狹《せま》しと漕《こ》ぎ出《だ》した幾艘《いくさう》の花見船《はなみぶね》や、赤《あか》や青《あを》の小旗《こばた》を振《ふ》つてボートの聲援《せいゑん》をして居《ゐ》る學生逹《がくせいたち》を始《はじ》め、兩岸《りやうがん》の群衆《ぐんじゆう》は唯《たゞ》あつけ[#「あつけ」に傍点]に取《と》られて、此《こ》の奇態《きたい》な道化船《だうけぶね》の進路《しんろ》を見送《みおく》ります。ろくろ[#「ろくろ」に傍点]首《くび》の踊《をどり》はますます宛轉滑脫《ゑんてんかつだつ》となり、風船玉《ふうせんだま》は川風《かはかぜ》に煽《あほ》られつつ、忽《たちま》ち蒸汽船《じようきせん》の白煙《しろけむり》を潛《くゞ》り拔《ぬ》け、忽《たちま》ち高《たか》く舞《ま》ひ上《あが》つて待乳山《まつちやま》を眼下《がんか》に見《み》、見物人《けんぶつにん》に媚《こ》ぶるが如《ごと》き痴態《ちたい》を作《つく》つて、河上《かじやう》の人氣《にんき》を一身《いつしん》に集《あつ》めて居《ゐ》ます。言問《ことと》ひの近所《きんじよ》で土手《どて》に遠《とほ》ざかつて、更《さら》に川上《かはかみ》へ上《のぼ》つて行《ゆ》くのですが、それでも中《なか》の植半《うゑはん》から大倉氏《おほくらし》の別莊《べつさう》のあたりを徘徊《はいくわい》する堤上《ていじやう》の人々《ひと/″\》は、遙《はる》かに川筋《かはすぢ》の空《そら》に方《あた》り、人魂《ひとだま》のやうなろくろ[#「ろくろ」に傍点]首《くび》の頭《あたま》を望《のぞ》んで、「何《なん》だらう」「何《なん》だらう」と云《い》ひながら、一|樣《やう》に其《そ》の行《ゆ》くへを見守《みまも》るのです。
傍若無人《ばうじやくぶじん》の振舞《ふるまひ》に散々《さん/″\》土手《どて》を騷《さわ》がせた船《ふね》は、やがて花月《くわげつ》華壇《くわだん》の棧橋《さんばし》に纜《ともづな》を結《むす》んで、どやどやと一隊《いつたい》が庭《には》の芝生《しばふ》へ押《お》し上《あが》りました。
「よう御苦勞《ごくらう》御苦勞《ごくらう》。」
と、一行《いつかう》の旦那《だんな》や藝者逹《げいしやたち》に取《と》り卷《ま》かれ、拍手喝采《はくしゆかつさい》のうちに、ろくろ[#「ろくろ」に傍点]首《くび》の男《をとこ》は、すつぽり紙袋《かみぶくろ》を脫《ぬ》いで、燃《も》え立《た》つやうな紅《あか》い半襟《はんえり》の隙《ひま》から、淺黑《あさぐろ》い坊主頭《ばうずあたま》の愛嬌《あいけう》たつぷりの顏《かほ》を始《はじ》めて現《あらは》しました。
河岸《かし》を換《か》へて又《また》一と遊《あそ》びと、其處《そこ》でも再《ふたゝ》び酒宴《しゆえん》が始《はじ》まり、旦那《だんな》を始《はじ》め大勢《おほぜい》の男女《だんぢよ》は芝生《しばふ》の上《うへ》を入《い》り亂《みだ》れて、踊《をど》り廻《まは》り跳《は》ね廻《まは》り、眼隱《めかく》しやら、鬼《おに》ごツこやら、きやツきやツと云《い》ふ騷《さわ》ぎです。
例《れい》の男《をとこ》は振袖姿《ふりそですがた》のまま、白足袋《しろたび》に紅緖《べにを》の麻裏《あさうら》をつツかけ、しどろもどろの千鳥足《ちどりあし》で、藝者《げいしや》のあとを追《お》ひかけたり、追《お》ひかけられたりして居《ゐ》ます。殊《こと》に其《そ》の男《をとこ》が鬼《おに》になつた時《とき》の騷々《さう/″\》しさ賑《にぎや》かさは一《ひ》と入《しほ》で、もう眼隱《めかく》しの手拭《てぬぐひ》を顏《かほ》へあてられる時分《じぶん》から、旦那《だんな》も藝者《げいしや》も腹《はら》を抱《かゝ》へて手《て》を叩《たゝ》き、肩《かた》をゆす振《ぶ》つて躍《をど》り上《あが》ります。紅《あか》い蹴出《けだ》しの蔭《かげ》から毛脛《けずね》を露《あら》はに、
「菊《きい》ちやん/\。さあ、つかまへた。」
などと、何處《どこ》かに錆《さび》を含《ふく》んだ、藝人《げいにん》らしい甲聲《かんごゑ》を絞《しぼ》つて、女《をんな》の袂《たもと》を掠《かす》めたり、立木《たちき》に頭《あたま》を打《う》ちつけたり、無茶苦茶《むちやくちや》に彼方此方《あつちこつち》へ駈《か》け廻《まは》るのですが、擧動《きよどう》の激《はげ》しく迅速《じんそく》なのにも似《に》ず、何處《どこ》かにおどけた頓間《とんま》な處《ところ》があつて、容易《ようい》に人《ひと》を掴《つか》まへることが出來《でき》ません。
皆《みんな》は可笑《をか》しがつて、くすくすと息《いき》を殺《ころ》しながら、忍《しの》び足《あし》に男《をとこ》の背後《はいご》へ近《ちか》づき、
「ほら、此處《こゝ》に居《ゐ》てよ。」
と、急《きふ》に耳元《みゝもと》でなまめかしい聲《こゑ》を立《た》て、背中《せなか》をぽんと打《う》つて逃《に》げ出《だ》します。
「そら、どうだどうだ。」
と、旦那《だんな》が耳朶《みゝたぼ》を引張《ひつぱ》つて、こづき廻《まは》すと、
「あいた、あいた。」
と、悲鳴《ひめい》を上《あ》げながら、眉《まゆ》を顰《しか》め、わざと仰山《ぎやうさん》な哀《あは》れつぽい表情《へうじやう》をして、身《み》を悶《もだ》えます。其《そ》の顏《かほ》つきがまた何《なん》とも云《い》へぬ可愛氣《かあいげ》があつて、誰《だれ》でも其《そ》の男《をとこ》の頭《あたま》を撲《ぶ》つとか、鼻《はな》の頭《あたま》をつまむとか、一寸《ちよつと》からかつて見《み》たい氣《き》にならない者《もの》はありません。
今度《こんど》は十五六のお轉婆《てんば》な雛妓《おしやく》が、後《うし》ろへ廻《まは》つて兩手《りやうて》で足《あし》を掬《すく》ひ上《あ》げたので、見事《みごと》ころころと芝生《しばふ》の上《うへ》を轉《ころ》がりましたが、どツと云《い》ふ笑《わら》ひ聲《ごゑ》のうちに、再《ふたゝ》びのツそり起《お》き上《あが》り、
「誰《だれ》だい、此《こ》の年寄《としより》をいぢめるのは。」
と、眼《め》を塞《ふさ》がれた儘《まゝ》大口《おほぐち》を開《あ》いて怒鳴《どな》り立《た》て、「由良《ゆら》さん」のやうに兩手《りやうて》を擴《ひろ》げて步《あゆ》み出《だ》します。

此《こ》の男《をとこ》は幇間《ほうかん》の三平《さんぺい》と云《い》つて、もとは兜町《かぶとちやう》の相場師《さうばし》ですが、其《そ》の時分《じぶん》から今《いま》の商賣《しやうばい》がやつて見《み》たくて溜《たま》らず、たうとう四五|年前《ねんまへ》に柳橋《やなぎばし》の太鼓持《たいこも》ちの弟子入《でしいり》をして、一《ひ》と風《ふう》變《かは》つたコツのある氣象《きしやう》から、めきめき贔屓《ひいき》を拵《こしら》へ、今《いま》では仲間《なかま》のうちでも相應《さうおう》な好《い》い株《かぶ》になつて居《ゐ》ます。
「櫻井《さくらゐ》(と云《い》ふのは此《こ》の男《をとこ》の姓《せい》です。)の奴《やつ》も呑氣《のんき》な者《もの》だ。なあに相場《さうば》なんぞをやつて居《ゐ》るより、あの方《はう》が性《しやう》に合《あ》つて、いくら好《い》いか知《し》れやしない。今《いま》ぢや大分《だいぶ》見入《みい》りもあるやうだし、結句《けつく》奴《やつこ》さんは仕合《しあは》せさ。」
などと、昔《むかし》の彼《かれ》を知《し》つて居《ゐ》るものは、時々《とき/″\》こんな取沙汰《とりさた》をします。日淸戰爭《につしんせんさう》の時分《じぶん》には、海運橋《かいうんばし》の近處《きんじよ》に可《か》なりの仲買店《なかがひてん》を構《かま》へ、事務員《じむゐん》の四五|人《にん》も使《つか》つて、榊原《さかきばら》の旦那《だんな》などとは朋輩《ほうばい》でしたが、其《そ》の頃《ころ》から、
「彼《あ》の男《をとこ》と遊《あそ》ぶと、座敷《ざしき》が賑《にぎや》かで面白《おもしろ》い。」
