刺靑 - 1
刺靑 谷崎潤一郞著
刺靑《しせい》
其《そ》れはまだ人々《ひと/″\》が「愚《おろか》」と云ふ貴《たうと》い德《とく》を持《も》つて居《ゐ》て、世《よ》の中《なか》が今《いま》のやうに激しく軋《きし》み合《あ》はない時分《じぶん》であつた。殿樣《とのさま》や若旦那《わかだんな》の長閑《のどか》な顏《かほ》が曇《くも》らぬやうに、御殿女中《ごてんぢよちゆう》や華魁《おいらん》の笑《わらひ》の種《たね》が盡《つ》きぬやうにと、饒舌《ぜうぜつ》を賣《う》るお茶坊主《ちやばうず》だの幇間《はうかん》だのと云《い》ふ職業《しよくげふ》が、立派《りつぱ》に存在《そんざい》して行《ゆ》けた程《ほど》、世間《せけん》がのんびり[#「のんびり」に傍点]して居《ゐ》た時分《じぶん》であつた。女《をんな》定《さだ》九|郞《らう》、女《をんな》自雷也《じらいや》、女《をんな》鳴神《なるかみ》――當時《たうじ》の芝居《しばゐ》でも草雙紙《くさざうし》でも、すべて美《うつく》しい者《もの》は强者《きやうしや》であり、醜《みにく》い者《もの》は弱者《じやくしや》であつた。誰《だれ》も彼《かれ》も擧《こぞ》つて美《うつく》しからむと努《つと》めた揚句《あげく》は、天禀《てんりん》の體《からだ》へ繪《ゑ》の具《ぐ》を注《つ》ぎ込《こ》む迄《まで》になつた。芳烈《はうれつ》な、或《あるひ》は絢爛《けんらん》な、線《せん》と色《いろ》とが其頃《そのころ》の人々《ひと/″\》の肌《はだ》に躍《おど》つた。
馬道《うまみち》を通《かよ》ふお客《きやく》は、見事《みごと》な刺靑《ほりもの》のある駕籠舁《かごかき》を選《えら》んで乘《の》つた。吉原《よしはら》、辰巳《たつみ》の女《をんな》も美《うつく》しい刺靑《ほりもの》の男《をとこ》に惚《ほ》れた。博徒《ばくと》、鳶《とび》の者《もの》はもとより、町人《ちやうにん》から稀《まれ》には侍《さむらひ》なども入墨《いれずみ》をした。時々《とき/″\》兩國《りやうごく》で催《もよほ》される刺靑會《しせいくわい》では參會者《さんくわいしや》おのおの肌《はだ》を叩《たゝ》いて、互《たがひ》に奇拔《きばつ》な意匠《いしやう》を誇《ほこ》り合《あ》ひ、評《ひやう》しあつた。
淸吉《せいきち》と云《い》ふ若《わか》い刺靑師《ほりものし》の腕《うで》ききがあつた。淺草《あさくさ》のちやり[#「ちやり」に傍点]文《ぶん》、松島町《まつしまちやう》の奴平《やつへい》、こん/\[#「こん/\」に傍点]次郞《じらう》などにも劣《おと》らぬ名手《めいしゅ》であると持《も》て囃《はや》されて、何《なん》十|人《にん》の人《ひと》の肌《はだ》は、彼《かれ》の繪筆《ゑふで》の下《もと》に絖地《ぬめぢ》となつて擴《ひろ》げられた。刺靑會《ほりものくわい》で好評《かうひやう》を博《はく》す刺靑《ほりもの》の多《おほ》くは彼《かれ》の手《て》になつたものであつた。逹摩金《だるまきん》はぼかし[#「ぼかし」に傍点]刺《ほり》が得意《とくい》と云《い》はれ、唐草權太《からくさごんた》は朱刺《しゆぼり》の名手《めいしゆ》と讚《たゝ》へられ、淸吉《せいきち》は又《また》奇警《きけい》な構圖《こうづ》と妖艶《えうえん》な筆《ふで》の趣《おもむき》とで名《な》を知《し》られた。
もと豐國國貞《とよくにくにさだ》の風《ふう》を慕《した》つて、浮世繪師《うきよゑし》の渡世《とせい》をして居《ゐ》ただけに、刺靑師《ほりものし》に墮落《だらく》してからの淸吉《せいきち》にもさすが畫工《ゑかき》らしい良心《りやうしん》と、銳感《えいかん》とが殘つて居《い》た。彼《かれ》の心《こゝろ》を惹《ひ》きつける程《ほど》の皮膚《ひふ》と骨組《ほねぐみ》とを持《も》つ人《ひと》でなければ、彼《かれ》の刺靑《ほりもの》を購《あがな》ふ譯《わけ》には行《ゆ》かなかつた。たまたま描《か》いて貰《もら》へるとしても、一|切《さい》の構圖《こうづ》と費用《ひよう》とを彼《かれ》の望《のぞ》むがままにして、其《そ》の上《うへ》堪《た》へ難《がた》い針先《はりさき》の苦痛《くつう》を、一《ひ》と月《つき》も二《ふ》た月《つき》もこらへねばならなかつた。
この若《わか》い刺靑師《ほりものし》の心《こゝろ》には、人知《ひとし》らぬ快樂《くわいらく》と宿願《しゆくぐわん》とが潛《ひそ》むで居《ゐ》た、彼が人々《ひと/″\》の肌《はだ》を針《はり》で突《つ》き刺《さ》す時《とき》、眞紅《まつか》に血《ち》を含《ふく》んで脹《は》れ上《あが》る肉《にく》の疼《うづ》きに堪《た》へかねて、大抵《たいてい》の男《をとこ》は苦《くる》しき呻《うめ》き聲《ごゑ》を發《はつ》したが、其《そ》の呻《うめ》きごゑが激《はげ》しければ激《はげ》しい程《ほど》、彼《かれ》は不思議《ふしぎ》に云《い》ひ難《がた》き愉快《ゆくわい》を感《かん》じるのであつた。刺靑《ほりもの》のうちでも殊《こと》に痛《いた》いと云《い》はれる朱刺《しゆざし》、ぼかしぼり――それを用《もち》ふる事《こと》を彼《かれ》は殊更《ことさら》喜《よろこ》んだ。一|日《にち》平均《へいきん》五六百|本《ぽん》の針《はり》に刺《さ》されて、色上《いろあ》げを良《よ》くする爲《ため》湯《ゆ》へ浴《つか》つて出《で》て來《く》る人《ひと》は、皆《みな》半死半生《はんしはんしやう》の體《てい》で淸吉《せいきち》の足下《あしもと》に打《う》ち倒《たふ》れたまま、暫《しばら》くは身動《みうご》きさへも出來《でき》なかつた。その無殘《むざん》な姿《すがた》をいつも淸吉《せいきち》は冷《ひやゝ》かに眺《なが》めて、
「嘸《さぞ》お痛《いた》みでがせうなあ。」
と云《い》ひながら、快《こゝろよ》ささうに笑《わら》つて居《ゐ》た。
意氣地《いくぢ》のない男《をとこ》などが、まるで知死期《ちしご》の苦《くる》しみのやうに口《くち》を歪《ゆが》め齒《は》を喰《く》ひしばり、ひいひいと悲鳴《ひめい》をあげる事《こと》があると、彼は、
「お前《めへ》さんも江戶兒《えどつこ》だ。辛抱《しんばう》しなさい。――この淸吉《せいきち》の針《はり》は飛《と》び切《き》りに痛《いて》へのだから。」
かう云《い》つて、淚《なみだ》にうるむ男《をとこ》の顏《かほ》を橫眼《よこめ》で見《み》ながら、委細《ゐさい》かまはず刺《ほ》つて行《い》つた。また我慢《がまん》づよい者《もの》がグツと膽《きも》を据《す》ゑて、眉一《まゆひと》つしかめず堪《こら》へて居《ゐ》ると、
「ふむ、お前《めへ》さんは見掛《みか》けによらねえ突强者《つツぱりもの》だ。――だが見《み》なさい、今《いま》にそろそろ疼《うづ》き出《だ》して、どうにもかうにも堪《たま》らないやうにならうから。」
と、白《しろ》い齒《は》を見《み》せて笑《わら》つた。
彼《かれ》が年來《ねんらい》の宿願《しゆくぐわん》は、光輝《くわうき》ある美女《びぢよ》の肌《はだ》を得《え》て、それへ己《おのれ》の魂《たましひ》を刺《ほ》り込《こ》む事《こと》であつた。その女《をんな》の素質《そしつ》と容貌《ようばう》とに就《つ》いては、いろいろの注文《ちうもん》があつた。啻《たゞ》に美《うつく》しい顏《かほ》、美《うつく》しい肌《はだ》とのみでは、彼《かれ》は中々《なか/\》滿足《まんぞく》する事《こと》が出來《でき》なかつた。江戶中《えどぢう》の色町《いろまち》に名《な》を響《ひゞ》かせた女《をんな》と云《い》ふ女《をんな》を調《しら》べても、彼《かれ》の氣分《きぶん》に適《かな》つた味《あぢ》はひと調子《てうし》とは容易《ようい》に見《み》つからなかつた。まだ見《み》ぬ人《ひと》の姿《すがた》かたちを心《こゝろ》に描《ゑが》いて、三|年《ねん》四|年《ねん》は空《むな》しく憧《あこが》れながらも、彼《かれ》はなほ其《そ》の願《ねがひ》を捨てずに居《ゐ》た。
丁度《ちやうど》四|年目《ねんめ》の夏《なつ》のとあるゆふべ、深川《ふかがは》の料理屋《れうりや》平淸《ひらせい》の前《まへ》を通《とほ》りかかつた時《とき》、彼《かれ》はふと門口《かどぐち》に待《ま》つて居《ゐ》る駕籠《かご》の簾《すだれ》のかげから眞白《まつしろ》な女《をんな》の素足《すあし》のこぼれて居《ゐ》るのに氣がついた。銳《するど》い彼《かれ》の眼《め》には、人間《にんげん》の足《あし》はその顏《かほ》と同《おな》じやうに複雜《ふくざつ》な表情《へうじやう》を持《も》つて映《うつ》つた。その女《をんな》の足《あし》は、彼《かれ》に取《と》つては貴《たつと》き肉《にく》の寶玉《はうぎよく》であつた。拇指《おやゆび》から起《おこ》つて小指《こゆび》に終《をは》る繊細《せんさい》な五|本《ほん》の指《ゆび》の整《とゝの》ひ方《かた》、繪《ゑ》の島《しま》の海邊《うみべ》で獲《と》れるうすべに色《いろ》の貝《かひ》にも劣《おと》らぬ爪《つめ》の色合《いろあひ》、珠《たま》のやうな踵《きびす》のまる味《み》、淸冽《せいれつ》な岩間《いはま》の水《みづ》が絕《た》えず足下《あしもと》を洗《あら》ふかと疑《うたが》はれる皮膚《ひふ》の潤澤《じゆんたく》。この足《あし》こそは、やがて男《をとこ》の生血《いきち》に肥《こ》え太《ふと》り、男《をとこ》のむくろを蹈《ふ》みつける足《あし》であつた。この足《あし》を持《も》つ女《をんな》こそは、彼《かれ》が永年《ながねん》たづねあぐむだ女《をんな》の中《なか》の女《をんな》であらうと思《おも》はれた。淸吉《せいきち》は躍《をど》りたつ胸《むね》をおさへて、其《そ》の人《ひと》の顏《かほ》が見《み》たさに駕籠《かご》の後《あと》を追《お》ひかけたが、二三|町《ちやう》行《ゆ》くと、もう其《そ》の影《かげ》は見《み》えなかつた。
淸吉《せいきち》の憧《あこが》れごこちが、激《はげ》しき戀《こひ》に變《かは》つて其《そ》の年《とし》も暮《く》れ、五|年目《ねんめ》の春《はる》も半《なか》ば老《お》い込《こ》むだ或《あ》る日《ひ》の朝《あさ》であつた。彼《かれ》は深川《ふかがわ》佐賀町《さがちやう》の寓居《ぐうきよ》で、房楊枝《ふさやうじ》をくはへながら、錆竹《さびたけ》の濡《ぬ》れ椽《えん》に萬年靑《おもと》の鉢《はち》を眺《なが》めて居《ゐ》ると、庭《には》の裏木戶《うらきど》を訪《おとな》ふけはひがして、建仁寺《けんにんじ》の袖垣《そでがき》のかげから、ついぞ見馴《みな》れぬ小娘《こむすめ》が這入《はい》つて來《き》た。
それは淸吉《せいきち》が馴染《なじみ》の辰巳《たつみ》の唄女《はおり》から寄《よ》こされた使《つかひ》の者《もの》であつた。
「姐《ねえ》さんから此《こ》の羽織《はおり》を親方《おやかた》へお手渡《てわた》しして、何《なに》か裏地《うらぢ》へ繪模樣《ゑもやう》を畫《か》いて下《くだ》さるやうにお賴《たの》み申《まを》せつて‥‥」
と、娘《むすめ》は鬱金《うこん》の風呂敷《ふろしき》をほどいて、中《なか》から岩井杜若《いはゐとぢやく》の似顏繪《にがほゑ》のたたう[#「たたう」に傍点]に包《つゝ》まれた女羽織《をんなばおり》と、一|通《つう》の手紙《てがみ》とを取《と》り出《だ》した。
其《そ》の手紙《てがみ》には羽織《はおり》のことをくれぐれも賴《たの》んだ末《すゑ》に、使《つかひ》の娘《むすめ》は近々《きん/\》に私《わたし》の妹分《いもとぶん》として御座敷《おざしき》へ出《で》る筈故《はずゆゑ》私《わたし》のことも忘《わす》れずに、この娘《こ》も引《ひ》き立《た》ててやつて下《くだ》さいと認《したゝ》めてあつた。
「どうも見覺《みおぼ》えのない顏《かほ》だと思《おも》つたが、それぢやお前《まへ》は此《こ》の頃《ごろ》此方《こつち》へ來《き》なすつたのか。」
かう云《い》つて淸吉《せいきち》は、しげしげと娘《むすめ》の姿《すがた》を見守《みまも》つた。年頃《としごろ》はやうやう十六か七かと思《おも》はれたが、その娘《むすめ》の顏《かほ》は、不思議《ふしぎ》にも長《なが》い月日《つきひ》を色里《いろざと》に暮《くら》して、幾《いく》十|人《にん》の男《をとこ》の魂《たましひ》を弄《もてあそ》んだ年增《としま》のやうに物凄《ものすご》く整《とゝの》つて居《ゐ》た。それは國中《くにぢゆう》の罪《つみ》と財《たから》との流《なが》れ込《こ》む都《みやこ》の中《なか》で、何《なん》十|年《ねん》の昔《むかし》から生《い》き外《かは》り死《し》に代《かは》つたみめ[#「みめ」に傍点]麗《うるは》しい多《おほ》くの男女《なんによ》の、夢《ゆめ》の數々《かず/″\》から生《うま》れ出《い》づべき器量《きりやう》であつた。
「お前《まへ》は去年《きよねん》の六|月《ぐわつ》ごろ、平淸《ひらせい》から駕籠《かご》で歸《かへ》つたことがあらうがな。」
かう訊《たづ》ねながら、淸吉《せいきち》は娘《むすめ》を椽《えん》へかけさせて、備後表《びんごおもて》の臺《だい》に乘《の》つた巧緻《かうち》な素足《すあし》を仔細《しさい》に眺《なが》めた。
「ええ、あの時分《じぶん》なら、まだお父《とつ》さんが生《い》きて居《ゐ》たから、平淸《ひらせい》へも度々《たび/″\》まゐりましたのさ。」
と、娘《むすめ》は奇妙《きめう》な質問《しつもん》に笑《わら》つて答《こた》へた。
「丁度《ちやうど》これで足《あし》かけ五|年《ねん》、己《おれ》はお前《めへ》を待《ま》つて居《ゐ》た。顏《かほ》を見《み》るのは始《はじ》めてだが、お前《まへ》の足《あし》にはおぼえがある。――お前《めへ》に見《み》せてやりたいものがあるから、まあ上《あが》つてゆつくり遊《あそ》んで行《い》くがいい。」
と、淸吉《せいきち》は暇《いとま》を吿《つ》げて歸《かへ》らうとする娘《むすめ》の手《て》を取《と》つて、大川《おほかは》の水《みず》に臨《のぞ》む二|階《かい》座敷《ざしき》へ案内《あんない》した後《のち》、大幅《おほはゞ》の卷物《まきもの》を二|本《ほん》とり出《だ》して、先《ま》づ其《そ》の一《ひと》つをさらさらと娘《むすめ》の前《まへ》に繰《く》り展《ひろ》げた。
それは古《むかし》の暴君《ばうくん》紂王《ちうわう》の寵妃《ちようひ》、末喜《ばつき》を描《ゑが》いた繪《ゑ》であつた。瑠璃珊瑚《るりさんご》を鏤《ちりば》めた金冠《きんくわん》の重《おも》さに得堪《えた》へぬなよやかな體《からだ》を、ぐつたり勾欄《こうらん》に凭《もた》れて、羅綾《らりよう》の裳裾《もすそ》を階《きざはし》の中段《ちうだん》にひるがへし、右手《めて》に大杯《たいはい》を傾《かたむ》けながら、今《いま》しも庭前《ていぜん》に刑《けい》せられんとする犧牲《いけにえ》の男《をとこ》を眺《なが》めて居《ゐ》る妃《ひ》の風情《ふぜい》と云《い》ひ、鐵《てつ》の鎖《くさり》で四|肢《し》を銅柱《どうちう》へ縛《ゆ》ひつけられ、最後《さいご》の運命《うんめい》を待《ま》ち構《かま》へつつ、妃《ひ》の前《まへ》に頭《かしら》をうなだれ、眼を閉《と》ぢた男《をとこ》の顏色《かほいろ》と云《い》ひ、此《こ》の種《しゆ》の畫題《ぐわだい》にややともすると陷《おちい》り易《やす》き俗氣《ぞくけ》を離《はな》れて、物凄《ものすご》い迄《まで》に巧《たくみ》に描《か》かれて居《ゐ》た。
娘《むすめ》は暫《しばら》くこの奇怪《きくわい》な繪《ゑ》の面《おもて》を見入《みい》つて居《ゐ》たが、知《し》らず識《し》らず其《そ》の瞳《ひとみ》は輝《かゞや》き其《そ》の唇《くちびる》は顫《ふる》へた。怪《あや》しくも其《そ》の顏《かほ》はだんだんと妃《きさき》の顏《かほ》に似通《にかよ》つて來《き》た。娘《むすめ》は其處《そこ》に隱《かく》れたる眞《しん》の「己《おのれ》」を見出《みいだ》した。
「この繪《ゑ》にはお前《まへ》の心《こゝろ》が映《うつ》つて居《ゐ》るぞ。」
かう云《い》つて、淸吉《せいきち》は快《こゝろよ》げに笑《わら》ひながら、娘《むすめ》の顏《かほ》をのぞき込《こ》むだ。
「どうしてこんな恐《おそ》ろしいものを、私《わたし》にお見《み》せなさるのです。」
と、娘《むすめ》は靑褪《あをざ》めた額《ひたひ》を擡《もた》げて云《い》つた。
「この繪《ゑ》の女《をんな》はお前《まへ》なのだ。この女《をんな》の血《ち》がお前《まへ》の體《からだ》に交《まじ》つて居《ゐ》る筈《はず》だ。」
と、彼《かれ》は更《さら》に他《た》の一|本《ぽん》の畫幅《ぐわふく》を展《ひろ》げた。