と、遊《あそ》び仲間《なかま》の連中《れんぢう》に喜《よろこ》ばれ、酒《さけ》の席《せき》にはなくてならない人物《じんぶつ》でした。唄《うた》が上手《じやうず》で、話《はなし》が上手《じやうず》で、よしや自分《じぶん》がどんなに羽振《はぶ》りの好《い》い時《とき》でも、勿體《もつたい》ぶるなどと云《い》ふ事《こと》は毛頭《まうとう》なく、立派《りつぱ》な旦那株《だんなかぶ》であると云《い》ふ身分《みぶん》を忘《わす》れ、どうかすると立派《りつぱ》な男子《だんし》であると云《い》ふ品威《ひんゐ》をさへ忘《わす》れて、ひたすら友逹《ともだち》や藝者逹《げいしやたち》にやんやと褒《ほ》められたり、可笑《をか》しがられたりするのが、愉快《ゆくわい》で溜《たま》らないのです。華《はな》やかな電燈《でんとう》の下《した》に、醉《ゑひ》の循《まは》つた夷顏《ゑびすがほ》をてかてかさせて、「えへゝゝゝ」と相恰《さうがふ》を崩《くづ》しながら、ぺらぺらと奇警《きけい》な冗談《じようだん》を止《と》め度《ど》なく喋《しやべ》り出《だ》す時《とき》が彼《かれ》の生命《せいめい》で、滅法《めつぱふ》嬉《うれ》しくて溜《たま》らぬと云《い》ふやうに愛嬌《あいけう》のある瞳《ひとみ》を光《ひか》らせ、ぐにやりぐにやりとだらしなく肩《かた》を搖《ゆ》す振《ぶ》る態度《たいど》の罪《つみ》のなさ。まさに道樂《だうらく》の心髓《しんずゐ》に徹《てつ》したもので、さながら歡樂《くわんらく》の權化《ごんげ》かと思《おも》はれます。藝者《げいしや》などにも、どつちがお客《きやく》だか判《わか》らない程《ほど》、御機嫌《ごきげん》を伺《うかゞ》つて、お取《と》り持《も》ちをするので、始《はじ》めのうちは「でれ助《すけ》野郞《やらう》め」と腹《はら》の中《なか》で薄氣味惡《うすきみわる》がつたり、嫌《いや》がつたりしますが、だんだん氣心《きごゝろ》が知《し》れて見《み》れば、別《べつ》にどうしようと云《い》ふ腹《はら》があるのではなく、唯《たゞ》人《ひと》に可笑《をか》しがられるのを樂《たの》しみにするお人好《ひとよし》なのですから、「櫻井《さくらゐ》さん」「櫻井《さくらゐ》さん」と親《した》しんで來《き》ます。然《しか》し一|方《ぱう》では重寶《ちようはう》がられると同時《どうじ》に、いくらお金《かね》があつても、羽振《はぶり》がよくつても、誰一人《だれひとり》彼《かれ》に媚《こび》を呈《てい》したり、惚《ほ》れたりする者《もの》はありません。「旦那《だんな》」とも「あなた」とも云《い》はず、「櫻井《さくらゐ》さん」「櫻井《さくらゐ》さん」と呼《よ》び掛《か》けて、自然《しぜん》と伴《つ》れのお客《きやく》より一段《いちだん》低《ひく》い人間《にんげん》のやうに取《と》り扱《あつか》ひながら、其《そ》れを失禮《しつれい》だとも思《おも》はないのです。實際《じつさい》彼《かれ》は尊敬《そんけい》の念《ねん》とか、戀慕《れんぼ》の情《じやう》とかを、決《けつ》して人《ひと》に起《おこ》させるやうな人間《にんげん》ではありませんでした。先天的《せんてんてき》に人《ひと》から一種《いつしゆ》溫《あたゝ》かい輕蔑《けいべつ》の心《こゝろ》を以《も》つて、若《も》しくは憐愍《れんみん》の情《じやう》を以《も》つて、親《した》しまれ可愛《かあい》がられる性分《しやうぶん》なのです。恐《おそ》らくは乞食《こじき》と雖《いへども》、彼《かれ》にお辭儀《じぎ》をする氣《き》にはなれないでせう。彼《かれ》も亦《また》どんな馬鹿《ばか》にされようと、腹《はら》を立《た》てるではなく、却《かへ》つて其《そ》れを嬉《うれ》しく感《かん》じるのです。金《かね》さへあれば、必《かなら》ず友逹《ともだち》を誘《さそ》つて散財《さんざい》に出《で》かけてはお座敷《ざしき》を務《つと》める。宴會《えんくわい》とか、仲間《なかま》の者《もの》に呼《よ》ばれるとかすれば、どんな商用《しやうよう》を控《ひか》へて居《ゐ》ても、我慢《がまん》がし切《き》れず、すつかりだらしがなくなつて、いそいそと出《で》かけて行《ゆ》きます。
「や、どうも御苦勞樣《ごくらうさま》。」
などと、お開《ひら》きの時《とき》に、よく友逹《ともだち》にからかはれると、彼《かれ》は開《ひら》き直《なほ》つて兩手《りやうて》をつき、
「ええ、どうか手前《てまへ》へも御祝儀《ごしうぎ》をおつかはし下《くだ》さいまし。」
屹度《きつと》かう云《い》ひます。藝者《げいしや》が冗談《じようだん》にお客《きやく》の聲色《こわいろ》を遣《つか》つて、
「あア、よしよし、此《こ》れを持《も》つて行《ゆ》け。」
と紙《かみ》を丸《まる》めて投《な》げてやると、
「へい、此《こ》れはどうも有難《ありがた》うございます。」
と、ピョコピヨコ二三|度《ど》お辭儀《じぎ》をして、紙包《かみづゝみ》を扇《あふぎ》の上《うへ》に載《の》せ、
「へい、此《こ》れは有難《ありがた》うございます。どうか皆《みな》さんもう少《すこ》し投《な》げてやつておくんなさい。もうたつた二|錢《せん》がところで宜《よろ》しうございます。親子《おやこ》の者《もの》が助《たす》かります。兎角《とかく》東京《とうきやう》のお客樣方《きやくさまがた》が、弱《よわ》きを扶《たす》け、强《つよ》きを挫《くぢ》き‥‥‥」
と、緣日《えんにち》の手品師《てじなし》の口調《くてう》でべらべら辯《べん》じ立《た》てます。
こんな呑氣《のんき》な男《をとこ》でも、戀《こひ》をする事《こと》はあると見《み》え、時々《とき/″\》黑人上《くろうとあが》りの者《もの》を女房《にようぼう》とも付《つ》かず引《ひ》き擦《ず》り込《こ》む事《こと》がありますが、惚《ほ》れたとなつたら、彼《かれ》のだらし無《な》さは又《また》一入《ひとしほ》で、女《をんな》の歡心《くわんしん》を買《か》ふためには一生懸命《いつしやうけんめい》お太鼓《たいこ》を叩《たゝ》き、亭主《ていしゆ》らしい權威《けんゐ》なぞは少《すこ》しもありません。何《なん》でも欲《ほ》しいと云《い》ふものは、買《か》ひ放題《はうだい》、
「お前《まへ》さん、かうして下《くだ》さい、ああして下《くだ》さい。」と、頤《あご》でこき使《つか》はれて、ハイハイ云《い》ふ事《こと》を聞《き》いて居《ゐ》る意氣地《いくぢ》のなさ。どうかすると酒癖《さけくせ》の惡《わる》い女《をんな》に、馬鹿野郞《ばかやらう》呼《よ》ばはりをされて、頭《あたま》を擲《なぐ》られて居《ゐ》ることもあります。女《をんな》の居《ゐ》る當座《たうざ》は、茶屋《ちやや》の附《つ》き合《あ》ひも大槪《たいがい》斷《ことわ》つて了《しま》ひ、每晚《まいばん》のやうに友逹《ともだち》や店員《てんゐん》を二階《にかい》座敷《ざしき》に集《あつ》めて、女房《にようぼう》の三味線《しやみせん》で飮《の》めや唄《うた》への大騷《おほさわ》ぎをやります。一度《いちど》彼《かれ》は自分《じぶん》の女《をんな》を友逹《ともだち》に寐取《ねと》られたことがありましたが、其《そ》れでも別《わか》れるのが惜《を》しくつて、いろいろと女《をんな》の機嫌《きげん》氣褄《きづま》を取《と》り、色男《いろをとこ》に反物《たんもの》を買《か》つてやつたり二人《ふたり》を伴《つ》れて芝居《しばゐ》に出《で》かけたり、或《あ》る時《とき》は其《そ》の女《をんな》と其《そ》の男《をとこ》を座敷《ざしき》の上座《じやうざ》へ据《す》ゑて、例《れい》の如《ごと》く自分《じぶん》がお太鼓《たいこ》を叩《たゝ》き、すつかり二人《ふたり》の道具《だうぐ》に使《つかは》れて喜《よろこ》んで居《ゐ》ます。しまひには、時々《とき/″\》金《かね》を與《あた》へて役者買《やくしやか》ひをさせると云《い》ふ條件《でうけん》の下《もと》に、内《うち》へ引《ひ》き込《こ》んだ藝者《げいしや》なぞもありました。男同士《をとこどうし》の意地張《いぢは》りとか、嫉妬《しつと》の爲《た》めの立腹《りつぷく》とか云《い》ふやうな氣持《きもち》は其《そ》の男《をとこ》には毛程《けほど》もないのです。
其《そ》の代《かは》り、また非常《ひじやう》に飽《あ》きつぽい質《たち》で、惚《ほ》れて惚《ほ》れて惚《ほ》れ拔《ぬ》いて、執拗《しつこ》い程《ほど》ちやほやするかと思《おも》へば、直《ぢ》きに餘熱《ほとぼり》がさめて了《しま》ひ、何人《なんにん》となく女房《にようぼう》を取《と》り換《か》へます。元《もと》より彼《かれ》に惚《ほ》れてゐる女《をんな》はありませんから、脈《みやく》のある間《あひだ》に精々《せい/″\》搾《しぼ》つて置《お》いて、好《い》い時分《じぶん》に向《むか》うから出《で》て行《ゆ》きます。かう云《い》ふ鹽梅《あんばい》で、店員《てんゐん》などにも一向《いつかう》威信《ゐしん》がなく、時々《とき/″\》は大穴《おほあな》も開《あ》けられるし、商賣《しやうばい》の方《はう》も疎《おろそ》かになつて、間《ま》もなく店《みせ》は潰《つぶ》れて了《しま》ひました。