それは「肥料《ひれう》」と云《い》ふ畫題《ぐわだい》であつた。畫面《ぐわめん》の中央《ちうわう》に、若《わか》い女《をんな》が櫻《さくら》の幹《みき》へ身《み》を倚《よ》せて、足下《そくか》に累々《るゐ/\》と算《さん》を亂《みだ》して斃《たふ》れたる幾《いく》十の男《をとこ》の屍骸《むくろ》を見《み》つめて居《ゐ》る。女《をんな》の身邊《しんぺん》を舞《ま》ひつつ凱歌《かちどき》をうたふ小鳥《ことり》の群《むれ》、女《をんな》の瞳《ひとみ》に溢《あふ》れたる抑《おさ》へ難《がた》き誇《ほこり》と歡《よろこ》びの色《いろ》。それは戰《たゝかひ》の跡《あと》の景色《けしき》か、抑《そもそ》もまた花園《はなぞの》の春《はる》の景色《けしき》か。それを見《み》せられた娘《むすめ》は、われとわが心《こゝろ》の底《そこ》に潛《ひそ》むで居《ゐ》た何物《なにもの》かを、探《さぐ》りあてたる心地《こゝち》であつた。
「これはお前《まへ》の未來《みらい》を繪《ゑ》に現《あらは》したのだ。此處《こゝ》に斃《たふ》れて居《ゐ》る人逹《ひとたち》は、皆《みんな》これからお前《まへ》の爲《た》めに命《いのち》を捨《す》てるのだ。」
かう云《い》つて、淸吉《せいきち》は娘《むすめ》の顏《かほ》と寸分《すんぶん》違《ちが》はぬ畫面《ぐわめん》の女《をんな》を指《ゆび》さした。
「後生《ごしやう》だから、早《はや》く其《そ》の繪《ゑ》をしまつて下《くだ》さい。」
と、娘《むすめ》は恐《おそ》ろしい誘惑《いうわく》を避《さ》けるが如《ごと》く、畫面《ぐわめん》に背《そむ》いて疊《たゝみ》の上《うへ》へ突俯《つツぷ》したが、やがて再《ふたゝ》び慄《ふる》へ慄《ふる》へに唇《くちびる》をわななかした。
「親方《おやかた》、白狀《はくじやう》します。私《わたし》はお前《まへ》さんのお察《さつ》し通《どほ》り、其《そ》の繪《ゑ》の女《をんな》のやうな性分《しやうぶん》を持《も》つて居《ゐ》ますのさ。――だからもう堪忍《かんにん》して、其《そ》れを引込《ひつこ》めてお吳《く》んなさい。」
「そんな卑怯《ひけふ》なことを云《い》はずと、もつとよく此《こ》の繪《ゑ》を見《み》るがいい。それを恐《おそ》ろしがるのも、まあ今《いま》のうちだらうよ。」
かう云《い》つた淸吉《せいきち》の顏《かほ》には、いつもの意地《いぢ》の惡《わる》い笑《わらひ》が漂《たゞよ》つて居《ゐ》た。
然《しか》し娘《むすめ》の頭《つむり》は容易《ようい》に上《あが》らなかつた。襦絆《じゆばん》の袖《そで》に顏《かほ》を蔽《おほ》うていつまでもいつまでも突俯《つツぷ》したまま、
「親方《おやかた》、どうか私《わたし》を歸《かへ》しておくれ。お前《まへ》さんの側《そば》に居《ゐ》るのは恐《おそ》ろしいから。」
と、幾度《いくたび》か繰《く》り返《かへ》した。
「まあ待《ま》ちなさい。己《おれ》がお前《まへ》を立派《りつぱ》な器量《きりやう》の女《をんな》にしてやるから。」
と云《い》ひながら、淸吉《せいきち》は何氣《なにげ》なく娘《むすめ》の側《そば》に近寄《ちかよ》つた。彼《かれ》の懷《ふところ》には嘗《かつ》て和蘭醫《おらんだいしや》から貰《もら》つた麻酔劑《ますゐざい》の壜《びん》がいつの間《ま》にか忍《しの》ばせてあつた。
日《ひ》はうららかに川面《かはづら》を射《ゐ》て、八|疊《でふ》の座敷《ざしき》は燃《も》えるやうに照《て》つた。水面《すゐめん》から反射《はんしや》する光線《くわうせん》が、無心《むしん》に眠《ねむ》る娘《むすめ》の顏《かほ》や、障子《しやうじ》の紙《かみ》に金色《こんじき》の波紋《はもん》を描《ゑが》いてふるへて居《ゐ》た。部屋《へや》のしきりを閉《た》て切《き》つて刺靑《ほりもの》の道具《だうぐ》を手《て》にした淸吉《せいきち》は、暫《しばら》くは唯《ただ》恍惚《うつとり》として坐《すわ》つて居《ゐ》るばかりであつた。彼《かれ》は今《いま》始《はじ》めて女《をんな》の妙相《めうさう》をしみじみ味《あぢ》はふ事《こと》が出來《でき》た。その動《うご》かぬ顏《かほ》に相對《あひたい》して、十年《じふねん》百年《ひやくねん》この一|室《しつ》に靜坐《せいざ》するとも、なほ飽《あ》くことを知《し》るまいと思《おも》はれた。古《いにしへ》のメムフイスの民《たみ》が、莊嚴《さうごん》なる埃及《エジプト》の天地《てんち》を、ピラミツトとスフインクスとで飾《かざ》つたやうに、淸吉《せいきち》は淸淨《しやうじやう》な人間《にんげん》の皮膚《ひふ》を、自分《じぶん》の戀《こひ》で彩《いろど》らうとするのであつた。
やがて彼《かれ》の左手《ゆんで》の小指《こゆび》と無名指《むめいし》と拇指《おやゆび》の間《あひだ》に挿《はさ》んだ繪筆《ゑふで》の穗《ほ》を、娘《むすめ》の背《せ》にねかせ、その上《うへ》から右手《めて》で針《はり》を刺《さ》して行《い》つた。若《わか》い刺靑師《ほりものし》の靈《こゝろ》は墨汁《すみじる》の中《なか》に溶《と》けて、皮膚《ひふ》に滲《にじ》むだ。燒酎《せうちう》に交《ま》ぜて刺《ほ》り込《こ》む琉球朱《りうきうしゆ》の一|滴《てき》一|滴《てき》は、彼《かれ》の命《いのち》のしたたりであつた。彼《かれ》は其處《そこ》に我《わ》が魂《たましひ》の色《いろ》を見《み》た。
いつしか午《ひる》も過《す》ぎて、のどかな春《はる》の日《ひ》は漸《やうや》く暮《く》れかかつたが、淸吉《せいきち》の手《て》は少《すこ》しも休《やす》まず、女《をんな》の眠《ねむり》も破《やぶ》れなかつた。娘《むすめ》の歸《かへ》りの遲《おそ》きを案《あん》じて迎《むかへ》に出《で》た箱屋《はこや》迄《まで》が、
「あの娘《こ》ならもう疾《と》うに獨《ひとり》で歸《かへ》つて行《ゆ》きましたよ。」
と云《い》はれて追《お》ひ返《かへ》された。月《つき》が對岸《たいがん》の土州《としう》屋敷《やしき》の上《うへ》にかかつて、夢《ゆめ》のやうな光《ひかり》が沿岸《えんがん》一|帶《たい》の家々《いへ/\》の座敷《ざしき》に流《なが》れ込《こ》む頃《ころ》には、刺靑《ほりもの》はまだ半分《はんぶん》も出來上《できあが》らず、淸吉《せいきち》は一|心《しん》に蠟燭《らふそく》の心《しん》を搔《か》き立《た》てて居《ゐ》た。
一|點《てん》の色《いろ》を注《つ》ぎ込《こ》むのも、彼《かれ》に取《と》つては容易《ようい》な業《わざ》でなかつた。さす針《はり》、ぬく針《はり》の度每《たびごと》に深《ふか》い吐息《といき》をついて、自分《じぶん》の心《こゝろ》が刺《さ》されるやうに感《かん》じた。針《はり》の痕《あと》は次第《しだい》々々《/\》に巨大《きよだい》なお女郞蜘蛛《ぢよらうぐも》の形象《かたち》を具《そな》へ始《はじ》めて、再《ふたゝ》び夜《よ》がしらしらと白《しろ》み初《そ》めた時分《じぶん》には、この不思議《ふしぎ》な魔性《ましやう》の動物《どうぶつ》は、八本《はちほん》の肢《あし》を伸《の》ばしつつ、背《せな》一|面《めん》に蟠《わだかま》つた。
春《はる》の夜《よ》は、上《のぼ》り下《くだ》りの河船《かはふね》の櫓聲《ろごゑ》に明《あ》け放《はな》れて、朝風《あさかぜ》を孕《はら》んで下《くだ》る白帆《しらほ》の頂《いたゞき》から薄《うす》らぎ初《そ》める霞《かすみ》の中《なか》に、中洲《なかず》、箱崎《はこざき》、靈岸島《れいがんじま》の家々《いへ/\》の甍《いらか》がきらめく頃《ころ》、淸吉《せいきち》は漸《やうや》く繪筆《ゑふで》を擱《お》いて、娘《むすめ》の背《せな》に刺《ほ》り込《こ》まれた蜘蛛《くも》のかたちを眺《なが》めて居《ゐ》た。その刺靑《ほりもの》こそは彼《かれ》が生命《せいめい》のすべてであつた。その仕事《しごと》をなし終《お》へた後《のち》の彼《かれ》の心《こゝろ》は空虛《うつろ》であつた。
二つの人影《ひとかげ》は其《そ》のまま稍《やゝ》暫《しばら》く動《うご》かなかつた。さうして、低《ひく》く、かすれた聲《こゑ》が部屋《へや》の四|壁《へき》にふるへて聞《きこ》えた。
「己《おれ》はお前《まへ》をほんたうの美《うつく》しい女《をんな》にする爲《た》めに、刺靑《ほりもの》の中《なか》へ己《おれ》の魂《たましひ》をうち込《こ》むだのだ。もう今《いま》からは日本國中《にほんこうちう》に、お前《まへ》に優《まさ》る女《をんな》は居《ゐ》ない。お前《まへ》はもう今迄《いままで》のやうな憶病《おくびやう》な心《こゝろ》は持《も》つて居《ゐ》ないのだ。男《をとこ》と云《い》ふ男《をとこ》は、皆《みんな》お前《まへ》の肥料《こやし》になるのだ。‥‥」
其《そ》の言葉《ことば》が通《つう》じたか、かすかに、絲《いと》のやうな呻《うめ》き聲《ごゑ》が女《をんな》の唇《くちびる》にのぼつた。娘《むすめ》は次第《しだい》々々《/\》に知覺《ちかく》を恢復《くわいふく》して來《き》た。重《おも》く引《ひ》き入《い》れては、重《おも》く引《ひ》き出《だ》す肩息《かたいき》に、蜘蛛《くも》の肢《あし》は生《い》けるが如《ごと》く蠕動《ぜんどう》した。
「苦《くる》しからう。體《からだ》を蜘蛛《くも》が抱《だ》きしめて居《ゐ》るのだから。」
かう云《い》はれて娘《むすめ》は細《ほそ》く無意味《むいみ》な眼《め》を開《あ》いた。其《そ》の瞳《ひとみ》は夕月《ゆふづき》の光《ひかり》を增《ま》すやうに、だんだんと輝《かゞや》いて男《をとこ》の顏《かほ》に照《て》つた。
「親方《おやかた》、早《はや》く私《わたし》の背《せなか》の刺靑《ほりもの》を見《み》せておくれ。お前《まへ》さんの命《いのち》を貰《もら》つた代《かは》りに、私《わたし》は嘸《さぞ》美《うつく》しくなつたらうねえ。」
娘《むすめ》の言葉《ことば》は夢《ゆめ》のやうであつたが、しかし其《そ》の調子《てうし》には何處《どこ》か銳《するど》い力《ちから》がこもつて居《ゐ》た。
「まあ、これから湯殿《ゆどの》へ行《い》つて色上《いろあ》げをするのだ。苦《くる》しからうちツと我慢《がまん》をしな。」
と、淸吉《せいきち》は耳元《みゝもと》へ口《くち》を寄《よ》せて、勞《いたは》るやうに囁《さゝや》いた。
「美《うつく》しくさへなるのなら、どんなにでも辛抱《しんばう》して見《み》せませうよ。」
と、娘《むすめ》は身内《みうち》の痛《いた》みを抑《おさ》へて、强《し》ひて微笑《ほゝゑ》むだ。
「ああ、湯《ゆ》が滲《し》みて苦《くる》しいこと。‥‥親方《おやかた》、後生《ごしやう》だから妾《わたし》を打捨《うつちや》つて、二|階《かい》へ行《い》つて待《ま》つて居《ゐ》てお吳《く》れ。私《わたし》はこんな悲慘《みじめ》な態《ざま》を男《をとこ》に見《み》られるのが口惜《くや》しいから。」
娘《むすめ》は湯上《ゆあが》りの體《からだ》を拭《ぬぐ》ひもあへず、いたはる淸吉《せいきち》の手《て》をつきのけて、激《はげ》しい苦痛《くつう》に流《なが》しの板《いた》の間《ま》へ身《み》を投《な》げたまま、魘《うな》される如《ごと》くに呻《うめ》いた。狂《きちがひ》じみた髮《かみ》が惱《なや》ましげに其《そ》の頰《ほゝ》へ亂《みだ》れた。女《をんな》の背後《はいご》には鏡臺《きやうだい》が立《た》てかけてあつた。眞白《まつしろ》な足《あし》の裏《うら》が二つ、その面《おもて》へ映《うつ》つて居《ゐ》た。
昨日《きのふ》とは打《う》つて變《かは》つた女《をんな》の態度《たいど》に、淸吉《せいきち》は一方《ひとかた》ならず驚《おどろ》いたが、云《い》はるるままに獨《ひとり》二|階《かい》に待《ま》つて居《ゐ》ると、凡《およ》そ半時《はんとき》ばかり經《た》つて、女《をんな》は洗髮《あらひがみ》を兩肩《りやうかた》へすべらせ、身《み》じまひを整《とゝの》へて上《あが》つて來《き》た。さうして苦痛《くるしみ》のかげもとまらぬ晴《は》れやかな眉《まゆ》を張《は》つて、欄杆《らんかん》に凭《もた》れながらおぼろにかすむ大空《おほぞら》を仰《おふ》いだ。
「この繪《ゑ》は刺靑《ほりもの》と一|緖《しよ》にお前《まへ》にやるから、其《そ》れを持《も》つてもう歸《かへ》るがいい。」
かう云《い》つて淸吉《せいきち》は卷物《まきもの》を女《をんな》の前《まへ》にさし置《お》いた。
「親方《おやかた》、私《わたし》はもう今迄《いままで》のやうな臆病《おくびやう》な心《こゝろ》を、さらりと捨《す》ててしまひました。――お前《まへ》さんは眞先《まつさき》に私《わたし》の肥料《こやし》になつたんだねえ。」
と、女《をんな》は劍《つるぎ》のやうな瞳《ひとみ》を輝《かゞや》かした。其《そ》の瞳《ひとみ》には「肥料《ひれう》」の畫面《ぐわめん》が映《うつ》つて居《ゐ》た。その耳《みゝ》には凱歌《がいか》の聲《こゑ》がひびいて居《ゐ》た。
「歸《かへ》る前《まへ》にもう一|遍《ぺん》、その刺靑《ほりもの》を見せてくれ。」
淸吉《せいきち》はかう云《い》つた。
女《をんな》は默《だま》つて頷《うなづ》いて肌《はだ》を脫《ぬ》いだ。折《をり》から朝日《あさひ》が刺靑《ほりもの》の面《おもて》にさして、女《をんな》の背《せなか》は燦爛《さんらん》とした。
麒麟《きりん》
鳳兮。鳳兮。何德之衰。
往者不可諫。來者猶可追。已而。已而。今之從政者殆而
西暦《せいれき》紀元前《きげんぜん》四百九十三|年《ねん》。左丘明《さきうめい》、孟軻《もうか》、司馬遷《しばせん》等《ら》の記錄《きろく》によれば、魯《ろ》の定公《ていこう》が十三|年目《ねんめ》の郊《かう》の祭《まつり》を行《おこな》はれた春《はる》の始《はじ》め、孔子《こうし》は數人《すうにん》の弟子逹《でしたち》を車《くるま》の左右《さいう》に從《したが》へて、其《そ》の故鄕《ふるさと》の魯《ろ》の國《くに》から傳道《でんだう》の途《みち》に上《のぼ》つた。
泗水《しすゐ》の河《かは》の畔《ほとり》には、芳草《はうさう》が靑々《あを/\》と芽《め》ぐみ、防山《ばうざん》、尼丘《じきう》、五峯《ごほう》の頂《いたゞき》の雪《ゆき》は溶《と》けても、砂漠《さばく》の砂《すな》を摑《つか》むで來《く》る匈奴《きようど》のやうな北風《きたかぜ》は、いまだに烈《はげ》しい冬《ふゆ》の名殘《なごり》を吹《ふ》き送《おく》った。元氣《げんき》の好《よ》い子路《しろ》は紫《むらさき》の貂《てん》の裘《かはごろも》を飜《ひるがへ》して、一|行《かう》の先頭《せんとう》に進《すゝ》んだ。考深《かんがへぶか》い眼《め》つきをした顏淵《がんえん》、篤實《とくじつ》らしい風采《ふうさい》の曾參《さうしん》が、麻《あさ》の履《くつ》を穿《は》いて其《そ》の後《うしろ》に續《つゞ》いた。正直者《しやうぢきもの》の御者《ぎよしや》の樊遲《はんち》は、駟馬《しば》の銜《くつわ》を執《と》りながら、時々《とき/″\》車上《しやじやう》の夫子《ふうし》が老顏《らうがん》を
窃《ぬす》み視《み》て、傷《いた》ましい放浪《はうらう》の師《し》の身《み》の上《うへ》に淚《なみだ》を流《なが》した。
或《あ》る日《ひ》、いよいよ一|行《かう》が、魯《ろ》の國境《くにざかひ》までやつて來《く》ると、誰《たれ》も彼《かれ》も名殘惜《なごりお》しさうに、故鄕《ふるさと》の方《はう》を振《ふ》り顧《かへ》つたが、通《とほ》つて來《き》た路《みち》は龜山《きざん》の蔭《かげ》にかくれて見《み》えなかつた。すると孔子《こうし》は琴《こと》を執《と》つて、
われ魯《ろ》を望《のぞ》まんと欲《ほつ》すれば、
龜山《きざん》之《これ》を蔽《おほ》ひたり。
手《て》に斧柯《ふか》なし、
龜山《きざん》を奈何《いか》にせばや。
かう云《い》つて、さびた、皺嗄《しわが》れた聲《こゑ》でうたつた。
それからまた北《きた》へ北《きた》へと三日《みつか》ばかり旅《たび》を續《つゞ》けると、ひろびろとした野《の》に、安《やす》らかな、屈托《くつたく》のない歌《うた》の聲《こゑ》が聞《きこ》えた、それは鹿《しか》の裘《かはごろも》に索《なは》の帶《おび》をしめた老人《らうじん》が、畦路《あぜみち》に遺穗《おちほ》を拾《ひろ》ひながら、唄《うた》つて居《ゐ》るのであつた。
「由《いう》や、お前《まへ》にはあの歌《うた》がどう聞《きこ》える。」
と、孔子《こうし》は子路《しろ》を顧《かへり》みて訊《たづ》ねた。
「あの老人《らうじん》の歌《うた》からは、先生《せんせい》の歌《うた》のやうな哀《あは》れな響《ひゞき》が聞《きこ》えません。大空《おほぞら》を飛《と》ぶ小鳥《ことり》のやうな、恣《ほしいまゝ》な聲《こゑ》で唄《うた》うて居《を》ります。」
「さもあらう。彼《あれ》こそ古《いにしへ》の老子《らうし》の門弟《もんてい》ぢや。林類《りんるゐ》と云《い》うて、もはや百歲《ひゃくさい》になるであらうが、あの通《とほ》り春《はる》が來《く》れば畦《あぜ》に出《で》て、何年《なんねん》となく歌《うた》を唄《うた》うては穗《ほ》を拾《ひろ》うて居《ゐ》る。誰《たれ》か彼處《あすこ》へ行《い》つて話《はなし》をして見《み》るがよい。」
かう云《い》はれて、弟子《でし》の一人《ひとり》の子貢《しこう》は、畑《はたけ》の畔《くろ》へ走《はし》つて行《い》つて老人《らうじん》を迎《むか》へ、尋《たづ》ねて云《い》ふには、