其《そ》の後《ご》、彼《かれ》は直屋《ぢきや》になつたり、客引《きゃくひき》になつたりして、人《ひと》の顏《かほ》さへ見《み》れば、
「今《いま》に御覽《ごらん》なさい。一|番《ばん》盛《も》り返《かへ》して見《み》せますから。」
などと放言《はうげん》して居《ゐ》ました。一寸《ちよつと》おあいそも好《よ》し、相應《さうおう》に目先《めさき》の利《き》く所《ところ》もあつて、たまには儲《まう》け口《ぐち》もありましたが、いつも女《をんな》にしてやられ、年中《ねんぢう》ぴいぴいして居《ゐ》ます。其《そ》のうちにたうとう借金《しやつきん》で首《くび》が廻《まは》らなくなり、
「當分《たうぶん》私《わたし》を使《つか》つて見《み》てくれ。」
かう云《い》つて、昔《むかし》の友逹《ともだち》の榊原《さかきばら》の店《みせ》へ轉《ころ》げ込《こ》みました。
一介《いつかい》の店員《てんゐん》と迄《まで》零落《れいらく》しても、身《み》に沁《し》み込《こ》んだ藝者遊《げいしやあそ》びの味《あぢ》は、しみじみ忘《わす》れる事《こと》が出來《でき》ません。時々《とき/″\》彼《かれ》は忙《いそが》しさうに人々《ひと/″\》の立《た》ち働《はたら》いて居《ゐ》る帳場《ちやうば》の机《つくゑ》に向《むか》つて、なまめかしい女《をんな》の聲《こゑ》や陽氣《やうき》な三味線《しやみせん》の音色《ねいろ》を想《おも》ひ出《だ》し、口《くち》の中《なか》で端唄《はうた》を歌《うた》ひながら、晝間《ひるま》から浮《う》かれて居《ゐ》ることがあります。しまひには辛抱《しんばう》が仕切《しき》れなくなり、何《なん》とか彼《か》とか體《てい》の好《よ》い口《くち》を利《き》いては其《そ》れから其《そ》れへとちびちびした金《かね》を借《か》り倒《たふ》し、主人《しゆじん》の眼《め》を掠《かす》めて遊《あそ》びに行《ゆ》きます。
「彼奴《あいつ》もあれで可愛《かあい》い奴《やつ》さ。」
と、始《はじ》めの二三度《にさんど》は淸《きよ》く金《かね》を出《だ》してやつた連中《れんぢう》も、あまり度重《たびかさ》なるので、遂《つひ》には腹《はら》を立《た》て、
「櫻井《さくらゐ》にも呆《あき》れたものだ。ああずぼら[#「ずぼら」に傍点]ぢやあ手《て》が附《つ》けられない。あんな質《たち》の惡《わる》い奴《やつ》ぢやなかつたんだが、今度《こんど》無心《むしん》に來《き》やがつたら、うんと怒《おこ》り付《つ》けてやらう。」
かう思《おも》つては見《み》るものの、さて本人《ほんにん》に顏《かほ》を合《あ》はせると、何處《どこ》となく哀《あは》れつぽい處《ところ》があつて、とても强《つよ》い言《こと》は云《い》へなくなり、
「また此《こ》の次《つ》ぎに埋《う》め合《あ》はせをするから、今日《けふ》は見逃《みのが》して貰《もら》ひたいね。」
ぐらゐの所《ところ》で追拂《おつぱら》はうとするのですが、
「まあ賴《たの》むからさう云《い》はないで、借《か》してくれ給《たま》へ。ナニ直《ぢ》き返《かへ》すから好《い》いぢやないか。後生《ごしやう》お願《ねが》ひ!全《まつた》く後生《ごしやう》お願《ねが》ひなんだ。」
と、うるさく附《つ》き纏《まと》つて賴《たの》むので、大槪《たいがい》の者《もの》は根負《こんま》けをして了《しま》ひます。
主人《しゆじん》の榊原《さかきばら》も見《み》るに見《み》かね、
「時々《とき/″\》己《おれ》が伴《つ》れて行《い》つてやるから、あんまり人《ひと》に迷惑《めいわく》を掛《か》けないやうにしたらどうだ。」
かう云《い》つて、三度《さんど》に一度《いちど》は馴染《なじみ》の待合《まちあひ》へ供《とも》をさせると、其《そ》の時《とき》ばかりは別人《べつじん》のやうにイソイソ立《た》ち働《はたら》いて、忠勤《ちうきん》を抽《ぬき》んでます。商賣上《しやうばいじやう》の心配事《しんぱいごと》で氣《き》がくさくさする時《とき》は、此《こ》の男《をとこ》と酒《さけ》でも飮《の》みながら、罪《つみ》のない顏《かほ》を見《み》て居《ゐ》るのが、何《なに》より藥《くすり》なので、主人《しゆじん》も繁《し》げ繁《し》げ供《とも》に伴《つ》れて行《ゆ》きます。しまひには店員《てんゐん》としてよりも其《そ》の方《はう》の勤《つとめ》が主《おも》になつて、晝間《ひるま》は一|日《にち》店《みせ》にごろごろしながら、
「僕《ぼく》は榊原商店《さかきばらしやうてん》の内藝者《うちげいしや》さね。」
などと冗談《じやうだん》を云《い》つて、彼《かれ》は得々《とく/\》たるものです。
榊原《さかきばら》は堅儀《かたぎ》の家《いへ》から貰《もら》つた細君《さいくん》もあれば、十五六《じふごろく》の娘《むすめ》を頭《かしら》に二三人《にさんにん》の子供《こども》もありましたが、上《かみ》さん始《はじ》め、女中逹《ぢよちうたち》まで皆《みな》櫻井《さくらゐ》を可愛《かあい》がつて、「櫻井《さくらゐ》さん、御馳走《ごちそう》がありますから臺所《だいどころ》で一|杯《ぱい》おやんなさいな。」と奧《おく》へ呼《よ》び寄《よ》せては、面白《おもしろ》い洒落《しやれ》でも聞《き》かうとします。
「お前《まへ》さんのやうに呑氣《のんき》だつたら、貧乏《びんばふ》しても苦《く》にはなるまいね。一生《いつしやう》笑《わら》つて暮《くら》せれば、其《そ》れが一|番《ばん》仕合《しあは》せだとも。」
お上《かみ》さんにかう云《い》はれると、彼《かれ》は得意《とくい》になつて、
「全《まつた》くです。だから私《わツし》なんざあ、昔《むかし》からつひぞ腹《はら》と云《い》ふものを立《た》てたことがありません。それと云《い》ふのが矢張《やつぱり》道樂《だうらく》をしたお蔭《かげ》でございますね。‥‥‥‥」
などと、其《そ》れから一|時間《じかん》ぐらゐは、のべつに喋《しやべ》ります。
時《とき》には又《また》小聲《こごゑ》で、錆《さび》のある喉《のど》を聞《き》かせます。端唄《はうた》、常磐津《ときわづ》、淸元《きよもと》、なんでも一《ひ》と通《とほ》りは心得《こゝろえ》て居《い》て自分《じぶん》で自分《じぶん》の美音《びおん》に醉《よ》ひながら、口三味線《くちじやみせん》でさも嬉《うれ》しさうに歌《うた》ひ出《だ》す時《とき》は、誰《だれ》もしみじみと聞《き》かされます。いつも流行唄《はやりうた》を眞先《まつさき》に覺《おぼ》えて來《き》ては、
「お孃《ぢやう》さん、面白《おもしろ》い唄《うた》を敎《をし》へませうか。」
と、早速《さつそく》奧《おく》へ披露《ひらう》します。歌舞伎座《かぶきざ》の狂言《きやうげん》なども、出《だ》し物《もの》の變《かは》る度《たび》に二三度《にさんど》立《た》ち見《み》に出《で》かけ、直《ぢ》きに芝翫《しくわん》や八百藏《やをざう》の聲色《こわいろ》を覺《おぼ》えて來《き》ます。どうかすると、便所《べんじよ》の中《なか》や、往來《わうらい》のまんなかで、眼《め》をむき出《だ》したり、首《くび》を振《ふ》つたり、一生懸命《いつしやうけんめい》聲色《こわいろ》の稽古《けいこ》に浮身《うきみ》を窶《やつ》して居《ゐ》ることもありますが、手持無沙汰《てもちぶさた》の時《とき》は、始終《しじゆう》口《くち》の先《さき》で小唄《こうた》を歌《うた》ふとか、物眞似《ものまね》をやるとか、何《なに》かしら一人《ひとり》で浮《う》かれて居《ゐ》なければ、氣《き》が濟《す》まないのです。
子供《こども》の折《をり》から、彼《かれ》は音曲《おんぎよく》や落語《らくご》に非常《ひじやう》な趣味《しゆみ》を持《も》つて居《ゐ》ました。何《なん》でも生《うま》れは芝《しば》の愛宕下邊《あたごしたへん》で、小學校時代《せうがくかうじだい》には神童《しんどう》と云《い》はれた程《ほど》學問《がくもん》も出來《でき》れば、物覺《ものおぼ》えも良《よ》かつたのですが、幇間的《ほうかんてき》の氣質《きしつ》は旣《すで》に其《そ》の頃《ころ》備《そな》はつて居《ゐ》たものと見《み》え、級中《きふちう》の主席《しゆせき》を占《し》めて居《ゐ》るにも拘《かゝは》らず、まるで家來《けらい》のやうに友逹《ともだち》から扱《あつか》はれて喜《よろこ》んで居《ゐ》ました。さうして親父《おやぢ》にせびつては每晚《まいばん》のやうに寄席《よせ》へ伴《つ》れて行《い》つて貰《もら》ひます。彼《かれ》は落語家《らくごか》に對《たい》して、一種《いつしゆ》の同情《どうじやう》、寧《むし》ろ憧憬《どうけい》の念《ねん》をさへ抱《いだ》いて居《ゐ》ました。先《ま》づぞろりとした風采《ふうさい》で高座《かうざ》へ上《あが》り、ぴたりとお客樣《きやくさま》へお辭儀《じぎ》をして、さて、