「先生《せんせい》は、さうして歌《うた》を唄《うた》うては、遺穗《おちぼ》を拾《ひろ》つて居《ゐ》らつしやるが、何《なに》も悔《く》いる所《ところ》はありませぬか。」
しかし、老人《らうじん》は振《ふ》り向《む》きもせず、餘念《よねん》もなく遺穗《おちぼ》を拾《ひろ》ひながら、一|步《ぽ》一|步《ぽ》に歌《うた》を唄《うた》つて止《や》まなかつた。子貢《しこう》が猶《なほ》も其《そ》の跡《あと》を追《お》うて聲《こゑ》をかけると、漸《やうや》く老人《らうじん》は唄《うた》うことをやめて、子貢《しこう》の姿《すがた》をつくづくと眺《なが》めた後《のち》、
「わしに何《なん》の悔《くい》があらう。」
と云《い》つた。
「先生《せんせい》は幼《おさな》い時《とき》に行《おこなひ》を勤《つと》めず、長《ちやう》じて時《とき》を競《きそ》はず、老《お》いて妻子《つまこ》もなく、漸《やうや》く死期《しご》が近《ちか》づいて居《ゐ》るのに、何《なに》を樂《たの》しみに穗《ほ》を拾《ひろ》つては、歌《うた》を唄《うた》うておいでなさる。」
すると老人《らうじん》は、からからと笑《わら》つて、
「わしの樂《たの》しみとするものは、世間《せけん》の人《ひと》が皆《みな》持《も》つて居《ゐ》て、却《かへ》つて憂《うれひ》として居《ゐ》る。幼《をさな》い時《とき》に行《おこなひ》を勤《つと》めず、長《ちやう》じて時《とき》を競《きそ》はず、老《お》いて妻子《つまこ》もなく、漸《やうや》く死期《しご》が近《ちか》づいて居《ゐ》る。それだから此《こ》のやうに樂《たの》しんで居《ゐ》る。」
「人《ひと》は皆《みな》長壽《ながいき》を望《のぞ》み、死《し》を悲《かな》しむで居《ゐ》るのに、先生《せんせい》はどうして、死《し》を樂《たの》しむ事《こと》が出來《でき》ますか。」
と、子貢《しこう》は重《かさ》ねて訊《き》いた。
「死《し》と生《せい》とは、一|度《ど》往《い》つて一|度《ど》反《かへ》るのぢや、此處《こゝ》で死《し》ぬのは、彼處《かしこ》で生《うま》れるのぢや。わしは、生《せい》を求《もと》めて齷齪《あくそく》するのは惑《まどひ》ぢやと云《い》ふ事《こと》を知《し》つて居《ゐ》る。今《いま》死《し》ぬるも昔《むかし》生《うま》れたのと變《かは》りはないと思《おも》うて居《ゐ》る」
老人《らうじん》は斯《か》く答《こた》へて、また歌《うた》を唄《うた》ひ出《だ》した。子貢《しこう》には言葉《ことば》の意味《いみ》が解《わか》らなかつたが、戾《もど》つて來《き》て其《そ》れを師《し》に吿《つ》げると、
「なかなか話《はな》せる老人《らうじん》であるが、然《しか》し其《そ》れはまだ道《みち》を得《え》て、至《いた》り盡《つく》さぬ者《もの》と見える。」
と、孔子《こうし》が云《い》つた。
それからまた幾日《いくにち》も/\、長《なが》い旅《たび》を續《つゞ》けて、箕水《きすゐ》の流《ながれ》を渉《わた》つた。夫子《ふうし》が戴《いたゞ》く緇布《くろぬの》の冠《かんむり》は埃《ほこり》にまびれ、狐《きつね》の裘《かはごろも》は雨風《あめかぜ》に色褪《いろあ》せた。
「魯《ろ》の國《くに》から孔丘《こうきう》と云《い》ふ聖人《せいじん》が來《き》た。彼《あ》の人《ひと》は暴虐《ばうぎやく》な私逹《わたしたち》の君《きみ》や妃《きさき》に、幸《さいはひ》な敎《をしへ》えと賢《かしこ》い政《まつりごと》とを授《さづ》けてくれるであらう。」
衞《ゑい》の國《くに》の都《みやこ》に入《はい》ると、巷《ちまた》の人々《ひと/″\》はかう云《い》つて一|行《かう》の車《くるま》を指《ゆびさ》した。其《そ》の人々《ひと/″\》の顏《かほ》は饑《うゑ》と疲《つかれ》に羸《や》せ衰《おとろ》へ、家々《いへ/\》の壁《かべ》は嗟《なげ》きと愁《かな》しみの色《いろ》を湛《たゝ》へて居《ゐ》た。其《そ》の國《くに》の麗《うるは》しい花《はな》は、宮殿《きうでん》の妃《きさき》の眼《め》を喜《よろこ》ばす爲《た》めに移《うつ》し植《う》ゑられ、肥《こ》えたる豕《ゐのこ》は、妃《きさき》の舌《した》を培《つちか》ふ爲《た》めに召《め》し上《あ》げられ、のどかな春《はる》の日《ひ》が、灰色《はひいろ》のさびれた街《まち》を徒《いたづら》に照《て》らした。さうして、都《みやこ》の中央《ちうあう》の丘《をか》の上《うへ》には、五彩《ごさい》の虹《にじ》を繡《ぬ》ひ出《だ》した宮殿《きうでん》が、血《ち》に飽《あ》いた猛獸《まうじう》の如《ごと》くに、屍骸《しがい》のやうな街《まち》を瞰下《みおろ》して居《ゐ》た。其《そ》の宮殿《きうでん》の奧《おく》で打《う》ち鳴《な》らす鐘《かね》の響《ひゞき》は、猛獸《まうぢう》の嘯《うそぶ》くやうに國《くに》の四方《しはう》へ轟《とゞろ》いた。
「由《いう》や、お前《まへ》にはあの鐘《かね》の音《ね》がどう聞《きこ》える。」
と、孔子《こうし》はまた子路《しろ》に訊《たづ》ねた。
「あの鐘《かね》の音《ね》は、天《てん》に訴《うつた》へるやうな果敢《はか》ない先生《せんせい》の調《しらべ》とも違《ちが》ひ、天《てん》にうち任《まか》せたやうな自由《じいう》な林類《りんるゐ》の歌《うた》とも違《ちが》つて、天《てん》に背《そむ》いた歡樂《くわんらく》を讚《たゝ》へる、恐《おそ》ろしい意味《こゝろ》を歌《うた》うて居《を》ります。」
「さもあらう。あれは昔《むかし》衞《ゑい》の襄公《ぢやうこう》が、國中《くにぢゆう》の財《たから》と汗《あせ》とを絞《しぼ》り取《と》つて造《つく》らせた、林鐘《りんしよう》と云《い》ふものぢや。その鐘《かね》が鳴《な》る時《とき》は、御苑《ぎよゑん》の林《はやし》から林《はやし》へ反響《こだま》して、あのやうな物凄《ものすご》い音《おと》を出《だ》す。また暴政《ばうせい》に苛《さいな》まれた人々《ひと/″\》の呪《のろひ》と淚《なみだ》とが封《ふう》じられて居《ゐ》て、あのやうな恐《おそ》ろしい音《おと》を出《だ》す。」
と、孔子《こうし》が敎《をし》へた。
衞《ゑい》の君《きみ》の靈公《れいこう》は、國原《くなばら》を見晴《みは》るかす靈臺《れいだい》の欄《らん》に近《ちか》く、雲母《うんも》の硬屛《ついたて》、瑪瑙《めなう》の榻《とう》を運《はこ》ばせて、靑雲《せいうん》の衣《ころも》を纒《まと》ひ、白霓《はくげい》の裳裾《もすそ》を垂《た》れた夫人《ふじん》の南子《なんし》と、香《かほり》の高《たか》い秬鬯《きよちやう》を酌《く》み交《か》はしながら、深《ふか》い霞《かすみ》の底《そこ》に眠《ねむ》る野山《のやま》の春《はる》を眺《なが》めて居《ゐ》た。
「天《てん》にも地《ち》にも、うららかな光《ひかり》が泉《いづみ》のやうに流《なが》れて居《ゐ》るのに、何故《なぜ》私《わたし》の國《くに》の民家《みんか》では美《うつく》しい花《はな》の色《いろ》も見《み》えず、快《こゝろよ》い鳥《とり》の聲《こゑ》も聞《きこ》えないのであらう。」
かう云《い》つて、公《こう》は不審《ふしん》の眉《まゆ》を顰《ひそ》めた。
「それは此《こ》の國《くに》の人民《じんみん》が、わが公《きみ》の仁德《じんとく》と、わが夫人《ふじん》の美容《びよう》とを讚《たゝ》へるあまり、美《うつく》しい花《はな》とあれば、悉《こと/″\》く獻上《けんじやう》して宮殿《きうでん》の園生《そのふ》の牆《かき》に移《うつ》し植《う》ゑ、國中《くにぢゆう》の小鳥《ことり》までが、一羽《いちは》も殘《のこ》らず花《はな》の香《か》を慕《した》うて、園生《そのふ》のめぐりに集《あつま》る爲《た》めでございます。」
と、君側《くんそく》に控《ひか》へた宦者《くわんじや》の雍渠《ようきよ》が答《こた》へた。すると其《そ》の時《とき》、さびれた街《まち》の靜《しづ》かさを破《やぶ》つて、靈臺《れいだい》の下《した》を過《す》ぎる孔子《こうし》の車《くるま》の玉鑾《ぎよくらん》が珊珊《さん/\》と鳴《な》つた。
「あの車《くるま》に乘《の》つて通《とほ》る者《もの》は誰《たれ》であらう。あの男《をとこ》の額《ひたひ》は堯《げう》に似《に》て居《ゐ》る。あの男《をとこ》の目《め》は舜《しゆん》に似《に》て居《ゐ》る。あの男《をとこ》の項《うなじ》は皐陶《かうやう》に似《に》て居《ゐ》る。肩《かた》は子產《しさん》に類《るゐ》し、腰《こし》から下《した》が禹《う》に及《およ》ばぬこと三|寸《ずん》ばかりである。」
と、これも側《かたはら》に伺候《しこう》して居《ゐ》た將軍《しやうぐん》の王孫賈《わうそんか》が、驚《おどろ》きの眼《め》を見張《みは》つた。
「しかし、まあ彼《あ》の男《をとこ》は、何《なん》と云《い》ふ悲《かな》しい顏《かほ》をして居《ゐ》るのだらう。將軍《しやうぐん》、卿《おまへ》は物識《ものしり》だから、彼《あ》の男《をとこ》が何處《どこ》から來《き》たか、妾《わたし》に敎《をし》へてくれたがよい。」
かう云《い》つて、南子《なんし》夫人《ふじん》は將軍《しやうぐん》を顧《かへり》み、走《はし》り行《ゆ》く車《くるま》の影《かげ》を指《ゆびさ》した。
「私《わたくし》は若《わか》き頃《ころ》、諸國《しよこく》を遍歷《へんれき》しましたが、周《しう》の史官《しくわん》を務《つと》めて居《ゐ》た老聃《らうたん》と云《い》ふ男《をとこ》の他《ほか》には、まだ彼《あ》れ程《ほど》立派《りつぱ》な相貌《さうばう》の男《をとこ》を見《み》たことがありませぬ。あれこそ、故國《ここく》の政《まつりごと》に志《こゝろざし》を得《え》ないで、傳道《でんだう》の途《みち》に上《のぼ》つた魯《ろ》の聖人《せいじん》の孔子《こうし》であらう。其《そ》の男《をとこ》の生《うま》れた時《とき》、魯《ろ》の國《くに》には麒麟《きりん》が現《あらは》れ、天《てん》には和樂《わがく》の音《おと》が聞《きこ》えて、神女《しんによ》が天降《あまくだ》つたと云《い》ふ。其《そ》の男《をとこ》は牛《うし》の如《ごと》き唇《くちびる》と、虎《とら》の如《ごと》き掌《てのひら》と、龜《かめ》の如《ごと》き背《せ》とを持《も》ち、身《み》の丈《たけ》が九尺《くしやく》六寸《ろくすん》あつて、文王《ぶんわう》の容體《かたち》を備《そな》へて居《ゐ》ると云《い》ふ。彼《かれ》こそ其《そ》の男《をとこ》に違《ちがひ》ありませぬ。」
かう王孫賈《わうそんか》が說明《せつめい》した。
「其《そ》の孔子《こうし》と云《い》ふ聖人《せいじん》は、人《ひと》に如何《いか》なる術《じゆつ》を敎《をし》へる者《もの》である。」
と靈公《れいこう》は手《て》に持《も》つた盃《さかづき》を乾《ほ》して、將軍《しやうぐん》に問《と》うた。
「聖人《せいじん》と云《い》ふ者《もの》は、世《よ》の中《なか》の凡《す》べての智識《ちしき》の鍵《かぎ》を握《にぎ》つて居《を》ります。然《しか》し、あの人《ひと》は、専《もつぱ》ら家《いへ》を齊《とゝの》へ、國《くに》を富《と》まし、天下《てんか》を平《たひら》げる政《まつりごと》の道《みち》を、諸國《しよこく》の君《きみ》に授《さづ》けると申《もを》します。」
將軍《しやうぐん》が再《ふたゝ》びかう說明《せつめい》した。
「わたしは世《よ》の中《なか》の美色《びしよく》を求《もと》めて南子《なんし》を得《え》た。また四|方《はう》の財寶《ざいはう》を萃《あつ》めて此《こ》の宮殿《きうでん》を造《つく》つた。此《こ》の上《うへ》は天下《てんか》に覇《は》を唱《とな》へて、此《こ》の夫人《ふじん》と宮殿《きうでん》とにふさはしい權威《けんゐ》を持《も》ちたく思《おも》うて居《ゐ》る。どうかして其《そ》の聖人《せいじん》を此處《こゝ》へ呼《よ》び入《い》れて、天下《てんか》を平《たひら》げる術《じゆつ》を授《さづ》かりたいものぢや。」
と、公《こう》は卓《たく》を隔《へだ》てて對《たい》して居《ゐ》る夫人《ふじん》の唇《くちびる》を覗《うかゞ》つた、何《なん》となれば、平生《へいぜい》公《こう》の心《こゝろ》を云《い》ひ表《あら》はすものは、彼自身《かれじしん》の言葉《ことば》でなくつて、南子《なんし》夫人《ふじん》の唇《くちびる》から洩《も》れる言葉《ことば》であつたから。
「妾《わたし》は世《よ》の中《なか》の不思議《ふしぎ》と云《い》ふ者《もの》に遇《あ》つて見《み》たい。あの悲《かな》しい顏《かほ》をした男《をとこ》が眞《まこと》の聖人《せいじん》なら、妾《わたし》にいろいろの不思議《ふしぎ》を見《み》せてくれるであらう。」
かう云《い》つて、夫人《ふじん》は夢《ゆめ》みる如《ごと》き瞳《ひとみ》を上《あ》げて、遙《はるか》に隔《へだ》たり行《ゆ》く車《くるま》の跡《あと》を眺《なが》めた。
孔子《こうし》の一|行《こう》が北宮《ほくきう》の前《まへ》にさしかかつた時《とき》、賢《かしこ》い相《さう》を持《も》つた一人《ひとり》の官人《くわんじん》が、多勢《おほぜい》の供《とも》を從《したが》へ、屈產《くつさん》の駟馬《しば》に鞭撻《むちう》ち、車《くるま》の右《みぎ》の席《せき》を空《あ》けて、恭《うやうや》しく一|行《かう》を迎《むか》へた。
「私《わたくし》は靈公《れいこう》の命《めい》をうけて、先生《せんせい》をお迎《むか》へに出《で》た中叔圉《ちゆうしゆくぎよ》と申《まを》す者《もの》でございます。先生《せんせい》が此《こ》の度《たび》傳道《でんだう》の途《みち》に上《のぼ》られた事《こと》は、四|方《はう》の國々《くに/″\》までも聞《きこ》えて居《を》ります。長《なが》い旅路《たびぢ》に先生《せんせい》の翡翠《ひすゐ》の蓋《がい》は風《かぜ》に綻《ほころ》び、車《くるま》の軛《くびき》からは濁《にご》つた音《おと》が響《ひゞ》きます。願《ねが》はくは此《こ》の新《あたら》しき車《くるま》に召《め》し替《か》へられ、宮殿《きうでん》に駕《が》を枉《ま》げて、民《たみ》を安《やす》んじ、國《くに》を治《をさ》める先王《せんわう》の道《みち》を我等《われら》の君《きみ》に授《さづ》け給《たま》へ。先生《せんせい》の疲勞《ひらう》を癒《い》やす爲《た》めには、西圃《さいほ》の南《みなみ》に水晶《すゐしやう》のやうな溫泉《をんせん》が沸々《ふつ/\》と沸騰《たぎ》つて居《を》ります。先生《せんせい》の咽喉《のど》を濕《うる》ほす爲《た》めには、御苑《ぎよゑん》の園生《そのふ》に、芳《かん》ばしい柚《ゆず》、橙《だい/″\》、橘《たちばな》が、甘《あま》い汁《しる》を含《ふく》んで實《みの》つて居《を》ります。先生《せんせい》の舌《した》を慰《なぐさ》める爲《た》めには、苑囿《ゑんいう》の檻《をり》の中《なか》に、肥《こ》え太《ふと》つた豕《ゐのこ》、熊《くま》、豹《へう》、牛《うし》、羊《ひつじ》が蓐《しとね》のやうな腹《はら》を抱《かゝ》へて眠《ねむ》つて居《を》ります。願《ねが》はくは、二月《ふたつき》も、三月《みつき》も、一年《いちねん》も、十年《じふねん》も、此《こ》の國《くに》に車《くるま》を駐《とゞ》めて、愚《おろか》な私逹《わたしたち》の曇《くも》りたる心《こゝろ》を啓《ひら》き、盲《し》ひたる眼《まなこ》を開《ひら》き給《たま》へ。」
と中叔圉《ちゆうしゆくぎよ》は車《くるま》を下《お》りて、慇懃《ゐんぎん》に挨拶《あいさつ》をした。
「私《わたくし》の望《のぞ》む所《ところ》は、莊麗《さうれい》な宮殿《きうでん》を持《も》つ王者《わうしや》の富《とみ》よりは、三|王《わう》の道《みち》を慕《した》う君公《くんこう》の誠《まこと》であります。万乘《ばんじよう》の位《くらゐ》も桀紂《けつちう》の奢《おごり》の爲《た》めには尙《なほ》足《た》らず、百里《ひやくり》の國《くに》も堯舜《げうしゆん》の政《まつりごと》を布《し》くに狹《せま》くはありませぬ。靈公《れいこう》がまことに天下《てんか》の禍《わざはひ》を除《のぞ》き、庶民《しよみん》の幸《さいはひ》を圖《はか》る御志《おこゝろざし》ならば、此《こ》の國《くに》の土《つち》に私《わたくし》の骨《ほね》を埋《うづ》めても悔《く》いませぬ。」
斯《か》く孔子《こうし》が答《こた》へた。
やがて一|行《かう》は導《みちび》かれて、宮殿《きうでん》の奧深《おくふか》く進《すゝ》んだ。一|行《かう》の黑塗《くろぬり》の沓《くつ》は、塵《ちり》も止《とゞ》めぬ砥石《といし》の床《ゆか》に戞々《かつ/\》と鳴《な》つた。
摻々《さん/\》たる女手《ぢよしゆ》、
以《もつ》て裳《しやう》を縫《ぬ》ふ可《べ》し。
と、聲《こゑ》をそろへて歌《うた》ひながら、多勢《おほぜい》の女官《ぢよくわん》が、梭《おさ》の音《おと》たかく錦《にしき》を織《を》つて居《ゐ》る織室《しよくしつ》の前《まへ》も通《とほ》つた。綿《わた》のやうに咲《さ》きこぼれた桃《もゝ》の林《はやし》の蔭《かげ》からは、苑囿《ゑんいう》の牛《うし》の懶《ものう》げに呻《うな》る聲《こゑ》も聞《きこ》えた。
靈公《れいこう》は賢人《けんじん》中叔圉《ちゆうしゆくぎよ》のはからひを聽《き》いて、夫人《ふじん》を始《はじ》め一|切《さい》の女《をんな》を遠《とほ》ざけ、歡樂《くわんらく》の酒《さけ》の沁《し》みた唇《くちびる》を濯《そゝ》ぎ、衣冠《いくわん》正《たゞ》しく孔子《こうし》を一|室《しつ》に招《せう》じて、國《くに》を富《と》まし、兵《へい》を强《つよ》くし、天下《てんか》に王《わう》となる道《みち》を質《たゞ》した。
しかし、聖人《せいじん》は人《ひと》の國《くに》を傷《きずつ》け、人《ひと》の命《いのち》を損《そこな》ふ戰《たゝかひ》の事《こと》に就《つ》いては、一言《ひとこと》も答《こた》へなかつた。また民《たみ》の血《ち》を絞《しぼ》り、民《たみ》の財《ざい》を奪《うば》ふ富《とみ》の事《こと》に就《つ》いても敎《をし》へなかつた。さうして、軍事《ぐんじ》よりも、產業《さんげふ》よりも、第《だい》一に道德《だうとく》の貴《たうと》い事《こと》を嚴《おごそか》に語《かた》つた。力《ちから》を以《もつ》て諸國《しよこく》を屈服《くつぷく》する覇者《はしや》の道《みち》と、仁《じん》を以《もつ》て天下《てんか》を懷《なづ》ける王者《わうしや》の道《みち》との區別《くべつ》を知《し》らせた。
「公《こう》がまことに王者《わうしや》の德《とく》を慕《した》ふならば、何《なに》よりも先《ま》づ私《わたくし》の慾《よく》に打《う》ち克《か》ち給《たま》へ。」
これが聖人《せいじん》の誡《いましめ》であつた。
其《そ》の日《ひ》から靈公《れいこう》の心《こゝろ》を左右《さいう》するものは、夫人《ふじん》の言葉《ことば》でなくつて聖人《せいじん》の言葉《ことば》であつた。朝《あした》には廟堂《べうだう》に參《さん》して正《たゞ》しい政《まつりごと》の道《みち》を孔子《こうし》に尋《たづ》ね、夕《ゆふべ》には靈臺《れいだい》に臨《のぞ》んで天文《てんもん》四時《しじ》の運行《うんかう》を、孔子《こうし》に學《まな》び、夫人《ふじん》の閨《ねや》を訪《おとづ》れる夜《よ》とてはなかつた。錦《にしき》を織《お》る織室《しよくしつ》の梭《おさ》の音《おと》は、六藝《りくげい》を學《まな》ぶ官人《くわんじん》の弓弦《ゆづる》の音《おと》、蹄《ひづめ》の響《ひゞき》、篳篥《ひちりき》の聲《こゑ》に變《かは》つた。一日《いちにち》、公《こう》は朝早《あさはや》く獨《ひと》り靈臺《れいだい》に上《のぼ》つて、國中《くにぢゆう》を眺《なが》めると、野山《のやま》には美《うつく》しい小鳥《ことり》が囀《さへづ》り、民家《みんか》には麗《うるは》しい花《はな》が開《ひら》き、百姓《ひやくしやう》は畑《はた》に出《で》て公《こう》の德《とく》を讚《たゝ》へ歌《うた》ひながら、耕作《こうさく》にいそしんで居《ゐ》るのを見《み》た。公《こう》の眼《め》からは、熱《あつ》い感激《かんげき》の淚《なみだ》が流《なが》れた。
「あなたは、何《なに》を其《そ》のやうに泣《な》いて居《ゐ》らつしやる。」
其《そ》の時《とき》、ふと、かう云《い》ふ聲《こゑ》が聞《きこ》えて、魂《たましひ》をそそるやうな甘《あま》い香《かほり》が、公《こう》の鼻《はな》を嬲《なぶ》つた、其《そ》れは南子《なんし》夫人《ふじん》が口中《こうちう》に含《ふく》む鷄舌香《けいでつかう》と、常《つね》に衣《ころも》に振《ふ》り懸《か》けて居《ゐ》る西域《せいゐき》の香料《かうれう》、薔薇水《しやうびすゐ》の匂《にほひ》であつた。久《ひさ》しく忘《わす》れて居《ゐ》た美婦人《びふじん》の體《からだ》から放《はな》つ香氣《かうき》の魔力《まりよく》は、無殘《むざん》にも玉《たま》のやうな公《こう》の心《こゝろ》に、銳《するど》い爪《つめ》を打《う》ち込《こ》まうとした。
「何卒《どうぞ》お前《まへ》の其《そ》の不思議《ふしぎ》な眼《め》で、私《わたし》の瞳《ひとみ》を睨《にら》めてくれるな。其《そ》の柔《やはらか》い腕《かひな》で、私《わたし》の體《からだ》を縛《しば》つてくれるな。私《わたし》は聖人《せいじん》から罪惡《ざいあく》に打《う》ち克《か》つ道《みち》を敎《をそ》はつたが、まだ美《うつく》しきものの力《ちから》を防《ふせ》ぐ術《じゆつ》を知《し》らないから。」
と靈公《れいこう》は夫人《ふじん》の手《て》を拂《はら》ひ除《の》けて、顏《かほ》を背《そむ》けた。
「ああ、あの孔丘《こうきう》と云《い》ふ男《をとこ》は、何時《いつ》の間《ま》にかあなたを妾《わたし》の手《て》から奪《うば》つて了《しま》つた。妾《わたし》が昔《むかし》からあなたを愛《あい》して居《ゐ》なかつたのに不思議《ふしぎ》はない。しかし、あなたが妾《わたし》を愛《あい》さぬと云《い》ふ法《ほふ》はありませぬ。」
かう云《い》つた南子《なんし》の唇《くちびる》は、激《はげ》しい怒《いかり》に燃《も》えて居《ゐ》た。夫人《ふじん》には此《こ》の國《くに》に嫁《とつ》ぐ前《まへ》から、宋《そう》の公子《こうし》の宋朝《そうてう》と云《い》ふ密夫《みつぷ》があつた。夫人《ふじん》の怒《いかり》は、夫《をつと》の愛情《あいじやう》の衰《おとろ》へた事《こと》よりも、夫《をつと》の心《こゝろ》を支配《しはい》する力《ちから》を失《うしな》つた事《こと》にあつた。
「私《わたし》はお前《まへ》を愛《あい》さぬと云《い》ふではない。今日《けふ》から私《わたし》は、夫《おつと》が妻《つま》を愛《あい》するやうにお前《まへ》を愛《あい》しよう。今迄《いまゝで》私《わたし》は、奴隸《どれい》が主《しゆ》に事《つか》へるやうに、人間《にんげん》が神《かみ》を崇《あが》めるやうに、お前《まへ》を愛《あい》して居《ゐ》た。私《わたし》の國《くに》を捧《さゝ》げ、私《わたし》の富《とみ》を捧《さゝ》げ、私《わたし》の民《たみ》を捧《さゝ》げ、私《わたし》の命《いのち》を捧《さゝ》げて、お前《まへ》の歡《よろこび》を購《あがな》ふ事《こと》が、私《わたし》の今迄《いままで》の仕事《しごと》であつた。けれども聖人《せいじん》の言葉《ことば》によつて、其《そ》れよりも貴《たうと》い仕事《しごと》のある事《こと》を知《し》つた。今迄《いままで》はお前《まへ》の肉體《にくたい》の美《うつく》しさが、私《わたし》に取《と》つて最上《さいじやう》の力《ちから》であつた。しかし、聖人《せいじん》の心《こゝろ》の響《ひゞき》は、お前《まへ》の肉體《にくたい》よりも更《さら》に强《つよ》い力《ちから》を私《わたし》に與《あた》へた。」
この勇《いさ》ましい決心《けつしん》を語《かた》るうちに、公《こう》は知《し》らず識《し》らず額《ひたひ》を上《あ》げ肩《かた》を聳《そび》やかして、怒《いか》れる夫人《ふじん》の顏《かほ》に面《めん》した。
「あなたは決《けつ》して妾《わたし》の言葉《ことば》に逆《さから》ふやうな、强《つよ》い方《かた》ではありませぬ。あなたはほんたうに哀《あはれ》な人《ひと》だ。世《よ》の中《なか》に自分《じぶん》の力《ちから》を持《も》つて居《ゐ》ない人程《ひとほど》、哀《あはれ》な人《ひと》はありますまい。妾《わたし》はあなたを直《ぢ》きに孔子《こうし》の掌《て》から取《と》り戾《もど》すことが出來《でき》ます。あなたの舌《した》は、たつた今《いま》立派《りつぱ》な言《こと》を云《い》つた癖《くせ》に、あなたの瞳《ひとみ》は、もう恍惚《うつとり》と妾《わたし》の顏《かほ》に注《そゝ》がれて居《ゐ》るではありませんか。妾《わたし》は總《す》べての男《をとこ》の魂《たましひ》を奪《うば》ふ術《すべ》を得《え》て居《ゐ》ます。妾《わたし》はやがて彼《あ》の孔丘《こうきう》と云《い》ふ聖人《せいじん》をも、妾《わたし》の捕虜《とりこ》にして見せませう。」
と、夫人《ふじん》は誇《ほこ》りかに微笑《ほゝゑ》みながら、公《こう》を流眄《ながしめ》に見《み》て、衣摺《きぬず》れの音《おと》荒《あら》く靈臺《れいだい》を去《さ》つた。
其《そ》の日《ひ》まで平靜《へいせい》を保《たも》つて居《ゐ》た公《こう》の心《こゝろ》には、旣《すで》に二《ふた》つの力《ちから》が相鬩《あひせめ》いで居《ゐ》た。
「此《こ》の衞《ゑい》の國《くに》に來《く》る四方《しはう》の君子《くんし》は、何《なに》を措《お》いても必《かなら》ず妾《わたし》に拜謁《はいえつ》を願《ねが》はぬ者《もの》はない。聖人《せいじん》は禮《れい》を重《おも》んずる者《もの》と聞《き》いて居《ゐ》るのに、何故《なぜ》姿《すがた》を見《み》せないであらう。」
斯《か》く、宦者《くわんじや》の雍渠《ようきよ》が夫人《ふじん》の旨《むね》を傳《つた》へた時《とき》に、謙讓《けんじやう》な聖人《せいじん》は、其《そ》れに逆《さから》ふことが出來《でき》なかつた。
孔子《こうし》は一|行《かう》の弟子《ていし》と共《とも》に、南子《なんし》の宮殿《きうでん》に伺候《しこう》して北面稽首《ほくめんけいしゆ》した。南《みなみ》に面《めん》する錦繡《きんしゆう》の帷《まく》の奧《おく》には、僅《わづか》に夫人《ふじん》の繡履《しゆうり》がほの見《み》えた。夫人《ふじん》が項《うなじ》を下《さ》げて一|行《かう》の禮《れい》に答《こた》ふる時《とき》、頸飾《くびかざり》の步搖《ほえう》と腕環《うでわ》の瓔珞《えうらく》の珠《たま》の、相搏《あひう》つ響《ひゞき》が聞《きこ》えた。
「この衞《ゑい》の國《くに》を訪《おとづ》れて、妾《わたし》の顏《かほ》を見《み》た人《ひと》は、誰《たれ》も彼《かれ》も『夫人《ふじん》の顙《ひたひ》は妲妃《だつき》に似《に》て居《ゐ》る。夫人《ふじん》の目《め》は褒姒《ほうじ》に似《に》て居《ゐ》る。』と云《い》つて驚《おどろ》かぬ者《もの》はない。先生《せんせい》が眞《まこと》の聖人《せいじん》であるならば、三王《さんわう》五帝《ごてい》の古《いにしへ》から、妾《わたし》より美《うつく》しい女《をんな》が地上《ちじやう》に居《ゐ》たかどうかを、妾《わたし》に敎《をし》へては吳《く》れまいか。」
かう云《い》つて、夫人《ふじん》は帷《まく》を排《はい》して晴《は》れやかに笑《わら》ひながら、一|行《かう》を膝近《ひざちか》く招《まね》いた。鳳凰《ほうわう》の冠《かんむり》を戴《いたゞき》き、黃金《わうごん》の釵《しや》、玳瑁《たいまい》の笄《かうがい》を挿《さ》して、鱗衣霓裳《りんいげいしやう》を纏《まと》つた南子《なんし》の笑顏《ゑがほ》は、日輪《にちりん》の輝《かゞや》く如《ごと》くであつた。
「私《わたくし》は高《たか》い德《とく》を持《も》つた人《ひと》の事《こと》を聞《き》いて居《を》ります。しかし、美《うつく》しい顏《かほ》を持《も》つた人《ひと》の事《こと》を知《し》りませぬ。」
と孔子《こうし》が云《い》つた、さうして南子《なんし》が再《ふたゝ》び尋《たづ》ねるには、
「妾《わたし》は世《よ》の中《なか》の不思議《ふしぎ》なもの、珍《めづ》らしいものを集《あつ》めて居《ゐ》る。妾《わたし》の廩《くら》には大屈《たいくつ》の金《きん》もある。垂棘《すゐきよく》の玉《たま》もある。妾《わたし》の庭《には》には僂句《るく》の龜《かめ》も居《ゐ》る。崑崙《こんろん》の鶴《つる》も居《ゐ》る。けれども妾《わたし》はまだ、聖人《せいじん》の生《うま》れる時《とき》に現《あらは》れた麒麟《きりん》と云《い》ふものを見《み》た事《こと》がない。また聖人《せいじん》の胸《むね》にあると云《い》ふ、七《なゝ》つの竅《あな》を見《み》た事《こと》がない、先生《せんせい》がまことの聖人《せいじん》であるならば、妾《わたし》に其《そ》れを見《み》せてはくれまいか。」
すると、孔子《こうし》は面《おもて》を改《あらた》めて、嚴格《げんかく》な調子《てうし》で、
「私《わたくし》は珍《めづ》らしいもの、不思議《ふしぎ》なものを知《し》りませぬ。私《わたくし》の學《まな》んだ事《こと》は、匹夫匹婦《ひつぷひつぷ》も知《し》つて居《を》り、又《また》知《し》つて居《を》らねばならぬ事《こと》ばかりでございます。」
と答《こた》へた。夫人《ふじん》は更《さら》に言葉《ことば》を柔《やはら》げて、
「妾《わたし》の顏《かほ》を見《み》、妾《わたし》の聲《こゑ》を聞《き》いた男《をとこ》は、顰《ひそ》めたる眉《まゆ》をも開《ひら》き、曇《くも》りたる顏《かほ》をも晴《は》れやかにするのが常《つね》であるのに、先生《せんせい》は何故《なにゆゑ》いつまでも其《そ》のやうに、悲《かな》しい顏《かほ》をして居《を》られるのであらう。妾《わたし》には悲《かな》しい顏《かほ》は凡《す》べて醜《みにく》く見《み》える。妾《わたし》は宋《さう》の國《くに》の宋朝《そうてう》と云《い》ふ若者《わかもの》を知《し》つて居《ゐ》るが、其《そ》の男《をとこ》は先生《せんせい》のやうな氣高《けだか》い額《ひたひ》を持《も》たぬ代《かは》りに、春《はる》の空《そら》のやうなうららかな瞳《ひとみ》を持《も》つて居《ゐ》る。また妾《わたし》の近侍《きんじ》に、雍渠《ようきよ》という宦者《くわんじや》が居《ゐ》るが、其《そ》の男《をとこ》は先生《せんせい》のやうに嚴《おごそか》な聲《こゑ》を持《も》たぬ代《かは》りに、春《はる》の鳥《とり》のやうな輕《かる》い舌《した》を持《も》つて居《ゐ》る。先生《せんせい》がまことの聖人《せいじん》であるならば、豐《ゆた》かな心《こころ》にふさはしい、麗《うらゝ》かな顏《かほ》を持《も》たねばなるまい。妾《わあし》は今《いま》先生《せんせい》の顏《かほ》の憂《うれひ》の雲《くも》を拂《はら》ひ、惱《なや》ましい影《かげ》を拭《ぬぐ》うて上《あ》げる。」
と左右《さいう》の近侍《きんじ》を顧《かへり》みて、一《ひと》つの函《はこ》を取《と》り寄《よ》せた。
「妾《わたし》はいろいろの香《かう》を持《も》つて居《ゐ》る。此《こ》の香氣《かうき》を惱《なや》める胸《むね》に吸《す》ふ時《とき》は、人《ひと》はひたすら美《うつく》しい幻《まぼろし》の國《くに》に憧《あこが》れるであらう。」
かく云《い》ふ言葉《ことば》の下《した》に、金冠《きんくわん》を戴《いたゞ》き、蓮花《れんげ》の帶《おび》をしめた七|人《にん》の女官《ぢよくわん》は、七つの香爐《かうろ》を捧《さゝ》げて、聖人《せいじん》の周圍《しうゐ》を取《と》り繞《ま》いた。
夫人《ふじん》は香函《かうばこ》を開《ひら》いて、さまざまの香《かう》を一つ一つ香爐《かうろ》に投《な》げた。七すぢの重《おも》い煙《けむり》は、金繡《きんしゆう》の帷《まく》を這《は》うて靜《しづか》に上《のぼ》つた。或《あるひ》は黃《き》に、或《あるひ》は紫《むらさき》に、或《あるひ》は白《しろ》き檀香《だんかう》の煙《けむり》には、南《みなみ》の海《うみ》の底《そこ》の、幾百年《いくひやくねん》に亙《わた》る奇《く》しき夢《ゆめ》がこもつて居《ゐ》た。十二種《じふにしゆ》の鬱金香《うつこんかう》は、春《はる》の霞《かすみ》に育《はぐゝ》まれた芳草《はうさう》の精《せい》の、凝《こ》つたものであつた。大石口《だいせきこう》の澤中《たくちう》に棲《す》む龍《りう》の涎《よだれ》を、練《ね》り固《たか》めた龍涎香《りうえんかう》の香《かほり》、交州《かうしう》に生《うま》るる密香樹《みつかうじゆ》の根《ね》より造《つく》つた沈香《ちんかう》の氣《き》は、人《ひと》の心《こゝろ》を、遠《とほ》く甘《あま》い想像《さうざう》の國《くに》に誘《いざな》ふ力《ちから》があつた。しかし、聖人《せいじん》の顏《かほ》の曇《くもり》は深《ふか》くなるばかりであつた。
夫人《ふじん》はにこやかに笑《わら》つて、
「おお、先生《せんせい》の顏《かほ》は漸《やうや》く美《うつく》しう輝《かゞや》いて來《き》た。妾《わたし》はいろいろの酒《さけ》と杯《さかづき》とを持《も》つて居《ゐ》る。香《かう》の煙《けむり》が、先生《せんせい》の苦《にが》い魂《たましひ》に甘《あま》い汁《しる》を吸《す》はせたやうに、酒《さけ》のしたたりは、先生《せんせい》の嚴《いかめ》しい體《からだ》に、くつろいだ安樂《あんらく》を與《あた》へるであらう。」
斯《か》く云《い》ふ言葉《ことば》の下《した》に、銀冠《ぎんくわん》を戴《いたゞ》き、蒲桃《ほとう》の帶《おび》を結《むす》んだ七|人《にん》の女官《じよくわん》は、樣々《さま/″\》の酒《さけ》と杯《さかづき》とを恭々《うや/\》しく卓上《たくじやう》に運《はこ》んだ。