「ええ每度《まいど》伺《うかゞ》ひまするが、兎角《とかく》此《こ》の、殿方《とのがた》のお失策《しくじり》は酒《さけ》と女《をんな》でげして、取《と》り分《わ》け御婦人《ごふじん》の勢力《せいりよく》と申《まを》したら大《たい》したものでげす。我《わ》が國《くに》は天《あま》の窟戶《いはと》の始《はじ》まりから、『女《をんな》ならでは夜《よ》の明《あ》けぬ國《くに》』などと申《まを》しまする。‥‥‥‥」
と喋《しやべ》り出《だ》す舌先《したさき》の旨味《うまみ》、何《なん》となく情愛《じやうあい》のある話振《はなしぶ》りは、喋《しやべ》つて居《ゐ》る當人《たうにん》も、嘸《さぞ》好《い》い氣持《きもち》だらうと思《おも》はれます。さうして、一言一句《いちごんいつく》に女子供《をんなこども》を可笑《をか》しがらせ、時々《とき/″\》愛嬌《あいけう》たつぷりの眼《め》つきで、お客《きやく》の方《はう》を一順《いちじゆん》見廻《みまは》して居《ゐ》る。其處《そこ》に何《なん》とも云《い》はれない人懷《ひとなつ》ツこい所《ところ》があつて、『人間《にんげん》社會《しやくわい》の溫《あたゝ》か味《み》。』と云《い》ふやうなものを、彼《かれ》はかう云《い》ふ時《とき》に最《もつと》も强《つよ》く感《かん》じます。
「あ、こりや、こりや。」
と、陽氣《やうき》な三味線《しやみせん》に乘《の》つて、都々逸《どゞいつ》、三下《さんさが》り、大津繪《おほつゑ》などを、粹《いき》な節廻《ふしまは》しで歌《うた》はれると、子供《こども》ながらも體内《たいない》に漠然《ばくぜん》と潛《ひそ》んで居《ゐ》る放蕩《はうたう》の血《ち》が湧《わ》き上《あが》つて、人生《じんせい》の樂《たの》しさ、歡《よろこ》ばしさを暗示《あんし》されたやうな氣《き》になります。學校《がくかう》の往《ゆ》き復《かへ》りには、よく淸元《きよもと》の師匠《ししやう》の家《いへ》の窓下《まどした》に彳《たゝず》んで、うつとりと聞《き》き惚《ほ》れて居《ゐ》ました。夜《よる》机《つくゑ》に向《むか》つて居《ゐ》る時《とき》でも、新内《しんない》の流《なが》しが聞《きこ》えると勉强《べんきやう》が手《て》に付《つ》かず、忽《たちま》ち本《ほん》を伏《ふ》せて醉《よ》つたやうになつて了《しま》ひます。二十《はたち》の時《とき》、始《はじ》めて人《ひと》に誘《さそ》はれて藝者《げいしや》を揚《あ》げましたが、綺麗《きれい》な女《をんな》がずらりと眼《め》の前《まへ》に並《なら》んで、平生《へいぜい》憧《あこが》れてゐたお座附《ざつき》の三味線《しやみせん》を引《ひ》き出《だ》すと、彼《かれ》は杯《さかづき》を手《て》にしながら、感極《かんきは》まつて、淚《なみだ》を眼《め》に一杯《いつぱい》溜《た》めてゐました。さう云《い》ふ風《ふう》ですから、藝事《げいごと》の上手《じやうづ》なのも無理《むり》はありません。
彼《かれ》を本職《ほんしよく》の幇間《たいこもち》にさせたのは、全《まつた》く榊原《さかきばら》の旦那《だんな》の思《おも》ひ附《つ》きでした。
「お前《まへ》もいつまで内《うち》にごろごろして居《ゐ》ても仕方《しかた》があるめえ。一《ひと》つ己《おれ》が世話《せわ》をしてやるから、幇間《たいこもち》になつたらどうだ。只《たゞ》で茶屋酒《ちややざけ》を飮《の》んで其《そ》の上《うへ》祝儀《しうぎ》が貰《もら》へりやあ、此《こ》れ程《ほど》結構《けつこう》な商賣《しやうばい》はなからうぜ。お前《まへ》のやうな怠《なま》け者《もの》の掃《は》け場《ば》には持《も》つて來《こ》いだ。」
かう云《い》はれて、彼《かれ》も早速《さつそく》其《そ》の氣《き》になり、旦那《だんな》の膽煎《きもい》りで到頭《たうとう》柳橋《やなぎばし》の太鼓持《たいこも》ちに弟子入《でしい》りをしました。三平《さんぺい》と云《い》ふ名《な》は、其《そ》の時《とき》師匠《ししやう》から貰《もら》つたのです。
「櫻井《さくらゐ》が太鼓持《たいこも》ちになつたつて?成《な》る程《ほど》人間《にんげん》に廢《すた》りはないもんだ。」
と、兜町《かぶとちやう》の連中《れんちう》も、噂《うはさ》を聞《き》き傳《つた》へて肩《かた》を入《い》れてやります。新參《しんざん》とは云《い》ひながら、藝《げい》は出來《でき》るし、お座敷《ざしき》は巧《うま》し、何《なに》しろ幇間《たいこもち》にならぬ前《まへ》から頓狂者《とんきやうもの》の噂《うはさ》の高《たか》い男《をとこ》の事故《ことゆゑ》、またたく間《ま》に賣《う》り出《だ》して了《しま》ひました。
或《あ》る時《とき》の事《こと》でした。榊原《さかきばら》の旦那《だんな》が、待合《まちあひ》の二階《にかい》で五六人《ごろくにん》の藝者《げいしや》をつかまへ、催眠術《さいみんじゆつ》の稽古《けいこ》だと云《い》つて、片《かた》つ端《ぱし》からかけて見《み》ましたが、一人《ひとり》の雛妓《おしやく》が少《すこ》しばかりかかつただけで、他《ほか》の者《もの》はどうしてもうまく眠《ねむ》りません。すると其《そ》の席《せき》に居《ゐ》た三平《さんぺい》が急《きふ》に恐毛《おぞけ》を慄《ふる》ひ出《だ》し、
「旦那《だんな》、私《わツし》やあ催眠術《さいみんじゆつ》が大嫌《だいきら》ひなんだから、もうお止《よ》しなさい。何《なん》だか人《ひと》のかけられるのを見《み》てさへ、頭《あたま》が變《へん》になるんです。」
かう云《い》つた樣子《やうす》が、恐《おそろ》しがつて居《ゐ》るやうなものの、如何《いか》にもかけて貰《もら》ひたさうなのです。
「いい事《こと》を聞《き》いた。そんならお前《まへ》を一《ひと》つかけてやらう、そら、もうかかつたぞ。そうら、だんだん眠《ねむ》くなつて來《き》たぞ。」
かう云《い》つて、旦那《だんな》が睨《にら》み付《つ》けると、
「ああ、眞平《まつぴら》、眞平《まつぴら》。そいつばかりはいけません。」
と、顏色《かほいろ》を變《か》へて、逃《に》げ出《だ》さうとするのを、旦那《だんな》が後《うし》ろから追《お》ひかけて、三平《さんぺい》の顏《かほ》を掌《てのひら》で二三度《にさんど》撫《な》で廻《まは》し、
「そら、もう今度《こんど》こそかかつた、もう駄目《だめ》だ。逃《に》げたつてどうしたつて助《たす》からない。」
さう云《い》つて居《ゐ》るうちに、三平《さんぺい》の項《うなじ》はぐたりとなり、其處《そこ》へ倒《たふ》れてしまひました。
面白半分《おもしろはんぶん》にいろいろの暗示《あんし》を與《あた》へると、どんな事《こと》でもやります。「悲《かな》しいだらう。」と云《い》へば、顏《かほ》をしかめてさめざめと泣《な》く。「口惜《くや》しからう。」と云《い》へば、眞赤《まつか》になつて怒《おこ》り出《だ》す。お酒《さけ》だと云《い》つて、水《みづ》を飮《の》ませたり、三味線《しやみせん》だと云《い》つて、箒木《はうき》を抱《だ》かせたり、其《そ》の度《たび》每《ごと》に女逹《をんなたち》はきやツきやツと笑《わら》ひ轉《ころ》げます。やがて旦那《だんな》は三平《さんぺい》の鼻先《はなさき》でぬツと自分《じぶん》の臀《しり》をまくり、
「三平《さんぺい》、此《こ》の麝香《じやかう》はいい匂《にほひ》がするだらう。」
かう云《い》つて、素晴《すば》らしい音《おと》を放《はな》ちました。
「成《な》る程《ほど》、此《こ》れは結構《けつこう》な香《かう》でげすな。おお好《い》い匂《にほひ》だ、まるで胸《むね》がすうツとします。」
と、三平《さんぺい》は、さも氣持《きもち》が好《よ》ささうに、匂《にほひ》を嗅《か》いで小鼻《こばな》をひくひくさせます。
「さあ、もう好《い》い加減《かげん》で堪忍《かんにん》してやらう。」
旦那《だんな》が耳元《みゝもと》でぴたツと手《て》を叩《たゝ》くと、彼《かれ》は眼《め》を丸《まる》くして、きよろきよろとあたりを見廻《みまは》し、
「到頭《たうとう》かけられちやつた。どうもあんな恐《おそ》ろしいものはごはせんよ。何《なに》か私《わツし》やあ可笑《をか》しな事《こと》でもやりましたかね。」