刺靑《しせい》
其《そ》れはまだ人々《ひと/″\》が「愚《おろか》」と云ふ貴《たうと》い德《とく》を持《も》つて居《ゐ》て、世《よ》の中《なか》が今《いま》のやうに激しく軋《きし》み合《あ》はない時分《じぶん》であつた。殿樣《とのさま》や若旦那《わかだんな》の長閑《のどか》な顏《かほ》が曇《くも》らぬやうに、御殿女中《ごてんぢよちゆう》や華魁《おいらん》の笑《わらひ》の種《たね》が盡《つ》きぬやうにと、饒舌《ぜうぜつ》を賣《う》るお茶坊主《ちやばうず》だの幇間《はうかん》だのと云《い》ふ職業《しよくげふ》が、立派《りつぱ》に存在《そんざい》して行《ゆ》けた程《ほど》、世間《せけん》がのんびり[#「のんびり」に傍点]して居《ゐ》た時分《じぶん》であつた。女《をんな》定《さだ》九|郞《らう》、女《をんな》自雷也《じらいや》、女《をんな》鳴神《なるかみ》――當時《たうじ》の芝居《しばゐ》でも草雙紙《くさざうし》でも、すべて美《うつく》しい者《もの》は强者《きやうしや》であり、醜《みにく》い者《もの》は弱者《じやくしや》であつた。誰《だれ》も彼《かれ》も擧《こぞ》つて美《うつく》しからむと努《つと》めた揚句《あげく》は、天禀《てんりん》の體《からだ》へ繪《ゑ》の具《ぐ》を注《つ》ぎ込《こ》む迄《まで》になつた。芳烈《はうれつ》な、或《あるひ》は絢爛《けんらん》な、線《せん》と色《いろ》とが其頃《そのころ》の人々《ひと/″\》の肌《はだ》に躍《おど》つた。
馬道《うまみち》を通《かよ》ふお客《きやく》は、見事《みごと》な刺靑《ほりもの》のある駕籠舁《かごかき》を選《えら》んで乘《の》つた。吉原《よしはら》、辰巳《たつみ》の女《をんな》も美《うつく》しい刺靑《ほりもの》の男《をとこ》に惚《ほ》れた。博徒《ばくと》、鳶《とび》の者《もの》はもとより、町人《ちやうにん》から稀《まれ》には侍《さむらひ》なども入墨《いれずみ》をした。時々《とき/″\》兩國《りやうごく》で催《もよほ》される刺靑會《しせいくわい》では參會者《さんくわいしや》おのおの肌《はだ》を叩《たゝ》いて、互《たがひ》に奇拔《きばつ》な意匠《いしやう》を誇《ほこ》り合《あ》ひ、評《ひやう》しあつた。
淸吉《せいきち》と云《い》ふ若《わか》い刺靑師《ほりものし》の腕《うで》ききがあつた。淺草《あさくさ》のちやり[#「ちやり」に傍点]文《ぶん》、松島町《まつしまちやう》の奴平《やつへい》、こん/\[#「こん/\」に傍点]次郞《じらう》などにも劣《おと》らぬ名手《めいしゅ》であると持《も》て囃《はや》されて、何《なん》十|人《にん》の人《ひと》の肌《はだ》は、彼《かれ》の繪筆《ゑふで》の下《もと》に絖地《ぬめぢ》となつて擴《ひろ》げられた。刺靑會《ほりものくわい》で好評《かうひやう》を博《はく》す刺靑《ほりもの》の多《おほ》くは彼《かれ》の手《て》になつたものであつた。逹摩金《だるまきん》はぼかし[#「ぼかし」に傍点]刺《ほり》が得意《とくい》と云《い》はれ、唐草權太《からくさごんた》は朱刺《しゆぼり》の名手《めいしゆ》と讚《たゝ》へられ、淸吉《せいきち》は又《また》奇警《きけい》な構圖《こうづ》と妖艶《えうえん》な筆《ふで》の趣《おもむき》とで名《な》を知《し》られた。
もと豐國國貞《とよくにくにさだ》の風《ふう》を慕《した》つて、浮世繪師《うきよゑし》の渡世《とせい》をして居《ゐ》ただけに、刺靑師《ほりものし》に墮落《だらく》してからの淸吉《せいきち》にもさすが畫工《ゑかき》らしい良心《りやうしん》と、銳感《えいかん》とが殘つて居《い》た。彼《かれ》の心《こゝろ》を惹《ひ》きつける程《ほど》の皮膚《ひふ》と骨組《ほねぐみ》とを持《も》つ人《ひと》でなければ、彼《かれ》の刺靑《ほりもの》を購《あがな》ふ譯《わけ》には行《ゆ》かなかつた。たまたま描《か》いて貰《もら》へるとしても、一|切《さい》の構圖《こうづ》と費用《ひよう》とを彼《かれ》の望《のぞ》むがままにして、其《そ》の上《うへ》堪《た》へ難《がた》い針先《はりさき》の苦痛《くつう》を、一《ひ》と月《つき》も二《ふ》た月《つき》もこらへねばならなかつた。
この若《わか》い刺靑師《ほりものし》の心《こゝろ》には、人知《ひとし》らぬ快樂《くわいらく》と宿願《しゆくぐわん》とが潛《ひそ》むで居《ゐ》た、彼が人々《ひと/″\》の肌《はだ》を針《はり》で突《つ》き刺《さ》す時《とき》、眞紅《まつか》に血《ち》を含《ふく》んで脹《は》れ上《あが》る肉《にく》の疼《うづ》きに堪《た》へかねて、大抵《たいてい》の男《をとこ》は苦《くる》しき呻《うめ》き聲《ごゑ》を發《はつ》したが、其《そ》の呻《うめ》きごゑが激《はげ》しければ激《はげ》しい程《ほど》、彼《かれ》は不思議《ふしぎ》に云《い》ひ難《がた》き愉快《ゆくわい》を感《かん》じるのであつた。刺靑《ほりもの》のうちでも殊《こと》に痛《いた》いと云《い》はれる朱刺《しゆざし》、ぼかしぼり――それを用《もち》ふる事《こと》を彼《かれ》は殊更《ことさら》喜《よろこ》んだ。一|日《にち》平均《へいきん》五六百|本《ぽん》の針《はり》に刺《さ》されて、色上《いろあ》げを良《よ》くする爲《ため》湯《ゆ》へ浴《つか》つて出《で》て來《く》る人《ひと》は、皆《みな》半死半生《はんしはんしやう》の體《てい》で淸吉《せいきち》の足下《あしもと》に打《う》ち倒《たふ》れたまま、暫《しばら》くは身動《みうご》きさへも出來《でき》なかつた。その無殘《むざん》な姿《すがた》をいつも淸吉《せいきち》は冷《ひやゝ》かに眺《なが》めて、
「嘸《さぞ》お痛《いた》みでがせうなあ。」
と云《い》ひながら、快《こゝろよ》ささうに笑《わら》つて居《ゐ》た。
意氣地《いくぢ》のない男《をとこ》などが、まるで知死期《ちしご》の苦《くる》しみのやうに口《くち》を歪《ゆが》め齒《は》を喰《く》ひしばり、ひいひいと悲鳴《ひめい》をあげる事《こと》があると、彼は、
「お前《めへ》さんも江戶兒《えどつこ》だ。辛抱《しんばう》しなさい。――この淸吉《せいきち》の針《はり》は飛《と》び切《き》りに痛《いて》へのだから。」
かう云《い》つて、淚《なみだ》にうるむ男《をとこ》の顏《かほ》を橫眼《よこめ》で見《み》ながら、委細《ゐさい》かまはず刺《ほ》つて行《い》つた。また我慢《がまん》づよい者《もの》がグツと膽《きも》を据《す》ゑて、眉一《まゆひと》つしかめず堪《こら》へて居《ゐ》ると、
「ふむ、お前《めへ》さんは見掛《みか》けによらねえ突强者《つツぱりもの》だ。――だが見《み》なさい、今《いま》にそろそろ疼《うづ》き出《だ》して、どうにもかうにも堪《たま》らないやうにならうから。」
と、白《しろ》い齒《は》を見《み》せて笑《わら》つた。
彼《かれ》が年來《ねんらい》の宿願《しゆくぐわん》は、光輝《くわうき》ある美女《びぢよ》の肌《はだ》を得《え》て、それへ己《おのれ》の魂《たましひ》を刺《ほ》り込《こ》む事《こと》であつた。その女《をんな》の素質《そしつ》と容貌《ようばう》とに就《つ》いては、いろいろの注文《ちうもん》があつた。啻《たゞ》に美《うつく》しい顏《かほ》、美《うつく》しい肌《はだ》とのみでは、彼《かれ》は中々《なか/\》滿足《まんぞく》する事《こと》が出來《でき》なかつた。江戶中《えどぢう》の色町《いろまち》に名《な》を響《ひゞ》かせた女《をんな》と云《い》ふ女《をんな》を調《しら》べても、彼《かれ》の氣分《きぶん》に適《かな》つた味《あぢ》はひと調子《てうし》とは容易《ようい》に見《み》つからなかつた。まだ見《み》ぬ人《ひと》の姿《すがた》かたちを心《こゝろ》に描《ゑが》いて、三|年《ねん》四|年《ねん》は空《むな》しく憧《あこが》れながらも、彼《かれ》はなほ其《そ》の願《ねがひ》を捨てずに居《ゐ》た。
丁度《ちやうど》四|年目《ねんめ》の夏《なつ》のとあるゆふべ、深川《ふかがは》の料理屋《れうりや》平淸《ひらせい》の前《まへ》を通《とほ》りかかつた時《とき》、彼《かれ》はふと門口《かどぐち》に待《ま》つて居《ゐ》る駕籠《かご》の簾《すだれ》のかげから眞白《まつしろ》な女《をんな》の素足《すあし》のこぼれて居《ゐ》るのに氣がついた。銳《するど》い彼《かれ》の眼《め》には、人間《にんげん》の足《あし》はその顏《かほ》と同《おな》じやうに複雜《ふくざつ》な表情《へうじやう》を持《も》つて映《うつ》つた。その女《をんな》の足《あし》は、彼《かれ》に取《と》つては貴《たつと》き肉《にく》の寶玉《はうぎよく》であつた。拇指《おやゆび》から起《おこ》つて小指《こゆび》に終《をは》る繊細《せんさい》な五|本《ほん》の指《ゆび》の整《とゝの》ひ方《かた》、繪《ゑ》の島《しま》の海邊《うみべ》で獲《と》れるうすべに色《いろ》の貝《かひ》にも劣《おと》らぬ爪《つめ》の色合《いろあひ》、珠《たま》のやうな踵《きびす》のまる味《み》、淸冽《せいれつ》な岩間《いはま》の水《みづ》が絕《た》えず足下《あしもと》を洗《あら》ふかと疑《うたが》はれる皮膚《ひふ》の潤澤《じゆんたく》。この足《あし》こそは、やがて男《をとこ》の生血《いきち》に肥《こ》え太《ふと》り、男《をとこ》のむくろを蹈《ふ》みつける足《あし》であつた。この足《あし》を持《も》つ女《をんな》こそは、彼《かれ》が永年《ながねん》たづねあぐむだ女《をんな》の中《なか》の女《をんな》であらうと思《おも》はれた。淸吉《せいきち》は躍《をど》りたつ胸《むね》をおさへて、其《そ》の人《ひと》の顏《かほ》が見《み》たさに駕籠《かご》の後《あと》を追《お》ひかけたが、二三|町《ちやう》行《ゆ》くと、もう其《そ》の影《かげ》は見《み》えなかつた。
淸吉《せいきち》の憧《あこが》れごこちが、激《はげ》しき戀《こひ》に變《かは》つて其《そ》の年《とし》も暮《く》れ、五|年目《ねんめ》の春《はる》も半《なか》ば老《お》い込《こ》むだ或《あ》る日《ひ》の朝《あさ》であつた。彼《かれ》は深川《ふかがわ》佐賀町《さがちやう》の寓居《ぐうきよ》で、房楊枝《ふさやうじ》をくはへながら、錆竹《さびたけ》の濡《ぬ》れ椽《えん》に萬年靑《おもと》の鉢《はち》を眺《なが》めて居《ゐ》ると、庭《には》の裏木戶《うらきど》を訪《おとな》ふけはひがして、建仁寺《けんにんじ》の袖垣《そでがき》のかげから、ついぞ見馴《みな》れぬ小娘《こむすめ》が這入《はい》つて來《き》た。
それは淸吉《せいきち》が馴染《なじみ》の辰巳《たつみ》の唄女《はおり》から寄《よ》こされた使《つかひ》の者《もの》であつた。
「姐《ねえ》さんから此《こ》の羽織《はおり》を親方《おやかた》へお手渡《てわた》しして、何《なに》か裏地《うらぢ》へ繪模樣《ゑもやう》を畫《か》いて下《くだ》さるやうにお賴《たの》み申《まを》せつて‥‥」
と、娘《むすめ》は鬱金《うこん》の風呂敷《ふろしき》をほどいて、中《なか》から岩井杜若《いはゐとぢやく》の似顏繪《にがほゑ》のたたう[#「たたう」に傍点]に包《つゝ》まれた女羽織《をんなばおり》と、一|通《つう》の手紙《てがみ》とを取《と》り出《だ》した。
其《そ》の手紙《てがみ》には羽織《はおり》のことをくれぐれも賴《たの》んだ末《すゑ》に、使《つかひ》の娘《むすめ》は近々《きん/\》に私《わたし》の妹分《いもとぶん》として御座敷《おざしき》へ出《で》る筈故《はずゆゑ》私《わたし》のことも忘《わす》れずに、この娘《こ》も引《ひ》き立《た》ててやつて下《くだ》さいと認《したゝ》めてあつた。
「どうも見覺《みおぼ》えのない顏《かほ》だと思《おも》つたが、それぢやお前《まへ》は此《こ》の頃《ごろ》此方《こつち》へ來《き》なすつたのか。」
かう云《い》つて淸吉《せいきち》は、しげしげと娘《むすめ》の姿《すがた》を見守《みまも》つた。年頃《としごろ》はやうやう十六か七かと思《おも》はれたが、その娘《むすめ》の顏《かほ》は、不思議《ふしぎ》にも長《なが》い月日《つきひ》を色里《いろざと》に暮《くら》して、幾《いく》十|人《にん》の男《をとこ》の魂《たましひ》を弄《もてあそ》んだ年增《としま》のやうに物凄《ものすご》く整《とゝの》つて居《ゐ》た。それは國中《くにぢゆう》の罪《つみ》と財《たから》との流《なが》れ込《こ》む都《みやこ》の中《なか》で、何《なん》十|年《ねん》の昔《むかし》から生《い》き外《かは》り死《し》に代《かは》つたみめ[#「みめ」に傍点]麗《うるは》しい多《おほ》くの男女《なんによ》の、夢《ゆめ》の數々《かず/″\》から生《うま》れ出《い》づべき器量《きりやう》であつた。
「お前《まへ》は去年《きよねん》の六|月《ぐわつ》ごろ、平淸《ひらせい》から駕籠《かご》で歸《かへ》つたことがあらうがな。」
かう訊《たづ》ねながら、淸吉《せいきち》は娘《むすめ》を椽《えん》へかけさせて、備後表《びんごおもて》の臺《だい》に乘《の》つた巧緻《かうち》な素足《すあし》を仔細《しさい》に眺《なが》めた。
「ええ、あの時分《じぶん》なら、まだお父《とつ》さんが生《い》きて居《ゐ》たから、平淸《ひらせい》へも度々《たび/″\》まゐりましたのさ。」
と、娘《むすめ》は奇妙《きめう》な質問《しつもん》に笑《わら》つて答《こた》へた。
「丁度《ちやうど》これで足《あし》かけ五|年《ねん》、己《おれ》はお前《めへ》を待《ま》つて居《ゐ》た。顏《かほ》を見《み》るのは始《はじ》めてだが、お前《まへ》の足《あし》にはおぼえがある。――お前《めへ》に見《み》せてやりたいものがあるから、まあ上《あが》つてゆつくり遊《あそ》んで行《い》くがいい。」
と、淸吉《せいきち》は暇《いとま》を吿《つ》げて歸《かへ》らうとする娘《むすめ》の手《て》を取《と》つて、大川《おほかは》の水《みず》に臨《のぞ》む二|階《かい》座敷《ざしき》へ案内《あんない》した後《のち》、大幅《おほはゞ》の卷物《まきもの》を二|本《ほん》とり出《だ》して、先《ま》づ其《そ》の一《ひと》つをさらさらと娘《むすめ》の前《まへ》に繰《く》り展《ひろ》げた。
それは古《むかし》の暴君《ばうくん》紂王《ちうわう》の寵妃《ちようひ》、末喜《ばつき》を描《ゑが》いた繪《ゑ》であつた。瑠璃珊瑚《るりさんご》を鏤《ちりば》めた金冠《きんくわん》の重《おも》さに得堪《えた》へぬなよやかな體《からだ》を、ぐつたり勾欄《こうらん》に凭《もた》れて、羅綾《らりよう》の裳裾《もすそ》を階《きざはし》の中段《ちうだん》にひるがへし、右手《めて》に大杯《たいはい》を傾《かたむ》けながら、今《いま》しも庭前《ていぜん》に刑《けい》せられんとする犧牲《いけにえ》の男《をとこ》を眺《なが》めて居《ゐ》る妃《ひ》の風情《ふぜい》と云《い》ひ、鐵《てつ》の鎖《くさり》で四|肢《し》を銅柱《どうちう》へ縛《ゆ》ひつけられ、最後《さいご》の運命《うんめい》を待《ま》ち構《かま》へつつ、妃《ひ》の前《まへ》に頭《かしら》をうなだれ、眼を閉《と》ぢた男《をとこ》の顏色《かほいろ》と云《い》ひ、此《こ》の種《しゆ》の畫題《ぐわだい》にややともすると陷《おちい》り易《やす》き俗氣《ぞくけ》を離《はな》れて、物凄《ものすご》い迄《まで》に巧《たくみ》に描《か》かれて居《ゐ》た。
娘《むすめ》は暫《しばら》くこの奇怪《きくわい》な繪《ゑ》の面《おもて》を見入《みい》つて居《ゐ》たが、知《し》らず識《し》らず其《そ》の瞳《ひとみ》は輝《かゞや》き其《そ》の唇《くちびる》は顫《ふる》へた。怪《あや》しくも其《そ》の顏《かほ》はだんだんと妃《きさき》の顏《かほ》に似通《にかよ》つて來《き》た。娘《むすめ》は其處《そこ》に隱《かく》れたる眞《しん》の「己《おのれ》」を見出《みいだ》した。
「この繪《ゑ》にはお前《まへ》の心《こゝろ》が映《うつ》つて居《ゐ》るぞ。」
かう云《い》つて、淸吉《せいきち》は快《こゝろよ》げに笑《わら》ひながら、娘《むすめ》の顏《かほ》をのぞき込《こ》むだ。
「どうしてこんな恐《おそ》ろしいものを、私《わたし》にお見《み》せなさるのです。」
と、娘《むすめ》は靑褪《あをざ》めた額《ひたひ》を擡《もた》げて云《い》つた。
「この繪《ゑ》の女《をんな》はお前《まへ》なのだ。この女《をんな》の血《ち》がお前《まへ》の體《からだ》に交《まじ》つて居《ゐ》る筈《はず》だ。」
と、彼《かれ》は更《さら》に他《た》の一|本《ぽん》の畫幅《ぐわふく》を展《ひろ》げた。