かう云《い》つて、漸《やうや》く我《われ》に復《かへ》つた樣子《やうす》です。
すると、いたづら好《づ》きの梅吉《うめきち》と云《い》ふ藝者《げいしや》がにじり出《だ》して、
「三平《さんぺい》さんなら、妾《わたし》にだつてかけられるわ。そら、もうかかつた!ほうら、だんだん眠《ねむ》くなつて來《き》てよ。」
と、座敷中《ざしきぢう》を逃《に》げて步《ある》く三平《さんぺい》を追《お》ひ廻《まは》して、襟首《えりくび》へ飛《と》び付《つ》くや否《いな》や、
「ほら、もう駄目駄目《だめだめ》。さあ、もうすつかりかかつちまつた。」
かう云《い》ひながら、顏《かほ》を撫《な》でると、再《ふたゝ》びぐたりとなつて、あんぐり口《くち》を開《あ》いたまま、女《をんな》の肩《かた》へだらしなく凭《もた》れて了《しま》ひます。
今度《こんど》は梅吉《うめきち》が、觀音樣《くわんのんさま》だと云《い》つて自分《じぶん》を拜《おが》ませたり、大地震《おほぢしん》だと云《い》つて恐《こは》がらせたり、其《そ》の度《たび》每《ごと》に表情《へうじやう》の盛《さかん》な三平《さんぺい》の顏《かほ》が、千變萬化《せんぺんばんくわ》する可笑《をか》しさと云《い》つたらありません。
それからと云《い》ふものは、榊原《さかきばら》の旦那《だんな》と梅吉《うめきち》に一《ひ》と睨《にら》みされれば、直《す》ぐにかけられて、ぐたりと倒《たふ》れます。ある晚《ばん》、梅吉《うめきち》がお座敷《ざしき》の歸《かへ》りに柳橋《やなぎばし》の袂《たもと》で擦《す》れちがひさま、
「三平《さんぺい》さん、そら!」
と云《い》つて睨《にら》みつけると、
「ウム」
と云《い》つたなり、往來《わうらい》のまん中《なか》へ仰《の》け反《ぞ》つて了《しま》ひました。
彼《かれ》は此《こ》れ程《ほど》までにしても、人《ひと》に可笑《をか》しがられたいのが病《やまひ》なんです。然《しか》しなかなか加減《かげん》がうまいのと、あまり圖々《づう/″\》しいのとで、人《ひと》は狂言《きやうげん》にやつて居《ゐ》るのだとは思《おも》ひませんでした。
誰《だれ》云《い》ふとなく、三平《さんぺい》さんは梅《うめ》ちやんに惚《ほ》れて居《ゐ》るのだと云《い》ふ噂《うはさ》が立《た》ちました。其《そ》れでなければ、ああ易々《やす/\》と催眠術《さいみんじゆつ》にかけられる筈《はず》はないと云《い》ふのです。全《まつた》くのところ、三平《さんぺい》は梅吉《うめきち》のやうなお轉婆《てんば》な、男《をとこ》を男《をとこ》とも思《おも》はぬやうな勝氣《かちき》な女《をんな》が好《す》きなのでした。始《はじ》めて催眠術《さいみんじゆつ》にかけられて、散々《さん/″\》な目《め》に會《あ》はされた晚《ばん》から、彼《かれ》はすつかり梅吉《うめきち》の氣象《きしやう》に惚《ほ》れ込《こ》んで了《しま》ひ、機《をり》があつたらどうかしてと、ちよいちよいほのめかして見《み》るのですが、先方《せんぱう》ではまるで馬鹿《ばか》にし切《き》つて、てんで相手《あひて》にしてくれません。機嫌《きげん》の好《い》い時《とき》を窺《うかが》つて、二言三言《ふたことみこと》からかひかけると、直《す》ぐに梅吉《うめきち》は腕白盛《わんぱくざか》りの子供《こども》のやうな無邪氣《むじやき》な眼《め》つきをして、
「そんな言《こと》を云《い》ふと、又《また》かけて上《あ》げるよ。」
と、睨《にら》みつけます。睨《にら》まれれば、大事《だいじ》な口說《くど》きは其方除《そつちの》けにして早速《さつそく》ぐにやりと打倒《ぶつたふ》れます。
遂《つひ》に彼《かれ》は溜《たま》らなくなつて、榊原《さかきばら》の旦那《だんな》に思《おも》ひのたけを打《う》ち明《あ》け、
「まことに商賣柄《しやうばいがら》にも似合《にあ》はない、いやはや意氣地《いくぢ》のない次第《しだい》ですが、たつた一《ひ》と晚《ばん》でようがすから、どうか一《ひと》つ旦那《だんな》の威光《ゐくわう》でうんと云《い》はせておくんなさい。」
と、賴《たの》みました。
「よし來《き》た、萬事《ばんじ》己《おれ》が呑《の》み込《こ》んだから、親船《おやふね》に載《の》つた氣《き》で居《ゐ》るがいい。」
と、旦那《だんな》は又《また》三平《さんぺい》を玩具《おもちや》にしてやらうと云《い》ふ魂膽《こんたん》があるものですから、直《す》ぐに引《ひ》き受《う》け、其《そ》の日《ひ》の夕方《ゆふがた》早速《さつそく》行《ゆ》きつけの待合《まちあひ》へ梅吉《うめきち》を呼《よ》んで三平《さんぺい》の話《はなし》をした末《すゑ》に、
「ちつと罪《つみ》なやうだが、今夜《こんや》お前《まへ》から彼奴《あいつ》を此處《こゝ》へ呼《よ》んで、精精《せいぜい》口先《くちさき》の嬉《うれ》しがらせを聞《き》かせた上《うへ》、肝心《かんじん》の處《ところ》は催眠術《さいみんじゆつ》で欺《だま》してやるがいい。己《おれ》は蔭《かげ》で樣子《やうす》を見《み》て居《ゐ》るから、奴《やつ》を素裸《すつぱだか》にさせて勝手《かつて》な藝當《げいたう》をやらせて御覽《ごらん》。」
こんな相談《さうだん》を始《はじ》めました。
「なんぼ何《なん》でも、それぢやあんまり可哀相《かあいさう》だわ。」
と、流石《さすが》の梅吉《うめきち》も一應《いちおう》躊躇《ちゆうちよ》したものの、後《あと》で露顯《ろけん》したところで、腹《はら》を立《た》てるやうな男《をとこ》ではなし、面白《おもしろ》いからやつて見《み》ろ。と云《い》ふ氣《き》になりました。
さて、夜《よる》になると、梅吉《うめきち》の手紙《てがみ》を持《も》つて、車夫《しやふ》が三平《さんぺい》の處《ところ》へ迎《むか》へに行《ゆ》きました。「今夜《こんや》はあたし一人《ひとり》だから、是非《せひ》遊《あそ》びに來《き》てくれろ。」と云《い》ふ文面《ぶんめん》に、三平《さんぺい》はぞくぞく嬉《よろこ》び、てツきり旦那《だんな》が口《くち》を利《き》いていくらか掴《つか》ましたに相違《さうゐ》ないと、平生《へいぜい》よりは大《おほい》に身《み》じまひを整《とゝの》へ、ぞろりとした色男《いろをとこ》氣取《きどり》で待合《まちあひ》へ出《で》かけました。
「さあさあ、もつとずツと此方《こつち》へ。ほんとに三平《さんぺい》さん、今夜《こんや》は妾《あたし》だけなんだから、窮屈《きうくつ》な思《おも》ひをしないで、ゆつくりくつろいでおくんなさいな。」
と、梅吉《うめきち》は、座布團《ざぶとん》をすすめるやら、お酌《しやく》をするやら、下《した》にも置《お》かないやうにします。三平《さんぺい》は少《すこ》し煙《けむ》に卷《ま》かれて、柄《がら》にもなくおどおどして居《ゐ》ましたが、だんだん醉《よひ》が循《まは》つて來《く》ると、魂《たましひ》が落《お》ち着《つ》き、
「だが梅《うめ》ちやんのやうな男勝《をとこまさ》りの女《をんな》は、私《わツし》や大好《だいす》きサ。」
などと、そろそろ水《みづ》を向《む》け始《はじ》めます。旦那《だんな》を始《はじ》め二三人《にさんにん》の藝者《げいしや》が、中二階《ちうにかい》の掃き出し[#「掃き出し」に傍点]から欄間《らんま》を通《とほ》して、見《み》て居《ゐ》ようとは夢《ゆめ》にも知《し》りません。梅吉《うめきち》は吹《ふ》き出《だ》したくなるのをぢつと堪《こら》へて、散々《さん/″\》出放題《ではうだい》のお上手《じやうづ》を列《なら》べ立《た》てます。
「ねえ、三平《さんぺい》さん。そんなに妾《わたし》に惚《ほ》れて居《ゐ》るのなら、何《なに》か證據《しようこ》が見《み》せて貰《もら》ひたいわ。」
「證據《しようこ》と云《い》つて、どうも困《こま》りますね。全《まつた》く胸《むね》の中《なか》を斷《た》ち割《わ》つて御覽《ごらん》に入《い》れたいくらゐさ。」
「それぢや、催眠術《さいみんじゆつ》にかけて、正直《しやうぢき》な所《ところ》を白狀《はくじやう》させてよ。まあ、妾《あたし》を安心《あんしん》させる爲《た》めだと思《おも》つて、かかつて見《み》て下《くだ》さいよ。」
こんな言《こと》を、梅吉《うめきち》は云《い》ひ出《だ》しました。
「いや、もうあればかりは眞平《まつぴら》です。」
と、三平《さんぺい》も今夜《こんや》こそは、そんな事《こと》で胡麻化《ごまくわ》されてはならないと云《い》ふ決心《けつしん》で、場合《ばあひ》に由《よ》つたら、
「實《じつ》はあの催眠術《さいみんじゆつ》も、お前《まへ》さんに惚《ほ》れた弱味《よわみ》の狂言《きやうげん》ですよ。」
かう打《う》ち明《あ》けるつもりでしたが、
「そら!もうかかつちまつた。そうら。」
と、忽《たちま》ち梅吉《うめきち》の凛《りん》とした、凉《すゞ》しい目元《めもと》で睨《にら》められると、又《また》女《をんな》に馬鹿《ばか》にされたいと云《い》ふ欲望《よくばう》の方《はう》が先《さき》へ立《た》つて、此《こ》の大事《だいじ》の瀨戶際《せとぎは》に又々《また/\》ぐたりとうなだれて了《しま》ひました。
「梅《うめ》ちやんの爲《た》めならば、命《いのち》でも投《な》げ出《だ》します。」とか、「梅《うめ》ちやんが死《し》ねと云《い》へば、今《いま》でも死《し》にます。」とか、尋《たづ》ねられるままに、彼《かれ》はいろいろと口走《くちばし》ります。
もう眠《ねむ》って居《ゐ》るから大丈夫《だいじやうぶ》と、隙見《すきみ》をして居《ゐ》た旦那《だんな》も藝者《げいしや》も座敷《ざしき》へ入《はい》つて來《き》て、ずらりと三平《さんぺい》の周圍《まはり》を取《と》り卷《ま》き、梅吉《うめきち》のいたづらを、橫腹《よこはら》を叩《たゝ》いて袂《たもと》を嚙《か》んで、見《み》て居《ゐ》ます。
三平《さんぺい》は此《こ》の樣子《やうす》を見《み》て、吃驚《びつくり》しましたが、今更《いまさら》止《や》める譯《わけ》にも行《ゆ》きません。寧《むし》ろ彼《かれ》に取《と》つては、惚《ほ》れた女《をんな》にこんな殘酷《ざんこく》な眞似《まね》をさせられるのが愉快《ゆくわい》なのですから、どんな恥《はづ》かしい事《こと》でも、云《い》ひ附《つ》け通《どほ》りにやります。
「此處《こゝ》はお前《まへ》さんと妾《あたし》と二人《ふたり》限《ぎ》りだから、遠慮《ゑんりよ》しないでもいいわ。さあ、羽織《はおり》をお脫《ぬ》ぎなさい。」
かう云《い》はれると、裏地《うらぢ》に夜櫻《よざくら》の模樣《もやう》のある黑縮緬《くろちりめん》の無雙羽織《むさうばおり》をするすると脫《ぬ》ぎます。それから藍色《あゐいろ》の牡丹《ぼたん》くづしの繻珍《しゆつちん》の帶《おび》を解《と》かれ、赤大名《あかだいみやう》のお召《めし》を脫《ぬ》がされ、背中《せなか》へ雷神《らいじん》を描《ゑが》いて裾《すそ》へ赤《あか》く稻妻《いなづま》を染《そ》め出《だ》した白縮緬《しろちりめん》の長襦袢《ながじゆばん》一《ひと》つになり、折角《せつかく》めかし込《こ》んで來《き》た衣裳《いしやう》を一枚《いちまい》一枚《いちまい》剝《は》がされて、到頭《たうとう》裸《はだか》にされて了《しま》ひました。それでも三平《さんぺい》には、梅吉《うめきち》の酷《むご》い言葉《ことば》が嬉《うれ》しくつて嬉《うれ》しくつて溜《たま》りません。果《は》ては女《をんな》の與《あた》へる暗示《あんし》のままに、云《い》ふに忍《しの》びないやうな事《こと》をします。

散々《さん/″\》弄《もてあそ》んだ末《すゑ》に、梅吉《うめきち》は充分《じゆうぶん》三平《さんぺい》を睡《ねむ》らせて、皆《みんな》と一緖《いつしよ》に其處《そこ》を引《ひ》き上《あ》げて了《しま》ひました。

翌《あ》くる日《ひ》の朝《あさ》、梅吉《うめきち》に呼《よ》び醒《さ》まされると、三平《さんぺい》はふと眼《め》を開《あ》いて、枕許《まくらもと》に坐《すわ》つてゐる寢衣姿《ねまきすがた》の女《をんな》の顏《かほ》を惚《ほ》れ惚《ぼ》れと見上《みあ》げました。三平《さんぺい》を欺《だま》すやうに、わざと女《をんな》の枕《まくら》や衣類《いるゐ》が其《そ》の邊《へん》に散《ち》らばつて居《ゐ》ました。
「妾《あたし》は今《いま》起《お》きて顏《かほ》を洗《あら》つて來《き》た所《ところ》なの。ほんとにお前《まへ》さんはよく寐《ね》て居《ゐ》るのね。だからきつと後生《ごしやう》がいいんだわ。」
と、梅吉《うめきち》は何喰《なにく》はぬ顏《かほ》をしてゐます。
「梅《うめ》ちやんにこんなに可愛《かあい》がつて貰《もら》へりやあ、後生《ごしやう》よしに違《ちが》ひありやせん。日頃《ひごろ》の念《ねん》が屆《とゞ》いて、私《わツし》やあ全《まつた》く嬉《うれ》しうがす。」
かう云《い》つて、三平《さんぺい》はピヨコピヨコお辭儀《じぎ》をしましたが、俄《にはか》にそはそはと起《お》き上《あか》つて着物《きもの》を着換《きか》へ、
「世間《せけん》の口《くち》がうるさうがすから、今日《けふ》の所《ところ》はちつとも早《はや》く失禮《しつれい》しやす。何卒《どうぞ》末長《すゑなが》くね。へツ、此《こ》の色男《いろをとこ》め!」
と、自分《じぶん》の頭《あたま》を輕《かる》く叩《たゝ》いて、出《で》て行《ゆ》きました。

「三平《さんぺい》、此《こ》の間《あひだ》の首尾《しゆび》はどうだつたい。」
と、それから二三日《にさんにち》過《す》ぎて、榊原《さかきばら》の旦那《だんな》が尋《たづ》ねました。
「や、どうもお蔭樣《かげさま》で有難《ありがた》うがす。なあにぶつかつて見《み》りやあまるでたわい[#「たわい」に傍点]はありませんや。氣丈《きぢやう》だの、勝氣《かちき》だのと云《い》つたつて、女《をんな》は矢張《やつぱり》女《をんな》でげす。からツきし、だらしも何《なに》もあつた話《はなし》ぢやありません。」
と、恐悅至極《きやうえつしごく》の體《て》たらくに、
「お前《はめ》もなかなか色男《いろをとこ》だな。」
かう云《い》つて冷《ひや》かすと、
「えへゝゝゝ」
と、三平《さんぺい》は、卑《いや》しい、Professional な笑《わら》ひ方《かた》をして、扇子《せんす》でぽんと額《ひたひ》を打《う》ちました。


祕密

其《そ》の頃《ころ》私《わたし》は或《あ》る氣紛《きまぐ》れな考《かんがへ》から、今迄《いままで》自分《じぶん》の身《み》のまはりを裹《つゝ》んで居《ゐ》た賑《にぎや》かな雰圍氣《ふんゐき》を遠《とほ》ざかつて、いろいろの關係《くわんけい》で交際《かうさい》を續《つゞ》けて居《ゐ》た男《をとこ》や女《をんな》の圈内《けんない》から、ひそかに逃《のが》れ出《で》ようと思《おも》ひ、方方《はうばう》と適當《てきたう》な隱《かく》れ家《が》を搜《さが》し求《もと》めた揚句《あげく》、淺草《あさくさ》の松葉町《まつばちやう》邊《へん》に眞言宗《しんごんしう》の寺《てら》のあるのを見付《みつ》けて、やうやう其處《そこ》の庫裡《くり》の一《ひ》と間《ま》を借《か》り受《う》けることになつた。
新堀《しんぼり》の溝《どぶ》へついて、菊屋橋《きくやばし》から門跡《もんぜき》の裏手《うらて》を眞直《まつす》ぐに行《い》つたところ、十二|階《かい》の下《した》の方《はう》の、うるさく入《い》り組《く》んだ obscene な町《まち》の中《なか》に其《そ》の寺《てら》はあつた。ごみ溜《た》めの箱《はこ》を覆《くつがへ》した如《ごと》く、彼《あ》の邊《へん》一|帶《たい》にひろがつて居《ゐ》る貧民窟《ひんみんくつ》の片側《かたがは》に、黃橙色《だい/″\いろ》の土塀《どべい》の壁《かべ》が長《なが》く續《つゞ》いて、如何《いか》にも落《お》ち着《つ》いた、重々《おも/\》しい寂《さび》しい感《かん》じを與《あた》へる構《かま》へであつた。
私《わたし》は最初《さいしよ》から、澁谷《しぶや》だの大久保《おほくぼ》だのと云《い》ふ郊外《かうぐわい》へ隱遁《いんとん》するよりも、却《かへ》つて市内《しない》の何處《どこ》かに人《ひと》の心付《こゝろづ》かない、不思議《ふしぎ》なさびれた所《ところ》があるであらうと思《おも》つてゐた。丁度《ちやうど》瀨《せ》の早《はや》い溪川《たにがは》のところどころに、澱《よど》んだ淵《ふち》が出來《でき》るやうに、下町《したまち》の雜踏《ざつたう》する巷《ちまた》と巷《ちまた》の間《あはひ》に狹《はさ》まりながら、極《きは》めて特殊《とくしゆ》の場合《ばあひ》か、特殊《とくしゆ》の人《ひと》でなければめつた[#「めつた」に傍点]に通行《つうかう》しないやうな閑靜《かんせい》な一|廓《くわく》が、なければなるまいと思《おも》つてゐた。
同時《どうじ》に又《また》こんな事《こと》も考《かんが》へて見《み》た。――