それは「肥料《ひれう》」と云《い》ふ畫題《ぐわだい》であつた。畫面《ぐわめん》の中央《ちうわう》に、若《わか》い女《をんな》が櫻《さくら》の幹《みき》へ身《み》を倚《よ》せて、足下《そくか》に累々《るゐ/\》と算《さん》を亂《みだ》して斃《たふ》れたる幾《いく》十の男《をとこ》の屍骸《むくろ》を見《み》つめて居《ゐ》る。女《をんな》の身邊《しんぺん》を舞《ま》ひつつ凱歌《かちどき》をうたふ小鳥《ことり》の群《むれ》、女《をんな》の瞳《ひとみ》に溢《あふ》れたる抑《おさ》へ難《がた》き誇《ほこり》と歡《よろこ》びの色《いろ》。それは戰《たゝかひ》の跡《あと》の景色《けしき》か、抑《そもそ》もまた花園《はなぞの》の春《はる》の景色《けしき》か。それを見《み》せられた娘《むすめ》は、われとわが心《こゝろ》の底《そこ》に潛《ひそ》むで居《ゐ》た何物《なにもの》かを、探《さぐ》りあてたる心地《こゝち》であつた。
「これはお前《まへ》の未來《みらい》を繪《ゑ》に現《あらは》したのだ。此處《こゝ》に斃《たふ》れて居《ゐ》る人逹《ひとたち》は、皆《みんな》これからお前《まへ》の爲《た》めに命《いのち》を捨《す》てるのだ。」
かう云《い》つて、淸吉《せいきち》は娘《むすめ》の顏《かほ》と寸分《すんぶん》違《ちが》はぬ畫面《ぐわめん》の女《をんな》を指《ゆび》さした。
「後生《ごしやう》だから、早《はや》く其《そ》の繪《ゑ》をしまつて下《くだ》さい。」
と、娘《むすめ》は恐《おそ》ろしい誘惑《いうわく》を避《さ》けるが如《ごと》く、畫面《ぐわめん》に背《そむ》いて疊《たゝみ》の上《うへ》へ突俯《つツぷ》したが、やがて再《ふたゝ》び慄《ふる》へ慄《ふる》へに唇《くちびる》をわななかした。
「親方《おやかた》、白狀《はくじやう》します。私《わたし》はお前《まへ》さんのお察《さつ》し通《どほ》り、其《そ》の繪《ゑ》の女《をんな》のやうな性分《しやうぶん》を持《も》つて居《ゐ》ますのさ。――だからもう堪忍《かんにん》して、其《そ》れを引込《ひつこ》めてお吳《く》んなさい。」
「そんな卑怯《ひけふ》なことを云《い》はずと、もつとよく此《こ》の繪《ゑ》を見《み》るがいい。それを恐《おそ》ろしがるのも、まあ今《いま》のうちだらうよ。」
かう云《い》つた淸吉《せいきち》の顏《かほ》には、いつもの意地《いぢ》の惡《わる》い笑《わらひ》が漂《たゞよ》つて居《ゐ》た。
然《しか》し娘《むすめ》の頭《つむり》は容易《ようい》に上《あが》らなかつた。襦絆《じゆばん》の袖《そで》に顏《かほ》を蔽《おほ》うていつまでもいつまでも突俯《つツぷ》したまま、
「親方《おやかた》、どうか私《わたし》を歸《かへ》しておくれ。お前《まへ》さんの側《そば》に居《ゐ》るのは恐《おそ》ろしいから。」
と、幾度《いくたび》か繰《く》り返《かへ》した。
「まあ待《ま》ちなさい。己《おれ》がお前《まへ》を立派《りつぱ》な器量《きりやう》の女《をんな》にしてやるから。」
と云《い》ひながら、淸吉《せいきち》は何氣《なにげ》なく娘《むすめ》の側《そば》に近寄《ちかよ》つた。彼《かれ》の懷《ふところ》には嘗《かつ》て和蘭醫《おらんだいしや》から貰《もら》つた麻酔劑《ますゐざい》の壜《びん》がいつの間《ま》にか忍《しの》ばせてあつた。
日《ひ》はうららかに川面《かはづら》を射《ゐ》て、八|疊《でふ》の座敷《ざしき》は燃《も》えるやうに照《て》つた。水面《すゐめん》から反射《はんしや》する光線《くわうせん》が、無心《むしん》に眠《ねむ》る娘《むすめ》の顏《かほ》や、障子《しやうじ》の紙《かみ》に金色《こんじき》の波紋《はもん》を描《ゑが》いてふるへて居《ゐ》た。部屋《へや》のしきりを閉《た》て切《き》つて刺靑《ほりもの》の道具《だうぐ》を手《て》にした淸吉《せいきち》は、暫《しばら》くは唯《ただ》恍惚《うつとり》として坐《すわ》つて居《ゐ》るばかりであつた。彼《かれ》は今《いま》始《はじ》めて女《をんな》の妙相《めうさう》をしみじみ味《あぢ》はふ事《こと》が出來《でき》た。その動《うご》かぬ顏《かほ》に相對《あひたい》して、十年《じふねん》百年《ひやくねん》この一|室《しつ》に靜坐《せいざ》するとも、なほ飽《あ》くことを知《し》るまいと思《おも》はれた。古《いにしへ》のメムフイスの民《たみ》が、莊嚴《さうごん》なる埃及《エジプト》の天地《てんち》を、ピラミツトとスフインクスとで飾《かざ》つたやうに、淸吉《せいきち》は淸淨《しやうじやう》な人間《にんげん》の皮膚《ひふ》を、自分《じぶん》の戀《こひ》で彩《いろど》らうとするのであつた。
やがて彼《かれ》の左手《ゆんで》の小指《こゆび》と無名指《むめいし》と拇指《おやゆび》の間《あひだ》に挿《はさ》んだ繪筆《ゑふで》の穗《ほ》を、娘《むすめ》の背《せ》にねかせ、その上《うへ》から右手《めて》で針《はり》を刺《さ》して行《い》つた。若《わか》い刺靑師《ほりものし》の靈《こゝろ》は墨汁《すみじる》の中《なか》に溶《と》けて、皮膚《ひふ》に滲《にじ》むだ。燒酎《せうちう》に交《ま》ぜて刺《ほ》り込《こ》む琉球朱《りうきうしゆ》の一|滴《てき》一|滴《てき》は、彼《かれ》の命《いのち》のしたたりであつた。彼《かれ》は其處《そこ》に我《わ》が魂《たましひ》の色《いろ》を見《み》た。
いつしか午《ひる》も過《す》ぎて、のどかな春《はる》の日《ひ》は漸《やうや》く暮《く》れかかつたが、淸吉《せいきち》の手《て》は少《すこ》しも休《やす》まず、女《をんな》の眠《ねむり》も破《やぶ》れなかつた。娘《むすめ》の歸《かへ》りの遲《おそ》きを案《あん》じて迎《むかへ》に出《で》た箱屋《はこや》迄《まで》が、
「あの娘《こ》ならもう疾《と》うに獨《ひとり》で歸《かへ》つて行《ゆ》きましたよ。」
と云《い》はれて追《お》ひ返《かへ》された。月《つき》が對岸《たいがん》の土州《としう》屋敷《やしき》の上《うへ》にかかつて、夢《ゆめ》のやうな光《ひかり》が沿岸《えんがん》一|帶《たい》の家々《いへ/\》の座敷《ざしき》に流《なが》れ込《こ》む頃《ころ》には、刺靑《ほりもの》はまだ半分《はんぶん》も出來上《できあが》らず、淸吉《せいきち》は一|心《しん》に蠟燭《らふそく》の心《しん》を搔《か》き立《た》てて居《ゐ》た。
一|點《てん》の色《いろ》を注《つ》ぎ込《こ》むのも、彼《かれ》に取《と》つては容易《ようい》な業《わざ》でなかつた。さす針《はり》、ぬく針《はり》の度每《たびごと》に深《ふか》い吐息《といき》をついて、自分《じぶん》の心《こゝろ》が刺《さ》されるやうに感《かん》じた。針《はり》の痕《あと》は次第《しだい》々々《/\》に巨大《きよだい》なお女郞蜘蛛《ぢよらうぐも》の形象《かたち》を具《そな》へ始《はじ》めて、再《ふたゝ》び夜《よ》がしらしらと白《しろ》み初《そ》めた時分《じぶん》には、この不思議《ふしぎ》な魔性《ましやう》の動物《どうぶつ》は、八本《はちほん》の肢《あし》を伸《の》ばしつつ、背《せな》一|面《めん》に蟠《わだかま》つた。
春《はる》の夜《よ》は、上《のぼ》り下《くだ》りの河船《かはふね》の櫓聲《ろごゑ》に明《あ》け放《はな》れて、朝風《あさかぜ》を孕《はら》んで下《くだ》る白帆《しらほ》の頂《いたゞき》から薄《うす》らぎ初《そ》める霞《かすみ》の中《なか》に、中洲《なかず》、箱崎《はこざき》、靈岸島《れいがんじま》の家々《いへ/\》の甍《いらか》がきらめく頃《ころ》、淸吉《せいきち》は漸《やうや》く繪筆《ゑふで》を擱《お》いて、娘《むすめ》の背《せな》に刺《ほ》り込《こ》まれた蜘蛛《くも》のかたちを眺《なが》めて居《ゐ》た。その刺靑《ほりもの》こそは彼《かれ》が生命《せいめい》のすべてであつた。その仕事《しごと》をなし終《お》へた後《のち》の彼《かれ》の心《こゝろ》は空虛《うつろ》であつた。
二つの人影《ひとかげ》は其《そ》のまま稍《やゝ》暫《しばら》く動《うご》かなかつた。さうして、低《ひく》く、かすれた聲《こゑ》が部屋《へや》の四|壁《へき》にふるへて聞《きこ》えた。
「己《おれ》はお前《まへ》をほんたうの美《うつく》しい女《をんな》にする爲《た》めに、刺靑《ほりもの》の中《なか》へ己《おれ》の魂《たましひ》をうち込《こ》むだのだ。もう今《いま》からは日本國中《にほんこうちう》に、お前《まへ》に優《まさ》る女《をんな》は居《ゐ》ない。お前《まへ》はもう今迄《いままで》のやうな憶病《おくびやう》な心《こゝろ》は持《も》つて居《ゐ》ないのだ。男《をとこ》と云《い》ふ男《をとこ》は、皆《みんな》お前《まへ》の肥料《こやし》になるのだ。‥‥」
其《そ》の言葉《ことば》が通《つう》じたか、かすかに、絲《いと》のやうな呻《うめ》き聲《ごゑ》が女《をんな》の唇《くちびる》にのぼつた。娘《むすめ》は次第《しだい》々々《/\》に知覺《ちかく》を恢復《くわいふく》して來《き》た。重《おも》く引《ひ》き入《い》れては、重《おも》く引《ひ》き出《だ》す肩息《かたいき》に、蜘蛛《くも》の肢《あし》は生《い》けるが如《ごと》く蠕動《ぜんどう》した。
「苦《くる》しからう。體《からだ》を蜘蛛《くも》が抱《だ》きしめて居《ゐ》るのだから。」
かう云《い》はれて娘《むすめ》は細《ほそ》く無意味《むいみ》な眼《め》を開《あ》いた。其《そ》の瞳《ひとみ》は夕月《ゆふづき》の光《ひかり》を增《ま》すやうに、だんだんと輝《かゞや》いて男《をとこ》の顏《かほ》に照《て》つた。
「親方《おやかた》、早《はや》く私《わたし》の背《せなか》の刺靑《ほりもの》を見《み》せておくれ。お前《まへ》さんの命《いのち》を貰《もら》つた代《かは》りに、私《わたし》は嘸《さぞ》美《うつく》しくなつたらうねえ。」
娘《むすめ》の言葉《ことば》は夢《ゆめ》のやうであつたが、しかし其《そ》の調子《てうし》には何處《どこ》か銳《するど》い力《ちから》がこもつて居《ゐ》た。
「まあ、これから湯殿《ゆどの》へ行《い》つて色上《いろあ》げをするのだ。苦《くる》しからうちツと我慢《がまん》をしな。」
と、淸吉《せいきち》は耳元《みゝもと》へ口《くち》を寄《よ》せて、勞《いたは》るやうに囁《さゝや》いた。
「美《うつく》しくさへなるのなら、どんなにでも辛抱《しんばう》して見《み》せませうよ。」
と、娘《むすめ》は身内《みうち》の痛《いた》みを抑《おさ》へて、强《し》ひて微笑《ほゝゑ》むだ。
「ああ、湯《ゆ》が滲《し》みて苦《くる》しいこと。‥‥親方《おやかた》、後生《ごしやう》だから妾《わたし》を打捨《うつちや》つて、二|階《かい》へ行《い》つて待《ま》つて居《ゐ》てお吳《く》れ。私《わたし》はこんな悲慘《みじめ》な態《ざま》を男《をとこ》に見《み》られるのが口惜《くや》しいから。」
娘《むすめ》は湯上《ゆあが》りの體《からだ》を拭《ぬぐ》ひもあへず、いたはる淸吉《せいきち》の手《て》をつきのけて、激《はげ》しい苦痛《くつう》に流《なが》しの板《いた》の間《ま》へ身《み》を投《な》げたまま、魘《うな》される如《ごと》くに呻《うめ》いた。狂《きちがひ》じみた髮《かみ》が惱《なや》ましげに其《そ》の頰《ほゝ》へ亂《みだ》れた。女《をんな》の背後《はいご》には鏡臺《きやうだい》が立《た》てかけてあつた。眞白《まつしろ》な足《あし》の裏《うら》が二つ、その面《おもて》へ映《うつ》つて居《ゐ》た。
昨日《きのふ》とは打《う》つて變《かは》つた女《をんな》の態度《たいど》に、淸吉《せいきち》は一方《ひとかた》ならず驚《おどろ》いたが、云《い》はるるままに獨《ひとり》二|階《かい》に待《ま》つて居《ゐ》ると、凡《およ》そ半時《はんとき》ばかり經《た》つて、女《をんな》は洗髮《あらひがみ》を兩肩《りやうかた》へすべらせ、身《み》じまひを整《とゝの》へて上《あが》つて來《き》た。さうして苦痛《くるしみ》のかげもとまらぬ晴《は》れやかな眉《まゆ》を張《は》つて、欄杆《らんかん》に凭《もた》れながらおぼろにかすむ大空《おほぞら》を仰《おふ》いだ。
「この繪《ゑ》は刺靑《ほりもの》と一|緖《しよ》にお前《まへ》にやるから、其《そ》れを持《も》つてもう歸《かへ》るがいい。」
かう云《い》つて淸吉《せいきち》は卷物《まきもの》を女《をんな》の前《まへ》にさし置《お》いた。
「親方《おやかた》、私《わたし》はもう今迄《いままで》のやうな臆病《おくびやう》な心《こゝろ》を、さらりと捨《す》ててしまひました。――お前《まへ》さんは眞先《まつさき》に私《わたし》の肥料《こやし》になつたんだねえ。」
と、女《をんな》は劍《つるぎ》のやうな瞳《ひとみ》を輝《かゞや》かした。其《そ》の瞳《ひとみ》には「肥料《ひれう》」の畫面《ぐわめん》が映《うつ》つて居《ゐ》た。その耳《みゝ》には凱歌《がいか》の聲《こゑ》がひびいて居《ゐ》た。
「歸《かへ》る前《まへ》にもう一|遍《ぺん》、その刺靑《ほりもの》を見せてくれ。」
淸吉《せいきち》はかう云《い》つた。
女《をんな》は默《だま》つて頷《うなづ》いて肌《はだ》を脫《ぬ》いだ。折《をり》から朝日《あさひ》が刺靑《ほりもの》の面《おもて》にさして、女《をんな》の背《せなか》は燦爛《さんらん》とした。
麒麟《きりん》
鳳兮。鳳兮。何德之衰。
往者不可諫。來者猶可追。已而。已而。今之從政者殆而
西暦《せいれき》紀元前《きげんぜん》四百九十三|年《ねん》。左丘明《さきうめい》、孟軻《もうか》、司馬遷《しばせん》等《ら》の記錄《きろく》によれば、魯《ろ》の定公《ていこう》が十三|年目《ねんめ》の郊《かう》の祭《まつり》を行《おこな》はれた春《はる》の始《はじ》め、孔子《こうし》は數人《すうにん》の弟子逹《でしたち》を車《くるま》の左右《さいう》に從《したが》へて、其《そ》の故鄕《ふるさと》の魯《ろ》の國《くに》から傳道《でんだう》の途《みち》に上《のぼ》つた。
泗水《しすゐ》の河《かは》の畔《ほとり》には、芳草《はうさう》が靑々《あを/\》と芽《め》ぐみ、防山《ばうざん》、尼丘《じきう》、五峯《ごほう》の頂《いたゞき》の雪《ゆき》は溶《と》けても、砂漠《さばく》の砂《すな》を摑《つか》むで來《く》る匈奴《きようど》のやうな北風《きたかぜ》は、いまだに烈《はげ》しい冬《ふゆ》の名殘《なごり》を吹《ふ》き送《おく》った。元氣《げんき》の好《よ》い子路《しろ》は紫《むらさき》の貂《てん》の裘《かはごろも》を飜《ひるがへ》して、一|行《かう》の先頭《せんとう》に進《すゝ》んだ。考深《かんがへぶか》い眼《め》つきをした顏淵《がんえん》、篤實《とくじつ》らしい風采《ふうさい》の曾參《さうしん》が、麻《あさ》の履《くつ》を穿《は》いて其《そ》の後《うしろ》に續《つゞ》いた。正直者《しやうぢきもの》の御者《ぎよしや》の樊遲《はんち》は、駟馬《しば》の銜《くつわ》を執《と》りながら、時々《とき/″\》車上《しやじやう》の夫子《ふうし》が老顏《らうがん》を
窃《ぬす》み視《み》て、傷《いた》ましい放浪《はうらう》の師《し》の身《み》の上《うへ》に淚《なみだ》を流《なが》した。
或《あ》る日《ひ》、いよいよ一|行《かう》が、魯《ろ》の國境《くにざかひ》までやつて來《く》ると、誰《たれ》も彼《かれ》も名殘惜《なごりお》しさうに、故鄕《ふるさと》の方《はう》を振《ふ》り顧《かへ》つたが、通《とほ》つて來《き》た路《みち》は龜山《きざん》の蔭《かげ》にかくれて見《み》えなかつた。すると孔子《こうし》は琴《こと》を執《と》つて、
われ魯《ろ》を望《のぞ》まんと欲《ほつ》すれば、
龜山《きざん》之《これ》を蔽《おほ》ひたり。
手《て》に斧柯《ふか》なし、
龜山《きざん》を奈何《いか》にせばや。
かう云《い》つて、さびた、皺嗄《しわが》れた聲《こゑ》でうたつた。
それからまた北《きた》へ北《きた》へと三日《みつか》ばかり旅《たび》を續《つゞ》けると、ひろびろとした野《の》に、安《やす》らかな、屈托《くつたく》のない歌《うた》の聲《こゑ》が聞《きこ》えた、それは鹿《しか》の裘《かはごろも》に索《なは》の帶《おび》をしめた老人《らうじん》が、畦路《あぜみち》に遺穗《おちほ》を拾《ひろ》ひながら、唄《うた》つて居《ゐ》るのであつた。
「由《いう》や、お前《まへ》にはあの歌《うた》がどう聞《きこ》える。」
と、孔子《こうし》は子路《しろ》を顧《かへり》みて訊《たづ》ねた。
「あの老人《らうじん》の歌《うた》からは、先生《せんせい》の歌《うた》のやうな哀《あは》れな響《ひゞき》が聞《きこ》えません。大空《おほぞら》を飛《と》ぶ小鳥《ことり》のやうな、恣《ほしいまゝ》な聲《こゑ》で唄《うた》うて居《を》ります。」
「さもあらう。彼《あれ》こそ古《いにしへ》の老子《らうし》の門弟《もんてい》ぢや。林類《りんるゐ》と云《い》うて、もはや百歲《ひゃくさい》になるであらうが、あの通《とほ》り春《はる》が來《く》れば畦《あぜ》に出《で》て、何年《なんねん》となく歌《うた》を唄《うた》うては穗《ほ》を拾《ひろ》うて居《ゐ》る。誰《たれ》か彼處《あすこ》へ行《い》つて話《はなし》をして見《み》るがよい。」
かう云《い》はれて、弟子《でし》の一人《ひとり》の子貢《しこう》は、畑《はたけ》の畔《くろ》へ走《はし》つて行《い》つて老人《らうじん》を迎《むか》へ、尋《たづ》ねて云《い》ふには、