己《おれ》は隨分《ずゐぶん》旅行好《りよかうず》きで、京都《きやうと》仙臺《せんだい》はおろか、北海道《ほくかいだう》から九|州《しう》までも步《ある》いて來《き》た。けれども未《ま》だ此《こ》の東京《とうきやう》の町《まち》の中《なか》に、人形町《にんぎやうちやう》で生《うま》れて二十|年《ねん》來《らい》永住《えいぢう》してゐる東京《とうきやう》の町《まち》の中《なか》に、一|度《ど》も足《あし》を踏《ふ》み入《い》れた事《こと》のないと云《い》ふ通《とほ》りが、屹度《きつと》あるに違《ちが》ひない。いや、思《おも》つたより澤山《たくさん》あるに違《ちが》ひない。――
さうして大都會《だいとくわい》の下町《したまち》に、蜂《はち》の巢《す》の如《ごと》く交錯《かうさく》してゐる大小無數《だいせうむすう》の街路《がいろ》のうち、私《わたし》が通《とほ》つた事《こと》のある所《ところ》と、ない所《ところ》では、孰方《どつち》が多《おほ》いかちよいと判《わか》らなくなつて來た。
何《なん》でも十一二歲《じふいちにさい》の頃《ころ》であつたらう。父《ちゝ》と一|緖《しよ》に深川《ふかがは》の八|幡樣《まんさま》へ行《い》つた時《とき》、
「これから渡《わた》しを渡《わた》つて、冬木《ふゆぎ》の米市《こめいち》で名代《なだい》のそばを御馳走《ごちそう》してやるかな。」
かう云《い》つて、父《ちゝ》は私《わたし》を境内《けいだい》の社殿《しやでん》の後《うし》ろの方《はう》へ連《つ》れて行《い》つた事《こと》がある。其處《そこ》には小網町《こあみちやう》や小舟町《こぶなちやう》邊《へん》の堀割《ほりわり》と全《まつた》く趣《おもむき》の違《ちが》つた、幅《はゞ》の狹《せま》い、岸《きし》の低《ひく》い、水《みづ》の一|杯《ぱい》にふくれ上《あが》つてゐる川《かは》が、細《こま》かく建《た》て込《こ》んでゐる兩岸《りやうがん》の家々《いへ/\》の、軒《のき》と軒《のき》とを押《お》し分《わ》けるやうに、どんよりと物憂《ものう》く流《なが》れて居《ゐ》た。小《ちひ》さな渡《わた》し船《ぶね》は、川幅《かはゝば》よりも長《なが》さうな荷足《にた》りや傳馬《てんま》が、幾艘《いくさう》も縱《たて》に列《なら》んでゐる間《あひだ》を縫《ぬ》ひながら、二《ふ》た竿《さを》三竿《みさを》ばかりちよろちよろと水底《みなそこ》を衝《つ》いて往復《わうふく》して居《ゐ》た。
私《わたし》は其《そ》の時《とき》まで、度々《たび/″\》八幡樣《はちまんさま》へお參《まゐ》りをしたが、未《いま》だ嘗《かつ》て境内《けいだい》の裏手《うらて》がどんなになつてゐるか、考《かんが》へて見《み》たことはなかつた。いつも正面《しやうめん》の鳥居《とりゐ》の方《はう》から社殿《しやでん》を拜《おが》むだけで、恐《おそ》らくパノラマの繪《ゑ》のやうに、表《おもて》ばかりで裏《うら》のない、行《ゆ》き止《どま》りの景色《けしき》のやうに自然《しぜん》と考《かんが》へてゐたのであらう。現在《げんざい》眼《め》の前《まへ》にこんな川《かは》や渡《わた》し場《ば》が見《み》えて、其《そ》の先《さき》に廣《ひろ》い地面《ぢめん》が果《は》てしもなく續《つゞ》いてゐる謎《なぞ》のやうな光景《くわうけい》を見《み》ると、何《なん》となく京都《きやうと》や大阪《おほさか》よりももつと東京《とうきやう》をかけ離《はな》れた、夢《ゆめ》の中《なか》で屢々《しば/″\》出逢《であ》ふことのある世界《せかい》の如《ごと》く思《おも》はれた。
それから私《わたし》は、淺草《あさくさ》の觀音堂《くわんおんだう》の眞《ま》うしろにはどんな町《まち》があつたか想像《さうざう》して見《み》たが、仲店《なかみせ》の通《とほ》りから宏大《こうだい》な朱塗《しゆぬり》のお堂《だう》の甍《いらか》を望《のぞ》んだ時《とき》の有樣《ありさま》ばかりが明瞭《めいりやう》に描《ゑが》かれ、其《そ》の外《ほか》の點《てん》はとん[#「とん」に傍点]と頭《あたま》に浮《うか》ばなかつた。だんだん大人《おとな》になつて、世間《せけん》が廣《ひろ》くなるに隨《したが》ひ、知人《ちじん》の家《いへ》を訪《たづ》ねたり、花見遊山《はなみゆさん》に出《で》かけたり、隨分《ずゐぶん》東京市中《とうきやうしちう》は隈《くま》なく步《ある》いたやうであるが、いまだに子供《こども》の時分《じぶん》經驗《けいけん》したやうな不思議《ふしぎ》な別世界《べつせかい》へ、ハタリと行《ゆ》き逢《あ》ふことが度々《たび/″\》あつた。
さう云《い》ふ別世界《べつせかい》こそ、身《み》を匿《かく》すには究竟《くつきやう》であらうと思《おも》つて、此處彼處《こゝかしこ》といろいろに搜《さが》し求《もと》めて見《み》れば見《み》る程《ほど》、今迄《いまゝで》通《とほ》つたことのない區域《くゐき》が至《いた》る處《ところ》に發見《はつけん》された。淺草橋《あさくさばし》と和泉橋《いづみばし》は幾度《いくど》も渡《わた》つて置《お》きながら、其《そ》の間《あひだ》にある左衞門橋《さゑもんばし》を渡《わた》つたことがない。二長町《にちやうまち》の市村座《いちむらざ》へ行《ゆ》くのに、いつも電車通《でんしやどほ》りからそばやの角《かど》を右《みぎ》へ曲《まが》つたが、あの芝居《しばゐ》の前《まへ》を眞直《まつす》ぐに、柳盛座《りうせいざ》の方《はう》へ出《で》る二三町《にさんちやう》ばかりの地面《ぢめん》は、一度《いちど》も踏《ふ》んだ覺《おぼ》えはなかつた。昔《むかし》の永代橋《えいたいばし》の右岸《うがん》の袂《たもと》から、左《ひだり》の方《はう》の河岸《かし》はどんな具合《ぐあひ》になつて居《ゐ》たか、どうも好《よ》く判《わか》らなかつた。其《そ》の外《ほか》八丁堀《はつちやうぼり》、越前堀《ゑちぜんぼり》、三味線堀《しやみせんぼり》、山谷堀《さんやぼり》の界隈《かいわい》には、まだまだ知《し》らない所《ところ》が澤山《たくさん》あるらしかつた。
松葉町《まつばちやう》のお寺《てら》の近傍《きんばう》は、其《そ》のうちでも一|番《ばん》奇妙《きめう》な町《まち》であつた。六區《ろくく》と吉原《よしはら》を鼻先《はなさき》に控《ひか》へて、ちよいと橫丁《よこちやう》を一《ひと》つ曲《まが》つた所《ところ》に、淋《さび》しい、廢《すた》れたやうな區域《くゐき》を作《つく》つてゐるのが非常《ひじやう》に私《わたし》の氣《き》に入《い》つて了《しま》つた。今迄《いまゝで》自分《じぶん》の無《む》二の親友《しんいう》であつた派手《はで》な贅澤《ぜいたく》なさうして平凡《へいぼん》な「東京《とうきやう》」と云《い》ふ奴《やつ》を、置いてき堀[#「置いてき堀」に傍点]にして、靜《しづ》かに其《そ》の騷擾《さうぜう》を傍觀《ばうくわん》しながら、こつそり身《み》を隱《かく》して居《ゐ》られるのが、愉快《ゆくわい》でならなかつた。
隱遁《いんとん》をした目的《もくてき》は、別段《べつだん》勉强《べんきやう》をする爲《た》めではない。其《そ》の頃《ころ》私《わたし》の神經《しんけい》は、刄《は》の擦《す》り切《き》つたやすり[#「やすり」に傍点]のやうに、銳敏《えいびん》な角々《かど/\》がすつかり鈍《にぶ》つて、餘程《よほど》色彩《しきさい》の濃《こ》い、あくどい物《もの》に出逢《であ》はなければ、何《なん》の感興《かんきよう》も湧《わ》かなかつた。微細《びさい》な感受性《かんじゆせい》の働《はたら》きを要求《えうきう》する第《だい》一|流《りう》の藝術《げいじゆつ》だとか、第《だい》一|流《りう》の料理《れうり》だとかを翫味《ぐわんみ》するのが、不可能《ふかのう》になつてゐた。下町《したまち》の粹《すゐ》と云《い》はれる茶屋《ちやゝ》の板前《いたまへ》に感心《かんしん》して見《み》たり、仁左衞門《にざゑもん》や雁治朗《がんぢらう》の伎巧《ぎかう》を賞美《しやうび》したり、凡《す》べて在《あ》り來《きた》りの都會《とくわい》の歡樂《くわんらく》を受《う》け入《い》れるには、あまり心《こゝろ》が荒《すさ》んでゐた。惰力《だりよく》の爲《た》めに面白《おもしろ》くもない懶惰《らんだ》な生活《せいくわつ》を、每日《まいにち》每日《/\》繰《く》り返《かへ》して居《ゐ》るのが、堪《た》へられなくなつて、全然《ぜん/″\》舊套《きうたう》を擺脫《ひだつ》した、物好《ものず》きな、アーティフィシヤルな mode of life を見出《みいだ》して見《み》たかつたのである。