「先生《せんせい》は、さうして歌《うた》を唄《うた》うては、遺穗《おちぼ》を拾《ひろ》つて居《ゐ》らつしやるが、何《なに》も悔《く》いる所《ところ》はありませぬか。」
しかし、老人《らうじん》は振《ふ》り向《む》きもせず、餘念《よねん》もなく遺穗《おちぼ》を拾《ひろ》ひながら、一|步《ぽ》一|步《ぽ》に歌《うた》を唄《うた》つて止《や》まなかつた。子貢《しこう》が猶《なほ》も其《そ》の跡《あと》を追《お》うて聲《こゑ》をかけると、漸《やうや》く老人《らうじん》は唄《うた》うことをやめて、子貢《しこう》の姿《すがた》をつくづくと眺《なが》めた後《のち》、
「わしに何《なん》の悔《くい》があらう。」
と云《い》つた。
「先生《せんせい》は幼《おさな》い時《とき》に行《おこなひ》を勤《つと》めず、長《ちやう》じて時《とき》を競《きそ》はず、老《お》いて妻子《つまこ》もなく、漸《やうや》く死期《しご》が近《ちか》づいて居《ゐ》るのに、何《なに》を樂《たの》しみに穗《ほ》を拾《ひろ》つては、歌《うた》を唄《うた》うておいでなさる。」
すると老人《らうじん》は、からからと笑《わら》つて、
「わしの樂《たの》しみとするものは、世間《せけん》の人《ひと》が皆《みな》持《も》つて居《ゐ》て、却《かへ》つて憂《うれひ》として居《ゐ》る。幼《をさな》い時《とき》に行《おこなひ》を勤《つと》めず、長《ちやう》じて時《とき》を競《きそ》はず、老《お》いて妻子《つまこ》もなく、漸《やうや》く死期《しご》が近《ちか》づいて居《ゐ》る。それだから此《こ》のやうに樂《たの》しんで居《ゐ》る。」
「人《ひと》は皆《みな》長壽《ながいき》を望《のぞ》み、死《し》を悲《かな》しむで居《ゐ》るのに、先生《せんせい》はどうして、死《し》を樂《たの》しむ事《こと》が出來《でき》ますか。」
と、子貢《しこう》は重《かさ》ねて訊《き》いた。
「死《し》と生《せい》とは、一|度《ど》往《い》つて一|度《ど》反《かへ》るのぢや、此處《こゝ》で死《し》ぬのは、彼處《かしこ》で生《うま》れるのぢや。わしは、生《せい》を求《もと》めて齷齪《あくそく》するのは惑《まどひ》ぢやと云《い》ふ事《こと》を知《し》つて居《ゐ》る。今《いま》死《し》ぬるも昔《むかし》生《うま》れたのと變《かは》りはないと思《おも》うて居《ゐ》る」
老人《らうじん》は斯《か》く答《こた》へて、また歌《うた》を唄《うた》ひ出《だ》した。子貢《しこう》には言葉《ことば》の意味《いみ》が解《わか》らなかつたが、戾《もど》つて來《き》て其《そ》れを師《し》に吿《つ》げると、
「なかなか話《はな》せる老人《らうじん》であるが、然《しか》し其《そ》れはまだ道《みち》を得《え》て、至《いた》り盡《つく》さぬ者《もの》と見える。」
と、孔子《こうし》が云《い》つた。
それからまた幾日《いくにち》も/\、長《なが》い旅《たび》を續《つゞ》けて、箕水《きすゐ》の流《ながれ》を渉《わた》つた。夫子《ふうし》が戴《いたゞ》く緇布《くろぬの》の冠《かんむり》は埃《ほこり》にまびれ、狐《きつね》の裘《かはごろも》は雨風《あめかぜ》に色褪《いろあ》せた。
「魯《ろ》の國《くに》から孔丘《こうきう》と云《い》ふ聖人《せいじん》が來《き》た。彼《あ》の人《ひと》は暴虐《ばうぎやく》な私逹《わたしたち》の君《きみ》や妃《きさき》に、幸《さいはひ》な敎《をしへ》えと賢《かしこ》い政《まつりごと》とを授《さづ》けてくれるであらう。」
衞《ゑい》の國《くに》の都《みやこ》に入《はい》ると、巷《ちまた》の人々《ひと/″\》はかう云《い》つて一|行《かう》の車《くるま》を指《ゆびさ》した。其《そ》の人々《ひと/″\》の顏《かほ》は饑《うゑ》と疲《つかれ》に羸《や》せ衰《おとろ》へ、家々《いへ/\》の壁《かべ》は嗟《なげ》きと愁《かな》しみの色《いろ》を湛《たゝ》へて居《ゐ》た。其《そ》の國《くに》の麗《うるは》しい花《はな》は、宮殿《きうでん》の妃《きさき》の眼《め》を喜《よろこ》ばす爲《た》めに移《うつ》し植《う》ゑられ、肥《こ》えたる豕《ゐのこ》は、妃《きさき》の舌《した》を培《つちか》ふ爲《た》めに召《め》し上《あ》げられ、のどかな春《はる》の日《ひ》が、灰色《はひいろ》のさびれた街《まち》を徒《いたづら》に照《て》らした。さうして、都《みやこ》の中央《ちうあう》の丘《をか》の上《うへ》には、五彩《ごさい》の虹《にじ》を繡《ぬ》ひ出《だ》した宮殿《きうでん》が、血《ち》に飽《あ》いた猛獸《まうじう》の如《ごと》くに、屍骸《しがい》のやうな街《まち》を瞰下《みおろ》して居《ゐ》た。其《そ》の宮殿《きうでん》の奧《おく》で打《う》ち鳴《な》らす鐘《かね》の響《ひゞき》は、猛獸《まうぢう》の嘯《うそぶ》くやうに國《くに》の四方《しはう》へ轟《とゞろ》いた。
「由《いう》や、お前《まへ》にはあの鐘《かね》の音《ね》がどう聞《きこ》える。」
と、孔子《こうし》はまた子路《しろ》に訊《たづ》ねた。
「あの鐘《かね》の音《ね》は、天《てん》に訴《うつた》へるやうな果敢《はか》ない先生《せんせい》の調《しらべ》とも違《ちが》ひ、天《てん》にうち任《まか》せたやうな自由《じいう》な林類《りんるゐ》の歌《うた》とも違《ちが》つて、天《てん》に背《そむ》いた歡樂《くわんらく》を讚《たゝ》へる、恐《おそ》ろしい意味《こゝろ》を歌《うた》うて居《を》ります。」
「さもあらう。あれは昔《むかし》衞《ゑい》の襄公《ぢやうこう》が、國中《くにぢゆう》の財《たから》と汗《あせ》とを絞《しぼ》り取《と》つて造《つく》らせた、林鐘《りんしよう》と云《い》ふものぢや。その鐘《かね》が鳴《な》る時《とき》は、御苑《ぎよゑん》の林《はやし》から林《はやし》へ反響《こだま》して、あのやうな物凄《ものすご》い音《おと》を出《だ》す。また暴政《ばうせい》に苛《さいな》まれた人々《ひと/″\》の呪《のろひ》と淚《なみだ》とが封《ふう》じられて居《ゐ》て、あのやうな恐《おそ》ろしい音《おと》を出《だ》す。」
と、孔子《こうし》が敎《をし》へた。
衞《ゑい》の君《きみ》の靈公《れいこう》は、國原《くなばら》を見晴《みは》るかす靈臺《れいだい》の欄《らん》に近《ちか》く、雲母《うんも》の硬屛《ついたて》、瑪瑙《めなう》の榻《とう》を運《はこ》ばせて、靑雲《せいうん》の衣《ころも》を纒《まと》ひ、白霓《はくげい》の裳裾《もすそ》を垂《た》れた夫人《ふじん》の南子《なんし》と、香《かほり》の高《たか》い秬鬯《きよちやう》を酌《く》み交《か》はしながら、深《ふか》い霞《かすみ》の底《そこ》に眠《ねむ》る野山《のやま》の春《はる》を眺《なが》めて居《ゐ》た。
「天《てん》にも地《ち》にも、うららかな光《ひかり》が泉《いづみ》のやうに流《なが》れて居《ゐ》るのに、何故《なぜ》私《わたし》の國《くに》の民家《みんか》では美《うつく》しい花《はな》の色《いろ》も見《み》えず、快《こゝろよ》い鳥《とり》の聲《こゑ》も聞《きこ》えないのであらう。」
かう云《い》つて、公《こう》は不審《ふしん》の眉《まゆ》を顰《ひそ》めた。
「それは此《こ》の國《くに》の人民《じんみん》が、わが公《きみ》の仁德《じんとく》と、わが夫人《ふじん》の美容《びよう》とを讚《たゝ》へるあまり、美《うつく》しい花《はな》とあれば、悉《こと/″\》く獻上《けんじやう》して宮殿《きうでん》の園生《そのふ》の牆《かき》に移《うつ》し植《う》ゑ、國中《くにぢゆう》の小鳥《ことり》までが、一羽《いちは》も殘《のこ》らず花《はな》の香《か》を慕《した》うて、園生《そのふ》のめぐりに集《あつま》る爲《た》めでございます。」
と、君側《くんそく》に控《ひか》へた宦者《くわんじや》の雍渠《ようきよ》が答《こた》へた。すると其《そ》の時《とき》、さびれた街《まち》の靜《しづ》かさを破《やぶ》つて、靈臺《れいだい》の下《した》を過《す》ぎる孔子《こうし》の車《くるま》の玉鑾《ぎよくらん》が珊珊《さん/\》と鳴《な》つた。
「あの車《くるま》に乘《の》つて通《とほ》る者《もの》は誰《たれ》であらう。あの男《をとこ》の額《ひたひ》は堯《げう》に似《に》て居《ゐ》る。あの男《をとこ》の目《め》は舜《しゆん》に似《に》て居《ゐ》る。あの男《をとこ》の項《うなじ》は皐陶《かうやう》に似《に》て居《ゐ》る。肩《かた》は子產《しさん》に類《るゐ》し、腰《こし》から下《した》が禹《う》に及《およ》ばぬこと三|寸《ずん》ばかりである。」
と、これも側《かたはら》に伺候《しこう》して居《ゐ》た將軍《しやうぐん》の王孫賈《わうそんか》が、驚《おどろ》きの眼《め》を見張《みは》つた。
「しかし、まあ彼《あ》の男《をとこ》は、何《なん》と云《い》ふ悲《かな》しい顏《かほ》をして居《ゐ》るのだらう。將軍《しやうぐん》、卿《おまへ》は物識《ものしり》だから、彼《あ》の男《をとこ》が何處《どこ》から來《き》たか、妾《わたし》に敎《をし》へてくれたがよい。」
かう云《い》つて、南子《なんし》夫人《ふじん》は將軍《しやうぐん》を顧《かへり》み、走《はし》り行《ゆ》く車《くるま》の影《かげ》を指《ゆびさ》した。
「私《わたくし》は若《わか》き頃《ころ》、諸國《しよこく》を遍歷《へんれき》しましたが、周《しう》の史官《しくわん》を務《つと》めて居《ゐ》た老聃《らうたん》と云《い》ふ男《をとこ》の他《ほか》には、まだ彼《あ》れ程《ほど》立派《りつぱ》な相貌《さうばう》の男《をとこ》を見《み》たことがありませぬ。あれこそ、故國《ここく》の政《まつりごと》に志《こゝろざし》を得《え》ないで、傳道《でんだう》の途《みち》に上《のぼ》つた魯《ろ》の聖人《せいじん》の孔子《こうし》であらう。其《そ》の男《をとこ》の生《うま》れた時《とき》、魯《ろ》の國《くに》には麒麟《きりん》が現《あらは》れ、天《てん》には和樂《わがく》の音《おと》が聞《きこ》えて、神女《しんによ》が天降《あまくだ》つたと云《い》ふ。其《そ》の男《をとこ》は牛《うし》の如《ごと》き唇《くちびる》と、虎《とら》の如《ごと》き掌《てのひら》と、龜《かめ》の如《ごと》き背《せ》とを持《も》ち、身《み》の丈《たけ》が九尺《くしやく》六寸《ろくすん》あつて、文王《ぶんわう》の容體《かたち》を備《そな》へて居《ゐ》ると云《い》ふ。彼《かれ》こそ其《そ》の男《をとこ》に違《ちがひ》ありませぬ。」
かう王孫賈《わうそんか》が說明《せつめい》した。
「其《そ》の孔子《こうし》と云《い》ふ聖人《せいじん》は、人《ひと》に如何《いか》なる術《じゆつ》を敎《をし》へる者《もの》である。」
と靈公《れいこう》は手《て》に持《も》つた盃《さかづき》を乾《ほ》して、將軍《しやうぐん》に問《と》うた。
「聖人《せいじん》と云《い》ふ者《もの》は、世《よ》の中《なか》の凡《す》べての智識《ちしき》の鍵《かぎ》を握《にぎ》つて居《を》ります。然《しか》し、あの人《ひと》は、専《もつぱ》ら家《いへ》を齊《とゝの》へ、國《くに》を富《と》まし、天下《てんか》を平《たひら》げる政《まつりごと》の道《みち》を、諸國《しよこく》の君《きみ》に授《さづ》けると申《もを》します。」
將軍《しやうぐん》が再《ふたゝ》びかう說明《せつめい》した。
「わたしは世《よ》の中《なか》の美色《びしよく》を求《もと》めて南子《なんし》を得《え》た。また四|方《はう》の財寶《ざいはう》を萃《あつ》めて此《こ》の宮殿《きうでん》を造《つく》つた。此《こ》の上《うへ》は天下《てんか》に覇《は》を唱《とな》へて、此《こ》の夫人《ふじん》と宮殿《きうでん》とにふさはしい權威《けんゐ》を持《も》ちたく思《おも》うて居《ゐ》る。どうかして其《そ》の聖人《せいじん》を此處《こゝ》へ呼《よ》び入《い》れて、天下《てんか》を平《たひら》げる術《じゆつ》を授《さづ》かりたいものぢや。」
と、公《こう》は卓《たく》を隔《へだ》てて對《たい》して居《ゐ》る夫人《ふじん》の唇《くちびる》を覗《うかゞ》つた、何《なん》となれば、平生《へいぜい》公《こう》の心《こゝろ》を云《い》ひ表《あら》はすものは、彼自身《かれじしん》の言葉《ことば》でなくつて、南子《なんし》夫人《ふじん》の唇《くちびる》から洩《も》れる言葉《ことば》であつたから。
「妾《わたし》は世《よ》の中《なか》の不思議《ふしぎ》と云《い》ふ者《もの》に遇《あ》つて見《み》たい。あの悲《かな》しい顏《かほ》をした男《をとこ》が眞《まこと》の聖人《せいじん》なら、妾《わたし》にいろいろの不思議《ふしぎ》を見《み》せてくれるであらう。」
かう云《い》つて、夫人《ふじん》は夢《ゆめ》みる如《ごと》き瞳《ひとみ》を上《あ》げて、遙《はるか》に隔《へだ》たり行《ゆ》く車《くるま》の跡《あと》を眺《なが》めた。
孔子《こうし》の一|行《こう》が北宮《ほくきう》の前《まへ》にさしかかつた時《とき》、賢《かしこ》い相《さう》を持《も》つた一人《ひとり》の官人《くわんじん》が、多勢《おほぜい》の供《とも》を從《したが》へ、屈產《くつさん》の駟馬《しば》に鞭撻《むちう》ち、車《くるま》の右《みぎ》の席《せき》を空《あ》けて、恭《うやうや》しく一|行《かう》を迎《むか》へた。
「私《わたくし》は靈公《れいこう》の命《めい》をうけて、先生《せんせい》をお迎《むか》へに出《で》た中叔圉《ちゆうしゆくぎよ》と申《まを》す者《もの》でございます。先生《せんせい》が此《こ》の度《たび》傳道《でんだう》の途《みち》に上《のぼ》られた事《こと》は、四|方《はう》の國々《くに/″\》までも聞《きこ》えて居《を》ります。長《なが》い旅路《たびぢ》に先生《せんせい》の翡翠《ひすゐ》の蓋《がい》は風《かぜ》に綻《ほころ》び、車《くるま》の軛《くびき》からは濁《にご》つた音《おと》が響《ひゞ》きます。願《ねが》はくは此《こ》の新《あたら》しき車《くるま》に召《め》し替《か》へられ、宮殿《きうでん》に駕《が》を枉《ま》げて、民《たみ》を安《やす》んじ、國《くに》を治《をさ》める先王《せんわう》の道《みち》を我等《われら》の君《きみ》に授《さづ》け給《たま》へ。先生《せんせい》の疲勞《ひらう》を癒《い》やす爲《た》めには、西圃《さいほ》の南《みなみ》に水晶《すゐしやう》のやうな溫泉《をんせん》が沸々《ふつ/\》と沸騰《たぎ》つて居《を》ります。先生《せんせい》の咽喉《のど》を濕《うる》ほす爲《た》めには、御苑《ぎよゑん》の園生《そのふ》に、芳《かん》ばしい柚《ゆず》、橙《だい/″\》、橘《たちばな》が、甘《あま》い汁《しる》を含《ふく》んで實《みの》つて居《を》ります。先生《せんせい》の舌《した》を慰《なぐさ》める爲《た》めには、苑囿《ゑんいう》の檻《をり》の中《なか》に、肥《こ》え太《ふと》つた豕《ゐのこ》、熊《くま》、豹《へう》、牛《うし》、羊《ひつじ》が蓐《しとね》のやうな腹《はら》を抱《かゝ》へて眠《ねむ》つて居《を》ります。願《ねが》はくは、二月《ふたつき》も、三月《みつき》も、一年《いちねん》も、十年《じふねん》も、此《こ》の國《くに》に車《くるま》を駐《とゞ》めて、愚《おろか》な私逹《わたしたち》の曇《くも》りたる心《こゝろ》を啓《ひら》き、盲《し》ひたる眼《まなこ》を開《ひら》き給《たま》へ。」
と中叔圉《ちゆうしゆくぎよ》は車《くるま》を下《お》りて、慇懃《ゐんぎん》に挨拶《あいさつ》をした。
「私《わたくし》の望《のぞ》む所《ところ》は、莊麗《さうれい》な宮殿《きうでん》を持《も》つ王者《わうしや》の富《とみ》よりは、三|王《わう》の道《みち》を慕《した》う君公《くんこう》の誠《まこと》であります。万乘《ばんじよう》の位《くらゐ》も桀紂《けつちう》の奢《おごり》の爲《た》めには尙《なほ》足《た》らず、百里《ひやくり》の國《くに》も堯舜《げうしゆん》の政《まつりごと》を布《し》くに狹《せま》くはありませぬ。靈公《れいこう》がまことに天下《てんか》の禍《わざはひ》を除《のぞ》き、庶民《しよみん》の幸《さいはひ》を圖《はか》る御志《おこゝろざし》ならば、此《こ》の國《くに》の土《つち》に私《わたくし》の骨《ほね》を埋《うづ》めても悔《く》いませぬ。」
斯《か》く孔子《こうし》が答《こた》へた。
やがて一|行《かう》は導《みちび》かれて、宮殿《きうでん》の奧深《おくふか》く進《すゝ》んだ。一|行《かう》の黑塗《くろぬり》の沓《くつ》は、塵《ちり》も止《とゞ》めぬ砥石《といし》の床《ゆか》に戞々《かつ/\》と鳴《な》つた。
摻々《さん/\》たる女手《ぢよしゆ》、
以《もつ》て裳《しやう》を縫《ぬ》ふ可《べ》し。
と、聲《こゑ》をそろへて歌《うた》ひながら、多勢《おほぜい》の女官《ぢよくわん》が、梭《おさ》の音《おと》たかく錦《にしき》を織《を》つて居《ゐ》る織室《しよくしつ》の前《まへ》も通《とほ》つた。綿《わた》のやうに咲《さ》きこぼれた桃《もゝ》の林《はやし》の蔭《かげ》からは、苑囿《ゑんいう》の牛《うし》の懶《ものう》げに呻《うな》る聲《こゑ》も聞《きこ》えた。
靈公《れいこう》は賢人《けんじん》中叔圉《ちゆうしゆくぎよ》のはからひを聽《き》いて、夫人《ふじん》を始《はじ》め一|切《さい》の女《をんな》を遠《とほ》ざけ、歡樂《くわんらく》の酒《さけ》の沁《し》みた唇《くちびる》を濯《そゝ》ぎ、衣冠《いくわん》正《たゞ》しく孔子《こうし》を一|室《しつ》に招《せう》じて、國《くに》を富《と》まし、兵《へい》を强《つよ》くし、天下《てんか》に王《わう》となる道《みち》を質《たゞ》した。
しかし、聖人《せいじん》は人《ひと》の國《くに》を傷《きずつ》け、人《ひと》の命《いのち》を損《そこな》ふ戰《たゝかひ》の事《こと》に就《つ》いては、一言《ひとこと》も答《こた》へなかつた。また民《たみ》の血《ち》を絞《しぼ》り、民《たみ》の財《ざい》を奪《うば》ふ富《とみ》の事《こと》に就《つ》いても敎《をし》へなかつた。さうして、軍事《ぐんじ》よりも、產業《さんげふ》よりも、第《だい》一に道德《だうとく》の貴《たうと》い事《こと》を嚴《おごそか》に語《かた》つた。力《ちから》を以《もつ》て諸國《しよこく》を屈服《くつぷく》する覇者《はしや》の道《みち》と、仁《じん》を以《もつ》て天下《てんか》を懷《なづ》ける王者《わうしや》の道《みち》との區別《くべつ》を知《し》らせた。
「公《こう》がまことに王者《わうしや》の德《とく》を慕《した》ふならば、何《なに》よりも先《ま》づ私《わたくし》の慾《よく》に打《う》ち克《か》ち給《たま》へ。」
これが聖人《せいじん》の誡《いましめ》であつた。
其《そ》の日《ひ》から靈公《れいこう》の心《こゝろ》を左右《さいう》するものは、夫人《ふじん》の言葉《ことば》でなくつて聖人《せいじん》の言葉《ことば》であつた。朝《あした》には廟堂《べうだう》に參《さん》して正《たゞ》しい政《まつりごと》の道《みち》を孔子《こうし》に尋《たづ》ね、夕《ゆふべ》には靈臺《れいだい》に臨《のぞ》んで天文《てんもん》四時《しじ》の運行《うんかう》を、孔子《こうし》に學《まな》び、夫人《ふじん》の閨《ねや》を訪《おとづ》れる夜《よ》とてはなかつた。錦《にしき》を織《お》る織室《しよくしつ》の梭《おさ》の音《おと》は、六藝《りくげい》を學《まな》ぶ官人《くわんじん》の弓弦《ゆづる》の音《おと》、蹄《ひづめ》の響《ひゞき》、篳篥《ひちりき》の聲《こゑ》に變《かは》つた。一日《いちにち》、公《こう》は朝早《あさはや》く獨《ひと》り靈臺《れいだい》に上《のぼ》つて、國中《くにぢゆう》を眺《なが》めると、野山《のやま》には美《うつく》しい小鳥《ことり》が囀《さへづ》り、民家《みんか》には麗《うるは》しい花《はな》が開《ひら》き、百姓《ひやくしやう》は畑《はた》に出《で》て公《こう》の德《とく》を讚《たゝ》へ歌《うた》ひながら、耕作《こうさく》にいそしんで居《ゐ》るのを見《み》た。公《こう》の眼《め》からは、熱《あつ》い感激《かんげき》の淚《なみだ》が流《なが》れた。
「あなたは、何《なに》を其《そ》のやうに泣《な》いて居《ゐ》らつしやる。」
其《そ》の時《とき》、ふと、かう云《い》ふ聲《こゑ》が聞《きこ》えて、魂《たましひ》をそそるやうな甘《あま》い香《かほり》が、公《こう》の鼻《はな》を嬲《なぶ》つた、其《そ》れは南子《なんし》夫人《ふじん》が口中《こうちう》に含《ふく》む鷄舌香《けいでつかう》と、常《つね》に衣《ころも》に振《ふ》り懸《か》けて居《ゐ》る西域《せいゐき》の香料《かうれう》、薔薇水《しやうびすゐ》の匂《にほひ》であつた。久《ひさ》しく忘《わす》れて居《ゐ》た美婦人《びふじん》の體《からだ》から放《はな》つ香氣《かうき》の魔力《まりよく》は、無殘《むざん》にも玉《たま》のやうな公《こう》の心《こゝろ》に、銳《するど》い爪《つめ》を打《う》ち込《こ》まうとした。
「何卒《どうぞ》お前《まへ》の其《そ》の不思議《ふしぎ》な眼《め》で、私《わたし》の瞳《ひとみ》を睨《にら》めてくれるな。其《そ》の柔《やはらか》い腕《かひな》で、私《わたし》の體《からだ》を縛《しば》つてくれるな。私《わたし》は聖人《せいじん》から罪惡《ざいあく》に打《う》ち克《か》つ道《みち》を敎《をそ》はつたが、まだ美《うつく》しきものの力《ちから》を防《ふせ》ぐ術《じゆつ》を知《し》らないから。」
と靈公《れいこう》は夫人《ふじん》の手《て》を拂《はら》ひ除《の》けて、顏《かほ》を背《そむ》けた。
「ああ、あの孔丘《こうきう》と云《い》ふ男《をとこ》は、何時《いつ》の間《ま》にかあなたを妾《わたし》の手《て》から奪《うば》つて了《しま》つた。妾《わたし》が昔《むかし》からあなたを愛《あい》して居《ゐ》なかつたのに不思議《ふしぎ》はない。しかし、あなたが妾《わたし》を愛《あい》さぬと云《い》ふ法《ほふ》はありませぬ。」
かう云《い》つた南子《なんし》の唇《くちびる》は、激《はげ》しい怒《いかり》に燃《も》えて居《ゐ》た。夫人《ふじん》には此《こ》の國《くに》に嫁《とつ》ぐ前《まへ》から、宋《そう》の公子《こうし》の宋朝《そうてう》と云《い》ふ密夫《みつぷ》があつた。夫人《ふじん》の怒《いかり》は、夫《をつと》の愛情《あいじやう》の衰《おとろ》へた事《こと》よりも、夫《をつと》の心《こゝろ》を支配《しはい》する力《ちから》を失《うしな》つた事《こと》にあつた。
「私《わたし》はお前《まへ》を愛《あい》さぬと云《い》ふではない。今日《けふ》から私《わたし》は、夫《おつと》が妻《つま》を愛《あい》するやうにお前《まへ》を愛《あい》しよう。今迄《いまゝで》私《わたし》は、奴隸《どれい》が主《しゆ》に事《つか》へるやうに、人間《にんげん》が神《かみ》を崇《あが》めるやうに、お前《まへ》を愛《あい》して居《ゐ》た。私《わたし》の國《くに》を捧《さゝ》げ、私《わたし》の富《とみ》を捧《さゝ》げ、私《わたし》の民《たみ》を捧《さゝ》げ、私《わたし》の命《いのち》を捧《さゝ》げて、お前《まへ》の歡《よろこび》を購《あがな》ふ事《こと》が、私《わたし》の今迄《いままで》の仕事《しごと》であつた。けれども聖人《せいじん》の言葉《ことば》によつて、其《そ》れよりも貴《たうと》い仕事《しごと》のある事《こと》を知《し》つた。今迄《いままで》はお前《まへ》の肉體《にくたい》の美《うつく》しさが、私《わたし》に取《と》つて最上《さいじやう》の力《ちから》であつた。しかし、聖人《せいじん》の心《こゝろ》の響《ひゞき》は、お前《まへ》の肉體《にくたい》よりも更《さら》に强《つよ》い力《ちから》を私《わたし》に與《あた》へた。」
この勇《いさ》ましい決心《けつしん》を語《かた》るうちに、公《こう》は知《し》らず識《し》らず額《ひたひ》を上《あ》げ肩《かた》を聳《そび》やかして、怒《いか》れる夫人《ふじん》の顏《かほ》に面《めん》した。
「あなたは決《けつ》して妾《わたし》の言葉《ことば》に逆《さから》ふやうな、强《つよ》い方《かた》ではありませぬ。あなたはほんたうに哀《あはれ》な人《ひと》だ。世《よ》の中《なか》に自分《じぶん》の力《ちから》を持《も》つて居《ゐ》ない人程《ひとほど》、哀《あはれ》な人《ひと》はありますまい。妾《わたし》はあなたを直《ぢ》きに孔子《こうし》の掌《て》から取《と》り戾《もど》すことが出來《でき》ます。あなたの舌《した》は、たつた今《いま》立派《りつぱ》な言《こと》を云《い》つた癖《くせ》に、あなたの瞳《ひとみ》は、もう恍惚《うつとり》と妾《わたし》の顏《かほ》に注《そゝ》がれて居《ゐ》るではありませんか。妾《わたし》は總《す》べての男《をとこ》の魂《たましひ》を奪《うば》ふ術《すべ》を得《え》て居《ゐ》ます。妾《わたし》はやがて彼《あ》の孔丘《こうきう》と云《い》ふ聖人《せいじん》をも、妾《わたし》の捕虜《とりこ》にして見せませう。」
と、夫人《ふじん》は誇《ほこ》りかに微笑《ほゝゑ》みながら、公《こう》を流眄《ながしめ》に見《み》て、衣摺《きぬず》れの音《おと》荒《あら》く靈臺《れいだい》を去《さ》つた。
其《そ》の日《ひ》まで平靜《へいせい》を保《たも》つて居《ゐ》た公《こう》の心《こゝろ》には、旣《すで》に二《ふた》つの力《ちから》が相鬩《あひせめ》いで居《ゐ》た。
「此《こ》の衞《ゑい》の國《くに》に來《く》る四方《しはう》の君子《くんし》は、何《なに》を措《お》いても必《かなら》ず妾《わたし》に拜謁《はいえつ》を願《ねが》はぬ者《もの》はない。聖人《せいじん》は禮《れい》を重《おも》んずる者《もの》と聞《き》いて居《ゐ》るのに、何故《なぜ》姿《すがた》を見《み》せないであらう。」
斯《か》く、宦者《くわんじや》の雍渠《ようきよ》が夫人《ふじん》の旨《むね》を傳《つた》へた時《とき》に、謙讓《けんじやう》な聖人《せいじん》は、其《そ》れに逆《さから》ふことが出來《でき》なかつた。
孔子《こうし》は一|行《かう》の弟子《ていし》と共《とも》に、南子《なんし》の宮殿《きうでん》に伺候《しこう》して北面稽首《ほくめんけいしゆ》した。南《みなみ》に面《めん》する錦繡《きんしゆう》の帷《まく》の奧《おく》には、僅《わづか》に夫人《ふじん》の繡履《しゆうり》がほの見《み》えた。夫人《ふじん》が項《うなじ》を下《さ》げて一|行《かう》の禮《れい》に答《こた》ふる時《とき》、頸飾《くびかざり》の步搖《ほえう》と腕環《うでわ》の瓔珞《えうらく》の珠《たま》の、相搏《あひう》つ響《ひゞき》が聞《きこ》えた。
「この衞《ゑい》の國《くに》を訪《おとづ》れて、妾《わたし》の顏《かほ》を見《み》た人《ひと》は、誰《たれ》も彼《かれ》も『夫人《ふじん》の顙《ひたひ》は妲妃《だつき》に似《に》て居《ゐ》る。夫人《ふじん》の目《め》は褒姒《ほうじ》に似《に》て居《ゐ》る。』と云《い》つて驚《おどろ》かぬ者《もの》はない。先生《せんせい》が眞《まこと》の聖人《せいじん》であるならば、三王《さんわう》五帝《ごてい》の古《いにしへ》から、妾《わたし》より美《うつく》しい女《をんな》が地上《ちじやう》に居《ゐ》たかどうかを、妾《わたし》に敎《をし》へては吳《く》れまいか。」
かう云《い》つて、夫人《ふじん》は帷《まく》を排《はい》して晴《は》れやかに笑《わら》ひながら、一|行《かう》を膝近《ひざちか》く招《まね》いた。鳳凰《ほうわう》の冠《かんむり》を戴《いたゞき》き、黃金《わうごん》の釵《しや》、玳瑁《たいまい》の笄《かうがい》を挿《さ》して、鱗衣霓裳《りんいげいしやう》を纏《まと》つた南子《なんし》の笑顏《ゑがほ》は、日輪《にちりん》の輝《かゞや》く如《ごと》くであつた。
「私《わたくし》は高《たか》い德《とく》を持《も》つた人《ひと》の事《こと》を聞《き》いて居《を》ります。しかし、美《うつく》しい顏《かほ》を持《も》つた人《ひと》の事《こと》を知《し》りませぬ。」
と孔子《こうし》が云《い》つた、さうして南子《なんし》が再《ふたゝ》び尋《たづ》ねるには、
「妾《わたし》は世《よ》の中《なか》の不思議《ふしぎ》なもの、珍《めづ》らしいものを集《あつ》めて居《ゐ》る。妾《わたし》の廩《くら》には大屈《たいくつ》の金《きん》もある。垂棘《すゐきよく》の玉《たま》もある。妾《わたし》の庭《には》には僂句《るく》の龜《かめ》も居《ゐ》る。崑崙《こんろん》の鶴《つる》も居《ゐ》る。けれども妾《わたし》はまだ、聖人《せいじん》の生《うま》れる時《とき》に現《あらは》れた麒麟《きりん》と云《い》ふものを見《み》た事《こと》がない。また聖人《せいじん》の胸《むね》にあると云《い》ふ、七《なゝ》つの竅《あな》を見《み》た事《こと》がない、先生《せんせい》がまことの聖人《せいじん》であるならば、妾《わたし》に其《そ》れを見《み》せてはくれまいか。」
すると、孔子《こうし》は面《おもて》を改《あらた》めて、嚴格《げんかく》な調子《てうし》で、
「私《わたくし》は珍《めづ》らしいもの、不思議《ふしぎ》なものを知《し》りませぬ。私《わたくし》の學《まな》んだ事《こと》は、匹夫匹婦《ひつぷひつぷ》も知《し》つて居《を》り、又《また》知《し》つて居《を》らねばならぬ事《こと》ばかりでございます。」
と答《こた》へた。夫人《ふじん》は更《さら》に言葉《ことば》を柔《やはら》げて、
「妾《わたし》の顏《かほ》を見《み》、妾《わたし》の聲《こゑ》を聞《き》いた男《をとこ》は、顰《ひそ》めたる眉《まゆ》をも開《ひら》き、曇《くも》りたる顏《かほ》をも晴《は》れやかにするのが常《つね》であるのに、先生《せんせい》は何故《なにゆゑ》いつまでも其《そ》のやうに、悲《かな》しい顏《かほ》をして居《を》られるのであらう。妾《わたし》には悲《かな》しい顏《かほ》は凡《す》べて醜《みにく》く見《み》える。妾《わたし》は宋《さう》の國《くに》の宋朝《そうてう》と云《い》ふ若者《わかもの》を知《し》つて居《ゐ》るが、其《そ》の男《をとこ》は先生《せんせい》のやうな氣高《けだか》い額《ひたひ》を持《も》たぬ代《かは》りに、春《はる》の空《そら》のやうなうららかな瞳《ひとみ》を持《も》つて居《ゐ》る。また妾《わたし》の近侍《きんじ》に、雍渠《ようきよ》という宦者《くわんじや》が居《ゐ》るが、其《そ》の男《をとこ》は先生《せんせい》のやうに嚴《おごそか》な聲《こゑ》を持《も》たぬ代《かは》りに、春《はる》の鳥《とり》のやうな輕《かる》い舌《した》を持《も》つて居《ゐ》る。先生《せんせい》がまことの聖人《せいじん》であるならば、豐《ゆた》かな心《こころ》にふさはしい、麗《うらゝ》かな顏《かほ》を持《も》たねばなるまい。妾《わあし》は今《いま》先生《せんせい》の顏《かほ》の憂《うれひ》の雲《くも》を拂《はら》ひ、惱《なや》ましい影《かげ》を拭《ぬぐ》うて上《あ》げる。」
と左右《さいう》の近侍《きんじ》を顧《かへり》みて、一《ひと》つの函《はこ》を取《と》り寄《よ》せた。
「妾《わたし》はいろいろの香《かう》を持《も》つて居《ゐ》る。此《こ》の香氣《かうき》を惱《なや》める胸《むね》に吸《す》ふ時《とき》は、人《ひと》はひたすら美《うつく》しい幻《まぼろし》の國《くに》に憧《あこが》れるであらう。」
かく云《い》ふ言葉《ことば》の下《した》に、金冠《きんくわん》を戴《いたゞ》き、蓮花《れんげ》の帶《おび》をしめた七|人《にん》の女官《ぢよくわん》は、七つの香爐《かうろ》を捧《さゝ》げて、聖人《せいじん》の周圍《しうゐ》を取《と》り繞《ま》いた。
夫人《ふじん》は香函《かうばこ》を開《ひら》いて、さまざまの香《かう》を一つ一つ香爐《かうろ》に投《な》げた。七すぢの重《おも》い煙《けむり》は、金繡《きんしゆう》の帷《まく》を這《は》うて靜《しづか》に上《のぼ》つた。或《あるひ》は黃《き》に、或《あるひ》は紫《むらさき》に、或《あるひ》は白《しろ》き檀香《だんかう》の煙《けむり》には、南《みなみ》の海《うみ》の底《そこ》の、幾百年《いくひやくねん》に亙《わた》る奇《く》しき夢《ゆめ》がこもつて居《ゐ》た。十二種《じふにしゆ》の鬱金香《うつこんかう》は、春《はる》の霞《かすみ》に育《はぐゝ》まれた芳草《はうさう》の精《せい》の、凝《こ》つたものであつた。大石口《だいせきこう》の澤中《たくちう》に棲《す》む龍《りう》の涎《よだれ》を、練《ね》り固《たか》めた龍涎香《りうえんかう》の香《かほり》、交州《かうしう》に生《うま》るる密香樹《みつかうじゆ》の根《ね》より造《つく》つた沈香《ちんかう》の氣《き》は、人《ひと》の心《こゝろ》を、遠《とほ》く甘《あま》い想像《さうざう》の國《くに》に誘《いざな》ふ力《ちから》があつた。しかし、聖人《せいじん》の顏《かほ》の曇《くもり》は深《ふか》くなるばかりであつた。
夫人《ふじん》はにこやかに笑《わら》つて、
「おお、先生《せんせい》の顏《かほ》は漸《やうや》く美《うつく》しう輝《かゞや》いて來《き》た。妾《わたし》はいろいろの酒《さけ》と杯《さかづき》とを持《も》つて居《ゐ》る。香《かう》の煙《けむり》が、先生《せんせい》の苦《にが》い魂《たましひ》に甘《あま》い汁《しる》を吸《す》はせたやうに、酒《さけ》のしたたりは、先生《せんせい》の嚴《いかめ》しい體《からだ》に、くつろいだ安樂《あんらく》を與《あた》へるであらう。」
斯《か》く云《い》ふ言葉《ことば》の下《した》に、銀冠《ぎんくわん》を戴《いたゞ》き、蒲桃《ほとう》の帶《おび》を結《むす》んだ七|人《にん》の女官《じよくわん》は、樣々《さま/″\》の酒《さけ》と杯《さかづき》とを恭々《うや/\》しく卓上《たくじやう》に運《はこ》んだ。