普通《ふつう》の刺戟《しげき》に馴《な》れて了《しま》つた神經《しんけい》を顫《ふる》ひ戰《おのゝ》かすやうな、何《なに》か不思議《ふしぎ》な、奇怪《きくわい》な事《こと》はないであらうか。現實《げんじつ》をかけ離《はな》れた野蠻《やばん》な荒唐《くわうたう》な夢幻的《むげんてき》な空氣《くうき》の中《なか》に、棲息《せいそく》することは出來《でき》ないであらうか。かう思《おも》つて、私《わたし》の魂《たましひ》は遠《とほ》くバビロンやアツシリアの古代《こだい》の傳說《でんせつ》の世界《せかい》にさ迷《まよ》つたり、コナン、ドイルや淚香《るゐかう》の探偵小說《たんていせうせつ》を想像《さうざう》したり、光線《くわうせん》の熾烈《しきれつ》な熱帶地方《ねつたいちはう》の焦土《せうど》と綠野《りよくや》を戀《こ》ひ慕《した》つたり、腕白《わんぱく》な少年時代《せうねんじだい》のエクセントリツクな惡戲《あくぎ》に憧《あこが》れたりした。
賑《にぎや》かな世間《せけん》から不意《ふい》に韜晦《たうくわい》して、行動《かうどう》を唯《たゞ》徒《いたづ》らに祕密《ひみつ》にして見《み》るだけでも、すでに一|種《しゆ》のミステリアスな、ロマンチツクな色彩《しきさい》を自分《じぶん》の生活《せいくわつ》に賦與《ふよ》することが出來《でき》ると思《おも》つた。私《わたし》は祕密《みひつ》と云《い》ふ物《もの》の面白《おもしろ》さを、子供《こども》の時分《じぶん》からしみじみと味《あぢ》はつて居《ゐ》た。かくれんぼ、寶《たから》さがし、お茶坊主《ちやばうず》のやうな遊戲《いうぎ》――殊《こと》に其《そ》れが闇《やみ》の晚《ばん》、うす暗《ぐら》い物置小屋《ものおきごや》や、觀音開《くわんのんびら》きの前《まへ》などで行《おこな》はれる時《とき》の面白味《おもしろみ》は、主《しゆ》として其《そ》の間《あひだ》に「祕密《ひみつ》」と云《い》ふ不思議《ふしぎ》な氣分《きぶん》が、潛《ひそ》んで居《ゐ》るせゐ[#「せゐ」に傍点]であつたに違《ちが》ひない。
私《わたし》はもう一|度《ど》、幼年時代《えうねんじだい》の隱《かく》れん坊《ぼ》のやうな氣持《きもち》を經驗《けいけん》して見《み》たさに、わざと人《ひと》の氣《き》の付《つ》かない、下町《したまち》の曖昧《あいまい》なところに身《み》を隱《かく》したのであつた。其《そ》のお寺《てら》の宗旨《しうし》が「祕密《ひみつ》」とか、「禁厭《まじなひ》」とか、「呪咀《じゆそ》」とか云《い》ふものに緣《えん》の深《ふか》い眞言《しんごん》であることも、私《わたし》の好奇心《かうきしん》を誘《いざな》うて、妄想《まうさう》を育《はぐく》ませるには恰好《かつかう》であつた。部屋《へや》は新《あたら》しく建《た》て增《ま》した庫裡《くり》の一|部《ぶ》で、南《みなみ》を向《む》いた八|疊敷《でふじ》きの、日《ひ》に燒《や》けて少《すこ》し茶色《ちやいろ》がかつてゐる疊《たゝみ》が、却《かへ》つて見《み》た眼《め》には安《やす》らかな、暖《あたゝか》い感《かん》じを與《あた》へた。晝過《ひるす》ぎになると和《なご》やかな秋《あき》の日《ひ》が、幻燈《げんとう》の如《ごと》くあかあかと椽側《えんがは》の障子《しやうじ》に燃《も》えて、室内《しつない》は大《おほ》きな雪洞《ぼんぼり》のやうに明《あか》るかつた。
それから私《わたし》は、今迄《いまゝで》親《した》しんで居《ゐ》た哲學《てつがく》や藝術《げいじゆつ》に關《くわん》する書類《しよるゐ》を、一|切《さい》戶棚《とだな》へ片附《かたづ》けて了《しま》つて、魔術《まじゆつ》だの、催眠術《さいみんじゆつ》だの、探偵小說《たんていせうせつ》だの、化學《くわがく》だの、解剖學《かいばうがく》だのの奇怪《きくわい》な說話《せつわ》と挿繪《さしゑ》に富《と》んでゐる書物《しよもつ》を、さながら土用干《どようぼし》の如《ごと》く部屋中《へやぢう》へ置《お》き散《ち》らして、寐《ね》ころびながら、手《て》あたり次第《しだい》に繰《く》りひろげては耽讀《たんどく》した。其《そ》の中《うち》には、コナン、ドイルの The Sign of Four. や、ド、キンシイの Murder as one of the Fine Arts. や、アラビアン、ナイトのやうなお伽噺《とぎばなし》から、仏蘭西物《フランスもの》の不思議《ふしぎ》な Sexuology の本《ほん》なども交《まじ》つてゐた。
此處《ここ》の住職《ぢうしよく》が祕藏《ひざう》してゐた地獄《ぢごく》極樂《ごくらく》の圖《づ》を始《はじ》め、須彌山圖《しゆみせんづ》だの涅槃像《ねはんざう》だの、いろいろの古《ふる》い佛畫《ぶつぐわ》を强《し》ひて懇望《こんまう》して、丁度《ちやうど》學校《がくかう》の敎員室《けうゐんしつ》にかかつてゐる地圖《ちづ》のやうに、所嫌《ところきら》はず部屋《へや》の四|壁《へき》へぶら下《さ》げて見《み》た。床《とこ》の間《ま》の香爐《かうろ》からは、始終《しじゆう》紫色《むらさきいろ》の香《かう》の煙《けむり》が、眞直《まつす》ぐに靜《しづ》かに立《た》ち昇《のぼ》つて、明《あか》るい暖《あたゝか》い室内《しつない》を焚《た》きしめて居《ゐ》た。私《わたし》は時々《とき/″\》菊屋橋《きくやばし》際《ぎは》の舖《みせ》へ行《い》つて、白檀《びやくだん》や沈香《ちんかう》を買《か》つて來《き》ては、其《そ》れを燻《く》べた。
天氣《てんき》の好《い》い日《ひ》、きらきらとした眞晝《まひる》の光線《くわうせん》が一|杯《ぱい》に障子《しやうじ》へあたる時《とき》の室内《しつない》は、眼《め》の醒《さ》めるやうな壯觀《さうくわん》を呈《てい》した。絢爛《けんらん》な色彩《しきさい》の古畫《こぐわ》の諸拂《しよぶつ》、羅漢《らかん》、比丘《びく》、比丘尼《びくに》、優婆塞《うばそく》、優婆夷《うばい》、象《ざう》、獅子《しし》、麒麟《きりん》などが四|壁《へき》の紙幅《しふく》の内《うち》から、ゆたかな光《ひかり》の中《なか》に泳《およ》ぎ出《だ》す。疊《たゝみ》の上《うへ》に投《な》げ出《だ》された無數《むすう》の書物《しよもつ》からは、慘殺《ざんさつ》、麻醉《ますゐ》、魔藥《まやく》、妖女《えうぢよ》、宗敎《しうけう》――種々雜多《しゆ/″\ざつた》の傀儡《くわいらい》が、香《かう》の煙《けむり》に溶《と》け込《こ》んで、濛々《もう/\》と立《た》ち罩《こ》める中《なか》に、二疊《にでふ》ばかりの緋《ひ》の毛氈《まうせん》を敷《し》き、どんよりとした蠻人《ばんじん》のやうな瞳《ひとみ》を据《す》ゑて、寐《ね》ころんだ儘《まゝ》、私《わたし》は每日每日《まいにちまいにち》幻覺《げんかく》を胸《むね》に描《ゑが》いた。
夜《よる》の九|時頃《じごろ》、寺《てら》の者《もの》が大槪《たいがい》寐靜《ねしづま》つて了《しま》ふと、ヰスキーの角罎《かくびん》を呷《あほ》つて醉《よひ》を買《か》つた後《のち》、勝手《かつて》に椽側《えんがは》の雨戶《あまど》を引《ひ》き外《はづ》し、墓地《ぼち》の生垣《いけがき》を乘《の》り越《こ》えて散步《さんぽ》に出《で》かけた。成《な》る可《べ》く人目《ひとめ》にかからぬやうに、每晚《まいばん》服裝《ふくさう》を取《と》り換《か》へて、公園《こうゑん》の雜沓《ざつたう》の中《なか》を潛《くゞ》つて步《ある》いたり、古道具屋《ふるだうぐや》や古本屋《ふるほんや》の店先《みせさき》を漁《あさ》り廻《まは》つたりした。頰冠《ほゝかぶ》りに唐桟《たうざん》の絆纏《はんてん》を引掛《ひつか》け、綺麗《きれい》に硏《みが》いた素足《すあし》へ爪紅《つまべに》をさして雪駄《せつた》を穿《は》くこともあつた。金緣《きんぶち》の色眼鏡《いろめがね》に二重廻《にぢゆうまは》しの襟《えり》を立《た》てて出《で》ることもあつた。着《つ》け髭《ひげ》、ほくろ、痣《あざ》と、いろいろに面體《めんてい》を換《か》へるのを面白《おもしろ》がつたが、或《あ》る晚《ばん》、三味線堀《しやみせんぼり》の古着屋《ふるぎや》で、藍色地《あゐぢ》に大小《だいせう》あられの小紋《こもん》を白《しろ》く散《ち》らした女物《をんなもの》の袷《あはせ》が眼《め》に付《つ》いてから、急《きふ》にそれが着《き》て見《み》たくて溜《たま》らなくなつた。